iKILL
或るミステリ読みの憤慨
レビュアー:ヨシマル
激怒した。
それは本書『iKILL』を読み終わったときのことだった。
筆者は本書を読み始める前に『最前線』の特集ページを読んでいた。
そこにはこう書かれていた。
ウェブ上に蠢く処刑システム
「i-KILLネット」の管理人・小田切明の
終わりなき”仕事”の果てに
待ち受けるものは……!?
この四行の紹介文には明らかな間違いが書いてあるのだ。
ミスリードという言葉がある。
小説では、あえて読者に間違ったように勘違いさせる文章を書く技法のことを指す。本書でもその技法が使われている話がある。
そして、ここが重要な点なのだけれど、このミスリードはあくまで勘違いを起こさせるものであり、著者が間違いを記述してはならないという暗黙の了解があるのだ。もちろん、それはあくまで暗黙の了解であり破ったからといって一方的な避難をするべきものではないかもしれない。けれど、作中においては本書の著者は間違いとなる記述しておらず、この点に配慮してあることが読み取れるのだ。
にも関わらず、作品の外で(果たして著者が関わったかどうかは分からない)、その暗黙の了解を覆す記述がされていること、さらには、堂々とミスリードされた間違いを記述していることに激怒したのだ。
当たり前だけれど、暗黙の了解とは意味もなくあるものではない。ミスリードの場合、それは物語の読み方自体を変えてしまうからこそ存在する。
読者を勘違いさせるミスリードを使った物語は、一回読めば読者は勘違いをしていたことに気づくことになる。読者は一回目に読むときには自分が勘違いをさせられていることを知り驚愕する。そして二回目以降読むときには、勘違いを起こさせるように計算された文章に驚愕することができるのだ。
そのため、この紹介文には二重の過ちがある。
一つ目はミスリードの内容を記述してしまったことだ。暗黙の了解である著者が間違いを記述しないのと同様、本書の内容を知っているはずの紹介文を記述した者が間違いを記述することはないと思ってしまう。そのため読者はその内容を知っているという状態になってしまう。だから、著者が勘違いを起こさせようと計算した文章の価値を奪ってしまうことになるのだ。
そして、二つ目の問題はミスリードされた間違いの方を記述してあることだ。読者が勘違いさせられたときに感じる驚愕は文章を読んで無意識の内にそう思わされていたからこそ感じるものだ。読む前に明示されたのであれば、それは単なる訂正に過ぎない。そこに驚きが生まれる余地はなくなるのだ。
もしかしたら上記のような読み方をする者が特殊な例なのかもしれない。いい作品なら暗黙の了解なんて関係ないという者が大多数かもしれない。けれど、暗黙の了解が成立するほどの人数がこういった楽しみ方をしていることをこの紹介文の著者には知ってほしいと思う。手前勝手な願いかもしれないが、そういった読者のための配慮をしていただけると筆者は嬉しい。
最前線で『iKILL』を読む
それは本書『iKILL』を読み終わったときのことだった。
筆者は本書を読み始める前に『最前線』の特集ページを読んでいた。
そこにはこう書かれていた。
ウェブ上に蠢く処刑システム
「i-KILLネット」の管理人・小田切明の
終わりなき”仕事”の果てに
待ち受けるものは……!?
この四行の紹介文には明らかな間違いが書いてあるのだ。
ミスリードという言葉がある。
小説では、あえて読者に間違ったように勘違いさせる文章を書く技法のことを指す。本書でもその技法が使われている話がある。
そして、ここが重要な点なのだけれど、このミスリードはあくまで勘違いを起こさせるものであり、著者が間違いを記述してはならないという暗黙の了解があるのだ。もちろん、それはあくまで暗黙の了解であり破ったからといって一方的な避難をするべきものではないかもしれない。けれど、作中においては本書の著者は間違いとなる記述しておらず、この点に配慮してあることが読み取れるのだ。
にも関わらず、作品の外で(果たして著者が関わったかどうかは分からない)、その暗黙の了解を覆す記述がされていること、さらには、堂々とミスリードされた間違いを記述していることに激怒したのだ。
当たり前だけれど、暗黙の了解とは意味もなくあるものではない。ミスリードの場合、それは物語の読み方自体を変えてしまうからこそ存在する。
読者を勘違いさせるミスリードを使った物語は、一回読めば読者は勘違いをしていたことに気づくことになる。読者は一回目に読むときには自分が勘違いをさせられていることを知り驚愕する。そして二回目以降読むときには、勘違いを起こさせるように計算された文章に驚愕することができるのだ。
そのため、この紹介文には二重の過ちがある。
一つ目はミスリードの内容を記述してしまったことだ。暗黙の了解である著者が間違いを記述しないのと同様、本書の内容を知っているはずの紹介文を記述した者が間違いを記述することはないと思ってしまう。そのため読者はその内容を知っているという状態になってしまう。だから、著者が勘違いを起こさせようと計算した文章の価値を奪ってしまうことになるのだ。
そして、二つ目の問題はミスリードされた間違いの方を記述してあることだ。読者が勘違いさせられたときに感じる驚愕は文章を読んで無意識の内にそう思わされていたからこそ感じるものだ。読む前に明示されたのであれば、それは単なる訂正に過ぎない。そこに驚きが生まれる余地はなくなるのだ。
もしかしたら上記のような読み方をする者が特殊な例なのかもしれない。いい作品なら暗黙の了解なんて関係ないという者が大多数かもしれない。けれど、暗黙の了解が成立するほどの人数がこういった楽しみ方をしていることをこの紹介文の著者には知ってほしいと思う。手前勝手な願いかもしれないが、そういった読者のための配慮をしていただけると筆者は嬉しい。
最前線で『iKILL』を読む