エレGY
小説『エレGY』
レビュアー:ヨシマル
本書がどんな小説家と問われれば『恋愛小説』だと言うに意を異にする人は少ないだろう。本書は主人公である泉和良とヒロイン・エレGYの恋愛の話だ。
現実と理想の狭間で苦悩する泉和良と辛い現実からの逃避を泉に託すエレGYの初々しくも痛々しい恋愛は、主人公=著者の生身の体験からきていることも相まって、一見現実離れした設定のように思われるこの物語がまさに現実に起きたことだと思わされてしまうほど生々しく描かれている。泉和良の苦悩をきっと読者の多くが追体験することになるだろうし、エレGYの純愛には胸を高鳴らせることだろう。だからこの恋に共感してしまいたくなってしまうのだ。
けれど、現実がそうであるように本書の中での恋愛は泉和良とエレGYだけではない。泉の親友である小山田と彼の恋人nikoのそれだ。小山田とnikoはオンラインゲームのオフ会で出会い付き合い始める。彼らは働きながら同棲していることからも分かるように、泉とエレGYの関係とは対照的に成熟した恋愛として描かれている。だから小山田とnikoはエレGYに関して泉に対しアドバイスもするし、最初から付き合うように言うことができるのだ。
そんな恋愛の先輩な小山田とnikoではあるけれど、作中において二人は喧嘩もするし、泥臭く仲直りもする。その仲直りを演出するのが泉であったりするのだ。そのため二人の登場は物語の上で泉に助言を与える機能としてではなく、生きた個人として感じることができるのだ。
そして実はその小山田とnikoの恋愛が物語全体の生々しさを与えているのではないだろうか。泉とエレGYはともすれば浮世離れした存在で多数の「普通」からは外れている。そんな泉とエレGYの物語を現実につなぎとめていられるのは小山田とnikoが地に足の着いた関係があるからだ。彼ら二人は物語の最初から最後まで「普通」に恋愛している。ときどき喧嘩もするけれど、しっかり仲直りできる。そんな二人をもっと見てみたくなるではないか。
***************************************
というふうに小山田とnikoに注目してみたけれど、たとえ彼らが物語上で重要な役どころを演じようと彼らはどうしたってサブキャラクターだ。物語の読み方は人それぞれで、どんな読み方を強制する必要もないし、されるいわれもないけれど、でもだからこそサブキャラクターにしか注目しないという自分の読み方に一抹の寂しさを俺は感じる。小説『エレGY』のメインキャラクターは泉和良でありエレGYなのだ。
素直な感想を言わせてもらうと、本書は俺にとって面白い小説ではなかった。誤解を与えない言い方をするならば、本書がつまらなかったのだ。
もちろん、小山田とnikoの恋愛は微笑ましいものだと感じたし、生々しく描かれた泉和良の生活には共感するところも多かった。そして何よりエレGYの健気な可愛らしさは本当に俺の胸を打つものだった。けれど、それだからといって面白い小説だったとどうして言えるだろうか。
主人公の名前である「泉和良」がそのまま著者の名前になっているように、本書の内容は著者である泉和良の実体験が元になっているらしい。なるほど、だから、フリーウェアゲーム作家という本書で初めて知った職業にも現実味を持つことができたのだろう。泉和良の生活をそのまま追体験するようにして読むことができたのだ。
そして、俺がこの小説をつまらないと感じた理由もまたそこにある。
どの程度の割合で著者の泉和良が実際に体験したことかは分からないけれど、その殆どにおいて俺が実際に起ったとしても不思議ではないと感じているのだから、それらが現実だったと考えても差し支えはないだろう。だからエレGYはどこかにいるし、泉和良と二人乗りもしたのだ。しかし、それらが圧倒的な現実味をもって描かれているがゆえに俺には単なるゲーム作家とファンの恋愛という以上のものを感じることができなかった。
確かに自分の好きなゲーム作家の実録記事として読むのなら面白いのかもしれない。泉和良のゲームの裏側を見たような気持ちになれるのかもしれないし、ゲーム作家としての苦悩を共有することで制作者の人間味に思いを馳せることができるのかもしれない。でも俺はジスガルドのウェブページを見たこともないし、フリーウェアゲームに興味があるわけでもない。俺が知っているのは本書を著した小説家としての泉和良だけなのだ。
そして小説として俺が見る限りにおいて、面白くないのだ。泉和良とエレGYの恋は誰にでも訪れる可能性のある大恋愛のひとつでしかなかった。作中で泉和良の制作したフリーウェアゲームがガジェットとして登場するけれど、その概要は伝わってこないし、エレGYが好きなるようなところがどこにあるのかも分からなかった。
それらの要素が面白い小説のために必須だったとは言わないけれど、資源を使って物語る以上そこには何かあれと俺は思う。少なくとも誰かの書いた実録記事以上のものはあってほしいと思うのだ。それがないのならば、友人の語る恋愛話と変わるところはないのだ。
つまるところ、本書を読んで感じた「泉和良」はどこまでもフリーウェアゲーム作家であり、エレGYの恋人である生身の泉和良だった。だからこそ、本書における現実感が生まれたと同時に俺はつまらなさを感じてしまったのだ。
もし小説家として泉和良が面白い『小説』を書いてくれるならばそのときまた会いたいものだ。
現実と理想の狭間で苦悩する泉和良と辛い現実からの逃避を泉に託すエレGYの初々しくも痛々しい恋愛は、主人公=著者の生身の体験からきていることも相まって、一見現実離れした設定のように思われるこの物語がまさに現実に起きたことだと思わされてしまうほど生々しく描かれている。泉和良の苦悩をきっと読者の多くが追体験することになるだろうし、エレGYの純愛には胸を高鳴らせることだろう。だからこの恋に共感してしまいたくなってしまうのだ。
けれど、現実がそうであるように本書の中での恋愛は泉和良とエレGYだけではない。泉の親友である小山田と彼の恋人nikoのそれだ。小山田とnikoはオンラインゲームのオフ会で出会い付き合い始める。彼らは働きながら同棲していることからも分かるように、泉とエレGYの関係とは対照的に成熟した恋愛として描かれている。だから小山田とnikoはエレGYに関して泉に対しアドバイスもするし、最初から付き合うように言うことができるのだ。
そんな恋愛の先輩な小山田とnikoではあるけれど、作中において二人は喧嘩もするし、泥臭く仲直りもする。その仲直りを演出するのが泉であったりするのだ。そのため二人の登場は物語の上で泉に助言を与える機能としてではなく、生きた個人として感じることができるのだ。
そして実はその小山田とnikoの恋愛が物語全体の生々しさを与えているのではないだろうか。泉とエレGYはともすれば浮世離れした存在で多数の「普通」からは外れている。そんな泉とエレGYの物語を現実につなぎとめていられるのは小山田とnikoが地に足の着いた関係があるからだ。彼ら二人は物語の最初から最後まで「普通」に恋愛している。ときどき喧嘩もするけれど、しっかり仲直りできる。そんな二人をもっと見てみたくなるではないか。
***************************************
というふうに小山田とnikoに注目してみたけれど、たとえ彼らが物語上で重要な役どころを演じようと彼らはどうしたってサブキャラクターだ。物語の読み方は人それぞれで、どんな読み方を強制する必要もないし、されるいわれもないけれど、でもだからこそサブキャラクターにしか注目しないという自分の読み方に一抹の寂しさを俺は感じる。小説『エレGY』のメインキャラクターは泉和良でありエレGYなのだ。
素直な感想を言わせてもらうと、本書は俺にとって面白い小説ではなかった。誤解を与えない言い方をするならば、本書がつまらなかったのだ。
もちろん、小山田とnikoの恋愛は微笑ましいものだと感じたし、生々しく描かれた泉和良の生活には共感するところも多かった。そして何よりエレGYの健気な可愛らしさは本当に俺の胸を打つものだった。けれど、それだからといって面白い小説だったとどうして言えるだろうか。
主人公の名前である「泉和良」がそのまま著者の名前になっているように、本書の内容は著者である泉和良の実体験が元になっているらしい。なるほど、だから、フリーウェアゲーム作家という本書で初めて知った職業にも現実味を持つことができたのだろう。泉和良の生活をそのまま追体験するようにして読むことができたのだ。
そして、俺がこの小説をつまらないと感じた理由もまたそこにある。
どの程度の割合で著者の泉和良が実際に体験したことかは分からないけれど、その殆どにおいて俺が実際に起ったとしても不思議ではないと感じているのだから、それらが現実だったと考えても差し支えはないだろう。だからエレGYはどこかにいるし、泉和良と二人乗りもしたのだ。しかし、それらが圧倒的な現実味をもって描かれているがゆえに俺には単なるゲーム作家とファンの恋愛という以上のものを感じることができなかった。
確かに自分の好きなゲーム作家の実録記事として読むのなら面白いのかもしれない。泉和良のゲームの裏側を見たような気持ちになれるのかもしれないし、ゲーム作家としての苦悩を共有することで制作者の人間味に思いを馳せることができるのかもしれない。でも俺はジスガルドのウェブページを見たこともないし、フリーウェアゲームに興味があるわけでもない。俺が知っているのは本書を著した小説家としての泉和良だけなのだ。
そして小説として俺が見る限りにおいて、面白くないのだ。泉和良とエレGYの恋は誰にでも訪れる可能性のある大恋愛のひとつでしかなかった。作中で泉和良の制作したフリーウェアゲームがガジェットとして登場するけれど、その概要は伝わってこないし、エレGYが好きなるようなところがどこにあるのかも分からなかった。
それらの要素が面白い小説のために必須だったとは言わないけれど、資源を使って物語る以上そこには何かあれと俺は思う。少なくとも誰かの書いた実録記事以上のものはあってほしいと思うのだ。それがないのならば、友人の語る恋愛話と変わるところはないのだ。
つまるところ、本書を読んで感じた「泉和良」はどこまでもフリーウェアゲーム作家であり、エレGYの恋人である生身の泉和良だった。だからこそ、本書における現実感が生まれたと同時に俺はつまらなさを感じてしまったのだ。
もし小説家として泉和良が面白い『小説』を書いてくれるならばそのときまた会いたいものだ。