星海社セレクションズ平林緑萌
此奴ただのエディターじゃない!?
レビュアー:横浜県
平林緑萌。
星海社の編集者でありながら、彼は『最前線セレクションズ』に参加する。名だたるクリエイターに混じりながら、毎週テーマに沿って5つのアイテムを紹介する。そのくせ文章の構成が巧みで、クリエイターを取って食うのではないかと心配してしまう。中でも8月5日に掲載された『「次世代」を感じさせてくれた作品』が顕著な例である。
「次世代」という言葉は残酷な言葉である。
彼は冒頭でこう語る。いわゆる掴みである。もちろん「次世代」という言葉には、残酷さを表す辞書的意味はない。だからこそ僕は彼の文章にぐっと引き込まれる。いったいなぜ、それは残酷な言葉なのか。彼の答えは次のようである。
「次世代」は現世代を旧世代として駆逐するものの謂である。
僕はなるほどと思う。新しい世代が立ち現われてくることは、すなわち比較されるべき旧世代もまた生まれるということなのだ。ここで興味深いのは、彼自身がそのどちらに属しているかを「詳らかではない」としている点である。それは彼がセレクトした5つのアイテムにも表れている。
『ファイナルファンタジーVII』『新世紀エヴァンゲリオン』『姑獲鳥の夏』の3つを紹介する彼は、明らかに次世代の平林緑萌である。ゲームの「次世代機」をプレイする彼と、「エヴァを理解できない大人たちは全て忌まわしき旧世代」と考える彼と、「ミステリ新時代の幕開けを感じ」ている彼は、自らよりも古い世代と確かに対立している。
一方で『ケータイ小説』と『シフォン主義』を取り上げた彼は、旧世代の平林緑萌である。ケータイ小説を「一過性のくだらないムーブメント」と一蹴する彼と、『シフォン主義』をリリースした相対性理論の音楽に「全体重を預けられない」と悔やむ彼は、新たに押し寄せる世代の波に乗り切れないでいる。
ようするに平林緑萌は、次世代の人間であり、かつ旧世代の人間でもあるのだ。そこで初めて、僕は「詳らかではない」という言葉の意味を知る。新旧の両方に属している彼は、どちらか一方の世代であると明言できなかったのだ。彼はまた記している。
「次世代」もいずれは旧世代になってしまう。
自らがその岐路に立たされていることを、平林緑萌はちゃんと知っていたのである。だからこそ、このようなアイテムの選び方をしたのだろう。
新世代から旧世代への変遷。平林緑萌のアイテムセレクトと文章構成からは、そのプロセスが見てとれる。
さらに彼は紹介したアイテムだけではなく、自分自身の次世代性についても言及していることになる。これは他のセレクターには見られなかった傾向ではないだろうか。(例えば他の4人は旧世代の立場からアイテムをセレクトしていない)
僕はなにも、「だから平林緑萌のセレクションズが最高である」などと主張するつもりはない。ただしかしながら、一介の編集者がクリエイターと肩を並べ、なおかつ独創的な文章とその構成で読者を魅了した(少なくとも僕は魅了された)という事実は、極めて珍しく斬新ではないだろうか。その意味において平林緑萌は、まだまだ次世代を切り開く力を有しているに違いないのである。
星海社の編集者でありながら、彼は『最前線セレクションズ』に参加する。名だたるクリエイターに混じりながら、毎週テーマに沿って5つのアイテムを紹介する。そのくせ文章の構成が巧みで、クリエイターを取って食うのではないかと心配してしまう。中でも8月5日に掲載された『「次世代」を感じさせてくれた作品』が顕著な例である。
「次世代」という言葉は残酷な言葉である。
彼は冒頭でこう語る。いわゆる掴みである。もちろん「次世代」という言葉には、残酷さを表す辞書的意味はない。だからこそ僕は彼の文章にぐっと引き込まれる。いったいなぜ、それは残酷な言葉なのか。彼の答えは次のようである。
「次世代」は現世代を旧世代として駆逐するものの謂である。
僕はなるほどと思う。新しい世代が立ち現われてくることは、すなわち比較されるべき旧世代もまた生まれるということなのだ。ここで興味深いのは、彼自身がそのどちらに属しているかを「詳らかではない」としている点である。それは彼がセレクトした5つのアイテムにも表れている。
『ファイナルファンタジーVII』『新世紀エヴァンゲリオン』『姑獲鳥の夏』の3つを紹介する彼は、明らかに次世代の平林緑萌である。ゲームの「次世代機」をプレイする彼と、「エヴァを理解できない大人たちは全て忌まわしき旧世代」と考える彼と、「ミステリ新時代の幕開けを感じ」ている彼は、自らよりも古い世代と確かに対立している。
一方で『ケータイ小説』と『シフォン主義』を取り上げた彼は、旧世代の平林緑萌である。ケータイ小説を「一過性のくだらないムーブメント」と一蹴する彼と、『シフォン主義』をリリースした相対性理論の音楽に「全体重を預けられない」と悔やむ彼は、新たに押し寄せる世代の波に乗り切れないでいる。
ようするに平林緑萌は、次世代の人間であり、かつ旧世代の人間でもあるのだ。そこで初めて、僕は「詳らかではない」という言葉の意味を知る。新旧の両方に属している彼は、どちらか一方の世代であると明言できなかったのだ。彼はまた記している。
「次世代」もいずれは旧世代になってしまう。
自らがその岐路に立たされていることを、平林緑萌はちゃんと知っていたのである。だからこそ、このようなアイテムの選び方をしたのだろう。
新世代から旧世代への変遷。平林緑萌のアイテムセレクトと文章構成からは、そのプロセスが見てとれる。
さらに彼は紹介したアイテムだけではなく、自分自身の次世代性についても言及していることになる。これは他のセレクターには見られなかった傾向ではないだろうか。(例えば他の4人は旧世代の立場からアイテムをセレクトしていない)
僕はなにも、「だから平林緑萌のセレクションズが最高である」などと主張するつもりはない。ただしかしながら、一介の編集者がクリエイターと肩を並べ、なおかつ独創的な文章とその構成で読者を魅了した(少なくとも僕は魅了された)という事実は、極めて珍しく斬新ではないだろうか。その意味において平林緑萌は、まだまだ次世代を切り開く力を有しているに違いないのである。