ドッペルゲンガーの恋人
SFとファンタジーの境界線
レビュアー:くまくま
クローン体を作って生前の記憶を移植することで、恋人をよみがえらせる。ところがよみがえった彼女は、ほくろや指紋など、以前の身体との違和感に悩み、その悩みに共感してくれない彼との距離が開いて、それぞれ別の人生を歩むことになる。
この物語を、クローンの肉体にオリジナルの精神が入る、入れ替わりものと見なしてみよう。そして星海社作品で入れ替わりものといえば「ブレイク君コア」だ。この二作品を読み比べることで、各作品の特性を見出してみたい。
「ブレイク君コア」では、好意を持った女子高生の精神が別の人物と入れ替わってしまったにもかかわらず、入れ替わった後の人物に恋をしてしまう主人公を描いている。この二作品は、サイエンスか、オカルトか、という手段に違いあれど、アイデアの根底にある要素は同じだ。しかし、入れ替わった後の当事者の反応には方向性の違いが見られる。
「ドッペルゲンガーの恋人」は、視覚情報を重視している。当事者が感じる違和感のきっかけはほくろや指紋だし、関係破綻のきっかけは外見の変化だ。記憶は継続し、相手に対する想いも残っているのに、その違和感は全てを台無しにする。ところが「ブレイク君コア」は、視覚以外の情報を重視している。恋人だと偽りキスをした時の粘膜の接触から引き起こされる脳天を貫くような快感や、会話からの印象など、本能的な感覚で相手を精神的に認識し、それでいて肉体には感覚器としての機能しか求めていない。
つまり「ドッペルゲンガーの恋人」では、入れ替えを起こした結果として、精神と肉体は不可分なものだと結論する。恋愛という精神性の高い行為ですら、肉体による影響を免れ得ない。言い換えれば、肉体と精神のセットに人格は宿るのであり、その人格同士が恋愛をするのだと言う。これは、魂という、肉体を超えて伝播する人格の継続性の否定でもある。
一方「ブレイク君コア」では、精神の優位性を主張する。肉体は外界とのインターフェースに過ぎず、それにより引き起こされる刺激を受け取る精神が、恋愛の主体となるのだ。だからこそ、肉体が入れ替わっても、その恋愛感情に変化はない。つまりここでは、魂の存在が前提とされている。
この差異は「ドッペルゲンガーの恋人」がSFであることの証明でもある。サイエンスは、人間を人間たらしめている根源がどこにあるのかを未だ証明していない。機能面から見れば脳かも知れないが、それだけでは心臓移植時にドナーの記憶を引き継ぐ事例を説明できない。魂、あるいは心がどこにあるのかを、サイエンスは知らないのだ。ゆえに、サイエンスのアプローチから迫るならば、肉体が違っても同じ人間だ、と言い切ることはできない。
こうして「ドッペルゲンガーの恋人」と「ブレイク君コア」には、境界線が引かれた。それは、SFとファンタジーの境界線だ。そして、作中キャラの行動からこうした区分ができるということは、各作品が、それぞれのスタンスに真摯に描かれていることを示している。
この物語を、クローンの肉体にオリジナルの精神が入る、入れ替わりものと見なしてみよう。そして星海社作品で入れ替わりものといえば「ブレイク君コア」だ。この二作品を読み比べることで、各作品の特性を見出してみたい。
「ブレイク君コア」では、好意を持った女子高生の精神が別の人物と入れ替わってしまったにもかかわらず、入れ替わった後の人物に恋をしてしまう主人公を描いている。この二作品は、サイエンスか、オカルトか、という手段に違いあれど、アイデアの根底にある要素は同じだ。しかし、入れ替わった後の当事者の反応には方向性の違いが見られる。
「ドッペルゲンガーの恋人」は、視覚情報を重視している。当事者が感じる違和感のきっかけはほくろや指紋だし、関係破綻のきっかけは外見の変化だ。記憶は継続し、相手に対する想いも残っているのに、その違和感は全てを台無しにする。ところが「ブレイク君コア」は、視覚以外の情報を重視している。恋人だと偽りキスをした時の粘膜の接触から引き起こされる脳天を貫くような快感や、会話からの印象など、本能的な感覚で相手を精神的に認識し、それでいて肉体には感覚器としての機能しか求めていない。
つまり「ドッペルゲンガーの恋人」では、入れ替えを起こした結果として、精神と肉体は不可分なものだと結論する。恋愛という精神性の高い行為ですら、肉体による影響を免れ得ない。言い換えれば、肉体と精神のセットに人格は宿るのであり、その人格同士が恋愛をするのだと言う。これは、魂という、肉体を超えて伝播する人格の継続性の否定でもある。
一方「ブレイク君コア」では、精神の優位性を主張する。肉体は外界とのインターフェースに過ぎず、それにより引き起こされる刺激を受け取る精神が、恋愛の主体となるのだ。だからこそ、肉体が入れ替わっても、その恋愛感情に変化はない。つまりここでは、魂の存在が前提とされている。
この差異は「ドッペルゲンガーの恋人」がSFであることの証明でもある。サイエンスは、人間を人間たらしめている根源がどこにあるのかを未だ証明していない。機能面から見れば脳かも知れないが、それだけでは心臓移植時にドナーの記憶を引き継ぐ事例を説明できない。魂、あるいは心がどこにあるのかを、サイエンスは知らないのだ。ゆえに、サイエンスのアプローチから迫るならば、肉体が違っても同じ人間だ、と言い切ることはできない。
こうして「ドッペルゲンガーの恋人」と「ブレイク君コア」には、境界線が引かれた。それは、SFとファンタジーの境界線だ。そして、作中キャラの行動からこうした区分ができるということは、各作品が、それぞれのスタンスに真摯に描かれていることを示している。