サクラコ・アトミカ
一年桜
レビュアー:ヨシマル
桜は散るからこそ美しいとは誰の言葉だったか。
あり続けることで増す美しさと消えてしまうからこそ強調される美しさ。
桜は確実に後者だろう。
すべてが動き出す春の長閑な日和の中だけに現れ、そして予定調和に消えていく。
その様は一瞬だけに輝く英雄譚と符合するようにすら感じる。
本書はそんな桜の話だ。
本書は囚われの姫であるサクラコと彼女を守る異形の騎士・ナギによる物語である。
サクラコは狂気の科学者ディドル・オルガによって畸形都市・丁都に囚われの身。
ナギはそのディドル・オルガによって作られた人造人間。
そんな二人が出会うことで物語は始まる。
敵同士だった二人が恋に落ち、運命を切り開くために絶望的なほど強大なディドル・オルガと対峙していく。
初な恋心を胸に戦う二人の主人公たちに美しさも感じることだろう。
ならば、彼らが桜なのだろうか。
そもそも、桜の花は花見という言葉に使われるように花の代名詞として広く認知されている。
しかしその魅力は美しさとしての桜の花だけではないだろう。
花見において、その主役は桜の花でないことは明白だ。
花見とは桜の花を見るという理由付けのもと春に起こる新しい出会いを演出するための場だ。
その場においては桜の花は花見という言葉とは裏腹に主役となることはない。
桜の花は出会いを演出するための舞台装置なのだ。
その上、桜の花が散る瞬間にこそ桜の醍醐味がある。
「花は盛りを、月はくまなきのみをみるものかは」とは吉田兼好の言葉だが、桜の花はその咲き誇る間だけでなく散りゆく刹那まで見るものを楽しませてくれる。
それは散りゆく桜の花が美しいという一点のみを論じているのではないだろう。
満開の桜の花が象徴する春の出会いが始まりだとすれば、その出会いが新緑の季節へと成熟していく様を感じさせるものが散り行く桜の花である。
こうした束の間の成長を陰ながら演出するものこそ桜の花の本質なのだと思う。
その意味で本書における桜とはディドル・オルガに他ならないだろう。
ディドル・オルガは強大な敵として冒頭から描かれている。
物語中でその威力で幾度となく主人公達を絶望させる。
けれど、その強大さを以て絶望させれば絶望させるほどその困難を乗り越える主人公達の結束は強まっていく。
ナギもサクラコもディドル・オルガを乗り越えることで成長していくのだ。
その演出をしているものが何を隠そうディドル・オルガその人と言えるだろう。
ディドル・オルガの一挙手一投足が物語を形作る。
そんな気がしてならない。
実際、強力過ぎる敵としてのディドル・オルガの最期は主人公によって倒される運命があることを予感してしまう。
そのある種の予定調和こそが主人公たるサクラコとナギの物語を浮き彫りにしてくれるのだ。
冒頭まったく手の届かない強大な敵に対して絶望しながらも、主人公達は助け合い成長していくだろう。
そして、ついには強大な敵であるディドル・オルガを脅かすことになるに違いない。
その予定調和をもたらす舞台装置としてのディドル・オルガを、散りゆく桜の儚さに重ねあわさずにはいられない。
その儚さこそ物語を美しくする最大の演出に思えるのだ。
最期にディドル・オルガはそれはそれまでの描写とは大きく矛盾するように生への執着心を見せる。
それまでの面妖さはそこにはなく、ただ醜いまでに未練を口にする。
それはまるで、散っていった桜の花びらが側溝へ溜りその美しさを失いながらも春の名残を残すようだ。
あり続けることで増す美しさと消えてしまうからこそ強調される美しさ。
桜は確実に後者だろう。
すべてが動き出す春の長閑な日和の中だけに現れ、そして予定調和に消えていく。
その様は一瞬だけに輝く英雄譚と符合するようにすら感じる。
本書はそんな桜の話だ。
本書は囚われの姫であるサクラコと彼女を守る異形の騎士・ナギによる物語である。
サクラコは狂気の科学者ディドル・オルガによって畸形都市・丁都に囚われの身。
ナギはそのディドル・オルガによって作られた人造人間。
そんな二人が出会うことで物語は始まる。
敵同士だった二人が恋に落ち、運命を切り開くために絶望的なほど強大なディドル・オルガと対峙していく。
初な恋心を胸に戦う二人の主人公たちに美しさも感じることだろう。
ならば、彼らが桜なのだろうか。
そもそも、桜の花は花見という言葉に使われるように花の代名詞として広く認知されている。
しかしその魅力は美しさとしての桜の花だけではないだろう。
花見において、その主役は桜の花でないことは明白だ。
花見とは桜の花を見るという理由付けのもと春に起こる新しい出会いを演出するための場だ。
その場においては桜の花は花見という言葉とは裏腹に主役となることはない。
桜の花は出会いを演出するための舞台装置なのだ。
その上、桜の花が散る瞬間にこそ桜の醍醐味がある。
「花は盛りを、月はくまなきのみをみるものかは」とは吉田兼好の言葉だが、桜の花はその咲き誇る間だけでなく散りゆく刹那まで見るものを楽しませてくれる。
それは散りゆく桜の花が美しいという一点のみを論じているのではないだろう。
満開の桜の花が象徴する春の出会いが始まりだとすれば、その出会いが新緑の季節へと成熟していく様を感じさせるものが散り行く桜の花である。
こうした束の間の成長を陰ながら演出するものこそ桜の花の本質なのだと思う。
その意味で本書における桜とはディドル・オルガに他ならないだろう。
ディドル・オルガは強大な敵として冒頭から描かれている。
物語中でその威力で幾度となく主人公達を絶望させる。
けれど、その強大さを以て絶望させれば絶望させるほどその困難を乗り越える主人公達の結束は強まっていく。
ナギもサクラコもディドル・オルガを乗り越えることで成長していくのだ。
その演出をしているものが何を隠そうディドル・オルガその人と言えるだろう。
ディドル・オルガの一挙手一投足が物語を形作る。
そんな気がしてならない。
実際、強力過ぎる敵としてのディドル・オルガの最期は主人公によって倒される運命があることを予感してしまう。
そのある種の予定調和こそが主人公たるサクラコとナギの物語を浮き彫りにしてくれるのだ。
冒頭まったく手の届かない強大な敵に対して絶望しながらも、主人公達は助け合い成長していくだろう。
そして、ついには強大な敵であるディドル・オルガを脅かすことになるに違いない。
その予定調和をもたらす舞台装置としてのディドル・オルガを、散りゆく桜の儚さに重ねあわさずにはいられない。
その儚さこそ物語を美しくする最大の演出に思えるのだ。
最期にディドル・オルガはそれはそれまでの描写とは大きく矛盾するように生への執着心を見せる。
それまでの面妖さはそこにはなく、ただ醜いまでに未練を口にする。
それはまるで、散っていった桜の花びらが側溝へ溜りその美しさを失いながらも春の名残を残すようだ。