十文字青「果てなき天のファタルシス」
『手を伸ばせば手が届きそうな青い空』
レビュアー:USB農民
私が本書で最も記憶に残ったのは、「触手怪物の放出する催淫ガスで発情しつつ、健気に性欲に堪えて戦い続けるも、やっぱり圧倒的な性欲には勝てなかったよ」というエロゲー的展開だった。阿呆みたいな感想で申し訳ない限りだけど、実際、もっとも胸が熱くなったシーンなのだから、救いがない。
そしえ次に印象に残っている場面は、ラストで描かれる青空だ。
2つのシーンは、私の中で密接につながっている。
やや唐突かもしれないが、2つのシーンの間に、「青春」というキーワードを挟むと、2つのシーンの意味と、作品のテーマとが結びついていることが理解できるはずだ。
それを説明するためには、まず性欲についての話をする必要がある。
こんなことを考えたことがあるだろうか。自分が老いて、老人になったとき、それでもまだ性欲が衰えずにいたらどうしよう。80歳にもなってまだ、若い異性の子と性的な関係を結びたいと考えていても、それが難しいだろうことは容易に想像がつく。
なんというか、そういう、非常にままならない感情や欲望を持っている時期というのが、実は多くの人にはあって、十代の頃は誰しもそういう気分に振り回された記憶があるんじゃないかと思う。その記憶を「青春」と呼んでもいい。十代の頃に感じる、ままならない性欲は実に「青春」的であるし、同時に性欲衰えない80歳の老人も、実は「青春」を生きているのではないかと、私は思う。
すべての「ままならない」の裏側には、「青春」がぴたりと張り付いている。そして、その隠れた「青春」に気がついたとき、それまで持て余していた「ままならない」が、自分にとって大事な意味を持っていたことに気づかされる。
『果てなき天のファタルシス』に描かれているのは、その気づきであると私は思う。
この小説で描かれる世界は、ひどく理不尽なことばかりが起こる。謎の敵の侵略。子供に戦闘を強要する大人社会。両親の仕事の秘密。それから、主人公が記憶を失っていることも、この世界の理不尽さを強調する役目を持っている。そしてもちろん、冒頭に書いた催淫ガスの場面でも理不尽さは感じられる。(意志とは無関係に、身体を発情させるとか、本人にとってすれば理不尽以外の何者でもない)(その直後の場面で起こる、悲劇とも喜劇ともとれる展開もまた、とても理不尽だ)
この物語では、「ままならない」「理不尽」な出来事が、主人公に重くのしかかり続ける様子が執拗に描かれている。主人公はそのことに苦しみを覚え続ける。
しかし、最後の最後で、主人公はその経験が単なる「理不尽」ではなかったことに気づく。
その記憶の中では、確かに自分や友人たちがありありと存在し、息づいていて、リアリティを持っている。「ままならなさ」や「理不尽さ」が強ければ強いほど、記憶のリアリティの強度が上がっていく。苦しい経験は、自分や友人たちがそこにいた証でもある。
絶対的劣勢の戦場で、主人公はそのことに気づく。そして仲間のために、「理不尽」な程に強力な敵へと立ち向かっていく。
そのときの彼はもう、「ままならない」現実に振り回されることもなく、「理不尽」な状況に膝を折ることもない。「ままならない」の裏側にある、「青春」に気づいたから。
「青春」とは、自分たちがかつて確かにそこにいた証であり、その人生の手触りのことだ。
物語の最後を飾るのは青空だ。
ひどく「ままならない」物語の果てに現れたのは、手を伸ばせば触れられそうなほどに、確かな存在感を持った、抜けるような青空だった。
そしえ次に印象に残っている場面は、ラストで描かれる青空だ。
2つのシーンは、私の中で密接につながっている。
やや唐突かもしれないが、2つのシーンの間に、「青春」というキーワードを挟むと、2つのシーンの意味と、作品のテーマとが結びついていることが理解できるはずだ。
それを説明するためには、まず性欲についての話をする必要がある。
こんなことを考えたことがあるだろうか。自分が老いて、老人になったとき、それでもまだ性欲が衰えずにいたらどうしよう。80歳にもなってまだ、若い異性の子と性的な関係を結びたいと考えていても、それが難しいだろうことは容易に想像がつく。
なんというか、そういう、非常にままならない感情や欲望を持っている時期というのが、実は多くの人にはあって、十代の頃は誰しもそういう気分に振り回された記憶があるんじゃないかと思う。その記憶を「青春」と呼んでもいい。十代の頃に感じる、ままならない性欲は実に「青春」的であるし、同時に性欲衰えない80歳の老人も、実は「青春」を生きているのではないかと、私は思う。
すべての「ままならない」の裏側には、「青春」がぴたりと張り付いている。そして、その隠れた「青春」に気がついたとき、それまで持て余していた「ままならない」が、自分にとって大事な意味を持っていたことに気づかされる。
『果てなき天のファタルシス』に描かれているのは、その気づきであると私は思う。
この小説で描かれる世界は、ひどく理不尽なことばかりが起こる。謎の敵の侵略。子供に戦闘を強要する大人社会。両親の仕事の秘密。それから、主人公が記憶を失っていることも、この世界の理不尽さを強調する役目を持っている。そしてもちろん、冒頭に書いた催淫ガスの場面でも理不尽さは感じられる。(意志とは無関係に、身体を発情させるとか、本人にとってすれば理不尽以外の何者でもない)(その直後の場面で起こる、悲劇とも喜劇ともとれる展開もまた、とても理不尽だ)
この物語では、「ままならない」「理不尽」な出来事が、主人公に重くのしかかり続ける様子が執拗に描かれている。主人公はそのことに苦しみを覚え続ける。
しかし、最後の最後で、主人公はその経験が単なる「理不尽」ではなかったことに気づく。
その記憶の中では、確かに自分や友人たちがありありと存在し、息づいていて、リアリティを持っている。「ままならなさ」や「理不尽さ」が強ければ強いほど、記憶のリアリティの強度が上がっていく。苦しい経験は、自分や友人たちがそこにいた証でもある。
絶対的劣勢の戦場で、主人公はそのことに気づく。そして仲間のために、「理不尽」な程に強力な敵へと立ち向かっていく。
そのときの彼はもう、「ままならない」現実に振り回されることもなく、「理不尽」な状況に膝を折ることもない。「ままならない」の裏側にある、「青春」に気づいたから。
「青春」とは、自分たちがかつて確かにそこにいた証であり、その人生の手触りのことだ。
物語の最後を飾るのは青空だ。
ひどく「ままならない」物語の果てに現れたのは、手を伸ばせば触れられそうなほどに、確かな存在感を持った、抜けるような青空だった。