『銀河鉄道の夜』第9章「ジョバンニの切符」
眠れない夜に
レビュアー:ticheese
眠れないときは活字を読むといいと言う。
そんな人は読書が嫌いなのかというと、そうでもない。私も活字を読むと眠くなる。(もちろん私は読書は好きですよ)単純に文字を追っているく目は疲れるし、内容を理解していく頭はもっと疲れる。疲れると眠くなるのは道理である。
疲れたら手に持った本を棚に戻し、照明を落として床につく。目を閉じて、全身の力を抜いてしまう。普段ならこれで私はもう夢の中。
でもその日は違う。まだ物語の中に私はいた。
『坂本真綾の満月朗読観』には朗読CDが付いてくる。私はその朗読CDを耳にはめたイヤホンから聴いていた。本を読みながら眠ることはできない。でも朗読を聴きながら眠ることはできる。それが出来るのは、「耳を閉じて眠るわけじゃない」なんて当たり前のことじゃない。坂本真綾さんの朗読と宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』がとても心地いいからだ。
坂本真綾さんの美しい声も然ることながら、朗読と『銀河鉄道の夜』の相性こそが心地よかった。朗読は、大抵の場合はすでに読み終えた部分に戻ることはしない。『満月朗読館』についてくるCDだって、機械の操作をしなければ読み終えた部分に戻ったりはしないのだ。だから聞き手はある程度の集中をしているのと同時に、どこかすべてを把握しきることを諦めている。そして、それが何よりも『銀河鉄道の夜』に相応しかった。
少々当たり前の話すようだが『銀河鉄道の夜』は少年ジョバンニが銀河を鉄道に乗って旅する話だ。そこでたくさんの人や星と出会っては別れながら、逆走のない線路を渡っていく。その物語に朗読という行為はとても似つかわしい。例え一部を聞き逃したとしても、以前の物語が解らなくなったとしても、また次の物語が紡がれていく。星のきらめく車窓を覗くジョバンニのようにただ今を楽しめばいいのだ。
そしていつの間にか宮沢賢治の夢のような物語は、私の見る夢に溶け合っていく。
こうして、『銀河鉄道の夜』は私を眠りに運んでいく。とても心地よく、とても相応しく、とても楽しい眠りに。
そんな人は読書が嫌いなのかというと、そうでもない。私も活字を読むと眠くなる。(もちろん私は読書は好きですよ)単純に文字を追っているく目は疲れるし、内容を理解していく頭はもっと疲れる。疲れると眠くなるのは道理である。
疲れたら手に持った本を棚に戻し、照明を落として床につく。目を閉じて、全身の力を抜いてしまう。普段ならこれで私はもう夢の中。
でもその日は違う。まだ物語の中に私はいた。
『坂本真綾の満月朗読観』には朗読CDが付いてくる。私はその朗読CDを耳にはめたイヤホンから聴いていた。本を読みながら眠ることはできない。でも朗読を聴きながら眠ることはできる。それが出来るのは、「耳を閉じて眠るわけじゃない」なんて当たり前のことじゃない。坂本真綾さんの朗読と宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』がとても心地いいからだ。
坂本真綾さんの美しい声も然ることながら、朗読と『銀河鉄道の夜』の相性こそが心地よかった。朗読は、大抵の場合はすでに読み終えた部分に戻ることはしない。『満月朗読館』についてくるCDだって、機械の操作をしなければ読み終えた部分に戻ったりはしないのだ。だから聞き手はある程度の集中をしているのと同時に、どこかすべてを把握しきることを諦めている。そして、それが何よりも『銀河鉄道の夜』に相応しかった。
少々当たり前の話すようだが『銀河鉄道の夜』は少年ジョバンニが銀河を鉄道に乗って旅する話だ。そこでたくさんの人や星と出会っては別れながら、逆走のない線路を渡っていく。その物語に朗読という行為はとても似つかわしい。例え一部を聞き逃したとしても、以前の物語が解らなくなったとしても、また次の物語が紡がれていく。星のきらめく車窓を覗くジョバンニのようにただ今を楽しめばいいのだ。
そしていつの間にか宮沢賢治の夢のような物語は、私の見る夢に溶け合っていく。
こうして、『銀河鉄道の夜』は私を眠りに運んでいく。とても心地よく、とても相応しく、とても楽しい眠りに。