壜詰病院
ラジオ小説としての「壜詰病院」
レビュアー:USB農民
ーーその小説は、静かなピアノの旋律から始まる。
「壜詰病院」は、星海社Webページで公開されていた、星海社ラジオ騎士団というWebラジオで放送されていた朗読作品だ。
夢野久作の作品を彷彿とさせるタイトルのこの作品は、死や諦念や情念などの要素で、ごくごくと濁った彩りを放つ作品だ。死があちらこちらに湧き出すような病院で、一人の少女の数奇な体験が描かれている。
ところで、この作品は制作サイドから珍しいジャンル名を与えられている。
連続ラジオ小説。
聞き慣れない言葉だ。その言葉からは、NHKの連続テレビ小説がすぐに思い浮かぶが、そこにはあまり共通点がないように思う。
一般的には、「連続ラジオドラマ」と呼ぶのではないか。なぜ、わざわざ「ドラマ」の部分を「小説」に置き換えているのか?
もうひとつ、この作品で気になる点がある。
星海社からはいくつかの朗読CDが発売されているが、それらは基本的に、BGMが存在しない。けれど「壜詰病院」には、ピアノ曲がBGMとして使われている。それもまた、なぜなのか。
私はこの二つの要素は、密接に関係していると考える。
なぜ「ドラマ」ではなく「小説」なのか。それはこの作品が、小説と同じ要素を持っているからだろう。しかもそれは、紙の本であること、のような媒体としての要素ではない。もう少し目には見えにくいことだ。
ところで小説とは何か。それは文字の連なりだ。しかしただ文字が連なっていればいいというわけではない。それは一貫性のある論理的なつながりを持っていなくてはいけない。(ここでの論理とは、科学的、客観的である必要はない。特殊な論理性で書かれた小説も世には多い)だから(広い意味での)論理性を持たない小説はあり得ない。
そして小説の妙味とは、作者ごとに文体が異なることで、そこで生まれる論理性にも様々な種類が生まれることにある。
では、「壜詰病院」における「文体」とは何か?
佐藤友哉の文章か? しかし、佐藤友哉のクレジットは原作だ。作品全体を左右する文体レベルの論理性は、別の存在にゆだねられている。クレジットに並ぶもう一人の存在。朗読の古木のぞみだ。
佐藤は「壜詰病院」の文章を、古木が読むことを前提に書いたという。そこには、古木の声で表現されることが、この作品の前提にあるという意識が窺える。(そのためか、星海社の他の朗読CDには必ずついている、本文を載せたブックレットが、この作品にはついていない。制作サイドから、佐藤友哉の文章ではなく、古木のぞみの声でこの作品を体験することを奨められているように私には思えた)
「内容=何を書くか」と「文体=どのように書くか」という分類でこの作品を捉えるならば、佐藤が「原作=何を書くか=内容」を担当し、古木が「朗読=どのように読むか=どのように書くか=文体」を担当していると言えるだろう。
「壜詰病院」の「文体」とは、古木のぞみの「声」ということになる。
そして音楽もまた、この作品の論理性を支えるために存在している。
人間の感情は、イメージに引っ張られやすい。映画やゲームなどで、悲しい曲調の音楽が流れていると、それだけでその場面が悲しく見えてくるのは、よくあることだ。そういった音楽の持つ力というのは不思議なものとして捉えられやすいが、しかし基本的に音楽もまた、文章と同じく限られた記号の並べ替えによって作られている。そこにはやはり、一貫した論理性が存在している。リズムも音階も考えずに、ただ音の記号を並べただけでは、聴く人に何かを感じさせることはできない。
音楽もまた、ラジオ小説を支える論理性の一つなのだ。
ここまでの話で、冒頭の問いは次のように答えることができるはずだ。
「壜詰病院」は、なぜ「ラジオ小説」なのか。
それは、「小説」と同じように、作品内の論理の一貫性を最重要のファクターとして意識しながら制作されているからであり、また、その論理性を「文字」ではなく、「声」と「音楽」で表現した「小説」だから、「ラジオ小説」なのだ。
「壜詰病院」は、静かなピアノの旋律から始まる。その旋律は、少し悲しい色を帯びている。そこへ音を重ねるように、古木のぞみのかすれ気味の細い声が入る。その相乗効果は、どこか俗世とは遠く離れた世界観をよく伝えている。
静かな場所で、この作品を聴いていると、まるで物語の舞台に自分がいるように思える瞬間がある。
ここではないどこかにある、とても死に近い場所としての病院。
「壜詰病院」。
その病院は、声と音楽に支えられて、そこにある。
「壜詰病院」は、星海社Webページで公開されていた、星海社ラジオ騎士団というWebラジオで放送されていた朗読作品だ。
夢野久作の作品を彷彿とさせるタイトルのこの作品は、死や諦念や情念などの要素で、ごくごくと濁った彩りを放つ作品だ。死があちらこちらに湧き出すような病院で、一人の少女の数奇な体験が描かれている。
ところで、この作品は制作サイドから珍しいジャンル名を与えられている。
連続ラジオ小説。
聞き慣れない言葉だ。その言葉からは、NHKの連続テレビ小説がすぐに思い浮かぶが、そこにはあまり共通点がないように思う。
一般的には、「連続ラジオドラマ」と呼ぶのではないか。なぜ、わざわざ「ドラマ」の部分を「小説」に置き換えているのか?
もうひとつ、この作品で気になる点がある。
星海社からはいくつかの朗読CDが発売されているが、それらは基本的に、BGMが存在しない。けれど「壜詰病院」には、ピアノ曲がBGMとして使われている。それもまた、なぜなのか。
私はこの二つの要素は、密接に関係していると考える。
なぜ「ドラマ」ではなく「小説」なのか。それはこの作品が、小説と同じ要素を持っているからだろう。しかもそれは、紙の本であること、のような媒体としての要素ではない。もう少し目には見えにくいことだ。
ところで小説とは何か。それは文字の連なりだ。しかしただ文字が連なっていればいいというわけではない。それは一貫性のある論理的なつながりを持っていなくてはいけない。(ここでの論理とは、科学的、客観的である必要はない。特殊な論理性で書かれた小説も世には多い)だから(広い意味での)論理性を持たない小説はあり得ない。
そして小説の妙味とは、作者ごとに文体が異なることで、そこで生まれる論理性にも様々な種類が生まれることにある。
では、「壜詰病院」における「文体」とは何か?
佐藤友哉の文章か? しかし、佐藤友哉のクレジットは原作だ。作品全体を左右する文体レベルの論理性は、別の存在にゆだねられている。クレジットに並ぶもう一人の存在。朗読の古木のぞみだ。
佐藤は「壜詰病院」の文章を、古木が読むことを前提に書いたという。そこには、古木の声で表現されることが、この作品の前提にあるという意識が窺える。(そのためか、星海社の他の朗読CDには必ずついている、本文を載せたブックレットが、この作品にはついていない。制作サイドから、佐藤友哉の文章ではなく、古木のぞみの声でこの作品を体験することを奨められているように私には思えた)
「内容=何を書くか」と「文体=どのように書くか」という分類でこの作品を捉えるならば、佐藤が「原作=何を書くか=内容」を担当し、古木が「朗読=どのように読むか=どのように書くか=文体」を担当していると言えるだろう。
「壜詰病院」の「文体」とは、古木のぞみの「声」ということになる。
そして音楽もまた、この作品の論理性を支えるために存在している。
人間の感情は、イメージに引っ張られやすい。映画やゲームなどで、悲しい曲調の音楽が流れていると、それだけでその場面が悲しく見えてくるのは、よくあることだ。そういった音楽の持つ力というのは不思議なものとして捉えられやすいが、しかし基本的に音楽もまた、文章と同じく限られた記号の並べ替えによって作られている。そこにはやはり、一貫した論理性が存在している。リズムも音階も考えずに、ただ音の記号を並べただけでは、聴く人に何かを感じさせることはできない。
音楽もまた、ラジオ小説を支える論理性の一つなのだ。
ここまでの話で、冒頭の問いは次のように答えることができるはずだ。
「壜詰病院」は、なぜ「ラジオ小説」なのか。
それは、「小説」と同じように、作品内の論理の一貫性を最重要のファクターとして意識しながら制作されているからであり、また、その論理性を「文字」ではなく、「声」と「音楽」で表現した「小説」だから、「ラジオ小説」なのだ。
「壜詰病院」は、静かなピアノの旋律から始まる。その旋律は、少し悲しい色を帯びている。そこへ音を重ねるように、古木のぞみのかすれ気味の細い声が入る。その相乗効果は、どこか俗世とは遠く離れた世界観をよく伝えている。
静かな場所で、この作品を聴いていると、まるで物語の舞台に自分がいるように思える瞬間がある。
ここではないどこかにある、とても死に近い場所としての病院。
「壜詰病院」。
その病院は、声と音楽に支えられて、そこにある。