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読者レビュー

銅

青春離婚

Webにおいて「読む」ことは「見る」ことだ

レビュアー:横浜県 Adept

Webにおいて「読む」ことは「見る」ことだ。
厳密に言うと、まだ完全にそうではない。しかしこの先そうなっていくのではないか、そうなるべきではないか、と思わせてくれるような作品に出会った。
『青春離婚』である。

まずそもそも、Webで「読む」ことのデメリットを考えてみる。
簡単に思いつくのは、やはり「紙でないこと」である。
自分でも失笑してしまうほど、当たり前な話をしてしまった気がするけれど。
やはり紙の質感や匂い、そしてページを繰る感覚が失われるというのは、どうも大きな問題だと思う。今まであったはずのものが存在しないという喪失感に苛まれてしまう。
ところがどうだろう、いまWeb上で出版社が掲載するマンガというものは、たいていが本の概念に縛れている。画面上に映る絵や文字はページに区切られ、クリックが紙を捲る行為を代替している。
そこでは本を「読む」ということが、まるで虚構のように存在している。
この「最前線」においても同様であった。紙を捲る行為を模してまではいないが、確かに作品はページという枠組みで分割されている。
それは後の書籍化を考慮すればよいことに思われるし、むしろ妥当ですらある。
けれど、いまそのとき、読者はWebで作品を見ているのである。
彼らにただの紙の本もどきを提供することが、果たしてWebで「読む」ことの価値を上げうるだろうか。いいえ、紙の本ありきという前提が浮き彫りになるだけで、かえって下がるばかりだろう。
現状として、Webにおける「読む」ことは、紙における「読む」ことの劣化版でしかないのだ。

一方で『青春離婚』はどうか。そこにはページの概念がない。
同じ形のコマがいくつも縦に連なっている。読者はページをスクロールすれば、物語を最初から最後まで読み切ることができる。
今まであった紙のマンガにおける概念では捉えられないコマ割(?)だ。
たとえると、長い4コママンガ。もしくは映画のフィルム。
そう、映画のフィルム。
今までのマンガでは、読者が複数ある異なった形のコマを目で追う必要があった。だが『青春離婚』では、視線を動かす必要がない。
求められているのは画面のスクロールのみで、読者はただ眺めてくるコマをじっと見つめればいい。それは映画やテレビを見ているのに近い感覚である。
だから『青春離婚』を「読む」ことは「見る」ことなのだ。
さらにいえば、先に述べた通り、物語を最初から最後まで読み切れるのも大きい。
これが本であれば、読者はページという切れ目で紙を繰らねばならない。だが区切りのない『青春離婚』では、読者は何をすることもなく、垂れ流される物語を受容することができる。
(唯一マウスのスクロールが要求されているが、これを意識的に行いながら読む人は少ないだろう)
この点でもやはり、『青春離婚』が「読む」と同時に「見る」ものであることが分かる。

これは新しいマンガのあり方である。
それも元来ある紙の本ではなく、Webだからこそできることだ。
僕は他のWebコミックも同様たるべきだと考える。
別にこういったコマ割にしろと言っているわけではない。ただ紙の模倣をやめてほしいだけだ。
Webは紙ではないのだから。異なる媒体である以上は、いままで通りの表現をしていては価値がない。
その意味で、『青春離婚』はWebにおけるマンガのあり方の一つを提示してくれている。
マンガを「見る」こと、それはWebだからできること。
いつか、「読む」ことは「見る」ことである、そう断言できる日が来るかも知れない。むしろ来るべきだ。
いや、他に様々な「Webだからこそ」なマンガのあり方が生まれてくれるのなら、それにこしたことはないのだけれど。

最前線で『青春離婚』を読む

2012.03.09

さやわか
これは面白い論考になっていて、個人的に楽しく読ませていただきました。ただ、これは形式について書かれているので、望めるならばこの理屈が『青春離婚』という作品にどのような影響をもたらしているのかを語っていただけたらよかったと思いました。形式のためにコマ割りが選ばれているというのは十分に内容に言及しているとも言えますが、もう一声あってもいいと思います。たとえばそれを読む我々の物語に対する感じ方はどう変えられているのか。あるいは物語自体は変えられていると言えるのか。それがあってこそ、このレビューは『青春離婚』について語っているのだなと思えるのではないかと思います。ひとまず「銅」とさせてください。

本文はここまでです。