サクラコ・アトミカ
あなたの美少女
レビュアー:matareyo
美少女は好きですか?
私は大好きです。
美しくないよりは美しい方がいい、というのは人情なようで。巷の物語、特にライトノベルなどには美少女が溢れかえっています。かわいいですね。でも、美少女ってなんでしょうね。
美少女美少女美少じょ美しょうじょびしょうじょ……ビショウジョ?
あれ、ビショウジョって、ナニ?
あんまりいっぱいいると、安いですよね。供給過多でデフレです。そんなこと言うのは贅沢ですかね? もちろん「美しい」ことに説得力があれば安くはならないと思うのですが。
そんなわけで今回の作品。「サクラコの美しさが世界を滅ぼす」と銘打ってあります。大きく出ました。美しさがとても重要なようです。はてさて、そのサクラコさんとはいかなるお方なのか。彼女の外見描写を見てみましょう。
「世界一の美少女……。聞くも馬鹿馬鹿しい修辞だが、サクラコを目の当たりにした人間は全員が首肯せざるを得ない」
出ました! 美少女! 読者としては「またかぁ」といささか食傷気味なところ。しかも「馬鹿馬鹿しい修辞」って地の文で言わせちゃってます。自虐でしょうか。
「『言語に絶する』その美少女ぶりを、ある物理学者は『観測する主体によって美しさが変わる』と表現した。観測者が密かに抱いている『世界一の美少女』像が、サクラコの美しさに影響を与えているというのである。人はおのれの抱いている『絶対美』がサクラコ上に具現するさまを目の当たりにし、敬い崇めひれ伏してしまう……。その美しさは顔立ちやスタイルや瞳の色などに一切依拠していない。観測する主体によって美しさが変わるため細部を描写することもできない」
え? 物理学者? 観測? 美しさが、変わる、だと……!?
「サクラコは量子論的に美しいのだ」
おわり。なるほど……いや待て。
それは卑怯だろ!
と思わずつっこんでしまう私。だって「細部を描写することもできない」と表現を投げたわけですよ。下手すると作家としての敗北です。
で・す・が!
同時に「やられた」とも思ったわけです。ただ「言語に絶する」と書いたわけではなく、これらの表現はカッコ付きになっているんですね。筆者はこれらが陳腐な表現であることは百も承知なのです。
「言語に絶する」「世界一の美少女」「絶対美」。これらはイコールで結ばれます。さらに物理学者の言う「観測する主体によって美しさが変わる」もイコールにすることができます。絶対美であるのに観測する主体によって美しさが変わるという矛盾。この美しさを「量子論的」という言葉で納得させるのです。乱暴に言えばこのようなSF設定で片付けたわけです。美しさが人によって変わるから描けない。しかしそれぞれの絶対美がそこにある。つまり「言語に絶する」わけです。
どのようなわけでそのような美しさになっているかは後に明らかにされるとして、「世界一の美少女」をまがりなりにも納得させてくるところに、「こいつぁやられたぜ!」となるわけです。しかも無闇に使われれば「馬鹿馬鹿しい修辞」を逆手に取って、使わざるを得ない状況に持っていくところにユーモアさえ感じるのです。こうとしか言えないんだよ、筆者に言われているようで。
最初に読んだときは思わず笑いさえしました。こんな荒業ありかよ、と。でも「量子論的に美しい」と言われたんじゃあ仕方ないですよね。
サクラコはあなたの美少女なのです。
私は大好きです。
美しくないよりは美しい方がいい、というのは人情なようで。巷の物語、特にライトノベルなどには美少女が溢れかえっています。かわいいですね。でも、美少女ってなんでしょうね。
美少女美少女美少じょ美しょうじょびしょうじょ……ビショウジョ?
あれ、ビショウジョって、ナニ?
あんまりいっぱいいると、安いですよね。供給過多でデフレです。そんなこと言うのは贅沢ですかね? もちろん「美しい」ことに説得力があれば安くはならないと思うのですが。
そんなわけで今回の作品。「サクラコの美しさが世界を滅ぼす」と銘打ってあります。大きく出ました。美しさがとても重要なようです。はてさて、そのサクラコさんとはいかなるお方なのか。彼女の外見描写を見てみましょう。
「世界一の美少女……。聞くも馬鹿馬鹿しい修辞だが、サクラコを目の当たりにした人間は全員が首肯せざるを得ない」
出ました! 美少女! 読者としては「またかぁ」といささか食傷気味なところ。しかも「馬鹿馬鹿しい修辞」って地の文で言わせちゃってます。自虐でしょうか。
「『言語に絶する』その美少女ぶりを、ある物理学者は『観測する主体によって美しさが変わる』と表現した。観測者が密かに抱いている『世界一の美少女』像が、サクラコの美しさに影響を与えているというのである。人はおのれの抱いている『絶対美』がサクラコ上に具現するさまを目の当たりにし、敬い崇めひれ伏してしまう……。その美しさは顔立ちやスタイルや瞳の色などに一切依拠していない。観測する主体によって美しさが変わるため細部を描写することもできない」
え? 物理学者? 観測? 美しさが、変わる、だと……!?
「サクラコは量子論的に美しいのだ」
おわり。なるほど……いや待て。
それは卑怯だろ!
と思わずつっこんでしまう私。だって「細部を描写することもできない」と表現を投げたわけですよ。下手すると作家としての敗北です。
で・す・が!
同時に「やられた」とも思ったわけです。ただ「言語に絶する」と書いたわけではなく、これらの表現はカッコ付きになっているんですね。筆者はこれらが陳腐な表現であることは百も承知なのです。
「言語に絶する」「世界一の美少女」「絶対美」。これらはイコールで結ばれます。さらに物理学者の言う「観測する主体によって美しさが変わる」もイコールにすることができます。絶対美であるのに観測する主体によって美しさが変わるという矛盾。この美しさを「量子論的」という言葉で納得させるのです。乱暴に言えばこのようなSF設定で片付けたわけです。美しさが人によって変わるから描けない。しかしそれぞれの絶対美がそこにある。つまり「言語に絶する」わけです。
どのようなわけでそのような美しさになっているかは後に明らかにされるとして、「世界一の美少女」をまがりなりにも納得させてくるところに、「こいつぁやられたぜ!」となるわけです。しかも無闇に使われれば「馬鹿馬鹿しい修辞」を逆手に取って、使わざるを得ない状況に持っていくところにユーモアさえ感じるのです。こうとしか言えないんだよ、筆者に言われているようで。
最初に読んだときは思わず笑いさえしました。こんな荒業ありかよ、と。でも「量子論的に美しい」と言われたんじゃあ仕方ないですよね。
サクラコはあなたの美少女なのです。