きみを守るためにぼくは夢をみる1 白倉由美
それは誰が見ている夢なのか
レビュアー:ややせ
序盤から、なぜこんなことが起こってしまったのだろうと、不思議でならなかった。
純愛だとか初恋だとかには正直あまり意識が向かず、起こっている出来事への違和感、その裏に何か意味があるのだろうか、どう解釈すればいいのだろうかという思考の渦に巻き込まれていくような気持ち悪さ……そう、気持ち悪さ。
あまりにも清々しい表紙のこの本から感じる、この「気持ち悪さ」はどう解消されるのだろうと、そればかりが気にしつつ読み進める読書となった。
朔は十歳の誕生日に恋人の砂緒と初めてのデートに出かけ、楽しくも背伸びをした一日を過ごす。そして、砂緒が大人になることに不安を抱いていることを知り、砂緒を守る未来を夢見続けることを約束して、それぞれの帰途についた。
その後、急激に襲ってきた睡魔のせいで朔は眠ってしまい、慌てて家に帰ると家族の様子がおかしい。なんと、朔は七年間もの間行方不明だったのだという。
朔は十歳の身体のまま、七年、時間の進んだ世界に立つことになった。
斧が朽ちるほどの長い時間ではないことを、幸福に思うべきなのか。とにかく、少年時代の七年は長すぎる。
サッカーの才能に恵まれた勇気のある少年だった朔は、ひ弱だった弟にも卑怯なクラスメイトにも追い越され、もはや誰にも敵わない。
しかし、当然のことながらママは優しく迎えてくれ、すっかり大人びた女子高生となった砂緒も朔をずっと待ってくれていた。噂を聞いて興味本位で近づいてきた女の子にも、熱烈な好意を示される。
これは、どういうことなのだろう。
もともと朔の家は、父親が不在の家だった。
そのせいもあってか、朔の周囲には今も昔も味方となってくれるような頼れる男がいない。男の友達すら出てこず、唯一の理解者である小児科の医師も、幼い頃の義妹との関係を恋人と臆面も無く言い切り、その思い出を大事に抱えているような半ば夢の世界の住人であるかのような男性である。
朔の復学を露骨なまでの悪意で渋る校長しかり、朔を肯定し、受け入れてくれる同性はいない。言い換えるなら、朔はママや砂緒に代表されるような女達の盲目的なまでの夢に、すっぽりと囲い込まれているのである。
夢には二種類ある。
現実に叶えようとする夢と、貪るためだけの夢だ。
朔が砂緒を守るために夢を見ようと言ったのは、もちろん前者の方の意味だったはずだ。ところが、結果を見る限り、朔が見たのは後者に近い夢だった。
フィクションとしてこの小説を読んでいる我々なら、たやすく朔が時間を飛び越えたのだと考えることができる。原因など分からなくても、何らかの理由でタイムスリップしてしまったのだ、と。
けれどこれがもしも現実ならば、作中の人物達のように、誰もそのような突飛な結論には至らないだろう。
行方不明の間、何らかの原因で身体の成長が止まってしまっているだけで、七年間は七年間として朔の上にあったはず、つまりどれだけ十歳にしか見えなくても、この小説の現実では朔のことを十七歳だとして認識しているのだ。
十七歳の青年が十歳の少年のように振る舞うことを当然世間は肯定せず、ママや女の子が無意識に望む理想の少年像としての朔と相反する。
この二つの虚実の像が、二重写しになった存在として絶えずぶれて迷っているように思えるのだ。
だからそのことに無自覚な彼らが掲げる恋愛は、どうしたって歪で、応援したくなるものではない。
物語は、朔がちゃんと居場所を見つけ、成長しよう、大人になろうというところで終わる。最初から朔はそのつもりだったのだから、改めてそんな決意をするのも変かもしれないが。
そのためには砂緒がそばにいては駄目だ。
眠りに誘う海の底からの声のような、ママがそばにいても駄目だと思う。
これはある日、なんの罪もなくすべてを奪われた少年が、それでも健全に真っ直ぐに成長しなければならない幼い騎士道物語なのではないだろうか。
因果もなく、理由もなく。
そしてきっと得られる報酬も無い。
望むのは架空のりんご、架空の思い姫。
それでも朔は夢を見続けるのだろうか。
1巻の終わりに、やっと物語が始まりそうな気配が感じられた。
純愛だとか初恋だとかには正直あまり意識が向かず、起こっている出来事への違和感、その裏に何か意味があるのだろうか、どう解釈すればいいのだろうかという思考の渦に巻き込まれていくような気持ち悪さ……そう、気持ち悪さ。
あまりにも清々しい表紙のこの本から感じる、この「気持ち悪さ」はどう解消されるのだろうと、そればかりが気にしつつ読み進める読書となった。
朔は十歳の誕生日に恋人の砂緒と初めてのデートに出かけ、楽しくも背伸びをした一日を過ごす。そして、砂緒が大人になることに不安を抱いていることを知り、砂緒を守る未来を夢見続けることを約束して、それぞれの帰途についた。
その後、急激に襲ってきた睡魔のせいで朔は眠ってしまい、慌てて家に帰ると家族の様子がおかしい。なんと、朔は七年間もの間行方不明だったのだという。
朔は十歳の身体のまま、七年、時間の進んだ世界に立つことになった。
斧が朽ちるほどの長い時間ではないことを、幸福に思うべきなのか。とにかく、少年時代の七年は長すぎる。
サッカーの才能に恵まれた勇気のある少年だった朔は、ひ弱だった弟にも卑怯なクラスメイトにも追い越され、もはや誰にも敵わない。
しかし、当然のことながらママは優しく迎えてくれ、すっかり大人びた女子高生となった砂緒も朔をずっと待ってくれていた。噂を聞いて興味本位で近づいてきた女の子にも、熱烈な好意を示される。
これは、どういうことなのだろう。
もともと朔の家は、父親が不在の家だった。
そのせいもあってか、朔の周囲には今も昔も味方となってくれるような頼れる男がいない。男の友達すら出てこず、唯一の理解者である小児科の医師も、幼い頃の義妹との関係を恋人と臆面も無く言い切り、その思い出を大事に抱えているような半ば夢の世界の住人であるかのような男性である。
朔の復学を露骨なまでの悪意で渋る校長しかり、朔を肯定し、受け入れてくれる同性はいない。言い換えるなら、朔はママや砂緒に代表されるような女達の盲目的なまでの夢に、すっぽりと囲い込まれているのである。
夢には二種類ある。
現実に叶えようとする夢と、貪るためだけの夢だ。
朔が砂緒を守るために夢を見ようと言ったのは、もちろん前者の方の意味だったはずだ。ところが、結果を見る限り、朔が見たのは後者に近い夢だった。
フィクションとしてこの小説を読んでいる我々なら、たやすく朔が時間を飛び越えたのだと考えることができる。原因など分からなくても、何らかの理由でタイムスリップしてしまったのだ、と。
けれどこれがもしも現実ならば、作中の人物達のように、誰もそのような突飛な結論には至らないだろう。
行方不明の間、何らかの原因で身体の成長が止まってしまっているだけで、七年間は七年間として朔の上にあったはず、つまりどれだけ十歳にしか見えなくても、この小説の現実では朔のことを十七歳だとして認識しているのだ。
十七歳の青年が十歳の少年のように振る舞うことを当然世間は肯定せず、ママや女の子が無意識に望む理想の少年像としての朔と相反する。
この二つの虚実の像が、二重写しになった存在として絶えずぶれて迷っているように思えるのだ。
だからそのことに無自覚な彼らが掲げる恋愛は、どうしたって歪で、応援したくなるものではない。
物語は、朔がちゃんと居場所を見つけ、成長しよう、大人になろうというところで終わる。最初から朔はそのつもりだったのだから、改めてそんな決意をするのも変かもしれないが。
そのためには砂緒がそばにいては駄目だ。
眠りに誘う海の底からの声のような、ママがそばにいても駄目だと思う。
これはある日、なんの罪もなくすべてを奪われた少年が、それでも健全に真っ直ぐに成長しなければならない幼い騎士道物語なのではないだろうか。
因果もなく、理由もなく。
そしてきっと得られる報酬も無い。
望むのは架空のりんご、架空の思い姫。
それでも朔は夢を見続けるのだろうか。
1巻の終わりに、やっと物語が始まりそうな気配が感じられた。