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読者レビュー

銅

iKILL

残酷な「生」

レビュアー:ヨシマル Novice

『iKILL』には「I kill=殺す」と「ィキル=生きる」という相反する二つの意味が込められている。主人公は殺し屋である小田切明。その名の通り殺すことを仕事とする小田切の目線で多くを語る本書は殺すこと、つまり死ぬことを描くと同時に生きることもまた強く印象づける。本書はそんな生と死を描いた小説だ。

自分の私生活をネット上に晒し続けるネットアイドルの殺害や自分をいじめる同級生の女子高生の殺害など、主人公である殺し屋の小田切明のもとには様々な依頼が持ち込まれる。小田切によって遂行されるそれらの殺人の描写は無慈悲とも言い表せられるほど生々しく、読者にとっては苦痛すら感じるような場面もある。これらの殺人の場面はまさに「I kill=殺す」を体現していると言えるだろう。

一方、本書にはもう一つ「ィキル=生きる」という側面がある。

本書の特徴に先に書いたような生々しいほどの残酷な描写がある。それは直接的な殺人の描写だけでなく、既に死体となった後の描写でも同様だ。第一話では殺された人体が腐り、そして朽ち果てていく様が丹念に描かれる。この場面は本書の中でも屈指の残酷な場面となっている。それは死に直結する描写でもあるのだが、この場面での残酷さとは、むしろ生きることをより強く思い起こさせる。本書の残酷さは人体が変化していく様子を生々しく詳細に描くことで成立している。読者は死体が朽ち果てていく様子を詳細に読み取ることで、死体がかつて人間だったことにあらためて気付かされる。同時にその死体がかつて生きていた事実と向き合うことになるのだ。

死体がかつてどう生きていたのかという点に関して本書は多くを語っている。そして残酷な描写によってその生と死を結びつけているのだ。果たして殺された人たちはどう生きていたのか。それが本書で残酷な描写に出会ったときに注目してほしいポイントの一つだ。

最前線で『iKILL』を読む

2012.03.09

さやわか
わりと淡々とした調子ではありますが、ハッとさせられるような内容を持ったレビューだと思いました。「殺す」と「生きる」を残酷な描写によって結びつけているというのは、作品の特徴である残酷な描写がなぜ必要なのかを語っていると言っていいでしょう。少しだけわからなかったのは、残酷描写の中でも殺人の描写は「I kill」すなわち「殺す」を体現していて、死体が朽ち果てていく描写は「殺す」と「生きる」を接続しているという語り方になっているように見えることです。つまり残酷描写が総じて「殺す」と「生きる」を結びつけるものとしてあるわけではないということなのでしょうかね? そうすると最後の段落に書かれていることには例外があることになってしまいます。それとも殺人描写と死体が朽ちていく描写は別々のものとして扱うのでしょうか? 理屈としてどちらが正しいというのではなくて、ちょっと混乱させてしまうような部分を補ってやればいいと思いましたぞ。「銅」にさせていただきましょう!

本文はここまでです。