セカイ系とは何か
どこにでもいるフツーのセカイ系の子
レビュアー:鳩羽
タイトル通り、セカイ系とは何かということについて複雑によじれた意図をほどいていく内容の本である。
セカイ系という言葉の使われ出した状況から、セカイ系の代表と言われる作品、アンチ・セカイ系の作品、wikiでは、サブカルの論壇では、どう説明され解釈されてきたかが明快に説明される。ゼロ年代のアニメ、ラノベ史の概要といってもいいのではないか。
この本の面白いところは、著者が、セカイ系の説明でよく言われるところの、「キミとボクの小さな関係が世界の存続に直結する」という点を、セカイ系に必須の最も重要な特徴だとは見ていないところだろう。
セカイ系の特徴、その萌芽はこれ以前にもあったのだが、九十年代後半に放送された『新世紀エヴァンゲリオン』が終盤でさらした、ストーリーの完結を放棄したかのような最終回で一気に脚光を浴びた。
それは、作中の人物が、作中のキャラクターに過ぎないことを自覚して、あたかも揶揄するかのような言動を作中でとること。
つまり、そういった自己言及性にセカイ系の核心はあるのではないかというのである。
セカイ系の作品を楽しみ、セカイ系についての批評を書いてきた著者自身が、こういう本を書くこと。そのこと自身がすでに自己言及的ですらあり、著者もまた自覚的にそのことに触れている。
また、自分自身について「私ってこういうキャラ」というふうに、ある種の突き放した見方をすることもあれば、そのようなキャラをプロデュースすることもある。
このように自分で作ったり、書いたり、設定した「自分」や「自分の創作物」について自分で言及すること……というと思いつく言葉がある。
それは「自分語り」だ。
「自分語り」という言葉については、調べてみたわけではないが、かつてほど、冷たく非難されることが少なくなったように思える。
セカイ系は過去のものとして、あるいは一部の人にだけ関心を持たれていたジャンルとして、消えてなくなってしまったわけではないのだろう。
むしろ、自分はこういう人だから、と自分をフィクションのなかの人物のように離して見ることができる人々にとっては、セカイ系の方こそが、現実的な世界観として定着しているということもできるのかもしれない。
それは、ひるがえって、自分語りに寛容な世の中ということができるのではないだろうか。
セカイ系という言葉の使われ出した状況から、セカイ系の代表と言われる作品、アンチ・セカイ系の作品、wikiでは、サブカルの論壇では、どう説明され解釈されてきたかが明快に説明される。ゼロ年代のアニメ、ラノベ史の概要といってもいいのではないか。
この本の面白いところは、著者が、セカイ系の説明でよく言われるところの、「キミとボクの小さな関係が世界の存続に直結する」という点を、セカイ系に必須の最も重要な特徴だとは見ていないところだろう。
セカイ系の特徴、その萌芽はこれ以前にもあったのだが、九十年代後半に放送された『新世紀エヴァンゲリオン』が終盤でさらした、ストーリーの完結を放棄したかのような最終回で一気に脚光を浴びた。
それは、作中の人物が、作中のキャラクターに過ぎないことを自覚して、あたかも揶揄するかのような言動を作中でとること。
つまり、そういった自己言及性にセカイ系の核心はあるのではないかというのである。
セカイ系の作品を楽しみ、セカイ系についての批評を書いてきた著者自身が、こういう本を書くこと。そのこと自身がすでに自己言及的ですらあり、著者もまた自覚的にそのことに触れている。
また、自分自身について「私ってこういうキャラ」というふうに、ある種の突き放した見方をすることもあれば、そのようなキャラをプロデュースすることもある。
このように自分で作ったり、書いたり、設定した「自分」や「自分の創作物」について自分で言及すること……というと思いつく言葉がある。
それは「自分語り」だ。
「自分語り」という言葉については、調べてみたわけではないが、かつてほど、冷たく非難されることが少なくなったように思える。
セカイ系は過去のものとして、あるいは一部の人にだけ関心を持たれていたジャンルとして、消えてなくなってしまったわけではないのだろう。
むしろ、自分はこういう人だから、と自分をフィクションのなかの人物のように離して見ることができる人々にとっては、セカイ系の方こそが、現実的な世界観として定着しているということもできるのかもしれない。
それは、ひるがえって、自分語りに寛容な世の中ということができるのではないだろうか。