「ブレイク君コア」「星の海にむけての夜想曲」
震災以降の小説としての評価。「ばらばら」となった私たちの物語。
レビュアー:USB農民
東日本大震災が起きて、私たちの日常の感覚は大きく(あるいは少しだけ)変わったように思う。
放射能という見えないものについて考える時間が増えた。
いつか再び来るであろう大地震のことを想像する機会も増えた。
今の日常は(もうずっと前から「終わりなき日常」と呼ばれていたそれは)、ある日唐突に終わってしまうかもしれないんだ、という目をそらすことの難しい実感も生まれた。
人によって、感じ方には極端な差異があると思う。
けれど、人によらず、共通していることはある気がする。
私たちの日常の感覚は少しだけ(あるいは大きく)変わってしまった。
そして私たちのこれからの未来も、震災前と震災後では、変わってしまった。
私たちは、この国で暮らしていくことの危険と不安について、考えないわけにはいかなくなった。
でも、その感覚を明確に表す言葉は、まだとても少なく弱い。
この言葉の不足感だけは、人によらず、共通していると思う。
映画や小説などの物語は、時に私たちに新しい言葉やイメージを授けてくれる。
小松左京の『日本沈没』が、日本の経済成長の裏にあった社会不安を描いたように。
村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』が、自意識や内面の問題を鋭く戯画化したように。
庵野秀明の『エヴァンゲリオン』が、閉塞した時代の空気をロボットアニメで表現したように。
上記のような作品は、物語を楽しむこととは別に、受け手に様々なことを考えさせる力を持っている。
だから、小説を読むことで、自分が今いる現実について考えるきっかけを掴もうとするのは、それほど突飛なことではない。
だから、私は次の二つの小説、佐藤友哉「星の海にむけての夜想曲」、小泉陽一郎「ブレイク君コア」を読んで、震災以降について考えたことをレビューとして書こうと思う。
結論から先に述べれば、震災以降の小説という観点から、私は「星の海にむけての夜想曲」よりも「ブレイク君コア」のほうが優れていると考える。
なぜか。
それをこれから説明する。
「思想地図β」という雑誌で「震災以降」という特集を組んでいたのを読んだ。
巻頭言には、次のようなことが書かれていた。
『震災でぼくたちはばらばらになってしまった。』
『ぼくたちは平等ではない。年収三億と年収三○○万は平等ではないし、東京都民と福島県民は平等ではないし、平成生まれと団塊世代は平等ではないし、独身者と子育て世帯も平等ではない。同じ災害をまえにしても、それぞれの立場によって被害の深さと対応力はまったく異なり、そしてこの国にはもはや、それを埋めることのできる力のある政府は存在しないし、これからも一○年二○年は復活しそうにない。
震災でぼくたちは、自分たちがばらばらであること、そしてこれからもずっとばらばらであろうことを知ってしまった。
「みな同じ」でないことを知ってしまった。』
震災以降、友人たちと話していても、このような気分を感じることは多い。
特に、危機感が人によって大きく違う。誰かが深刻に不安になっている事柄(たとえば、放射線のこと)でも、別の誰かにとっては必要以上に深刻になっても仕方ないことだったりする。
東北の被災地の話を聞いても、県によって、街によって被害の程度や、失ったもの(住んでいた町を失った人もいれば、仕事のための船を失った人もいる)も異なっているそうだ。失ったものが違うということは、必要とするものも違う。それは物質的な意味をもちろん含むけれど、その体験を受け入れるための言葉が違うことも意味している。言葉、つまり物語だ。
東京近郊に住む私のような人間と、東北に住む人たちとでは、必要としている物語は異なっている。
当たり前のように思われるかもしれないけれど、この『「みな同じ」でないこと』重大に受け止めるべき事実だ。「がんばれ日本、がんばれ東北」というコピーは、東京の人間と、東北の人間に対して、決して同じようには響かない。みんなの体験が「ばらばら」だから、みんなに届く言葉をこれから作りだそうとすることは、とても難しい。
それでも、震災の喪失や、そこからの復興を物語化しようとするなら、どのような可能性が考えられるだろうか。
「星の海にむけての夜想曲」は、明らかに東日本大震災と、福島原発事故を意識した作品だ。
この作品のメッセージは、端的で力強い。すなわち、「もし、あなたが世界に絶望を観ているとしても、その時、別の誰かは、きっと同じ世界を見て希望を見ている」ということ。
喪失と再起を真っ直ぐに語っていて、私はこの作品を読んでいて少し感動した。
しかし同時に、前述の震災以降の「ばらばら」の世界観では、この作品に欠点を感じたことも事実だ。
それは、この作品では、登場人物たちが同じ絶望=物語を共有しているということだ。だからこそ喪失からの再起を真っ直ぐに語ることも可能となっているので、一概に欠点だともいえないのだけど、しかし「ばらばら」となった世界観を描いていないことも、また確かだ。
私が「星の海にむけての夜想曲」より「ブレイク君コア」を評価すると書いたのは、そういった観点による。
では、肝心の「ブレイク君コア」はどうなのか。
「ブレイク君コア」は、震災以前に書かれた小説であり、震災以降の物語として読むことに違和感を覚える人もいるかもしれない。けれど、作者自身があとがきで震災について触れていることからも窺える通り、この物語は震災と無縁ではない。
舞台が福島であることは、これこそ全くの偶然で、本来なら震災と結びつけるには弱すぎる要素なのだが、その「全くの偶然」こそが、重要であったりもする。
今回の地震では、津波による被害がとても大きかった。逃げ遅れて津波に呑まれた人も大勢いる。地震発生から避難開始までの平均時間は、生存者が19分、亡くなった方は21分だという。ほんの2分の差というのは、決定的なようで、けれどやはり、生死を分ける条件としてはあまりに僅かな差だ。家を出るのがたまたま少し遅かった、あるいはたまたま少し早かったというその僅かな差は、大きな災害の前で、人の生死が偶然に決定されてしまうこを意味している。
そしてまた、「ブレイク君コア」の二人のヒロインは、決定的な必然性もなしに、偶然的な確率で事件に巻き込まれてしまう。(作中で二人のヒロインが巻き込まれた理由は説明されるが、しかしその条件は、二人以外にも該当する人間が大勢いると思われる。それを踏まえると、やはり二人は偶然に事件に巻き込まれたと考えるのが妥当だろう)
私たちの身にふりかかる災難は、必然性をもたない。
ある日突然、理由もなくそれはやってくる。
「ブレイク君コア」の世界は、その感覚がベースにある。
そして同時に、その事実は「ばらばら」となった世界をも意味する。
必然的な理由を持って巻き込まれた場合(ラノベ的な物語では、たとえばそれは世界の危機であったり、家族の話であったりする)、そこには同じように必然的な理由をもった別の誰かと物語を共有することができる。
しかし、事件に巻き込まれた人物たちが、みな偶然に巻き込まれたのだとしたら、そこに共有すべき物語は発生せず、彼ら彼女らはただ自分の個人的な危機と物語を抱えるしかない。
「星の海にむけての夜想曲」になくて、「ブレイク君コア」にある要素がこれにあたる。震災以降の「言葉=物語」を考えるための想像力は、偶然に関わり合うことになった人々が、「ばらばら」なまま何事かを成す物語として、「ブレイク君コア」で表現されている。
「ブレイク君コア」では、登場人物たちは皆が皆、自分のために行動している。自分の身の安全のために。自分の感情のために。それは他者と容易に共有することのできない物語であり、物語の終盤が示すように、他者と共有できない物語は、個人のなかで静かにその終わりを告げて行く。「事件=全体の状況」とは別ベクトルで個人の物語は進み、終わるが、しかし状況と個人はゆるやかに、あるいは激しく、関わりを持ち続けている。
それらは別々の物語でありながら、決して無関係ではないし、無関係でいてはいけないのだと思う。
この、状況と個人の関わりについては、今後さらに深く掘り下げられていくのではないかと予想する。
なぜなら、その表現こそが、震災以降「ばらばら」になって、『「みな同じ」でないことを知ってしまった』私たちが持つべき「言葉=物語」の鍵となるに違いないのだから。
そこから生まれる新しい物語に、私は出会いたい。
放射能という見えないものについて考える時間が増えた。
いつか再び来るであろう大地震のことを想像する機会も増えた。
今の日常は(もうずっと前から「終わりなき日常」と呼ばれていたそれは)、ある日唐突に終わってしまうかもしれないんだ、という目をそらすことの難しい実感も生まれた。
人によって、感じ方には極端な差異があると思う。
けれど、人によらず、共通していることはある気がする。
私たちの日常の感覚は少しだけ(あるいは大きく)変わってしまった。
そして私たちのこれからの未来も、震災前と震災後では、変わってしまった。
私たちは、この国で暮らしていくことの危険と不安について、考えないわけにはいかなくなった。
でも、その感覚を明確に表す言葉は、まだとても少なく弱い。
この言葉の不足感だけは、人によらず、共通していると思う。
映画や小説などの物語は、時に私たちに新しい言葉やイメージを授けてくれる。
小松左京の『日本沈没』が、日本の経済成長の裏にあった社会不安を描いたように。
村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』が、自意識や内面の問題を鋭く戯画化したように。
庵野秀明の『エヴァンゲリオン』が、閉塞した時代の空気をロボットアニメで表現したように。
上記のような作品は、物語を楽しむこととは別に、受け手に様々なことを考えさせる力を持っている。
だから、小説を読むことで、自分が今いる現実について考えるきっかけを掴もうとするのは、それほど突飛なことではない。
だから、私は次の二つの小説、佐藤友哉「星の海にむけての夜想曲」、小泉陽一郎「ブレイク君コア」を読んで、震災以降について考えたことをレビューとして書こうと思う。
結論から先に述べれば、震災以降の小説という観点から、私は「星の海にむけての夜想曲」よりも「ブレイク君コア」のほうが優れていると考える。
なぜか。
それをこれから説明する。
「思想地図β」という雑誌で「震災以降」という特集を組んでいたのを読んだ。
巻頭言には、次のようなことが書かれていた。
『震災でぼくたちはばらばらになってしまった。』
『ぼくたちは平等ではない。年収三億と年収三○○万は平等ではないし、東京都民と福島県民は平等ではないし、平成生まれと団塊世代は平等ではないし、独身者と子育て世帯も平等ではない。同じ災害をまえにしても、それぞれの立場によって被害の深さと対応力はまったく異なり、そしてこの国にはもはや、それを埋めることのできる力のある政府は存在しないし、これからも一○年二○年は復活しそうにない。
震災でぼくたちは、自分たちがばらばらであること、そしてこれからもずっとばらばらであろうことを知ってしまった。
「みな同じ」でないことを知ってしまった。』
震災以降、友人たちと話していても、このような気分を感じることは多い。
特に、危機感が人によって大きく違う。誰かが深刻に不安になっている事柄(たとえば、放射線のこと)でも、別の誰かにとっては必要以上に深刻になっても仕方ないことだったりする。
東北の被災地の話を聞いても、県によって、街によって被害の程度や、失ったもの(住んでいた町を失った人もいれば、仕事のための船を失った人もいる)も異なっているそうだ。失ったものが違うということは、必要とするものも違う。それは物質的な意味をもちろん含むけれど、その体験を受け入れるための言葉が違うことも意味している。言葉、つまり物語だ。
東京近郊に住む私のような人間と、東北に住む人たちとでは、必要としている物語は異なっている。
当たり前のように思われるかもしれないけれど、この『「みな同じ」でないこと』重大に受け止めるべき事実だ。「がんばれ日本、がんばれ東北」というコピーは、東京の人間と、東北の人間に対して、決して同じようには響かない。みんなの体験が「ばらばら」だから、みんなに届く言葉をこれから作りだそうとすることは、とても難しい。
それでも、震災の喪失や、そこからの復興を物語化しようとするなら、どのような可能性が考えられるだろうか。
「星の海にむけての夜想曲」は、明らかに東日本大震災と、福島原発事故を意識した作品だ。
この作品のメッセージは、端的で力強い。すなわち、「もし、あなたが世界に絶望を観ているとしても、その時、別の誰かは、きっと同じ世界を見て希望を見ている」ということ。
喪失と再起を真っ直ぐに語っていて、私はこの作品を読んでいて少し感動した。
しかし同時に、前述の震災以降の「ばらばら」の世界観では、この作品に欠点を感じたことも事実だ。
それは、この作品では、登場人物たちが同じ絶望=物語を共有しているということだ。だからこそ喪失からの再起を真っ直ぐに語ることも可能となっているので、一概に欠点だともいえないのだけど、しかし「ばらばら」となった世界観を描いていないことも、また確かだ。
私が「星の海にむけての夜想曲」より「ブレイク君コア」を評価すると書いたのは、そういった観点による。
では、肝心の「ブレイク君コア」はどうなのか。
「ブレイク君コア」は、震災以前に書かれた小説であり、震災以降の物語として読むことに違和感を覚える人もいるかもしれない。けれど、作者自身があとがきで震災について触れていることからも窺える通り、この物語は震災と無縁ではない。
舞台が福島であることは、これこそ全くの偶然で、本来なら震災と結びつけるには弱すぎる要素なのだが、その「全くの偶然」こそが、重要であったりもする。
今回の地震では、津波による被害がとても大きかった。逃げ遅れて津波に呑まれた人も大勢いる。地震発生から避難開始までの平均時間は、生存者が19分、亡くなった方は21分だという。ほんの2分の差というのは、決定的なようで、けれどやはり、生死を分ける条件としてはあまりに僅かな差だ。家を出るのがたまたま少し遅かった、あるいはたまたま少し早かったというその僅かな差は、大きな災害の前で、人の生死が偶然に決定されてしまうこを意味している。
そしてまた、「ブレイク君コア」の二人のヒロインは、決定的な必然性もなしに、偶然的な確率で事件に巻き込まれてしまう。(作中で二人のヒロインが巻き込まれた理由は説明されるが、しかしその条件は、二人以外にも該当する人間が大勢いると思われる。それを踏まえると、やはり二人は偶然に事件に巻き込まれたと考えるのが妥当だろう)
私たちの身にふりかかる災難は、必然性をもたない。
ある日突然、理由もなくそれはやってくる。
「ブレイク君コア」の世界は、その感覚がベースにある。
そして同時に、その事実は「ばらばら」となった世界をも意味する。
必然的な理由を持って巻き込まれた場合(ラノベ的な物語では、たとえばそれは世界の危機であったり、家族の話であったりする)、そこには同じように必然的な理由をもった別の誰かと物語を共有することができる。
しかし、事件に巻き込まれた人物たちが、みな偶然に巻き込まれたのだとしたら、そこに共有すべき物語は発生せず、彼ら彼女らはただ自分の個人的な危機と物語を抱えるしかない。
「星の海にむけての夜想曲」になくて、「ブレイク君コア」にある要素がこれにあたる。震災以降の「言葉=物語」を考えるための想像力は、偶然に関わり合うことになった人々が、「ばらばら」なまま何事かを成す物語として、「ブレイク君コア」で表現されている。
「ブレイク君コア」では、登場人物たちは皆が皆、自分のために行動している。自分の身の安全のために。自分の感情のために。それは他者と容易に共有することのできない物語であり、物語の終盤が示すように、他者と共有できない物語は、個人のなかで静かにその終わりを告げて行く。「事件=全体の状況」とは別ベクトルで個人の物語は進み、終わるが、しかし状況と個人はゆるやかに、あるいは激しく、関わりを持ち続けている。
それらは別々の物語でありながら、決して無関係ではないし、無関係でいてはいけないのだと思う。
この、状況と個人の関わりについては、今後さらに深く掘り下げられていくのではないかと予想する。
なぜなら、その表現こそが、震災以降「ばらばら」になって、『「みな同じ」でないことを知ってしまった』私たちが持つべき「言葉=物語」の鍵となるに違いないのだから。
そこから生まれる新しい物語に、私は出会いたい。