レッドドラゴンのCM
希なる体験について
レビュアー:USB農民
あまり得る機会のないだろう類の体験について書く。
2011年12月10日深夜に「fate/zero」の放送枠で流れたCMは、唐突に始まり、説明不足のまま、尻切れトンボのように終わった。
私が感じたのは、「すごい」とか「意味不明」とか「おもしろそう」とか「つまらなそう」といったものではなく、「この次の瞬間に、なにが起こるのだろう?」という緊張だった。
例えばその緊張は、上質なストーリーを備えた物語を読む時のそれに少しだけ似ている。しかし、物語で「次の瞬間に、なにが起こるかわからなくてハラハラドキドキする」ことは、それはやはり、「物語」の枠を越えるものではない。それはスポーツだったり、学校の授業でもそうで、どんなに刺激的な出来事も、基本的にはスポーツならスポーツの、授業なら授業の枠を越えでることはない。
逆に言えば、その枠を越えた時、それが物語であれスポーツであれ授業であれ、他とは比べるべくもない程に刺激的で緊張感のある、今までにない新しい価値と呼んでもおそらく差し支えないような、素晴らしい体験が生まれるだろう。
だが、あのCMは、そのような事象とも少し違ったように思う。
これは、リアルタイムで視聴していた時に感じたことではなく、今改めて思い返してみて考えたことだが、そもそもあの時のCMは、なにかの枠を越えたわけではなかった。
あのCMには、「枠」そのものがなかった。
「枠」がないから、なにが起こるのか想像する手掛かりすらない。
あの時感じた「この次の瞬間に、なにが起こるのだろう?」という緊張は、言い換えるなら、「この次の瞬間に、なにが起こったとしても不思議ではない」という実感だったのだ。
なにかが始まる時にだけ、それは起こり得るのかもしれない。
その瞬間は、もう戻ってこないが、しかしその残滓、あるいはそれが起こした波紋のようなものだけでも、形にして残しておきたいと思い、このレビューを書いた次第。
2011年12月10日深夜に「fate/zero」の放送枠で流れたCMは、唐突に始まり、説明不足のまま、尻切れトンボのように終わった。
私が感じたのは、「すごい」とか「意味不明」とか「おもしろそう」とか「つまらなそう」といったものではなく、「この次の瞬間に、なにが起こるのだろう?」という緊張だった。
例えばその緊張は、上質なストーリーを備えた物語を読む時のそれに少しだけ似ている。しかし、物語で「次の瞬間に、なにが起こるかわからなくてハラハラドキドキする」ことは、それはやはり、「物語」の枠を越えるものではない。それはスポーツだったり、学校の授業でもそうで、どんなに刺激的な出来事も、基本的にはスポーツならスポーツの、授業なら授業の枠を越えでることはない。
逆に言えば、その枠を越えた時、それが物語であれスポーツであれ授業であれ、他とは比べるべくもない程に刺激的で緊張感のある、今までにない新しい価値と呼んでもおそらく差し支えないような、素晴らしい体験が生まれるだろう。
だが、あのCMは、そのような事象とも少し違ったように思う。
これは、リアルタイムで視聴していた時に感じたことではなく、今改めて思い返してみて考えたことだが、そもそもあの時のCMは、なにかの枠を越えたわけではなかった。
あのCMには、「枠」そのものがなかった。
「枠」がないから、なにが起こるのか想像する手掛かりすらない。
あの時感じた「この次の瞬間に、なにが起こるのだろう?」という緊張は、言い換えるなら、「この次の瞬間に、なにが起こったとしても不思議ではない」という実感だったのだ。
なにかが始まる時にだけ、それは起こり得るのかもしれない。
その瞬間は、もう戻ってこないが、しかしその残滓、あるいはそれが起こした波紋のようなものだけでも、形にして残しておきたいと思い、このレビューを書いた次第。