iKILL
不幸な読者とそうでない者たち
レビュアー:横浜県
I はじめに
どんな作品にも賛否両論はつきものだ。
世界中の人々が『iKILL』にそろって同じ評価をつける。そんなことは決してありえない。
価値感は人によって違うのだから。
僕はこの『iKILL』に肯定的な感想を抱いた。けれどその逆であるという人、つまりは否定的な意見を持つ人だって、いるに違いないのだ。
そして僕は思うんだ。
そんな彼らは、きっと幸せであると。
II 『iKILL』の持つメッセージ性
『iKILL』は「劇薬です」と作者の渡辺浩弐は語る。
「日々ネットに触れている」人たちへの劇薬であると。
実はこの作品には強いメッセージが含まれている。
それはことごとく僕らに自省を促す。
あるいは僕らの内なる残虐性や本能を暴きだす。
例えば多くの人間が過去に経験したであろう、愚ろかな行為を描き出したり。
例えば既に他の方がレビューされているように、目を逸らしたいのに逸らせない、そんな残虐たる描写で、読者の身に潜む狂気を思い知らせたり。
それが最も顕著に表れているのは、最終章の「4 殺し屋には顔がない」ではないか。
この章は二人称視点、すなわち僕たち=読者の視点で物語が幕を開ける。
僕たちは「i-KILL」ネットというHPを通じて、過去に凶悪犯罪を犯した者たちを次々と処刑していく。
だが僕たちが直接に手を下すわけではない。罪を負わされることもない。
何故ならネットが持つ匿名性に守られているからだ。
やがて彼ら凶悪犯が殺される映像はHPにアップされる。僕たちはそのむごたらしい光景に思わず顔をそむける。……そのはずが、ついつい最後まで閲覧してしまう。抑えきれない興味と好奇心が湧き出てしまったのだ。
だがやがて僕たち読者はあることに気づき、不安に駆られ始める。
本当に僕らは正しいのだろうか?
凶悪犯を処刑するとはいえ、やっていることはただの人殺しではないのか?
匿名性という盾に隠れ、大勢で個人を裁いていく僕らに正義はあるのか?
そもそも、その盾は安全なのか?
そうして僕らは、この残虐なサイトから手を引くのである。
III 読後感想と思ったこと
この最終章で僕は慄いた。
ネットの匿名性を利用して、自らは安全な場所に身を隠す。そんな者たちで寄ってたかって個人を攻撃する。
かようなことをしでかした経験が、僕にはあったからだ。
作中で描かれている読者は、まさに僕自身のようだった。
僕は過去に自らが犯した愚行を眼前に突きつけられた。
当時の僕がいかに卑しく低俗であったのか、まざまざと見せつけられ、自覚させられ、考えさせられた。
こうして僕にとっての『iKILL』は、たいそう意味のある作品となった。
僕の心にまで届けられたメッセージは、確かに「劇薬」ではあったが、それによって僕は救われた。
『iKILL』という鏡に映った姿を見たことにより、僕は自らの愚かさを知りえた。ゆえにそれを超越しえた。
だから僕は声高に叫ぶ、『iKILL』に読むべき価値はあると。
IV 他方で生まれるアンチ
だがしかし、そうは思わぬ人たちもいるのだ。「はじめに」で述べた通りである。
では『iKILL』に否定的な意見を投げかける彼らは、どうしてこの作品に価値を見いだせないのか。
それは彼らアンチが幸福な人間であるからに違いないのだ。
『iKILL』のメッセージに戦慄した僕のような人間は、この作品に対して感心せざるをえない。あるいは恐怖を覚えるしかない。だって自らの本性を覗かれたも同然なのだから。
一方のアンチは感心も恐怖もしない。
その理由は1つしかない。前提が既に違うからである。
僕は作品のメッセージ性を強く感じたが故に『iKILL』を評価した。
そう、彼らは作品のメッセージ性を感じ取れなかったがゆえに、『iKILL』を評価できなかったのだ。
つまり彼らには、眼前に突きつけられるほどの残虐性や、過去に愚行を犯した経験がないのである。
人間の悪しき本能を晒しあげる作品を前にして、何も感じずどこ吹く風とは、なんと幸せな人生を過ごしている者たちであろうか。
僕が自らの忌むべき残虐性に怯えている傍らで、それを虚構の存在としか捉えられない、いや捉えることのできる人間がいるだなんて。この世の中は理不尽すぎる。どれほどに人格のよいお方なのだろうか。
ただもしかすると、彼らは単にそのメッセージを受け取れなかっただけかもしれない。
あるいは気がついたけれど、逆に顔を背けているだけかもしれない。
それでも僕の彼らに対する「幸せ」との評価は変わらない。
前者がごとく自らの狂気に対し鈍感でいられるならば、不必要な心配を抱える必要はないし、後者がごとく目を背ける勇気を持っているならば、不安の大元を意識から外に放りだせるのだから。まさに「目を逸らしたくても逸らせない」僕とは大違いだ。
以上より最後に僕はこう述べておく。
『iKILL』は素晴らしい作品である。
しかしこの感想は、僕が残虐かつ愚かな人間に生れついてしまったこと、すなわち不幸であることの裏返しなのだ。
そしてそれを自覚させてくれるのもまた『iKILL』なのである。
どんな作品にも賛否両論はつきものだ。
世界中の人々が『iKILL』にそろって同じ評価をつける。そんなことは決してありえない。
価値感は人によって違うのだから。
僕はこの『iKILL』に肯定的な感想を抱いた。けれどその逆であるという人、つまりは否定的な意見を持つ人だって、いるに違いないのだ。
そして僕は思うんだ。
そんな彼らは、きっと幸せであると。
II 『iKILL』の持つメッセージ性
『iKILL』は「劇薬です」と作者の渡辺浩弐は語る。
「日々ネットに触れている」人たちへの劇薬であると。
実はこの作品には強いメッセージが含まれている。
それはことごとく僕らに自省を促す。
あるいは僕らの内なる残虐性や本能を暴きだす。
例えば多くの人間が過去に経験したであろう、愚ろかな行為を描き出したり。
例えば既に他の方がレビューされているように、目を逸らしたいのに逸らせない、そんな残虐たる描写で、読者の身に潜む狂気を思い知らせたり。
それが最も顕著に表れているのは、最終章の「4 殺し屋には顔がない」ではないか。
この章は二人称視点、すなわち僕たち=読者の視点で物語が幕を開ける。
僕たちは「i-KILL」ネットというHPを通じて、過去に凶悪犯罪を犯した者たちを次々と処刑していく。
だが僕たちが直接に手を下すわけではない。罪を負わされることもない。
何故ならネットが持つ匿名性に守られているからだ。
やがて彼ら凶悪犯が殺される映像はHPにアップされる。僕たちはそのむごたらしい光景に思わず顔をそむける。……そのはずが、ついつい最後まで閲覧してしまう。抑えきれない興味と好奇心が湧き出てしまったのだ。
だがやがて僕たち読者はあることに気づき、不安に駆られ始める。
本当に僕らは正しいのだろうか?
凶悪犯を処刑するとはいえ、やっていることはただの人殺しではないのか?
匿名性という盾に隠れ、大勢で個人を裁いていく僕らに正義はあるのか?
そもそも、その盾は安全なのか?
そうして僕らは、この残虐なサイトから手を引くのである。
III 読後感想と思ったこと
この最終章で僕は慄いた。
ネットの匿名性を利用して、自らは安全な場所に身を隠す。そんな者たちで寄ってたかって個人を攻撃する。
かようなことをしでかした経験が、僕にはあったからだ。
作中で描かれている読者は、まさに僕自身のようだった。
僕は過去に自らが犯した愚行を眼前に突きつけられた。
当時の僕がいかに卑しく低俗であったのか、まざまざと見せつけられ、自覚させられ、考えさせられた。
こうして僕にとっての『iKILL』は、たいそう意味のある作品となった。
僕の心にまで届けられたメッセージは、確かに「劇薬」ではあったが、それによって僕は救われた。
『iKILL』という鏡に映った姿を見たことにより、僕は自らの愚かさを知りえた。ゆえにそれを超越しえた。
だから僕は声高に叫ぶ、『iKILL』に読むべき価値はあると。
IV 他方で生まれるアンチ
だがしかし、そうは思わぬ人たちもいるのだ。「はじめに」で述べた通りである。
では『iKILL』に否定的な意見を投げかける彼らは、どうしてこの作品に価値を見いだせないのか。
それは彼らアンチが幸福な人間であるからに違いないのだ。
『iKILL』のメッセージに戦慄した僕のような人間は、この作品に対して感心せざるをえない。あるいは恐怖を覚えるしかない。だって自らの本性を覗かれたも同然なのだから。
一方のアンチは感心も恐怖もしない。
その理由は1つしかない。前提が既に違うからである。
僕は作品のメッセージ性を強く感じたが故に『iKILL』を評価した。
そう、彼らは作品のメッセージ性を感じ取れなかったがゆえに、『iKILL』を評価できなかったのだ。
つまり彼らには、眼前に突きつけられるほどの残虐性や、過去に愚行を犯した経験がないのである。
人間の悪しき本能を晒しあげる作品を前にして、何も感じずどこ吹く風とは、なんと幸せな人生を過ごしている者たちであろうか。
僕が自らの忌むべき残虐性に怯えている傍らで、それを虚構の存在としか捉えられない、いや捉えることのできる人間がいるだなんて。この世の中は理不尽すぎる。どれほどに人格のよいお方なのだろうか。
ただもしかすると、彼らは単にそのメッセージを受け取れなかっただけかもしれない。
あるいは気がついたけれど、逆に顔を背けているだけかもしれない。
それでも僕の彼らに対する「幸せ」との評価は変わらない。
前者がごとく自らの狂気に対し鈍感でいられるならば、不必要な心配を抱える必要はないし、後者がごとく目を背ける勇気を持っているならば、不安の大元を意識から外に放りだせるのだから。まさに「目を逸らしたくても逸らせない」僕とは大違いだ。
以上より最後に僕はこう述べておく。
『iKILL』は素晴らしい作品である。
しかしこの感想は、僕が残虐かつ愚かな人間に生れついてしまったこと、すなわち不幸であることの裏返しなのだ。
そしてそれを自覚させてくれるのもまた『iKILL』なのである。