ひぐらしのなく頃に/第一話鬼隠し編(上)
本文と挿絵とWebの三本の矢
レビュアー:ticheese
星海社文庫『ひぐらしのなく頃に』は少々風変わりなライトノベルだと思う。本文だけでは作品の世界観が完成しないのだ。
物語は5人の仲良しグループの会話をメインに進む。というかほとんど会話で描写を埋めてしまっている。地の文でのキャラクターや時代背景の描写が極端に少ない。これはキャラクターの魅力で読者にアピールするライトノベルという分野ではよくあることでもあり、特異なことでもある。たいていのラノベ読みが思い浮かべる通り、ライトノベルには挿し絵が付き物である。モノによっては登場人物の紹介全てを挿し絵で済ませてしまっている作品もあるくらいだ。『ひぐらしのなく頃に』はその傾向が特別に強いように思う。学校に通うキャラクターはそれぞれ別の制服を着て登校しているようなのだが、衣服に関する描写がほぼない。むしろキャラクターの容姿に関する描写自体がほとんど見られない。私は目を皿のようにして読んだ訳ではないので他の読者に「あるよ」と言われればそれまでなのだが、少なくとも容姿を印象づけるような描き方はされていない。はっきり言ってしまうと容姿の表現は挿し絵に丸投げになっている。さらに付け加えるなら時代背景的な描写もおろそかだ。昭和58年という読者に馴染みのない時代を舞台にしているにもかかわらず、特に印象強くは描かれない。これは著者自身メタな会話でキャラクターに弄らせているのでわざと省いているのだろう。そうして時代背景の描写も挿し絵に投げている。これを「丸投げ」と書かなかったのは時代背景の注釈を星海社のWebサイト『最前線』でも行っているからだ。とにかく『ひぐらしのなく頃に』は小説の本文で文章を裂くべきことを他所に任せきっている作品なのだ。
元々がゲームなので、絵がありきで物語を進めるのは分かる。少々開き直り過ぎとも私は思うのだが、10冊を超える長い巻数を鑑みるに、文章だけで描ききれよとは口が裂けても言えはしない。それに私はむしろ星海社文庫『ひぐらしのなく頃に』の挿し絵の妙に驚いているのだ。
星海社文庫『ひぐらしのなく頃に/第一話鬼隠し篇(上)』の挿し絵は9枚。全てフルカラーで描かれている。内舞台と時代背景を描いたものが4枚、キャラクターを描いたものが3枚、ミステリー部分に必要な資料を描いたものが2枚ある。舞台と時代背景を描いた挿し絵は絵としてつまらないものではあるが、そのページにくると本文中で忘れがちになる時代背景が頭に戻ってくる。昭和58年には携帯電話などの個人レベルの通信手段やテレビゲームといった内に籠って行う遊戯もない。だからこそキャラクター達は村を快活に動き回る。ミステリーにおいてそういった小道具の有無は重要なので時代背景を刷り込んでおくことは必要だろう。古めかしい小物の挿し絵は読者を作品世界に繋いでおくアンカーになっている。
次はなにより大事であろうキャラクターの挿し絵だ。3枚の内2枚がヒロイン全員を絵の中に収めたもの。これによりヒロインの容姿が読者にはっきりと伝わる。挿し絵の中にヒロイン名を伝える文字等はないが、ヒロインは微妙に年頃の違う面子であり、唯一同じ年頃とみられる沙都子と梨花の内の梨花が巫女服を着用している絵があるために特定が容易だった。たった3枚の中に効果的にヒロイン達を描いた挿し絵の必要性はとにかく大きく、その在り方も良いと思う。例えばラノベにありがちな挿し絵に、キャラクターが派手に動いている絵と魅力的で特別な衣装を見にまとった絵が多い。どちらの絵も『ひくらし(略)』に入れることは可能だがそれをしていない。先に述べたようにキャラクターの容姿の説明を丸投げされた挿し絵に普段の彼女らの姿を描いていないものは論外なのだ。『ひぐらし(略)』の挿し絵は自らの役目を堅実に守ったものだと言える。残るはミステリー部分に必要な資料を描いたものだが、これは正直私は意味がわからないので省く。(特にフルカラーで)描く必要もないとも思うのだが、解答編まで読んでみれば重要なキーになっているかもしれないので何とも言えないのだ。
『ひぐらしのなく頃に』はとにかく長い。長い上に奥が深い。だから挿し絵からWebサイトに至るまで最大限に活用して描いた小説版は、Webと出版物の両刀で攻める星海社にぴったりの作品と言えるだろう。まだ1巻のみでは何も分からず、小説としての特異な形式を物珍しがることしかできないが、それは楽しみが多いとも言える。ならば挿し絵のヒロインに脳内でスク水や体操着でも着せながら続きをのんびり読むとしよう。
物語は5人の仲良しグループの会話をメインに進む。というかほとんど会話で描写を埋めてしまっている。地の文でのキャラクターや時代背景の描写が極端に少ない。これはキャラクターの魅力で読者にアピールするライトノベルという分野ではよくあることでもあり、特異なことでもある。たいていのラノベ読みが思い浮かべる通り、ライトノベルには挿し絵が付き物である。モノによっては登場人物の紹介全てを挿し絵で済ませてしまっている作品もあるくらいだ。『ひぐらしのなく頃に』はその傾向が特別に強いように思う。学校に通うキャラクターはそれぞれ別の制服を着て登校しているようなのだが、衣服に関する描写がほぼない。むしろキャラクターの容姿に関する描写自体がほとんど見られない。私は目を皿のようにして読んだ訳ではないので他の読者に「あるよ」と言われればそれまでなのだが、少なくとも容姿を印象づけるような描き方はされていない。はっきり言ってしまうと容姿の表現は挿し絵に丸投げになっている。さらに付け加えるなら時代背景的な描写もおろそかだ。昭和58年という読者に馴染みのない時代を舞台にしているにもかかわらず、特に印象強くは描かれない。これは著者自身メタな会話でキャラクターに弄らせているのでわざと省いているのだろう。そうして時代背景の描写も挿し絵に投げている。これを「丸投げ」と書かなかったのは時代背景の注釈を星海社のWebサイト『最前線』でも行っているからだ。とにかく『ひぐらしのなく頃に』は小説の本文で文章を裂くべきことを他所に任せきっている作品なのだ。
元々がゲームなので、絵がありきで物語を進めるのは分かる。少々開き直り過ぎとも私は思うのだが、10冊を超える長い巻数を鑑みるに、文章だけで描ききれよとは口が裂けても言えはしない。それに私はむしろ星海社文庫『ひぐらしのなく頃に』の挿し絵の妙に驚いているのだ。
星海社文庫『ひぐらしのなく頃に/第一話鬼隠し篇(上)』の挿し絵は9枚。全てフルカラーで描かれている。内舞台と時代背景を描いたものが4枚、キャラクターを描いたものが3枚、ミステリー部分に必要な資料を描いたものが2枚ある。舞台と時代背景を描いた挿し絵は絵としてつまらないものではあるが、そのページにくると本文中で忘れがちになる時代背景が頭に戻ってくる。昭和58年には携帯電話などの個人レベルの通信手段やテレビゲームといった内に籠って行う遊戯もない。だからこそキャラクター達は村を快活に動き回る。ミステリーにおいてそういった小道具の有無は重要なので時代背景を刷り込んでおくことは必要だろう。古めかしい小物の挿し絵は読者を作品世界に繋いでおくアンカーになっている。
次はなにより大事であろうキャラクターの挿し絵だ。3枚の内2枚がヒロイン全員を絵の中に収めたもの。これによりヒロインの容姿が読者にはっきりと伝わる。挿し絵の中にヒロイン名を伝える文字等はないが、ヒロインは微妙に年頃の違う面子であり、唯一同じ年頃とみられる沙都子と梨花の内の梨花が巫女服を着用している絵があるために特定が容易だった。たった3枚の中に効果的にヒロイン達を描いた挿し絵の必要性はとにかく大きく、その在り方も良いと思う。例えばラノベにありがちな挿し絵に、キャラクターが派手に動いている絵と魅力的で特別な衣装を見にまとった絵が多い。どちらの絵も『ひくらし(略)』に入れることは可能だがそれをしていない。先に述べたようにキャラクターの容姿の説明を丸投げされた挿し絵に普段の彼女らの姿を描いていないものは論外なのだ。『ひぐらし(略)』の挿し絵は自らの役目を堅実に守ったものだと言える。残るはミステリー部分に必要な資料を描いたものだが、これは正直私は意味がわからないので省く。(特にフルカラーで)描く必要もないとも思うのだが、解答編まで読んでみれば重要なキーになっているかもしれないので何とも言えないのだ。
『ひぐらしのなく頃に』はとにかく長い。長い上に奥が深い。だから挿し絵からWebサイトに至るまで最大限に活用して描いた小説版は、Webと出版物の両刀で攻める星海社にぴったりの作品と言えるだろう。まだ1巻のみでは何も分からず、小説としての特異な形式を物珍しがることしかできないが、それは楽しみが多いとも言える。ならば挿し絵のヒロインに脳内でスク水や体操着でも着せながら続きをのんびり読むとしよう。