ドッペルゲンガーの恋人
「一人になること」に抗った主人公と、「世界には(あるいは人生には)一人で行かざるをえない場所がある」ということ
レビュアー:USB農民
「私も花の下へ連れて行っておくれ」
「それは、だめだ」
男はキッパリ言いました。
「一人でなくちゃ、だめなんだ」
――坂口安吾『桜の森の満開の下』
『桜の森の満開の下』は、坂口安吾の代表作の一つに数えられる作品です。
上記の会話のうち、最初の台詞は女のもので、後の二つが男のものです。
『ドッペルゲンガーの恋人』のレビューを書くにあたって、まず、この男女のやりとりから私が感じたことを書こうと思います。
女を拒絶して、「花の下=桜の森」へ行こうとする男ですが、なぜ「一人でなくちゃ、だめ」なのかは作中で明確に明かされません。男自身にも理由や根拠はわかりません。ただ、そうすることが正しいのだという男の確信と、坂口安吾の圧力のある文章が妙な説得力を生みだしています。
私はこの二人のやりとりがなぜか妙に心に残り、小説を読み終えてからもずっと「なぜ、一人でなくちゃ、だめなんだ?」と疑問に思っていました。
そして私が自分なりに得た答えは、「世界には(あるいは人生には)、一人で行かざるをえない場所がある」というものです。
「その場所」というのが何なのか、今までうまく言葉にすることができませんでした。しかし、そういうものがある、という思いは今も変わらずあって、『ドッペルゲンガーの恋人』は、まさに「その場所」を描いた作品なのだと、私は思うのです。
『ドッペルゲンガーの恋人』には、オリジナルの人物の記憶を引き継ぐことで、個人の死を克服する術としてのクローン技術が描かれます。
政府要人のための特殊な延命措置として研究されていたこの技術を用いて、主人公は自分の恋人を生き返らせることに成功する。――というのが、この物語の冒頭です。けれど、読み進めて行くうちに、オリジナルと同一の肉体と精神と記憶を持って生まれて来るクローンは、果たしてオリジナルと同じ人間なのか、それとも別の個人なのか、登場人物たちにも、読者にも上手く判断がつかなくなっていきます。
その混乱にめげずに、主人公はクローン技術を肯定し続けます。彼女が前述のようなアイデンティティの不安に陥り、情緒不安定になっても、彼女の傍を離れず、好意も失くしません。彼女と離れることが彼女のためになると思えば、その決定にも従います。それは愛のために献身的に尽くす者の姿です。その姿勢は、序盤から終盤まで貫かれます。
しかし、その情熱は、何か不自然さを感じさせるものであることも確かです。どうして主人公はそこまで献身的になれるのか、その情熱はどこから湧いて出るのか、作中の誰にも(主人公自身にも)わかりません。また、主人公の献身的姿勢とともに終始一貫して描かれるのが、主人公の、クローン技術への肯定的精神です。
彼女への愛と、クローン技術への肯定的精神。
この二つの意思が両輪となって、物語は進みます。
私はここに、主人公の情熱の秘密を、あるいはこの小説の秘密を、見つけたように思います。
その秘密とは、「一人になること」への抵抗です。
恋人の死という残酷な離別。
自らの死という空虚な孤独。
クローン技術とは、クローン人間とは、それらへの抵抗の術として描かれているのではないか。
「一人になるのがいやだった」
言葉にしてしまえば、そんなシンプルな気持ちこそが、主人公の精神の根底に流れ、情熱の源泉となっていたのではないだろうか――。
物語の終盤。
ある人物が主人公の前に現れ、「君だって死ぬときは一人だ」と告げるシーンがあります。
私はその場面から、『桜の森の満開の下』に書かれていた男と女のやりとりを思い出しました。
二つの作品は、深いところでつながっているように、私には思われます。それが「世界には(あるいは人生には)、一人で行かざるをえない場所がある」という感覚です。
『桜の森の満開の下』では、「その場所=桜の森」はとても美しい場所であると同時に、とても寂しく、とても冷たい場所であると語られています。
私は、正直に言って、「その場所」を怖いと思っています。
だから、クローン技術によって、「その場所」への抵抗を貫いた主人公に少し共感を覚えます。
けれども同時に、主人公が「君だって死ぬときは一人だ」と告げられてしまうことが示すように、「その場所」から完全に逃げることはできないし、そんな技術も存在しないのだろうと、そう思います。
唐辺先生は、その不可能性を自覚して作品を書いていると思います。
「人はいつか一人になる」
その現実は誰にでも平等で、絶対のルールです。
だけど、人はみんな「一人になりたくない」と強く願う。
願ってしまう。
不可能であっても、人は願わずにはいられない。
そんな願いが表現された物語だからこそ、唐辺先生の作品は読者の胸を打つのでしょう。
――クローン技術とともに人生を歩んだ主人公は、物語の結末へと至ります。
果たして、主人公が辿り着いた「場所」は、坂口安吾がかつて書いた、冷たく寂しい桜の森の満開の下だったのか。
それとも別の、まだ誰も見たことも書いたこともない風景だったのか。
そして、そこで彼が手に入れたものとは何だったのか――
その意味と価値は、読者によって異なるかもしれないけれど、それはきっと、ただ甘いだけのものでもなく、ただ厳しいだけのものでもない。
私から言える確かなことは、一つだけです。
その意味と価値を知るためには、一人でそこへ行かなくてはいけない、ということです。
「それは、だめだ」
男はキッパリ言いました。
「一人でなくちゃ、だめなんだ」
――坂口安吾『桜の森の満開の下』
『桜の森の満開の下』は、坂口安吾の代表作の一つに数えられる作品です。
上記の会話のうち、最初の台詞は女のもので、後の二つが男のものです。
『ドッペルゲンガーの恋人』のレビューを書くにあたって、まず、この男女のやりとりから私が感じたことを書こうと思います。
女を拒絶して、「花の下=桜の森」へ行こうとする男ですが、なぜ「一人でなくちゃ、だめ」なのかは作中で明確に明かされません。男自身にも理由や根拠はわかりません。ただ、そうすることが正しいのだという男の確信と、坂口安吾の圧力のある文章が妙な説得力を生みだしています。
私はこの二人のやりとりがなぜか妙に心に残り、小説を読み終えてからもずっと「なぜ、一人でなくちゃ、だめなんだ?」と疑問に思っていました。
そして私が自分なりに得た答えは、「世界には(あるいは人生には)、一人で行かざるをえない場所がある」というものです。
「その場所」というのが何なのか、今までうまく言葉にすることができませんでした。しかし、そういうものがある、という思いは今も変わらずあって、『ドッペルゲンガーの恋人』は、まさに「その場所」を描いた作品なのだと、私は思うのです。
『ドッペルゲンガーの恋人』には、オリジナルの人物の記憶を引き継ぐことで、個人の死を克服する術としてのクローン技術が描かれます。
政府要人のための特殊な延命措置として研究されていたこの技術を用いて、主人公は自分の恋人を生き返らせることに成功する。――というのが、この物語の冒頭です。けれど、読み進めて行くうちに、オリジナルと同一の肉体と精神と記憶を持って生まれて来るクローンは、果たしてオリジナルと同じ人間なのか、それとも別の個人なのか、登場人物たちにも、読者にも上手く判断がつかなくなっていきます。
その混乱にめげずに、主人公はクローン技術を肯定し続けます。彼女が前述のようなアイデンティティの不安に陥り、情緒不安定になっても、彼女の傍を離れず、好意も失くしません。彼女と離れることが彼女のためになると思えば、その決定にも従います。それは愛のために献身的に尽くす者の姿です。その姿勢は、序盤から終盤まで貫かれます。
しかし、その情熱は、何か不自然さを感じさせるものであることも確かです。どうして主人公はそこまで献身的になれるのか、その情熱はどこから湧いて出るのか、作中の誰にも(主人公自身にも)わかりません。また、主人公の献身的姿勢とともに終始一貫して描かれるのが、主人公の、クローン技術への肯定的精神です。
彼女への愛と、クローン技術への肯定的精神。
この二つの意思が両輪となって、物語は進みます。
私はここに、主人公の情熱の秘密を、あるいはこの小説の秘密を、見つけたように思います。
その秘密とは、「一人になること」への抵抗です。
恋人の死という残酷な離別。
自らの死という空虚な孤独。
クローン技術とは、クローン人間とは、それらへの抵抗の術として描かれているのではないか。
「一人になるのがいやだった」
言葉にしてしまえば、そんなシンプルな気持ちこそが、主人公の精神の根底に流れ、情熱の源泉となっていたのではないだろうか――。
物語の終盤。
ある人物が主人公の前に現れ、「君だって死ぬときは一人だ」と告げるシーンがあります。
私はその場面から、『桜の森の満開の下』に書かれていた男と女のやりとりを思い出しました。
二つの作品は、深いところでつながっているように、私には思われます。それが「世界には(あるいは人生には)、一人で行かざるをえない場所がある」という感覚です。
『桜の森の満開の下』では、「その場所=桜の森」はとても美しい場所であると同時に、とても寂しく、とても冷たい場所であると語られています。
私は、正直に言って、「その場所」を怖いと思っています。
だから、クローン技術によって、「その場所」への抵抗を貫いた主人公に少し共感を覚えます。
けれども同時に、主人公が「君だって死ぬときは一人だ」と告げられてしまうことが示すように、「その場所」から完全に逃げることはできないし、そんな技術も存在しないのだろうと、そう思います。
唐辺先生は、その不可能性を自覚して作品を書いていると思います。
「人はいつか一人になる」
その現実は誰にでも平等で、絶対のルールです。
だけど、人はみんな「一人になりたくない」と強く願う。
願ってしまう。
不可能であっても、人は願わずにはいられない。
そんな願いが表現された物語だからこそ、唐辺先生の作品は読者の胸を打つのでしょう。
――クローン技術とともに人生を歩んだ主人公は、物語の結末へと至ります。
果たして、主人公が辿り着いた「場所」は、坂口安吾がかつて書いた、冷たく寂しい桜の森の満開の下だったのか。
それとも別の、まだ誰も見たことも書いたこともない風景だったのか。
そして、そこで彼が手に入れたものとは何だったのか――
その意味と価値は、読者によって異なるかもしれないけれど、それはきっと、ただ甘いだけのものでもなく、ただ厳しいだけのものでもない。
私から言える確かなことは、一つだけです。
その意味と価値を知るためには、一人でそこへ行かなくてはいけない、ということです。