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「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/Zero

エゴイストたち

レビュアー:林 武 NoviceNovice

 この物語は、聖杯という万能の願望器がもたらす、欲望の物語である。 
 人は皆、欲望を持っている。
 世界中すべての人を救済したいと言う切嗣の願い。ただ一人根源の渦へ至りたいという時臣の願い。それらは一見相反するようでいて、どちらも紛うことなき欲望の発露だ。
 もちろん他のマスター、そしてサーバントとて例外ではない。
 しかし、願いを叶えられるのはただ一人……。
 そんな条件下で生まれる戦いが綺麗なものであるはずがない。便宜上あてがわれたルールは当然のように破られ、魔術など知ったことかと狙撃で暗殺。監督役まで参戦してしまう始末だ。
 しかし、だからこそ欲望の物語と言えるのだろう。人は何かを望むとき、むき出しの心をさらけ出す。すべてを失ってでも叶えたい願いがあるのであればなおさらだ。そして、その思いが強ければ強いほど、人の心は苛烈に輝きを放つ。
 一見寡黙で多くを語らない切嗣に引き込まれてしまうのも、きっと彼の放つ心の光に中てられてのものだろう。
 切嗣だけではない。この物語には多くの欲望がひしめき合っている。それらは形は違えども、たしかに眩いほどの輝きを放つ心だ。
 人間関係が複雑化し、恋人にも自らの心を明かすことのない昨今。我々の持ちえぬ、そんな感情を有するがゆえに、彼らの生き様は鮮烈に胸を焦がす。そんな欲望の物語に吸い寄せられてしまう我々は、さながら光を求めて彷徨う一匹の羽虫のようではないだろうか。

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2014.01.29

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/Zero

正義をなすもの

レビュアー:Panzerkeil AdeptAdept

 虚淵玄の手になる、第四次聖杯戦争を描いた公式小説である。Fate/stay nightの前史に相当する。恐ろしくも分厚い小説であるがサクサク読めた。虚淵玄の文章はいっけん難解そうであっても、非常にロジカルで頭に入りやすいという特徴がある。
 ゲームでも、ある程度描かれていたものの、漠然としていた第四次聖杯戦争が具体的な形になっているのが興味深い。とても悲惨な物語だけど、独特のユーモアがあるのは原作ゲームの持ち味を良く生かしていると思う。
 この作品で主人公と言えるのは、Fate/stay nightではすでに故人となっている、衛宮士郎の養父である衛宮切嗣だろう。
 彼の究極の目的は正義をなすことであり、可能な限り多くの人間を救うことだ。しかし、この目的は自己矛盾を含んでいる、可能な限り多くの人を救うという事は、必ず救われない人もいるという事だからだ。先に虚淵玄の文章はロジカルだと言ったが、これは物語そのものにおいてもそうである。
 偶然ではあるが、この小説を最初に読んで少ししてから、哲学者のマイケル・サンデル教授による「ハーバード白熱教室」という番組がNHKで人気だったが、このテーマがまさに「正義」で、衛宮切嗣が直面した問題が取り上げられていた。これは人類の歴史を通しての命題でもあるのだ。
 Fate/stay nightの前史である以上、衛宮切嗣の物語が、悲劇で終わることは避けられないのであるが、この正義という怪物に立ち向かい、絶望し、そして最後に希望を繋いだ姿を多くの人に読んで頂きたいと思う。
 せっかくなので、ロジカルという言葉について、もう少し考察してみよう。虚淵玄のロジカルな要素というのは、文章や物語だけではなく設定や道具立てにも及んでいる。
 例えば衛宮切嗣は魔術師であるが、魔術よりも有効であると判断すれば最新のテクノロジーを使う事に何のためらいも無い。彼は時間制御に特化した限定的な能力しか持たないが故に、むしろ通常兵器、銃や爆発物を積極的に使用している。
 実にロジカルであるし、魔法の世界に、現代戦の要素を取り入れているのは、実に斬新であるとも言える。そういった楽しみ方も見逃せない。
 余談ではあるが、同じく虚淵玄が脚本を担当したアニメ魔法少女まどか☆マギカに登場する暁美ほむらも、時間制御に特化した、戦闘能力の低い魔法少女であり、銃器等でそれを補っていた。私は暁美ほむらの原型は衛宮切嗣ではないかと考えている。美少女とオッサンの違いはあるけれどね。

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2013.05.29

「Fate/Zero」のレビュー

銀

FATE/ZERO 文庫版

物語をハッピーエンドに変える魔法

レビュアー:6rin NoviceNovice

どんな願いでも叶える聖杯を巡る聖杯戦争。参戦する者たち皆が魅力的だが、僕は衛宮切嗣の苛烈な人生に特に惹かれた。

魔術師は魔術に誇りを持つゆえに魔術に頼りがちで、彼らには他の手段を蔑視する傾向がある。だが、切嗣は魔術師ながら「魔術師殺し」の異名で呼ばれる、魔術師らしからぬ戦士だ。彼は電子機器や兵器なども魔術と均しく扱う。悲願成就に役立つなら、彼はどんな手段も辞さない。何らかの手段を選ぶ結果、家族が死ぬことになったとしても、彼は抑えきれない悲しみを無理やり抑え込んでそうする。彼にはそうやって人間らしい心を凍らせて生きる選択肢しかないのだ。彼にとっては悲願が絶対だからである。彼には彼自身すら、兵器と同じく悲願成就のための道具でしかない。
僕には、かように厳しく自らを厳しく律する彼の生き様が痛ましく感じられた。痛ましい日々を耐え忍んだ彼であったが、結局願いは叶わない。僕はそれを残念に思うが、だからといって彼の人生が可哀想なものだとは思わない。自らの願いのために懸命に生きたからこそ掴めるものを、彼が手に入れたからだ。

切嗣の願いとは、戦いと流血が恒久的に存在しない平和な世界を実現することだ。これは、人の手に負えない規模の願いだ。だから彼は聖杯の力にすがるしかなかったのだ。しかし、実は聖杯でも叶えられない願いがあり、彼は自らの願いもその一つだと知ることになる。そして絶望して、生きる気力を失う。彼には聖杯しか願いを叶える手段がなかったのだから、彼が死にたくなったのも無理からぬことだ。
でも彼はここで奇跡に出会う。

生きる希望を失った切嗣は、後に五百名が亡くなったと判る、広域が焼ける大災害の現場をふらつき彷徨う。現場は死体だらけだ。生き残りがいるとは思えない。生きている者がいたら、それは奇跡だ。
しかしその場所で、切嗣は倒れている男の子が手を伸ばすのを見つける。
この大災害は「この世すべての悪」と名指される、人間を殺戮する意思の塊のようなものが引き起こしたものだ。つまり、「この世すべての悪」は、戦いと流血の原因となる悪を具現化したような存在なのだ。この反平和的な悪は、切嗣が平和な世界の実現のために打ち克ちたいけれど敵わないものだ。
しかし、男の子は「この世すべての悪」の起こした災害に負けず生き残ったのだ。切嗣は男の子に、人類が悪に打ち克ち、完全な平和が実現する奇跡の存在する可能性を感じたのではないだろうか?
絶望していた切嗣は男の子の手を取り、男の子ではなく自分が救われたかのような顔で、男の子に「ありがとう」と感謝する。

切嗣は助けた男の子を養子に迎え、穏やかな余生を過ごす。切嗣には願いを叶える手段は無くなってしまったが、男の子が授けてくれた希望があり、切嗣でも祈ることはできる。切嗣は少年時代に懐いた世界平和を実現したいという無垢な祈りを、一瞬は絶望し手放したものの、人生のおわりまで全うしたのだ。僕はそう思う。だから、彼は安らかに死ぬことができたのだ。安らかに死ねたのは、男の子との落ち着いた暮らしに幸せを感じていたからでもあるだろう。その安らぎは、願いのために闘う過酷な人生を歩み続けたからこそ得られるものなのだ。

願いが叶わずにキャラクターが死んでいくこの物語は、一般的にはバッドエンドと言えるものだ。しかし、切嗣の最後は願いが叶わない不幸以上に、幸福なものだ。だからこの物語はとびきりのハッピーエンドなんだと僕は思う。切嗣が懸命に願い頑張り続けたことで、願いが叶わないバッドエンドの物語がハッピーエンドになったのだ。人の願う心には、そんな魔法の力がある。
『Fate/Zero』の後に作者が脚本を書いた『魔法少女まどか☆マギカ』でも、絶望の中で死ぬことが運命づけられた魔法少女たちのバッドエンドが希望のあるハッピーエンドに変わった。それは、ほむらが願い闘い続けることで得られた、まどかの願いの力による奇跡だった。作者は繰り返し、願うことの素晴らしさを描いている。
六巻の奈須きのこの解説によると、作者は2005年以降、ハッピーエンドが書けない病に罹っていたそうだ。それ以降に書かれた『Fate/Zero』は一般的な意味でのハッピーエンドから遠いが、『まどか☆マギカ』になるとだいぶ普通のハッピーエンドに近づいている。主人公まどかの願いが叶い、まどかは死んでしまうが神のような存在として生きていくからだ。二つの作品を通して、作者が普通のハッピーエンドの物語へとにじり寄っている。これは、作者がハッピーエンドを書きたいと願い、闘い続けた結果に見える。作者の物語を紡いでいく姿勢が、願いを持ち闘い続けることの素晴らしさを体現しているのだ。

願いを叶えるのが難しそうと思うとすぐに挫ける、僕みたいな弱いやつにとって『Fate/Zero』は、「願いが叶わないとしてもいいことあるかもしれないから頑張ろう」と思わせてくれる、いい物語だ。切嗣みたいに、あるいは作者のように願いを貫けたらカッコいいなと思う。まあ、僕には難しそうなのだが。

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2012.06.08

「Fate/Zero」のレビュー

銅

虚淵玄『Fate/Zero』

稀有なる出会いを求めて

レビュアー:ラム、ユキムラ

 ライダーはアーチャーに敗北する。
そして、ライダーという名の奇跡は聖杯へと還ってゆく。
されど、ライダーという名の軌跡はウェイバーの魂に宿った。

 どんな形であるにせよ、親しくしていた人と別れるのは辛いことだ。
時に涙さえ頬を伝い、惜別を嘆くだろう。
 しかし、ウェイバーの頬を伝う雫は悲嘆の涙ではない。彼は『ライダーと別れたこと』に対して涙しない。
彼が零した男涙は、『認められた』ことへの涙だ。そして、自分を『認めようとした』ことへの。
 ウェイバーは、体の大きさだけではなく器の大きさとして巨大な【イスカンダル】から、自らの小ささを思い知らされた。
やがて虚勢混じりの万能感を棄て、実力を弁えた上で努力を忘れない 無知の知という大成長を遂げゆくのだ。
そんな彼の過程を今の自分に置き換えて考えてみると、自分を導いてくれる存在に出会えることがとても稀だと理解できる。


   それでも互いの役目 果たしたことが別れなら
   これでいいよね

『リーベ~幻の光』は、その歌詞を高らかに奏でる。
 聖杯を掴み取ること叶わなかったライダーは、サーヴァントとしての役目を果たしたとは到底言えやしない。
だがしかし、イスカンダルとしては。
 王たるイスカンダルとしては、彼は十二分に役目を果たしたのではないだろうか。
己が信念を貫き通し。
そしてまた、一人の王として、少年を導いたのだ。

 だからきっと

   ――――これでいいよ。

 共に生きることだけが全てじゃない。
共に死することもまた、全てじゃない。
 イスカンダルは王としてウェイバーを導き、ウェイバーは臣として王の覇道を支えてゆく。
 それは、本当に――今までの生き様が変わってしまうような、最高の出会い。
宿命じみた偶然の そのしばしの邂逅に憧れ、自らもまたそれを求めた読者はきっと多いだろう。
 ところが、私はまだめぐり逢えていないのだ。一生貴方について行くと誓えるような 人生の指針たる人物に。
否。そのような人物と、此の人生の間に逢える保証など無い。

 そう言っている間にも時間は進んでいく。いつまでも青いままではいられない。時間は悠久ではないのだから。
 ならば。
 なれるとは思わないけど。
いつ会えるとも知れない【イスカンダル】をただ待っているのではなく。
ウェイバーとともに、誰かにとってのイスカンダルを目指そう。
 誰かを導けるような。
偉そぶるわけではなく、高潔であるわけでもなく、ただ誰かの指針になれるような。
完璧じゃなくてもいい。自らを知って尚、理想は大きく。
求めるばかりの関係ではなく与える側になる。
 二人の関係に憧れるということは、きっと、そういうことなのだ。



 二人の生き様が紡いだキセキを、私達は確かに受け止めた。
次はきっと、私達の番。
このキセキを誰かに託して、其の祈りを輪廻させてゆく。

「――これでいいよ」って、心から笑って別れられるような出会いへ。

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2012.06.08

「Fate/Zero」のレビュー

銅

虚淵玄『Fate/Zero』

想いに理由は必要ですか?

レビュアー:ユキムラ AdeptAdept

 言峰綺礼が好きである。

 闇の中に一人佇む その立ち姿。
誰にも理解されずにいたサダメを背負って、ただ求道に生きる迷子。
自分の生きる意味を求め、その愉悦が狂っていることの意義を求める探求の者。

 自身の魂の在り方に苦悩していた一人の男が、やがて己を知ることで堕ちてゆく。
その姿は、私の目にはとても美しく見える。

 衛宮切嗣がたったヒトカケラの安堵をいだきて死したのと対照に。
死することすら許されず、言峰綺礼は闇夜の日々を消化し続ける。
作品中、きっと誰よりも混沌とした闇夜を背負っているにもかかわらず――あるいはそれゆえに――私は、この男が眩しいのだ。
 それは、言峰綺礼が背負う悲哀ゆえか。
他者とは決して相容れられぬ制約を埋められた者への、憐憫か。
一人で生きることを覚悟したその背中に、自分には無い確固たる決意を見たせいか。
 ――否や。
 私の小さな価値観で、彼への想いは定義できない。
酩酊のようなこの感情に、理由など きっといらない。名前すらつけたくはない。
作品という名の酒精を呷り、気づけばこの想いに囚われていた。
いつから酔いが回ったか...なんて、そんなの訊くも野暮じゃない?

 だって、私は本当の本当に、綺礼さんのこと好きなんだもん。

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2012.06.08

「Fate/Zero」のレビュー

銅

虚淵玄『Fate/Zero』

悲槍をめぐる物語

レビュアー:ユキムラ AdeptAdept

「……姉ちゃん」
「なに?」
「さっきネット通販のサイトで見とったサンダル、もしかして買うつもりやったりするん?」
「いや、買わへんけど。ただのウィンドウショッピング」
「ふーん。それやったら別にええわ」
「どないしたん? 言いたいことあるならサッサと言えやコラ」
「…………。あのサンダルって、ランサーが履いとったやつに似とったから。そんな理由で買うつもりやったら、弟として止めるべきかなー思て」
「へ? ランサーは全身青タイツやからサンダルなんか……あー、間男ランサーの方のことか。確かにアニメ一期のエンディングでグラニアとおそろで履いとった。かわいかったなぁ…(うっとり)」
「ランサーが?」
「グラニアちゃんに決まっとろうが! キモイこと言うなやボケ!! ……で、何? さっき『買うつもりやったら止めるべきかなー思て』とか言わんかった?」
「言いました」
「なぜに」
「あのタイプのサンダルって、裸足で履くんが普通やんか。でも姉ちゃんって基本ズボラでケチやから、絶対に足に日焼け止めとか塗らんやろ? やからめっちゃ足日焼けしそうやん。腹が黒い分、色が白い姉ちゃんを心配してだな……」
「それはどうも。途中、非常に聞き捨てならん単語がしばしば聞こえたけど、聞こえんかったことにしたるわ」
「と言われながらも、俺が蹴られてるのはなんでだろう……」
「なんでだろうね!」
「…………。ランサー程じゃないけど、女運が悪くてかわいそうな俺」
「お前の女運云々はおいとくにしても、間男ランサーは別にかわいそうじゃないだろ」
「え? ……いやいやいや、姉ちゃん、想像してみぃよ。もうちょっとだけ女運とか主運が良くなったランサー。それと比べて今の不遇っぷりときたら! 男の俺でも同情するんですけどー? ………………メシウマw」
「今、小声でメシウマとか聞こえたけど」
「気のせいです」
「さよか。つーか、間男ランサーから薄幸を抜いたら、奴の魅力なんか中の人だけになってしまうやんか。流石にそれはヤバイやろ」
「え、いや……あの。……ランサーには他にも魅力、あります よね?」
「は? どこに?(真顔)」


 などという、姉弟の会話なんてなかった。なかった ったらなかった!!
 さりとて、かの間男ランサーの薄幸もまた奴の魅力であることは否定しきれないと、私は考える。
それは、未踏の雪を踏むのに似ているのだ。
 朝日に照らされて耀く一面の白銀の、その、誰にも何物にも穢されていない薄くなめらかな 芸術にも近い雪面を。
自らの足で踏みつけにして、支配する。
この瞬間ばかりは、雪面を蹂躙した者こそが冬のさなかの王になりえる。
その心地好さを、言葉で紐解き解説するは ひどく難い。

 まっすぐに、ただ騎士として忠義の為に生きて死にたいと考える悲壮なる祈り。周囲の理解が伴わないばかりに、その稀求は手折られ続けて。
 考えてみれば、登場してすぐの見せ場でもそうだった。
自身の実力を出しきってセイバーに勝ちたい/勝ってみせるとするランサーに、マスターたるケイネスは令呪で以ってその槍先を歪ませる。
ゆえにセイバーは苦戦し、ランサーの胸中もまた苦悩にまみれた。
ライダーの言によりその場ばかりは収まったものの、ランサーのゆく先には、彼の求めた忠義のカタチがあるはずもなく。
 一度目の生ゆえに、二度目の主君に裏切られた。
 一度目の生ゆえに、二度目の主君に仕えきりたかっただけなのに。
 そんな二律背反があるからこそ、読者はランサーを、そしてランサー陣営を意識する。ただ単に序盤のセイバーのライバルだとか噛ませ犬だとか、そんなふうには思わずに。

 刹那の業を背負った哀しき立ち姿にこそ、『次』を求める。この悲哀の男は、次はどうなるのか。どうなってしまうのか。
其の手の悲槍なる緋槍を誰が為に誰に向けるのか。
魂を掴まれたかの如くに意識を吸い寄せられ、さんざ揺さぶられる。
 地の文が醸し出す雰囲気やら 衛宮切嗣の暗躍やら 著者の今までの作風やらを思えば、ランサー陣営が勝利を掴み取る確率など、それこそ/Zero

 だから、これは、ランサーにとっては敗北に至る道のり。
懸命に生きて灯した命の耀きを、消される過程の物語。
 けれど――
 散々 足蹴にされて、それでも変わらぬ祈りをいだいて主君に仕えようとしていた、其の姿勢は。
薄幸にも負けまいと耀いていた命のともしびは。
 とても鮮烈で。
だからこそ、私はこの男の登場シーンを流し読むことなんてできやしないのだ。

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2012.06.08

「Fate/Zero」のレビュー

銅

虚淵玄『Fate/Zero』

貴方が私に残した 固くもろい絆

レビュアー:ラム、ユキムラ

 ライダー陣営の二人の関係を一言であらわすは困難だ。
本来ならばマスターとサーヴァントという 主従であるはずの二人。
ところが、過去に王であったイスカンダルはただの従者におさまりきらず、しかし王のわりにフレンドリーで、ウェイバーにとって、時に先達 時に悪友 時に父親 時に朋友…と、見守る者に与える印象を千変万化させる。
 やがては征服王イスカンダルとその臣下として別れるこの二人。
会話がちっとも噛み合ってないときもあったけれど、それでも彼らは間違いようもなく隣り合い共に生きていた。


 ―― 貴方の中で育んでた 流れる赤の力強さ
 ―― 寒いあの朝の日を越えて からみついてく運命

 柴咲コウは謳う。『冬空』という曲で。
「貴方が私に~」と、既に失われた相手との絆について歌い、結びでは運命だったととらわれたまま。


 ウェイバーは最後、主従としてイスカンダルと袂を分かつ。
 ライダーのマスターであったウェイバーが、イスカンダルの臣下であることを選んだとき。
少年は、自分の未来を聖杯戦争に賭することをやめ、主君の為に未来を求めた。
 この主従の逆転は、人として王としてのイスカンダルに感化されたウェイバーの運命を変える選択。
 イスカンダルから学んだ生き様は、彼亡き後も良きにせよ悪きにせよ呪縛としてウェイバーの裡から消え去らない。
まるでその出逢いこそ【運命】であったと決定付けんばかりに、克明にウェイバーの生き方を揺るがしてゆくのだ。


 朝霜に濡れそぼった蕾が、やがて大花を咲かせるように。
膨らみ そして咲き誇らんばかりの溢れる信頼が二人の間にはあざやかに存在する。

 ウェイバーはイスカンダルと共に死路に赴くことも、復讐を果たすこともしない。
されどイスカンダルの下命に従い、彼が貫いた信念を守り抜くのだ。自らの運命を賭して。
 それは、きっと。
 何よりも、ずっと、強固な...

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2012.04.23

「Fate/Zero」のレビュー

銅

虚淵玄『Fate/Zero』

キズだらけのキズナ

レビュアー:ラム、ユキムラ

 10年後の未来、『Fate/stay night』でセイバーはマスターである衛宮士郎に語り聞かせる。
前のマスターであった衛宮切嗣に話しかけられたのは令呪の際のたった三度きりだった、と。
それを受け止める形で、虚淵玄は『Fate/Zero』セイバー陣営の主従関係を練っている。

 令呪で契約した其の二人は、とことんまで生き様が噛み合わない。
望む先は似通っているくせ、決定的に、信念をたがえているから。

 物語序盤、衛宮切嗣の切り札により、ランサーのマスターは生命の危機を迎えた。
ランサーと対峙していたセイバーは、ともすればマスターの危機を迎えることを認識しながら忠道のために道をあける。
それは、セイバーの信念たる騎士道を歩む上での道理であり、誇りである。
 一方、衛宮切嗣はその行為を契機にセイバーに対して見切りをつける。
ランサーのマスターと衛宮切嗣が共にいることを知りながら、敵サーヴァントを自身のマスターの元へと向かわせるなど。
それは衛宮切嗣の信念に照らし合わせると、愚行でしかない。
 もし、ランサーのマスターに意識があれば……
ランサーに令呪を下せるだけの余力があれば……
所詮 サーヴァント同士の絆や誇りなど、マスターの令呪によって簡単に犯され穢され、衛宮切嗣は命を落としていただろう。
 それが自明なだけに、衛宮切嗣は眉をひそめ、セイバーとわかり合えぬ瞭然を噛みしめることとなる。

 決定的に、分かり合えない――
 されど一方で、二人は強固な絆によって結ばれている。
アイリスフィールがさらわれた折に衛宮切嗣が用いた令呪がそうだ。
もちろん、アイリスフィール当人も二人の緩衝材の役割を果たしていた。

 それでも、二人は其の絆の存在を意識しながらも背を向ける。
最後の最後まで、衛宮切嗣はセイバーに対して声をかけようとしない。
ことさらに声を大きくして自身の考えや言葉を聞かせることはあっても、声は向けない。
本当に、最後の 最後まで。
 衛宮切嗣がセイバーに向けたのは、【言葉】ではなく、令呪としての【意志】だけ。

「令呪を以て我が傀儡に命ず! セイバー、土蔵に戻れ! 今すぐに!」
「衛宮切嗣の名の許に、令呪を以てセイバーに命ず――宝具にて、聖杯を破壊せよ――」
「第三の令呪を以て、重ねて命ず――セイバー、聖杯を破壊しろ!」

 たった、みたび。
ただそれだけの言の葉を言霊として、衛宮切嗣はセイバーに【意志】を手向ける。
セイバーが向けてきた言葉はすべて手折った上で。
 やがて二人は決裂し決別し、それぞれの最期に向けて生き始める。
衛宮切嗣は償いの形として、死地で一人の少年の命を助ける。
セイバーもまた、先とは異なる願いを胸に抱きて次なる聖杯戦争に祈りを託す。

 閉じゆく『Fate/Zero』という物語に、二人をつなぐ新たな絆は明示されない。
少年の形をしたその絆は、衛宮切嗣に命を救われ、願いと理想を受け継ぎ。そうして、次の聖杯戦争でセイバーのマスターとなるのだ。
 それは、『Fate/stay night』をプレイして、はじめて理解できる絆の形。
時にその絆は、セイバーよりももっと大切な何かを優先することもあるし、些細な過ちから命を摘み取られる可能性だって秘めている。
 絶対な強度を誇る絆などでは決してない。
されど確かに、衛宮切嗣とセイバーをつなぐ絆として成立しているのだ。


 ―――― 貴方が私に残した 固くもろい絆

 このように、柴咲コウの『冬空』は歌いだされる。
実際、『Fate/Zero』におけるセイバー陣営の絆は儚いものだった。
 しかしながら、未来には。
 わずか10年後、再度召喚されるセイバーは、切嗣の残した 令呪以上の絆と出逢う。
 セイバーが再び聖杯に臨むとき。
 切嗣との絆がどんなものだったかを、セイバーもようやく気づけるのだ。


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2012.04.23

「Fate/Zero」のレビュー

銅

「Fate/Zero」

セイバーの下着について討論会

レビュアー:ラム&zonby

今回の議題です。
「『Fate/Zero』におけるセイバーの下着について」

ラム :男装中のセイバーの下着は…どうなっているのか?やべぇ変態くさい。

zonby:いや、我々には重要な問題だよ、君。普段、あれらの下着を身に付けている女にしか追求できない問題だと思うね!ぼかぁ!

ラム :そうですよね。アイリスフィールが見繕ってくれたんだからきっと可愛い下着ですよね!

zonby: 多分、すごく高級な下着でさ…。おまけにレースとか刺繍とかが使われた凄い下着をすすめたと思いますよ。ええ。しかしそれを「合理的ではありません」の一言で片付けたであろうセイバー…。

ラム :セイバー……。アイリにはせめて試着くらいしてもいいじゃないって強く、是非強くゴリ押ししてもらって。セイバーはそのつけ心地に恍惚と……まではならないかな。でも高級な下着は絶対動きやすいはずだし。
あ、セイバーとアイリの下着がお揃いとか色違いだと可愛いですよね! 女の子はお揃いとか大好きですもんね!

zonby:そうだったらいいなー!!サイズはかなり違うかもしれないけどwwでも、そもそもセイバーは現役時代どうしていたんですかね。サラシ的な…?胸…胸の形が崩れるよ…!

ラム :セイバーの体は成長止まってるからまだ十代!ブリテンにもブラはあったと思いますが、性別偽ってたし、使ってたかは微妙?

zonby: うーん。性別を偽ってて、自分を「女性」として扱われることに結構抵抗があったみたいだから(事実、Zeroでは男装を選んでいるし)やっぱり女性的なものは拒否感が強そうな気がする。そうだ…!スポーツブラジャーとボクサーパンツだ!アイリのセンスがそれを許していたかどうかだけは…全てセイバーの男装の中だが…

ラム :「Fate/stay night」でも士郎にセイバーは女の子なんだからって言われて「ハァ(゜Д゜≡゜Д゜)?」て感じになってたもんねー。

zonby:●コールの「胸が小さく見えるブラ♪」が出たのは、最近のことですしね。

ラム :それは胸の大きい悩みを抱えた人専用です。たまに貧乳の代名詞にされるセイバーさんには関係ありません。
でもスポーツブラならアスリート用とか突き詰めてそうだよねー。

zonby: その線…ありかもしれない!女性用の華奢で装飾的な下着をすすめるアイリ。しかし逡巡するセイバー。ならばアスリート用(勿論、最高級のものを!)って流れはありそうですね。それなら「これならば、動きやすそうです」って、セイバーも納得しそう。華美じゃないし。

ラム :いやしかし。そもそも、戦闘になると甲冑に戻っちゃうし、ブラにまったくこだわらないっていう線もなくはないかもしれぬよ! アイリが、現代の下着はこういうものしか存在しないってセイバーに吹き込めばあるいは!
サーヴァントに埋め込んである知識にブラジャーのことこまかな内容まであるとは……作者によるかな?

zonby: そういえば「Fate/stay night」では、凛の服を素直に着ていたしね。ということは、やはり普通の女の子下着がZeroで「これが現代のものなのですよ」ってアイリにより吹き込まれていた可能性が…。アイリ…恐ろしい子…!

ラム :むしろセイバーと似たような立場だったから女性らしくあることには強気だったかも。男装も、美少女がやるから楽しいのだし。外見美男子、剥いたら美少女、サイコー!(本性が出た)

zonby: それ…本当に最高だな!私がアイリの立場だったら是非やりたいでございます。(こっちも本性が)

ラム :作者がそこまで考えてたかどうかはともかく、アイリの思考(嗜好?)は一般女性そのものってことやね!

zonby:一応、アイリは母親でもあるし、切継という男の妻でもあるもんなあ。そう考えると、同じ立場なのに対照的な思考(嗜好)の二人って、さらにいろいろ考えさせられるなあ。下着一つでここまで考えが掘り下げられるとは…
そんな訳で、セイバーの男装の下に隠されているであろう下着について、熱く妄想…ゲフンゲフン。想像してきた訳だけれど、そこまで想像を巡らせてしまうのは、やっぱり物語をよりリアルに。そして、自分の身近に感じたいから、かな。テーマがちょっとアレだけれど、ある意味では物語のディティールを感じるテー マですし&女性なりに気になる部分というか。

ラム :なんだか生活感あってリアルだよね、下着って。男には分かるまい、と言いたいけど最近メンズブラとか流行ってんだろー!? 文化って素晴らしいね。(コラ)
では第一回「セイバーの下着について討論会」は、これで終わりかな?
いやー、とても有意義な議論ができましたね。答えは(一応)出てないから、新たな資料を発見したら是非二回もよろしくお願いしますね!

zonby:新しい資料が出てきたら、もっと濃く。もっと深く討論ができそうですね!楽しみだなあ。こちらこそよろしくお願いします!

第一回「『Fate/Zero』におけるセイバーの下着について」討論会終了。

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2012.04.23

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/Zero

言峰キレイな肖像

レビュアー:ラム、ユキムラ

 肖像画が自分の代わりに醜く年老いていく――

『ドリアン・グレイの肖像』を読んでいると、いつの間にか言峰綺礼、ひいては『Fate/Zero』のことを考えていた。

『ドリアン・グレイの肖像』には主人公ドリアンの他に二人、主要人物がいる。

・ドリアンの純真無垢な美しさを崇拝し、肖像画を描いた画家・バジル
・バジルの友人で、ドリアンに悪徳の美を教え込み堕落に導いたヘンリー卿

 ドリアン、バジル、ヘンリー卿。
その三人の関係に気付いたとき、言峰を思い出した。

 ドリアンに崇拝の感情しか向けなかった画家は、言峰の表層しか見ていなかった時臣師や父の璃正。
ドリアンに言葉巧みに彼の知らない世界を教え込むヘンリー卿はギルガメッシュだ。
時臣のサーヴァントでありながら、言峰の快楽の在処は悪徳にあると断言し 明に暗に主殺しを示唆する誘惑者。

 すると、ドリアン=言峰という図式がすっぽり当てはまるのだ。
凡庸なる善者の信頼を退け 悪徳の誘惑に耽溺したことで、ドリアンと言峰の二人は立場を同じくした。


 美しいという意味の音と同じ名前を持つ言峰綺礼。
ただただ【美しいもの】としてしか自分を認めることをしない画家より、【美しいものとは何か】を教えてくれる方に心惹かれるのは 必然にして哀しき運命――それこそFateだ。

 心の美しさを損なうたびに醜くなるドリアンの肖像画は、悪徳への苦悩・恐怖...さまざまな感情をもたらす、誰にも言えない彼の秘密。
 言峰は、愛情や目標が分からず、どれだけ頑張ろうともやりがいがないことに一人思い悩んだ。
その苦悩は、ドリアンとは異なり 自分自身を写し出す肖像がない故の苦しみだ。
 言峰は自らの魂の在り処の探求の果てに、求めるものを、ギルガメッシュの言霊を契機に見つけてしまった。悪徳の美を受け入れることによって、彼は救われたのだ。


 今まで『Fate/Zero』を読むとき、衛宮切嗣と言峰綺礼とを意識せず対比していた。でもそれでは主人公が衛宮のままだった。
『Fate/Zero』は群像劇。
言峰もまた主人公である。
悪に堕ちることで幸せになる、言峰綺礼の物語。

 ―――― そう思って、しまったから。
 だから。
言峰が悪行に手を染めて魂を悪徳一色に染めていっても、言峰を悪だと憎むことはできない。
「悪いことはやめなさい」って、幸せになるなだなんて、言えるわけがなかった。

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2012.04.02

「Fate/Zero」のレビュー

銅

虚淵玄『Fate/zero』

究極のダークヒーロー

レビュアー:USB農民 AdeptAdept

■ダークヒーローは魅力的だ。
 善と悪という二つの矛盾した資質を併せ持つ彼らは、観る者に深い感銘を与えてくれる。
 例えば、『ダークナイト』の主人公バットマン。彼は正義の戦いのために、事件と何の関わりもない市民の生活を監視する。明らかな違法行為だが、彼の正義のためにはその悪行は必要だったのだ。彼にそこまでの行いを求める正義とは、いったい何なのかと、観客自身に考えさせる深みがある。

 英雄=ヒーローたちが集い戦う『Fate/zero』にも、ダークヒーローが登場する。
 英雄王ギルガメッシュ。
 私が思うに、彼は「善と悪という矛盾した資質を併せ持つ存在」としての究極の在り方を示している。
 すなわち、ギルガメッシュは究極のダークヒーローである。 

 
■『Fate/zero』に登場する英霊には、それぞれ属性が設定されていることを知っているだろうか。
 セイバーなら「秩序・善」、ライダーなら「中立・善」、アサシンなら「秩序・悪」といった具合なのだが、作中で最強最悪の敵として扱われる英雄王ギルガメッシュの属性は、なんと「混沌・善」だ。

 あの傲岸不損な金ピカ我様野郎が「善」て。首をかしげる人もいるのではないかと思うし、私も実際、最初に知った時は首を傾げて理解に苦しんだ。
 その後、しばらく(数年くらい)気になって考え続けていたのだが、つい最近ようやく納得のいく理解が得られた。

 辞書を引けば、「混沌」の意味は次のように記述されている。

(1)天地創世の神話で、天と地がまだ分かれていない状態。カオス。
(2)入りまじって区別がつかないさま。

 一つ目の意味は、なるほど、ギルガメッシュの保有する最も強力な宝具である「エア」を指し示している。
 しかしここで重要なのは二つ目の意味の方だ。
「入りまじって区別がつかないさま」
 これこそまさに、ギルガメッシュの善の在り方を表すにふさわしい言葉だ。

 ギルガメッシュの「善」は、世界のあまねくすべての存在に対して向けられている。高潔な精神を抱いた騎士王の少女、野望の火の絶えぬ征服王、自らの歪んだ欲望を認められずに苦しむ神の信徒、そして、誰からも望まれずに世界に生まれ落ちる「この世すべての悪」。
 作中に登場する人物の中で、ライダーの世界的な大望を認め、最も高く評価しているのはギルガメッシュだ。そしてライダーに対するのと同様の傲岸な態度でもって、「この世すべての悪」の生誕すらも彼は祝福してみせる。
 善を賞賛しつつ、悪を賛美する。
 高潔さも邪悪さも、「混沌」の内にあっては区別はない。
 彼はそれらに対して、分けへだてなく「善し」と言う。
 そんな存在は、確かに、「混沌」の「善」とでも形容する他ない。
 ギルガメッシュは、世界でただ一人、ありとあらゆる存在に対して「善」の存在、すなわち「ヒーロー=英雄」であり続けることができる。
 だからこその「英雄王」という二つ名だ。


■英雄王ギルガメッシュのヒーローとしての器は、善も悪も等しく飲み込んでしまう。
 彼の在り方を通じて、私たちは「善」と「悪」という概念についての深い考察を得ることができる。

『Fate/stay night』において、「この世すべての悪」に取り込まれたセイバーは、その属性を「善」から「悪」に変化させている。
 しかし、「混沌」である彼は、最初から悪を背負っているがゆえに「この世すべての悪」を受け入れても属性が変化しない。
 究極の悪をその身に宿してもなお、その属性は「善」のままなのだ。

 悪を受け入れることの意味。
 善であり続けることの意味。

 お互いに矛盾しているとも思える二つの言葉は、実は同じ在り方を示している。
 すべてを混沌としてありのままに受け入れる。
 悪すらも飲み込む善としての存在。
 最初にも書いたが、ダークヒーローは善と悪の矛盾を抱えているのが普通だ。
 だが、ダークヒーローでありながら、その在り方に矛盾を抱えることのない存在も有り得るのだ。

 善と悪の資質を持ちながら、そこに矛盾を持たないダークヒーロー。
 英雄王ギルガメッシュ。
 これほど深い感銘を与えるダークヒーローを、私は他に知らない。

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2012.04.02

「Fate/Zero」のレビュー

銀

「Fate/Zero」

一人の男を巡る二人の女の関係

レビュアー:zonby AdeptAdept

衛宮切嗣とアイリスフィール。そして久宇舞弥。
この三人の関係性ほど、私を惹きつけるものはない。
特にアイリスフィールと舞弥の、友情に似たけれど多分友情ともまた違う感情の交錯を、興味深く。同時にその付かず離れずの距離感を羨ましく思ったりもする。

「Fate/Zero」は単純に説明してしまえば、一つの宝を巡る闘いの物語だ。
その中には様々な立場にそれぞれの動機、野心、願いを持った魔術師と、同じくそれぞれにまた目的や考えを持った英霊が現れる。
魔術師と英霊。
マスターとサーヴァント。
通常であれば、この関係性こそが物語を盛り上げる大きな要因の一つであると思う。
互いに一つの道具であろうとする切嗣とセイバーの、徹底して温度の感じられない関係性は何かやりきれなく思うし、反対に豪放磊落なライダーとどこか未熟な感じのするウェイバーのやりとりは闘いのさなかにあってさえ、微笑ましく感じてしまう。自分の身体と引き換えにしてでも守りたい者のために、契約を結ぶ者。あるいはサーヴァントの暴走や、能力に魅了されてしまうマスターなど、単なる主従の関係に留まらない人間対(元)人間が故に起こるイレギュラーな出来事が「Fate/Zero」を単調な、バトル・ロワイヤルからもう一歩も二歩も踏み出した領域に踏み出させているのだと思う。

さて、ここでもう一歩。
物語の中に関わってくるのは、マスターとサーヴァントだけではない。
衛宮切嗣に関わってくる、これもまた道具であり妻でもあるホムンクルス。アイリスフィール。
切嗣のアシスト的役割をする久宇舞弥。直接的には聖杯戦争に関わりがないものの、この二人の女性の存在が、「Fate/Zero」における衛宮陣営を彩るもう一つの関係性だろう。
女性というならば、セイバーもここに含まれるのかもしれない。しかし、切嗣に対しサーヴァントという
立場上、彼女はこの関係性から除かれる。
あくまで魔術師でも、英霊でもないからこそ、この二人は異彩を放っているのだ。

一人の男に二人の女。
普通に考えればどろっどろの三角関係である。
舞弥が登場した当初は、アイリスフィールも複雑な感情を抱いていたようだったし、読者である私もそんな展開を想像した。けれど、そこに転ばなかったのが更に私の興味をひいた点でもある。
と、同時に不思議な関係だ、とも思う。
二人の目的は明確としている。

―――全ては衛宮切嗣のために。

その目的が二人を結びつけ、更に同性であるということが、その繋がりをより強固にしているように私には感じられた。
片や聖杯戦争を有利に進めることだけを目的につくられたホムンクルスという道具。
片や切嗣に拾われ、闘いの道具となることを叩き込まれて育った子供。
しかし道具である以前に彼女達は、れっきとして女である。
互いの持つ境遇さえなければ、聖杯戦争などというものに関わることもなく、同時に衛宮切嗣という自分の人生を大きく変える人物にも出会わず、普通の人間。普通の女。あるいは生まれることすら。生き残ることすらできなかった女達。
彼女達は切嗣という男を――例えどのような形であれ――愛していたに違いない。
それは女性とはいえ、男性として生きた過去を持つセイバーには、現時点ではきっと理解できないものだ。

「Fate/zero」の中で、実は対等な関係を結んでいたのは彼女達だけだったのではないか、と私は思う。マスターとサーヴァントは基本的に主従の関係であるし、魔術師同士の中でも立場の軋轢はある。またサーヴァント同士の中でも、微妙な力関係や相対があった。
彼女等にそれがなかったとは言えない。
舞弥にはアイリスフィールを守るという役割があった。
それでも、二人は対等だったと私は言い切りたい。
二人が感じていた感情が、友情などという簡単にまとめられるものでないことも分かっている。しかし私は思いたいのだ。二人の女の間には、例えおかれた境遇が違っても何か繋がるものがあったのだと。

―――全ては衛宮切嗣のために。

二人にその確固たる目的があるがゆえに。
二人にその確固たる目的がなかったとしても。

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2012.03.09

「Fate/Zero」のレビュー

銅

虚淵玄『Fate/Zero』

Is this love ... guilty?

レビュアー:ユキムラ AdeptAdept

 散々使い古された言葉から入ることを許してほしい。
 私は、綺礼さんが好きだ。
その生き方に恋していると表現しても差し支えあるまい。

 かつて、言峰綺礼は信仰に身を捧げ、自身の心の最奥を直視していなかった。
美しいと感じるモノを自信をもって定められずに生き、機械のような機能だけを残して動き続けていた。

 そんな言峰綺礼は、英雄王の教授とワインの口付けによって、やがて生まれ変わる。

 師である遠坂時臣を騙し討ちして、そのサーヴァントと契約を結んで。
彼は、あげく、時臣を弑するに用いたアゾット剣を、気まぐれから時臣の娘である凛へと授けるのだ。
その際に凛の双眸から零れ落ちたシズクに甘美と悦を覚えながら...
 アゾット剣の譲渡は、『Fate/Zero』が始まった直後の言峰綺礼には無かった選択肢だろう。
このとき彼の裡に芽生えた感情は、今まで彼がずっと禁忌としていた類の感情で。
だからこそ、荒廃していた彼の裡に、その悦楽は瞬時に染み渡ったに違いない。
 この瞬間にこそ、言峰綺礼という存在は私が恋しいと感じる【言峰綺礼】になった。
『Fate/stay night』において、(ルートによっては)そのアゾット剣で斃されるとも知らず。
彼はただただ、遠坂凛の悲哀を見下ろし見下し、歓喜を裡に隠し飼う。

 そんな綺礼さんのことが、私は大好きなのである。

 凛にアゾット剣を渡してからのち、彼の生き方に一切のためらいは無い。
立ち止まることも、きっと振り返ることもしない。
凛とのエピソードだけで、綺礼さんがこれから歩んでゆく道を、ありありと想像することができる。
彼は自分のあり方を悲嘆し自死することなど考えもせず、『Fate/stay night』まで生き永らえるのだ。

『Fate/Zero』という舞台から、彼は、飛び立つように【生きて】ゆく。
その躍動感は、紙切れなんかには収まりきらずに私を襲う。
文字だけの存在が、一次元足りない存在が、圧倒的な存在感で以って、私に己が生き方を見せつけてくるのだ。

綺礼さんは自分に絶対の自信を持っている。
本来、世界にとっての異物であるところの自分に。
 すっと背を伸ばし、先の見えない暗闇の中でもひたすらに前を見据え。
血と恨みにまみれた道を振り返ることなく、唯一孤独に聖職者を続けていく。

 そんな綺礼さんの孤高に、私は恋してしまっているのである。

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2012.02.18

「Fate/Zero」のレビュー

銅

虚淵玄『Fate/Zero』

虐げられている貴方を見てるのも、割と好きだったんだよ。

レビュアー:ユキムラ AdeptAdept

 申し訳ありません、前回のレビューでの発言を一部取り下げます。
私は間男ランサーに対して、ツンデレ属性なんて発動していません。今後一切、発動させる予定もないのです。

『Fate/stay night』からFateに入った私としては、どうしてもランサー同士を比較してしまいます。
その二人のランサーを天秤にかけると、私はどうしても『Fate/stay night』のランサーに天秤を傾けてしまうのですよ。

『Fate/stay night』は分岐のあるルートなので一概には言えませんが、えー...なんていうか、ランサーが漢前なのです。
「そこにシビれる!あこがれるゥ!」とはまた違った魅力で、一生ついていきたくなります。
マスターを裏切ってまで己が信念を貫き、凛を助けたシーンなんて、「凛、ちょっと変われ!」と叫びかけたほどで。
 転じて『Fate/Zero』における間男ランサーは…「まぁ顔だけだな」という感じだったりするのです。
いえ、他に魅力もありますよ? 多分。
騎士道精神とか忠節っぷりとか……あとホクロとか?
だが所詮はそれだけ止まりの男。私の心にはまったく響いてこないのです。

 否。
響くシーンがひとつだけありました。
臨終のかのシーンです。
 さすがにあそこは同情したものです。
いえいえいえ、私が真実同情したのはソラウに対してやも知れません。
こたびの生こそ忠義を貫こうとするランサーにとっての、獅子身中の虫。
けれどソラウのその慕情は恋に違いなくて。
サウンドドラマでの一味違った演出の最期には、私はソラウに対して明らかなる憐憫の情を抱いたものです。あるいは当て字な恋憫の。

 それからというもの、間男ランサーの最期を読むたび/聴くたび、私の口許には嗤いが浮かびます。
因果応報だと
自業自得だと
昏い感情を覚えずにはいられないのです。
 これは恋ではありません。愛なんかではありません。まして、ツンデレであるはずがない。



 ――けど、もしかしたらヤンデレってやつなのかも知れませんね。
だってやっぱり、その後ろ姿を目で追って、ふりかかる災厄や試練に一喜一憂しちゃうんだもん。。。

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2012.02.18

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/Zero

けーねすセンセイのおしごと

レビュアー:akaya NoviceNovice

Fate/Zeroの世界において生粋の魔術師といえば遠坂時臣を思い浮かべるかもしれないが、姿勢よりも役割としてケイネス・エルメロイ・アーチボルトを挙げたい。

時臣はアインツベルンにマキリと並び根源到達を目指していたが、ケイネスは経歴に箔をつけるためという理由で参戦する。本来はイスカンダル所縁の品物を揃えてマスターとなる予定だった。しかしウェイバー・ベルベットが腹いせに持っていったせいで代価物を用意するハメになる。そんな事情がありながらケルトの英雄を呼び出すあたり実力は抜きん出ている。

しかし参戦の結果が婚約者はサーヴァントに惚れてしまい、自身は衛宮切嗣に魔術師としての活路を断たれるという散々な内容で、マスターとしては1発退場を食らうという不憫な立ち位置である。それゆえかネットではネタキャラとして定着してしまい可哀想なセンセイなのだ。

だがケイネスこそFate/Zeroにおける魔術師観を一手に引き受ける存在だ。

ウェイバーも通った魔術師の学び舎である時計台にて一級講師を勤め、そのシーンでは「家柄を超える方法がある」と唱えるウェイバーを一蹴している。まさしく魔術師の考え方を示すもので、近代火器を用いる切嗣の異様さを際立たせる。
加えて礼装は、魔術と並ぶ錬金術を象徴する水銀を自在に動かすというのだから完璧である。

センセイがいるからこそ切嗣が爆発物や自動小銃を用いるのが異様に見えるし、ウェイバーが伝統を脱しようとする新風であることがわかる。

またランサーに対する態度も役割の一つである。
サーヴァントを駒としてしか捉えず、婚約者との事があったとはいえ信頼関係を築けずに疑心暗鬼になりながら聖杯戦争を進めていく。その様子はイスカンダルに認められ成長していくウェイバーと対照的であり、マスターとサーヴァントの関係性の違いを浮き彫りにさせる。

このようにネタキャラに評価されることもあるケイネスだが、Fate/Zeroでは一番役割を持たされた人ではないだろうか?
私はいろんなキャラクターの人間性を読み解くカギだと思うし、公式にすらネタキャラとして扱われるとか不憫すぎる。ぜひ見直してあげて欲しい。

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2012.02.18

「Fate/Zero」のレビュー

銅

虚淵玄『Fate/Zero』

ライダーかっこいい。

レビュアー:yagi_pon NoviceNovice

宝具といえば大抵は、武器だ。
たまに能力だったりするけど。

なのにライダーの切り札の宝具
王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)は、
武器でもないし、能力でもない。

ライダーにとっての宝具は、
共に大地を駆け抜けてきた戦友たち!

戦友たちが宝具って…
友こそがなによりの宝って…

それは、
バーサーカーでも奪うことのできないし、
アーチャーですら所有していなかった、
ライダーだけの宝具。
彼だけの宝物。

こんなかっこいい英霊、
他にいない。

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2012.01.17

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/Zero

非連続性を持つ時間による産物

レビュアー:ひかけ NoviceNovice

人は誰もが時間の忘却というものを経験するはずだ。例えば友達と遊んでいてらいつのまにかお開きの時間になったり、本を読んでいたらいつの間にか朝だったり。

時間を忘れて何かに取り組むことにはやっぱり自分にとって楽しいことがあてはまる。遊び、読書、スポーツ等々をしていたらそういった体験は何度でもすることだろう。逆に逃げ出したくなるくらい恥ずかしいこととか嫌なことは時間が長く思える時があったりするけれど。

このネタ自体は昔からよく使われている。マンガでもネタにしていたのを見かけたことが何度か目撃したことがある。みなさんも結構経験しているはずだし、説得力があるというかうなずける内容なので今更私はそれに言及しない。では何が言いたいのか。答えは簡単である。

「Fateって時間ドロボウだよね!」ってことです。

アニメも始動しているけれど本当にFateってなんだろうね。小説のほうでは読みふけって朝になるし、アニメでは30分アニメのはずなのに10分くらいに感じられてしまうし、私自身いろんな人がアニメ終了時に「もう終わり?」という反応をしているのを目撃する。次が愉しみで愉しみでたまらないという気持ちを吐きだす人もいた。小説でも次が愉しみでページを捲るのが楽しくなり時間が過ぎ去る。そしてFate/stay nightのゲームに至ってはどれだけ急いでも全クリするのに50時間はかかるという代物だ。というか50時間もやったとは思えないですよ。もう50時間?となるのがだいたいの人の反応のように思います。

これはまだFateの愉しみ方の一部です。探せばまだまだ出てくるのですがここでは控えておきます。私のレビューで時間ドロボウさせたら悪いですからね。私のレビューが時間を忘れるくらいにおもしろく思えるかは置いておいて。さっさとFate堪能してこい!あ、でもまだレビュー続くので心優しい方は読んで行ってくれると嬉しいです。俗に言うツンデレとかそんなんじゃありません。あらかじめ釘を刺しておきますが。

時間が一瞬に思えるほどこの作品はおもしろい。本当に「時間を忘れて」愉悦に浸ることができる。
Zeroは少し血なまぐさい感じがするので苦手な人には苦手かもしれないが、無駄に熱い益荒男共の「生き様」と言うべき何かを感じ取ることができるので、苦手な人もチャレンジしてもらえたらなと思う。
まぁこれは私の願望であるのだが。少し本題からずれたので戻しておく。

それでは戻って「時間」のお話。Fateに時間を忘れさせられた人は本当に多いと思う。全員ではないだろうが。なぜこんなにも私が時間を意識するのか。それはアニメの放送期間によるものがある。

アニメは普通、一週間に1回のペースで放映される。アニメを視聴した場合続きを見るためには一週間という期間を必要とする。その間にそのぽっかりと空いた「時間」を過ごさないといけなくなる、ということを実感させられる。「続きは一週間後か…」というふうに。つまりその「期間」という「時間」を思い起こすことになってしまう。長いと感じるか短いと感じるかはその期間に何をやるか、そしてどんな思いで過ごすのかによって大きく変わってくる。楽しく過ごしてきたなら早いと感じるだろうし、何か嫌なこととかがあった場合は遅く感じる。どちらにしても「時間」を意識する結果になるだろう。今まさに私がその状態であるのだが。

ここまでの流れを踏まえてひとつ言わなければならないことがひとつある。
それはFate/Zeroファーストシーズンを終えてからセカンドシーズンに行くまでの「長い期間」についてである。誰もが知っていることだがFate/Zeroのアニメは2部構成みたいになっていて一度休憩時間のように数カ月を挟んでからセカンドシーズンの放送が始まる。そのときにみんなはその期間をどのようにかはわからないが意識させられることとなる。この「期間」をどうすごせばいいんだろうか。アニメが放映される期間である「一週間」を大幅に超える「期間」に何を思うのだろうか。中にはこの空いた時間にもFateを愉しむ猛者がいるだろう。ゲームをやったり、小説を読んだり、最近よくある2次創作への昇華を行ったり様々であるが。

「時間」を何に使うのか、どのように使うのか。それは私がこれだ!というものではない。
各個人が選択し、進んでいくものだ。ただ「時間への意識」がなされた時、その意識を持ちながら何をするのか、何に意識を向けるのか、それが気になるのである。もしかしたらFateという作品から心が離れてしまうかもしれない。ゲームやったりしてもっとFateに近づくのかもしれない。これは決して危惧ではない。
Fate熱が冷めてしまうのかもという危惧ではない。ただの愉悦だ。私が知りたいだけなのだ。どんなふうにこのFateとの関係を各人が「時間への意識」の中で持つのかが知りたいだけなのだ。知ったところで何かが変わったりするわけではないがやはり知りたい。そんな小さな願いこそ私がFateを通して「時間への意識」を持ったときに生まれた「興味」なのである。

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2012.01.17

「Fate/Zero」のレビュー

鉄

虚淵玄『Fate/Zero』

ウェイバーちゃんはヒロインなのか

レビュアー:yagi_pon NoviceNovice

ウェイバー・ベルベット、れっきとした男子である。
だがしかし、ヒロインのごときかわいさがあることは、
概ね認めざるを得ないところはある。
だってホントにかわいいから!
少しずつ彼(=イスカンダル)に心を開き、
彼の剣に守られる姿はまさにヒロインそのもの!
ただ、もちろんそれだけではないよ。
これはあくまで内的要因。

というからには外的要因がある。
それは、Zeroにはヒロインらしいヒロインがいないから。
ヒロインらしいヒロインとは、
つまるところかわいらしい女性ということ。
凛々しいヒロインはたくさんいるんですけどね。
セイバー、アイリ、舞弥などなど。
もちろん彼女たちもかわいい一面を持っています。
ただ、それを勝る強さがあるんですよね。
力や意思が、ウェイバーよりも圧倒的に強い。

というわけで、
ウェイバー・ベルベットは、
Fate/Zeroにおいて一番ヒロインらしいヒロインだと思います。

私も声を大にして、
「ウェイバーちゃんマジヒロイン」と叫ぼうではないか。

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2012.01.17

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/Zero

走狗が黒幕に至る物語

レビュアー:ユキムラ AdeptAdept

『Fate/Zero』は、『Fate/stay night』の10年前の物語。
『Fate/stay night』というゲームの舞台が整うまでの前日譚である。


 さて――
それでは、『Fate/Zero』の話をしよう。というか、言峰綺礼の。


 10年後の『Fate/stay night』では二人のサーヴァントを使役して暗躍する外道神父・言峰綺礼。
ところが、『Fate/Zero』では彼は黒幕ではない。
暗躍は多少なりともしているが、せいぜいが遠坂時臣の走狗+αといったところ。
自分の真実求めているものが一体なんなのかさえ、よくわかっていない未熟者。
ギルガメッシュとの問答では、悦は罪だ!なんて口走っちゃったりして。
自分の中にある答えに気づかずに、衛宮切嗣にこそ答えがあると盲信して固執して。


 正直、そんな言峰綺礼のことを私はあんまり好きじゃない。
私が好きなのは、『Fate/stay night』の綺礼さんだから。
自分を愉しませてくれる事象をちゃんと理解していて、他人の心を切開してキャッキャウフフする外道っぷりが好きなのー。

 だから、10年前の言峰綺礼は見ていて歯がゆい。
嫌いってワケじゃないけど、好きでもない。あんまり。
 そりゃね、中の人は好きだよ?
でも。『Fate/Zero』の言峰綺礼は『Fate/stay night』の綺礼さんじゃない。
現在進行形でソッチ方面に成長しかかっている、いわば『ピュア(?)綺礼』だ。


 そんな言峰綺礼が、少しずつ、私の好きな綺礼さんへと堕ちてくる。
正直、ちょーゾクゾクする。

 英雄王に道を示されて、
  間桐蔵硯にちょっかいを出されて、
   ときどき死別した奥さんを思い出して、
    衛宮切嗣に思いを馳せる日々を送って、

 こごえた冬木の空の下、言峰綺礼は確実に道を踏み外してゆく。


 その背を、私は見守るのだ。
そっと手を伸ばして、その背を思いきり押してやりたい。そんな衝動を殺す。


   ただ見守るだけの幸福


 早く私の知っている綺礼さんになってほしいと願う、お茶目な嗜虐心。
 綺礼さんへと堕ちてゆく軌跡をもう少し堪能していたいと魔が差す、ささやかな好奇心。

 このふたつがぶつかって私をたぎらせる。
言峰綺礼と衛宮切嗣の最終戦のような、真正面からのぶつかり合い。


 それは、まるで、聖杯戦争のような――戯曲のかたち。

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2012.01.17

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/Zero

問いと答えが出会うまで

レビュアー:ややせ NoviceNovice

小説とはずるいものだ。
すべての捉えようのない出来事を、人の感情を、広大な空間を捕まえて。針と糸で串刺しにするように、長い長い一列の言葉にしてしまおうというのだから。
本当ならば同時に起こったこと、波紋が広がるように連鎖していったこと。そういったものが無遠慮な順番という形式に押し込められてしまう。
だからこそ、情報量の制限されたノベライズにがっかりさせられることがある。
けれど、だからこそ、手元に記憶を置くものとして小説という形が愛されてきたのもまた事実である。

先に述べておくと、私はFate/Stay nightを知らないし、Fate/Zeroのアニメも見ていない。友人が「ウェーバーちゃんが!ウェーバーちゃんがあぁぁ!」と叫ぶのをなんのこっちゃと呆れて聞いていたくらいのものである。
FateFateと何かと騒がしい昨今、私のように、ゲームなのかアニメなのか一体何なのか?という予備知識の無い状態で、小説を手に取る人も少なくないだろう。
この物語は、聖杯と呼ばれるどんな願いでも希望でも叶えてくれるとされるモノを、選ばれた七人のマスターとそれぞれが召還したサーヴァント(歴史上の有名な人物の英霊)が、奪い合うというバトルロイヤルものである。
サーヴァントにはアサシンだとかバーサーカーといったクラスがあり、それに応じた特殊スキルがあり、単純な力の強弱では計れない戦いとなる。つまり、魔術が存在するこの世界らしい派手で幻想的な戦いが展開されるのだけれど、実際に行ってみると盤遊戯のような戦略の方がむしろ重要になってくるのだ。
マスターとサーヴァントの関係、あるいはマスター同士サーヴァント同士の関係、そこにはドラマがあり、それが後々の戦局に大きな影響を及ぼしていく。

どのマスターもサーヴァントも個性豊かで魅力的だから、誰が主人公というのもぴんとこないのだが、あえて言うならば主人公はアーサー王の英霊であるセイバーとそのマスターの切嗣チームだろうか。
かの有名なアーサー王の英霊、騎士王であるセイバーはなんと少女の姿で顕現し、そのことが元でマスターである切嗣とはどうもしっくりこない。しっくりこないどころか、正義や理想をまっすぐに追求するセイバーに対し、目的のためなら手段を選ばない切嗣は正反対だ。
肉体が滅びた後の、いわば伝説やイメージといった輝かしい存在が英霊だとするのなら、セイバーは最初からどこかおかしな感じがする。その理由は終盤で明かされるが、それはそのまま、切嗣の理想とする望みが歪んでいることをひっそりと暗示しているようにも思える。
Fateには、マスターとサーヴァントが知略や能力を駆使して華々しく活躍する物語であると同時に、死すべき身体の持ち主であるマスターと既に肉体を持たないサーヴァント達の苦しい悔恨の物語という二つの面がある。
永続する栄光はどれも曇りなく眩しい。
まるで運命に踊らされるマスター達の死や英霊達の改竄された歴史は、その栄光のため犠牲となって聖杯に注がれるかのようでもある。
それは、聖杯が納めるに相応しい理想を待っているからだろう。
何を犠牲にして、何を願うのか。問い続け、答え続けられない者に勝利はない。

さて、最初の話題に立ち返り、小説とは単なる情報を小さくダイジェストにまとめたものに過ぎないのだろうか、と自分に問うてみる。
アニメやゲームには存在するであろう音も絵もなく、そもそもの物語の本編ではなく、どちらかと言えばスピンアウト的なこのFate/Zeroだ。これだけでは楽しめないのではないか、という恐れを、手に取ったときに感じてしまうのは仕方がないことかもしれない。
けれど、答えは否だ。
小説版は、この膨大な物語世界を受け止めるために受肉した投影機だ。
第四次聖杯戦争とはどういうものだったのか。次の聖杯戦争はどうなるのか。既に始まっている次代の物語を予見しつつ、何度でも頁を繰って見ることができる。
もし自分がマスターだったら、どんな英霊とどんな戦い方をするだろうか。そう、想像するのも誇らしく楽しい。

ちなみに、友人が「ウェイバーちゃん!!!」と騒ぐ理由はよく分かった。
私も彼と、彼のサーヴァントとのやり取りが一番心に残っているし、彼らのエンディングには身体が震えてしまった。……類友というやつなのかもしれない。

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2012.01.17

「Fate/Zero」のレビュー

銀

Fate/Zero

ウェイバーとライダーが好きなんです。

レビュアー:ゲッテル NoviceNovice

人間ってこういう生き物なんだよ、と云う事を的確に示した究極作品だと感じた。

卑怯上等、自分の為なら他人がどうなろうと知ったことではない、女の嫉妬の恐ろしさ、興味への欲望、自分以外は全て雑種、一瞬の裏切り、追求心による残虐行為、報われない想い・・・・読んでて大丈夫なのだろうかこれ、と本気で恐ろしかった。
けど、やっぱりこれが世界なんだろうなと納得もした。
皆がおキレイな生き方をしているわけでも、恵まれているわけでも、幸せだと想っているわけでなく、生きて自分が納得したいがために他人を蹴落とし、裏切り、最終的には殺してまで自分を確立させようとする。

そして結局聖杯は絶望を与えてしまうという、皮肉に満ちた世界。
怖いけど、ワクワクしてしまった。次はどんな闇があるのかと期待もしてしまった。辛いのは自分だけではないんだと、変な安心感も持ちかけてしまった。

そんな真っ暗な中で唯一の救いだったのが、ウェイバーの成長だった。ライダーという永遠の師であり友情に恵まれ、本当の意味で心の強さを手に入れることが出来た少年。
『それは出来ない。ボクは生きろと命じられた。』
『もう彼は孤独ではない。』本当に何回読んでも涙が出る。
絶望だけじゃなく、こういった小さくても大きな希望も、世界には沢山ある、だから辛くても人は生きていけるということを全章を通して教えて貰った。
Fate/Zeroは、私の生き方のバイブルになった。

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2012.01.17

「Fate/Zero」のレビュー

銀

Fate/Zero

アニメに触れてから、原作を読むことの楽しみ

レビュアー:USB農民 AdeptAdept

 土曜深夜0時前になると、私の部屋の戸を妹が叩いて、「Fate/zero」の放送が近いことを教えてくれる。ここ三ヶ月程、リビングのテレビで妹と「Fate/zero」をリアルタイムで視聴することが習慣となっていた。
 そして先日、キャスターとの決戦の直前という、とても引きの強い場面で、「Fate/zero」の一期放送は終了。原作未読の妹は、先が非常に気になるらしく、二期を待たずに原作を読むことにすると言っていた。
 家に同人版はあるけれど、文庫版の方が読みやすいだろうと思い、これを機会に星海社文庫全6巻を揃えることにした。妹に貸しつつ、私も久しぶりに原作を再読してみた。

 さて、原作を再読すると、アニメの描写だけではわからない事実が色々あることに気づかされる。
 二巻の倉庫街での戦いで、セイバーとランサーを監視するアサシンはなぜ実体化していたのか?(霊体化していれば、切嗣に発見されることはなかったはず)
 ランサー戦で、セイバーは鎧の防御を捨てるが、それはどの程度のメリットがある戦術なのか?(身軽になる以外になにかあるのか)
 上記のような描写に対する説明は、ストーリーを語る上で大きな影響を及ぼさない部分であり、だからアニメでは省略されている。ただし、原作にはきちんと説明が書いてある。今挙げた以外にも、同じような描写は数多い。

 それは、単純にストーリーを楽しむのであれば、必ずしも知る必要のないことかもしれない。ただし、「Fate/zero」の世界をより詳しく知り、より深く堪能したいと思う人には、アニメだけでなく原作も読むことを強く奨める。
 細部に対する知識が増すということは、作品世界への理解も深まることになるから。

 ちなみに、上述した疑問は、アニメ視聴時に妹が口にしたものである。
 妹がその疑問を口にしたとき、私はその答えをすっかり忘れていて答えられなかった。だから妹は、原作を読むことでようやく、自分の疑問に対する答えを得るだろう。
 そういう読書は、きっと妹にとっても楽しいものだろうと思う。

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2012.01.17

「Fate/Zero」のレビュー

銀

Fate/Zero

衛宮切嗣はなぜもてるのか

レビュアー:こはく NoviceNovice

 Fate/zeroの主人公、衛宮切嗣は、筆者の談にもあったように非常にはた迷惑な人物である。過去のトラウマから多数のために少数を殺すことでしか平和への手段を見出せず、どの命をも等価として扱うが故に、自分の周りの人物を次々に死へ追い落としていく。しかし、そんな切嗣の周りには必ず彼を想う女性が存在するのだ。これはいったいどういうことだろうか。この疑問に女性という立場から、一つの解を提示したい。

 人は、この聖杯戦争において、あるいは生きることにおいて、何がしかの欲望によって動く。例えば雁也は恋、ケイネスは名誉、ウェイバーは自尊心、龍之介は生と死の探求、それらを満たすために突き進んでいく。それらは形が変わることはあれど、最終的には自身の能動的幸福に帰着する。それは、クライマックスまで迷い続けていた言峰さえもそうである。
 では、衛宮切嗣はどうだろうか。
 彼が目指した恒久的世界平和は、贖罪が発端となっている。これは、自分の内側のマイナスをゼロに戻す作業であり、プラスの幸せとは直結しないうえに決して叶うことのない願いである。そして、彼はその全てを心の奥底で自覚しながらも、引き金を引く右手を止めることができず、悪辣な自身の才能に引き摺られるようにして、血塗られた正義の味方として完成していくのだ。
 これだけ外道で卑劣な手を使う彼の欲望、つまりプラスにあたる幸福は、どんなに醜悪で凶暴なのだろうと、漆黒で固められた彼の内側を紐解いてみれば、そこは驚くほどに無垢でガラスのように透き通っている。あるいは真っ白であると言ってもいいかもしれない。自分のための欲望を育む暇もなかった、人生の壮絶さがそこから窺える。
 こんなにもアンバランスで、世間に理解されず、また理解も求めずに生きてきた彼の歪んだ性を、どうして愛さずにいられようか。誰よりも人を愛し、自分の人生を捧げようとした彼を、どうして支えずにいられようか。
 最後に燃える街の中で見つけた士郎に手を差し伸べる切嗣の、憐憫つきまとう幸福の姿には涙せずにはいられない。


 ……つまり、切嗣は母性をくすぐる存在なのですね。また、身に余る大望を追っていく過程で研ぎ澄まされた血濡れの清純さに、倒錯的な美しさを感じるのも一因でしょう。
 以上、衛宮切嗣はなぜもてるのか考察兼、私個人による衛宮切嗣へのラブレターでした。

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2012.01.17

「Fate/Zero」のレビュー

銀

Fate/Zero

頑張りすぎる娘さんを見守る近所のおじさんの気分

レビュアー:またれよ NoviceNovice

西洋風の鎧を身にまとい剣を振るう少女、セイバー。
現代に召喚された伝説の英霊。
なるほどつまりジャンヌ・ダルクか。
と思ったら違った。違う英霊さんだった。

ジル・ド・レェという英霊が召喚される。かつてジャンヌ・ダルクと共に戦い救国の英雄となった貴族。こやつもセイバーのことをジャンヌだと間違える。やあ同志よ。最初見たらそう思うよね。

そうではないとわかってはいてもセイバー=ジャンヌ・ダルクという最初の思い込みが頭を離れない。生真面目で騎士道に誇りを持ち故国のために身を捧げる孤高の王、セイバー。理想に忠実たらんとする姿は人間味が薄い。と言って全くないわけでもない。少女は苦悩もする。
どうもその姿に悲劇的な結末を思い描いてしまう。フランス軍を勝利に導いた英雄ジャンヌ・ダルク。信仰に生き、どこか人間離れした少女。しかし彼女は最後には人々に見放され火刑に処せられる。
セイバーとジャンヌを重ねてしまう。その未来も、その最期も同じようになってしまうのではないかと。見ていて危うい感じがする子だ。

ジル・ド・レェはセイバーのことをジャンヌだとずっと勘違いしたままだった。本物か否かは関係なく、彼によって盲目的に象徴的に崇拝されていたこともセイバーの危うさを表していたように思える。
彼女はシンボルなのか人間なのか。どっちにもなりきれないものだから見ていてはらはらする。
「お嬢ちゃん、まあちょいと肩の力を抜きなさいよ」と言ってあげたいところながら、そう言って
しまうのも無責任であんまり彼女に失礼なので黙っている。なんにもできないのだけど、どうもこの子は見守っていてあげないといけない気がするのだ。どうだろうか。

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2012.01.17

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/Zero

Fate/Zeroという本の持つ小さな魔法

レビュアー:ひかけ NoviceNovice

私は星海社出版 Fate/Zero文庫版第6巻 をとある友人の誕生日プレゼントとして送りました。

その友人は星海社と私とをレビュアー騎士団という形で繋いでくれた人物であり、今でも多く交流を持っている人物です。始まりはその友人の「Fate/Zeroは1巻無料で読めるよー」という軽い一言から始まりました。そして口車に乗せられレビューをひとつ書くことに。そしてその書いたレビューが「Fate/Zero第1巻」についてのものなのです。これが私のレビュアー騎士団、星海社との関係の始まりでした。
私はその関係の「始まり」をくれた友人に感謝するとともにお返しがしたいという欲求に駆られました。そんなときFate/Zero6巻(最終巻)の発売と友人の誕生日が同じ時期に重なりました。これはチャンスだ!そう思いました。発売日になったら即効で買いに行くと思ったので、先に「誕生日プレゼントとして渡すから買うのは待って!」と釘を刺したなんてこともありました。そして渡しました、渡せました。
Fateに始まりFateに終わるとはまさにこのこと。「始まりであるFate/Zero1巻を友人からもらい、そして最終巻である6巻で私が返していく。」すごく運命めいたものを感じました。Fateだけに。

プレゼントに「本」という選択肢というのも考えてみてください。意外とおもしろい運命を辿ることになるかもしれませんよ?私のように。そして是非、星海社文庫のご利用を(宣伝)

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2012.01.17

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/Zero

『Zero』だけでは満たされない

レビュアー:横浜県 AdeptAdept

 小説『Fate/Zero』はPCゲーム『Fate/stay night』の前日譚であるからして、まず前者と出会った者は、次に後者をプレイしたくなるものだ。
 そもそも原作よりも先にスピンオフを読んでしまう人間がいるのか。1巻のあとがきには、そんな読者が私以外にも数多くいると記されている。アニメが放映され人気を博した今となっては、その傾向がより強くなっていることだろう。なんにせよ『Zero』が独立した作品としての人気を獲得した点は注目に値する。原作に依らない魅力が備わっていることの証だ。
 ただいくら原作とは別個の価値を持つといえども、私のようなFate初学者が『Zero』を読了すると、否応なく『stay night』のプレイ欲求をそそられてしまう。確かにこの作品は完結したはずなのに。どうしてか満たされない心地に包まれてしまうのだ。主な原因は2つある。

 1つ目は当たり前の話になるが、世界観・設定が原作と同じであるという点だ。筆者の虚淵玄が「Fate/Zeroは、Fateを知る人だけのものであってほしかった」と語るとおり、はっきり言って『Zero』はFate初学者に優しくない。世界観の説明も少なく、基本を理解するだけでも、おおよそ1巻の半分まで読み切る必要がある。
 一方で設定がプロローグから小出しにされるため、気になった箇所を解決すべく読み進めれば、割かしすんなりと物語に浸ることもできる。「サーヴァント? 令呪? 一体どういう意味なんだろう。そんな抽象的な説明をされても分からないよ」と最初は困りもするのだが、心配しなくとも物語世界に対する知識量は次第に増えていく。それにつれてページを繰る速度も速くなるわけだ。
 しかしそれでも補完しえない部分だってある。たとえばそれは士郎の存在だ。エピローグに登場する原作の主人公は、『Zero』から読み始めた人間にとっては「誰だよお前」と突っ込みたくなる相手だ。いきなり出現した彼のことを理解するためには、本編である『stay night』を読まざるをえない。例は他にもある。『Zero』でメチャクチャにされた桜ちゃんが、本編でまともに生きていけるのか、とかも気になるしね。つまり原作に繋がる伏線をすっきりと飲みこみたいが故に、どうしても『stay night』をプレイしたくなるわけだ。

 2つ目の問題は、『Zero』だけでは真の完結に至らないという点である。これには原作者たる奈須きのこの解説が詳しい。そこには虚淵玄がハッピーエンドの物語を書けないこと、『Zero』がその類に漏れないことが書かれている。続けて「これを機に『Fate/stay night』に手を伸ばし、虚淵玄が夢に見た結末に辿り着いてもらえたのなら本書の一ファンとしてこれ以上ない喜びだ」とある。「虚淵玄が夢に見た結末」とは当然ハッピーエンドのことだ。
 奈須が述べるように『Zero』はハッピーエンドではない。主人公・切嗣の望む平和は叶えられることがなく、街は大災害に包まれて終わる。ラスボスの綺礼は死んだのに生き返り、かわいい幼女の凛ちゃんは父親の死に涙する。これは私の書き方に問題があるのかもしれないが、ぶっちゃけひどいエンディングである。子どもが読んだら泣いてしまいそうな結末だ。溜飲が下がらない読者も多かったことだろう。否、私がそうだった。
 それでも1つだけ、最後に希望の灯がともった。先にも述べた士郎が、エピローグにおいて切嗣の夢を受け継ぐのだ。そして物語は『stay night』へと続き、彼は第五次聖杯戦争へと突入していくこととなる。そこにはハッピーエンドが待っている。切嗣の代わりに士郎が正義を貫き、望みをかなえる。そのエンディングこそ、私たちが真にみたかったものであるはずだ。『Zero』の残酷な終焉にどこか納得できなかった読者は、本編に縋る以外の道がないのである。

 『Fate/Zero』で初めてFateという作品に触れた者は、まず間違いなく充足した読後感をえることはない。物語が一応の終結をみるものの、それは決して手放しに喜びうる内容ではないからだ。原作を体験せずに逃げることは、この前日譚に散りばめられた伏線だって許さないだろう。私たちはその答えを、続きを知りたがっている。
 だから私たちは、必然的に『Fate/stay night』へと導かれる。なにも負うところのない心で「いい話だったね」と振り返るためにも。

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2012.01.17

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/Zero

小さな愛蔵版として『Fate/Zero』を楽しむ

レビュアー:USB農民 AdeptAdept

『Fate/Zero』の口絵はすべてカラーで、素晴らしい。
 物語上、夜の風景が多く描かれているが、それらは光も色も実に多種多様だ。静かな夜。厳かな夜。悪夢めいた夜。ひとつひとつが異なる夜の姿を描き出している。(特に一巻ACT.2扉ページの左側の色。最初はインクが滲んでるようにしか見えなくて、これ流石に印刷ミスなんじゃないかと思ったが、じっと見ていると、木々の向こうに浮かぶ月明かりが、その木々を煌々と照らしている故の微妙な色加減なのだとわかる。絶妙)
 文庫とは思えない程の出来映えだ。

 それともう一つ、イラストの重要な効果がある。
 この小説の口絵は、ほぼすべて風景が占めている。キャラクター小説において、口絵でキャラクターが描かれないのはとても珍しいし、口絵が一切ないキャラクター小説とも『Fate/Zero』は異なっている。
 物語をすべて読み終えてからもう一度、すべての口絵を見てほしい。その風景がどんな場所であり、どんなドラマがそこにあったのか、明瞭に脳裏に浮かび上がってこないだろうか。十二日間の戦いのすべてが、口絵を眺め直すだけで確認できる。こういう小説の楽しみ方ができるのは『Fate/Zero』ならではだし、それを支えているのはカラー口絵に込められた言葉なき説得力と存在感だ。
 
 読み終えてからしばらく後、時折本棚から取り出して、何枚かの口絵を眺める。
 かつて体験した物語の余韻を思い出すために。

 そんな楽しみ方ができるのも、この小説が「愛蔵版」であるからこそだろう。

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2012.01.17

「Fate/Zero」のレビュー

銀

Fate/Zero

嫌いなアイツがいるからこそ

レビュアー:横浜県 AdeptAdept

嫌いなキャラっているじゃないですか。
「あらゆる作品のあらゆるキャラクターが好きです」みたいな変人はおいといて、普通はいるじゃないですか。
言峰綺礼。僕は彼が嫌いなんです。

彼は価値観が歪んでいて、僕たち常人が美しいと感じる物をそうとは思えない残念な人です。悪なるものを愛していて、他人が苦しむことを快楽だと思うような悪いやつです。
僕には彼のこんな性格が卑屈に見えて仕方がないんです。もはや生理的に受けつけないと言ってもいいですね。

どっからどうみてもヒールな言峰綺礼ですが、実際に彼は主人公の衛宮切嗣の対極に位置するような人物です。
お互いの望みが相反する彼らは、最後に残った2人として宿命とも呼ぶべき決戦に身を投じます。
だから僕はつい応援してしまったんです。
「衛宮切嗣がんばれ」って。
ぶっちゃけ切嗣のことだってそんなに好きなわけではありませんでした。
セイバーの高潔たる騎士道精神に共感していた僕は、合理的でありながら非道な切嗣の手法には首を傾げていたのです。
でも応援しちゃったんです。だって言峰綺礼が嫌いなんだもん。
あんな極悪人が聖杯を手にしちゃいけない、切嗣に勝ってほしいって。

それからの僕は、ただただ続きを読むことのみに神経を集中させました。
ページに食らいつくかのごとく、切嗣の一挙手一投足に目を輝かせ、言峰綺礼の反撃に舌を打ちながら。
そして切嗣の放った弾丸が言峰綺礼を捉えたその瞬間、僕は満面の笑みで喜んだんです。

そこで僕は気づかされたんです。
僕は言峰綺礼という悪役が確かに嫌いだった。でも彼がいたからこそ、僕は衛宮切嗣を心の底から応援して、彼の勝利を祝福することができたんじゃないかって。
以前はさしたる興味もなかったような男の話に、のめりこむことができたんじゃないかって。
ライバルがいてこその主人公。ヒールがいてこそのヒーロー。
言峰綺礼の存在あってこそ、衛宮切嗣という主人公が輝く。
すごく当たり前のことだけど、僕が忘れがちだったこと。
あるキャラを嫌いになることは、相対的に別の誰かを好きになれる可能性でもあるんだ。
さぁ次に読む小説では、どんなキャラを嫌いになることができるのかな。

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2012.01.17

「Fate/Zero」のレビュー

銅

「Fate/Zero」

それもまた「Fate」に至る一つの扉だった

レビュアー:zonby AdeptAdept

名前は聞けど、触れえぬもの。
姿は見れど、よくは分からぬもの。
本はあれど、開かぬもの。
――それが私にとっての「Fate」だった。

いつかはちゃんと把握するつもりでいた。しかし、とうとうここまできてしまったのには理由がある。
「Fate」という世界観があまりにも巨大すぎる、と感じていたからだ。
オリジナルから始まった世界。物語は枝分かれし、キャラクターは様々な顔を持つ。また「Fate」という物語を支配する、独特のルール。独自の専門用語は、少し触れただけでは混乱を招くばかりで、余計に苦手意識がつのるばかりだったのだ。
英霊ってなんですか、に始まり
マスター?サーヴァント?聖杯戦争?クラス?宝具?固有スキル?マジュツ回路?セイバー?何なの?なんか闘う話なの?ゲームなの?四次とか五次とか、キャラクター何人いるの?
…。
……。
理解放棄。
興味はある。理解はしようとする。
けれど、あまりに膨大な情報量に圧倒されてすごすごと引き下がるのが常であった。

ありがちな例えで言えば、30巻以上まで巻を重ね、尚かつまだ連載の続いている漫画においそれと手を伸ばせない感覚とでも言おうか。いや、それならまだ良い。遅れはとっても1巻から順に読んでいけば良いのである。
問題は「Zero」だ。
起源となった本編でも、本編から発展した先でもない、本編の前の物語なのである。
私は原作至上主義者ではない。
だがこの「Fate」の後にくっついた「Zero」が、より私の食指を鈍らせた。

本編すら把握していない者が、果たして本編に至る物語になど手を出して良いものか…!

あくまで「Fate」とは「Fate/stay nighat」が母体な訳で、それを起点に他の関連した物語は広がってきていたはずなのである。更に言えば「Fate/stay night」で繰り広げられた一連のお話。キャラクター達の関係性や、結末を知った上で読んだ方がより一層楽しんで読めるのではないか、という本読みびととしての貪欲さが、私の手を止めていた。
分かっている。
これは完全に私の自意識の問題だ。しかし、世界は広い。同じ理由で「Fate/Zero」に手を出せないでいる輩がいないとも限らないので書いておこう。

「Fate/Zero」もまた、「Fate」の世界を彩る一つの欠片にしか過ぎない。

確かに時系列の問題はある。「Fate/Zero」は「Fate/stay night」より前の物語だ。
だが、純然とした一つの物語だ。
私が疑問に思っていた単語や、その世界観を司るルールも、「Fate/Zero」を読むことで明らかになった。ある意味で言えばこれで私は、より「Fate」を理解し楽しむことができるようになったということだろう。

あまりに巨大すぎる物語の前に、巨大になりすぎた物語の前に、手も出せず立ちすくむことは多々ある。
その起源に固執するあまり余計に近寄ることができなくなることもあるだろう。そんな時は、一番身近にある作品に触れることが重要だ。巨大な物語は、巨大なだけ数多くの入口や扉が存在する。
「Fate/Zero」もその一つ。

安心して欲しい。
「Fate/Zero」は一個の物語として完成しているだけでなく、「Fate/stay night」へのみちしるべを示してくれる。
安心して欲しい。
「Fate/Zero」によって開かれた扉は、やがて根幹と至る「Fate」そのものへの道でもあるのだ。

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2012.01.17

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/Zero

スワンソングのその先に

レビュアー:ユキムラ AdeptAdept

 最初に言っておく。
私は、かーなーりー、主従萌えの人種である。



『Fate/Zero』など『Fate』シリーズのことを、私は、【理想/願いと主従(あるいは人間関係)の物語】だと思っている。
だから、だろうか?
私はディルムッド・オディナの在り方があまり好きではない。
ディルムッド自体はそんなに嫌いでもない。だが、彼の生き方が好きではないのだ。
 いや、確かに前回のレビューで「リア充爆発しろ」とか勢いで言ったけど、それはあれですよ、えーっと……ツンデレ? うん、じゃあツンデレってことで。
まあとにかく、ディルムッド自体はそれほど嫌いではないのだ。

 だが、ディルムッドのその主従の在り方は、どうしても好きにはなれない。
嫌悪にも似たその感情は、ディルムッドの臨終の慟哭/かのスワンソングに起因しているのやもしれない。


………


 少し話が逸れてしまうが、中国の昔の話で、属鏤(しょくる)の剣にまつわる物語がある。
学生時代から主従萌えしていた私にとって、漢文の授業はネタと萌えの宝庫だった。
そんな日々の中で耀いていた話のひとつである。


 今は昔、隣国と戦争している国があった。
そこには王とは別にA・Bという臣下がおったんや。
Aは隣国に通じとる、悪いやっちゃ。
で、Bは自国思いの臣下やった。
きわどいパワーバランスの上に置かれた自国の危うさにBは薄々感づいとって、王に何度も進言しとった。そんなBの存在が、隣国に通じとるAには煙たかった。
 んでもって、ある日、王はAの言葉にそそのかされてもて、Bに属鏤の剣を与えたんや。
この属鏤の剣いうんは、つまり、これで死になはれ、いうことやな。
元からちょいやかましいとこがあるBに嫌気が差しとった王は、Aにうまいこと騙されてもたんや。
 そいで、Bは「えらいええ根性しとるやないかい、ええわ、死んだらええんやろ。ついでに儂の目ェくり抜いて、この国の門の上に置いとけや。隣国がこの国に攻めて来るんを見たるさかい」と言い残して死んでしもた。
そうして紆余曲折の末、案の定、その国は隣国に攻め滅ぼされてもた、っちゅーわけや。


………


 という話である。
この話を表面でだけ受け止めれば、Bはディルムッドと同じような死を迎えたのだと勘違いしてしまう。
だが、少し待ってほしい。
ここにおけるBは、なにも「自国滅びとるw王ざまあwww」とか言いたくて門の上に自分の目を置けと言ったわけではない。
Bは、この遺言を通して、王に危機を伝えたかったのだ。
「くり抜かれたその目で、隣国が攻めてくるのを見てやるんだから!」とは、【隣国が攻めてくる】その日が近いのだという警告なのである。
最期の最後で自身の悲願の達せずを嘆いたディルムッドとは、少し違うのではないだろうか。いや、盛大に。


 あるじに裏切られ見限られ、死神をすぐ側に控えさせる事態に陥った二人の従者。
自ら命を絶つことを命ぜられたその先に、
・叶わず終わった自己の悲願を呪詛に変えて叫んだディルムッド
・恨み言と見せかけ、王に、最期にして最後の諫言を送ったB

 どちらも従者としての有り方のひとつだ。どちらか一方が正解だなんてことを、私は決するつもりは毛頭無い。
従者だって人の子だ。ずっと仕えていた主に切り捨てられれば、悲しくだってなるし、愛憎がひっくり返ることだって否めない。
だが、どちらが従者の有り方としてより美しかったかと言われれば。
 ――私ならば、断然Bだ。
 即答である。鉄板だ。
別に恨みも妬みもソネミもなく、純粋にBの方が好みなのだ。
これは所詮読者の理論かもしれないけれど、それでも、最後まで忠義を貫く姿勢を美しいと感じる。感じずにはいられない。
というか愛! そういう主従愛に激・ラブ! ごちゃ萌える!!





 死のまぎわに白鳥が歌うとされているスワンソング。
一見の優雅を必死で生き抜いて、命の最後に歌う其の歌のように。
従者もまた、最後に一曲だけ、ひどく美しい歌を赦されるというならば――
それは、最後まで、【従者として生き抜いた自分】らしい、濁らずの歌であってほしいのだ。

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2012.01.17

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/Zero

『Fate/zero』の魅力

レビュアー:USB農民 AdeptAdept

『Fate/Zero』はまるで神話の物語のようで、私にとって、とても魅力的だ。

 神話には親殺しのエピソードが多い。有名なところで、心理学用語の語原として有名なオイディプスや、ギリシア神話の神々を統べるゼウスなど。彼らの物語には、特に重要なエピソードとして親殺しが語られる。

『Fate/Zero』における衛宮切嗣の物語は、実の姉同然に慕っていた少女が吸血鬼化した際に、彼女を殺すことに躊躇するところから始まっている。そしてその躊躇いが、より大きな悲劇を生み出すことになると彼は知ることになる。
 それより先、切嗣は誰かを殺して誰かを救う術を身につけていく。
 果たすことのできなかった、最初の悲劇に対する償いであるかのように。
 血のつながった父親を殺し、
 実の母親のように愛した女性を殺す。

 神話では、例えばゼウスは、父であるクロノスを殺し、兄弟たちとともに世界の支配権を手中に収めた。父殺しによって世界の変革を行ったのだ。実に神話的なスケールだ。

 衛宮切嗣が望むのも世界の変革だ。争いのない恒久的平和。その願望を胸に抱き、聖杯を求め戦い続ける。
 神話のような物語を紡ぐために。
 姉を、父を、母を殺した過去を、無駄にしないために。
 だが、その戦いは、彼が思い描いた物語を紡ぐことなく終わりを迎える。

『Fate/Zero』はまるで神話の物語のようで、私にとって、とても魅力的だ。
 けれど同時に、神話のような物語を強く否定しているようでもある。
 理想や物語の輝きを熱く説きながら、真逆の冷たさでそれを否定していくような物語。
 その間で翻弄される人々と、それでも戦い続けようとする意志こそが、『Fate/Zero』の本当の魅力かもしれないと思う。

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2012.01.17

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/Zero

愛すべき天才

レビュアー:ひかけ NoviceNovice

ついにこのFate/Zeroが視覚化、映像化された。私はこの時を待っていた。私がこの作品に触れたのはとある騎士団メンバーに紹介された時であるからおよそ半年前くらいだろうか。厳密に言うと半年も経っていないが。だからこの映像化を待っていたと言っても新参者だ。なんてったって星海社が文庫版として出す以前からFate/Zeroという作品はあったのだから。そんな人達に比べたら半年待った程度の私なんて知れている。でも、それでも私はこの映像化を待っていたと言わせてもらいたい。そうだな、Fateを知っている人向けに言うなれば聖杯に映像化を頼みたいくらいに待っていた。まぁようするに渇望していたのだ。映像化、アニメ化というものを。Fateを知らない人だって大勢いるだろう。Fateを知っている人も大勢いるだろう。その中での映像化だ。私みたいに「待っていた」人もいれば、「おっなんか気になるな。見てみようかな。」って軽い感じで見る人もいるだろう。
これはFateに限らずどんな作品でも言えることだけれどそういった差異は生まれてしまう。そりゃ「知っている」と「知らない」では正反対だしね。「なんだこの程度か。」「おーこの作品すげぇ!原作も買わないと!」「原作のほうが良かった。」「期待を良い意味で裏切ってくれた。」
だとかいろいろな感想は出てくることだろう。どんな作品も万人受けはしない。それは今までどうやっても越えられない壁として存在し、これからも立ちふさがる。もしかしたらこの作品は万人受けするのかもしれないがそういう希望的推察はここでは省きたい。ここでは万人受けはしないという体で話をしていきたい。なら、万人受けをしないのであれば作者は何を目指して物語を書くのだろう。

出来うる限り多くの人に受ける話を書く?
たしかに多くの人に手に取ってもらえば収入が多くなるのは自明だ。作家は「書く」ことでお金を得る。
そうしなければ生きていけない。なればこそそういった物語を書くのは当たり前かもしれない。

自分がおもしろいと感じる本を書く?
これは自分が書きたいように書きそれをおもしろいと思ってもらえるかどうかというもの。収入のためではなく自分のプライドめいたもののために書いている。収入は後に付随するものとして見る、大事なのは中身だ。みんなに受けるものでなくていい。自分がおもしろいと思うから世に送り出すんだ、みたいな。

正直私はどう思って作者が書いているかわからない。私は好きな子の心の中なんてまったくわからなかったし、少し道を踏み外した友人が何を思っていたか知る由もない。後者の場合、ただ相談して欲しかったという希望しか抱けなかった。誰も自分以外の人間が思っていることなんてわからない。というより自分の考えていることでさえわからなくなったりする。近くにいる人ならともかく本の作者などといったらどれだけの距離があるのかわかったもんじゃない。そんなのわかるわけがない。ようするに「わからない」ことだらけなのだ。ただ先日、私に「わかる」ことができた。

それはFate/Zero作者である虚淵玄氏の発言にある。マチアソビラジオだったと思うのだがこんな風に言っていた。
「自分は物語を書いている時眠たくなったら即寝ます。」
「それは…どうして?」
「眠たくなるということはその話が自分にとって『おもしろくない』ってことです。おもしろい話を書いていたら眠たくなんてなりません。」
みたいに言っていた。少し違うところがあるかもしれないけど似た感じのことを言っていた。つまり虚淵氏は自分がおもしろいと思うものしか書いていない。
一般受けしそうなものを考えるとかは一切ない。自分がおもしろいと思うものしか出していないのだ。

なるほどと思った。他の作者はどうなのか知る機会はないけれど虚淵氏だけは「知る」ことができた。私は自分のプライドの中で生きるという人物を目の当たりにした。そしてその生き方に心酔した。虚淵玄という人物に心酔した。
私は作家になるつもりがないし、なれるわけがないとも思っている。だがしかし、虚淵氏の生き方に羨望した。
これからの私にそんなプライドを持ち仕事ができるかどうかは「わからない」
ただ、万人受けというものを目指して行くのではなく、プライドを持ち続けて、自分を持ち続けていろんなことに挑戦していきたい。そして虚淵氏に出会うことができたこのFate/Zeroという作品に感謝です。虚淵氏が「おもしろい」と思って出したこのFate/Zero 
まだ読んでいない「あなた」に合うかわかりませんが、作者本人が「おもしろい」と思って出しています。そんな作者に対する反骨心でもいい。とりあえず手に取って頂きたい。また感想なりレビューをここで読ませて頂ければ幸いです。

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2011.12.20

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/Zero

グラニアちゃん!?

レビュアー:ユキムラ AdeptAdept

 元々『Fate』が好きで、気づけばマチアソビにまで行ってしまった。だが後悔など無い。

 歩いたり並んだりで疲れたとは言っても、オタは夜も眠れない。むしろ、夜はオタの主戦場なのだから。特に其の日――8日(土)の深夜は、安心して寝て過ごせるはずもない。何故なら、理由は、言わずもがな。『Fate/Zero』の放送があるからだ。
 2話は【偽りの戦端】。
 いろいろと言いたいこと/思ったことはあるが、ひとつだけ叫ばせてほしい。

 グラニア、異様にかわいくね!?

 ちょっ、エンディングに流れる映像って、サーヴァントの生前の一場面でおk? その木のトコでランサーと見つめ合っちゃったりしちゃったりしてるのは、間違いなくグラニアちゃんでファイナルアンサー?

 なーんーでーやーねーん!!

 あんなかわいい子に涙目で「私を愛して」みたいなこと言われて、花嫁強奪? 主君相手に間男やらかして、一緒に逃避行!?
 ちょっとランサー、表出ろ。……いや、やっぱこっちが負けるの確実だから出なくていい。


 納得いかない。納得いかないぞ、間男ランサー。
 駄犬ランサーとセットで、「ランサーはマスター運がない」とか言われているようだが、むしろキミには二度目の生は過ぎた望みだと思うんだ。

 確かに、ケルト神話に残された人生では忠義をまっとうできなかったかもしれない。だが、もういんじゃね? あんっな、かわいいグラニアちゃんと一緒になれたんだから、もういいじゃん? つーか、答えは聞いてねー。

 人生に心残りがあったとしても、そんなかわいい子と一緒になれたんだから、マジもういいじゃん。
 忠義をやり直したいって考えること事態、グラニアちゃんの想いに対する冒涜だろーが。グラニアちゃんとの人生に後悔してないってんなら、おとなしく永眠してろ。

 つーか、私が何言いたいか、つーと、


 リア充爆発しろ。


 ただそれだけ。

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2011.12.20

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/Zero

超えるべき目標

レビュアー:ひかけ NoviceNovice

普通誰もが親父の背中を見る。それは偉大なものであるかもしれないし、矮小に見えるものかもしれない。
そんなもの個人の価値観によって変わるだろうから一概にこうだとは言えない。親父の背中の性質の差によるものかもしれないけれど。
自堕落な親なら矮小に見えるだろうしね。あくまで例えだが。
ソレはあこがれとは言わないまでも通過点みたいなものとして存在している、気がする。優しさとか強さとかを兼ね備えた背中を持つ者として親父がいる。
正直親父はムカツク。あれやこれやと言ってくるし、めんどくさい。あ、絶賛反抗期ですこんにちは。だからかな?自然と親は超えるべき壁のようにそびえたっている気がする。「お前のことなんて超えてやんよ!」的な反抗?いや、コトバにするのが難しくてなんと言っていいのかわからないが…

なんでこんな話をしたか。それはみんな大好きイスカンダルさんのせいです。
Fate/Zeroでライダーとして現界するイスカンダル。マスターはおなじみウェイバー。Zeroでこのふたりが好きな人ってかなり多いよね。かくいう俺も大好きですけど。

イスカンダルってとってもオヤジ臭いよね。がさつで、なんか無駄にいろいろでかくて、頼もしくて、酒好きで、なんつーかいろいろとオヤジ臭い。いや、オヤジそのものと言ってもいいね!豪快に笑うイスカンダル想像してたらなんかもう居酒屋らへんにおるオヤジそのものだし。
世の中にオヤジなんて存在はめっちゃいる。子供というか家庭を持っていて30歳あたりからの男子、みたいな制限を加えなくていい。ぱっと見てオヤジだと思えればいい。中年層になってしまうだろうけどそれでいい。そのあたりはフィーリングだ。で、そのオヤジがキライな人って結構いると思うんだ。特に若い人。加齢臭だとか頭部がなんとか言ったりして理由つけて。
でもイスカンダルのことキライ?これほどまでにオヤジを体現してるヒトなんてそうはいないけど。個人的な価値観だけどキライな人あんまりいないんじゃない?少なくとも俺はキライじゃない。むしろ愛していると言ってもいいね。
でも俺自身オヤジはあんまり好きじゃないな。2次元と3次元とを比べるわけじゃなくなんとなくイヤ。みんなはどう?と投げかけたところで別の話題。

「オヤジ」と「親父」という文字も見てみんなはどういうイメージを浮かべる?
最初のほうは世間一般至るところにいるだいたいが中年層の男性。後のほうは自分の父やそれにあたる人を呼ぶときに使うんじゃない?でも発音はどちらも「おやじ」 不思議だよね。カタカナか漢字かで使い分けがなされている。って関心してる場合じゃないか。でもなんというかこれおかしいよね。世間一般で言われる「オヤジ」って自分の「親父」である場合もあるわけだよね。どっちやねんってツッコミいれたくなるな。こういう場合どっち使えばいいの?親父を父上とかパパとか呼べばいいんじゃない?って意地悪は禁止。

イスカンダル見てたら「オヤジ」と「親父」どっちも当てはまるなーだった。イスカンダルを普通に見てたらただの「オヤジ」
ウェイバーが住んでいる家の人との会話のシーンなんて居酒屋のそれとあまり変わらないように見受けられた。
でもウェイバーに対しては完全に「親父」だった。ウェイバーが負けそうになってるときに手を差し伸べるイスカンダル。
どこまでも直進しウェイバーの道を作るイスカンダル。追ってこいと言わんばかりに大きな道を作りながら。強い背中を見せながら。

なるほど。そもそも「オヤジ」と「親父」はひとつにできないんだ。同じ発音だけど全くの別物。それなら「オヤジ」と「親父」とのズレが生まれるのは必然。そりゃ「オヤジ」と「親父」の認識の差異も生まれるわけだ。たぶんさっきの「オヤジはキライだけどイスカンダルは好き」ってなったのはこのせいだろう。「親父」として好きなイスカンダルの部分を「オヤジ」に適用しようとしたから差異が生じた。

そうだな。「オヤジ」は年齢と見た目で一般化されたモノで、「親父」は特別な自分だけの父、いや、通過点とかかな。いや、通過壁っていう単語を作ってもいいかもしれない。点だったら正直超えるのが当たり前みたいに見えるし。壁くらいじゃないとね。

とりあえずイスカンダルの壁という背中を見るウェイバーと同じように俺も親父の背中を見てる。これからどうなるかはわからないけれど、とりあえずその壁ぶっこわして先に進む準備をしようかな。

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2011.09.30

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/Zero

ゼロの罠

レビュアー:アカギン

Fateシリーズに触れたことが、「Fate/stay night」のアニメと星海社文庫版の「Fate/Zero」しかない。初めから本編をプレイしたことがある人とそもそも情報量が違うのだ。そんな私が「Fate/Zero」を初めから最後まで読んだ後にふと感じた。
この小説はどこか物足りないのだ。

「Fate/Zero」は面白い。
これは間違いない。
己の欲に駆られた7人のマスターが英霊や悪霊などのサーヴァントを使役する。それぞれが抱える戦う理由、聖杯への思いや願い。全てが入り混じり、混沌としている戦場に立つ一人の凛々しい騎士王の少女は美しくて格好良い。彼女だけではない、豪快で強固な強さを誇った征服王、絶対的王である英雄王。
そんな彼らが対峙する。
これほど魅力的な作品はそうないだろう。
これほど魅力的な作品なのにもか関わらず、何故物足りなさを感じるのか。

それはおそらく「Fate/Zero」が文字通りFateシリーズのゼロ、始まりだからだろう。アニメだけでは補完できない、本編をやらなければ、ゼロを本当の意味で楽しむことができない。
これは憎い、悔しい。これでは本編、「Fate/stay night」で一体どんな戦いが繰り広げられるのか、気になるではないか。逆も然り。本編をやったことのある人がこのゼロを知らずにはいられない。

この「物足りなさ」を感じるということは、虚淵玄氏の罠にまんまとかかったということだ。それだけで、この作品は成功したと言えるだろう。そして、まんまとひっかかった僕は「Fate/stay night」を知りたくなった。

星海社は次に「ダンガンロンパ/ゼロ」という前日譚を世に送り出す。私はまだ「ダンガンロンパ」を体験版でしか味わったことがない。
そのゼロで満足させるのではなく、本編へと読者を導く「物足りなさ」を味わえたらいいなと私はひそかに期待している。

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2011.09.08

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/Zero(5)

負の遺産

レビュアー:ひかけ NoviceNovice

間桐雁夜は私にとってこの作品で一番感情移入したキャラだ。他のキャラも個性的で魅力的だけれどダントツで感情移入したのは雁夜だ。この作品って全体的に重くて、苦しいよね。特に雁夜の話なんか重すぎて吐くわ。この巻読んで1週間ほど次の巻行けなかったよ…

魔術を嫌い、それでも大切なものを守るために魔術の力を借りる。そんな矛盾を孕みながらも好きな人の大切なものを守るために戦う姿はとても見ていられなかった。だって大切なものを守ることはすなはち、大切なものを奪ってしまうのだから。わかりきっている結果。それでも闘い続ける雁夜。正直雁夜の話は見たくなかった。どうあってもこの先に未来がない。好きな人を悲しませる結果にしかならない。そんなの初めからわかりきっていた。だから本当に知りたくなかったこの展開を。それでも私は読まねばならない気がした。そんな義務感を覚えながら読み進めていて思った。「あぁ…雁夜は俺に似てるんだ…。」って。友人にお前見た目イスカンダルだろと言われて軽く凹んでた俺だけど、性格はほんと雁夜に似てると思う。無口で、シャイで、好きな人に静かに好意を寄せてて、気付いてもらえなくて、でもその人のこと心配して…ってはずかしっ!やめだやめだこんな話!ただの羞恥プレイだわこれ!自爆だけど!誤爆?どうでもいいわ!

なんというか雁夜の話してたら暗くなるの目に見えてたからなるべくラフに書こうと思ったのに全然できてない。ゲームとかなら登場人物に感情移入してしまうことがよくあるけど小説でなったのは久しぶりだな。それくらい私にとってハマっていた。ハマらない人には雁夜はただの不幸な人ポジションで終わるかもしれない。でも私は違う。雁夜はこの作品で一番人間的だと思う。そう主張する理由は「感情」にある。人間は喜怒哀楽さまざまな感情を持っている。1巻からよく読みなおして欲しい。
喜怒哀楽すべて描かれているのだ雁夜は。葵との楽しい会話。凛にプレゼントを渡す喜び。時臣に対する怒り。葵を壊してしまった悲しみ。
正直雁夜の生き方は歪だ。だがそれが人間らしさを醸し出す結果となっている。そしてこの喜怒哀楽の感情も同じように人間らしさというものを生みだしている。他のキャラではこんなに人間味溢れる描写はなされていない。たぶん。雁夜フィルターかかったので自信ないけど(笑)

今からFate/Zeroを読む人もいるだろう。心して聞いて欲しい。雁夜の一挙一動から目を離さないで欲しい。どのキャラも本当に個性的。でも、雁夜だけは少し状況が異なる。後悔と怒りの入り混じった感情をまき散らすのは雁夜だけなのだ。Fate/Zeroを一度読んだ人も雁夜について注目して2週目読んで欲しい。それだけがわたしの願いです。

Fateという意味は「運命」を指し示す。しかしそれは負のイメージの強い「運命」として使われる。そしてこの作品を読む読者はその「運命」に直面することは避けられない。
逃げずにあなたは―――立ち向かえるか?

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2011.09.08

「Fate/Zero」のレビュー

銀

Fate/Zero(4)

神様ってなーに?

レビュアー:ひかけ NoviceNovice

誰がどう読んでもこの巻のメインになってくるのはキャスターだろう。絶対的「悪」として現界したキャスターであるジル・ド・レェ伯爵とそのマスター雨生龍之介。殺人というものを美とする考え方には絶対的「悪」というイメージをより鮮明に私たちに植え付ける結果になっているだろう。

しかし、絶対的「悪」としての存在となっているのにもかかわらず、私はこの二人のやりとりに少し心惹かれるものがあった。「神」についてだ。キャスターは最初神などいないのだと言っていた。悪行を積み重ねた自身は神罰ではなく人の欲に殺された。ならば神などいないという風に。
しかし龍之介は違う。神はいると断言している。世界にはおもしろいことがたくさんあるし、それは「誰か」が脚本を書いているからだと。そしてその「誰か」が神なのだと。殺人者も普通の人も聖職者もみんながみんな神様という筆者の作ったキャラ設定でそれらを関連づけておもしろい話を作り世界としているのだと。平たく言ったらこんな感じですかね。

おもしろい。

正味私は神様信じてないんですよね。奇跡も見たことがないし、自分が受けた神様の恩恵ってなんだろうって考えたら何も浮かばないし。そもそも神について考えるようなことは今の日本じゃ難しいんじゃないかなと邪推。いろんな宗教とか入り混じってるからね。だからその中を生きてる私には気付かないのかも。まぁ、なんにせよ私にはまだ神様は信じられない。

でも龍之介の考えは好きだなと思った。嫌な脚本も書いてるってのが少し嫌だけど、こんなに現実がリアルなのも神様の趣向なんだとか思ったりして自然と納得できた。キャスターであるジル・ド・レェ伯爵も龍之介の考えに耳を傾け、新しい宗教観だと絶賛している。
その後キャスターのセリフを追って行くとこんなものがある。

傲岸なる「神」を!冷酷なる「神」を!我らは御座より引きずり下ろす!神の愛した子羊どもを!神の似姿たる人間どもを!今こそ存分に貶め、陵辱し、引き裂いてやろう!神の子たちの嘆きと悲鳴に、我ら逆徒の哄笑を乗せて、天界の門を叩いてやろう!

海魔召喚時のセリフだ。龍之介の言葉に感化されたから「神」というワードを用いているとしか私には思えない。
「神」という存在はイマイチ今はよくわからない。でもそういうのも考えてみてもおもしろいかもしれない。と勝手に思ったりしてます。

すべてのキャラが個性的なこのFateという作品。各キャラについてもう少し考えて見るとおもしろい発見があるとおもう。この作品に一度すべて目を通した人ももう一度読めばおもしろい発見があるかもしれない。

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2011.08.17

「Fate/Zero」のレビュー

金

Fate/zero

文庫版に込める価値

レビュアー:牛島 AdeptAdept

私にとって「Fate/Zero」は特別な物語です。だからどうあっても、最初に同人版を読んだ感動は越えられないでしょう。

原典である「Fate/staynight」は私が思春期のまっただ中で触れた娯楽作品の最高傑作の一つでした。過酷で凄惨、なのに美しい物語。魅力的なキャラクターたち。中でも主人公と対極をなす存在・言峰綺礼という「悪人」としての在り方と、彼の散っていく姿には心打たれるものがありました。その言峰の若き日が語られている。彼に何かを感じた人ならば、それだけで無視できない作品でしょう。そして第四次聖杯戦争を全力で駆け巡ったウェイバーとライダー。彼らから受け取ったものの価値は計り知れません。

私にとって「Fate/Zero」はかけ値無しに人生に影響を与えるほどの作品であり、それこそ作中のライダーのように紙が変色するまで読みました。

だから、白状します。星海社文庫の「Fate/Zero」には、感動することをまったく期待してませんでした。あの感動に何かを加える余地などなく、文庫版を買ったのも「Fate」と星海社のファンだから――そんな風に思っていました。

しかし。その上で、星海社が仕掛けた文庫版ならではの試みは、文庫を揃えるだけの価値があったと思うのです。

前置きが長くなりましたが、さて。文庫版「Fate/zero」の魅力を語っちゃいましょう。

まずは目につく表紙から。セイバーさんです。全巻セイバーさんです。同人版では四冊だったのに六冊に分けられた「Fate/zero」――その表紙が全部セイバーさんです。イラストレーターである武内崇氏の描くセイバーさんがいっぱいです。恥ずかしながら全巻セイバーさんが表紙というこの仕掛けに気づいたのは三巻が出たあたりでした。けどこれ、実はかなり重要な試みだと思うのです。まず、物語におけるセイバーさんの活躍が表紙イラストに現れているという点。アイリスフィールとの理想的な主従関係、アインツベルンの森での剣舞、エクスカリバーの発動、ライダーとのカーチェイス……などなど、物語のセイバーさんの活躍を切り取ると、六冊に分けるのがちょうどいいのです。「Fate/zero」はセイバーさんの挫折の物語でもあり、その面が強調されています。なにが言いたいのかというと、セイバーさんがとても愛されているということです。

さて、六冊に分けたことには他にも意味があります。星海社文庫の特徴のひとつ、長い折り返しです。このイラストを載せることもできる素敵なスペースには、聖杯戦争を戦う他のサーヴァントが描かれています。既読の方には今さらですが、聖杯戦争を戦うのは七柱のサーヴァントです。表紙にいるセイバーさんを除くと、その数六柱。つまり各巻に綺麗に収まる数になっています。この六分冊、なかなかどうして粋な計らいです。

次にフォントについて。星海社が刊行物のフォントにこだわっているのはもはや周知の事実かと思いますが、それはこの「Fate/zero」にも現れています。あくまで同人版との比較ですが、版面の組みとフォントが変わったことで、読むときの圧迫感が減った印象を受けました。

最後に、物語の本文で、セイバーの「あのシーン」を除いて一切のイラストを載せなかったことについて。これに関しては賛否両論あるだろうと思います。が、しかし。文章だけにすることで深まる楽しみというものは確実にあります。まして虚淵先生の作品を文章だけで楽しめる機会というのはそうそうあるものではありません。ですから私はこの試みを支持します。

さて。こうして見てみると、やはり私はこの文庫版が好きなのでしょう。既にある物語を再び編集するという行為に意味を込める。物語を読んだ作用ではありませんが、そこには確かな感動がありました。

素敵な文庫版を、ありがとう。

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2011.08.17

「Fate/Zero」のレビュー

銀

Fate/Zero

速いの。カッコイイの。

レビュアー:akaya NoviceNovice

『Fate/Zero』は戦闘と知略の物語だと思う。どの英霊も圧倒的な強さや知略を見せるし、人知を越えた存在だと感じさせてくれる。でも私が一番好きなのは、戦闘のシーンではない。

それはセイバーがバイクを駆るシーン。1400ccに改造されたYAMAHA・V-MAXを手足の如く操縦するセイバー。それを初めて読んだ時の興奮を今でも覚えている。

速さを追い求めて人間が作り出した、人間には扱えないシロモノ。それを乗りこなすセイバーに、サーヴァントの能力を実感として見た。

今でこそエコだ、低燃費だと電動のクルマやバイクが未来の姿のようだけど、それは寂しい。一瞬に高回転に達するガソリンエンジンだからこそ、速さ、荒々しさを体現できる。

それこそ人間が、技術を、高みを追い求めて得たものだと思う。しかし皮肉なことに作っても、使えなくなるラインがある。道具として用を成さなくなる。

それを乗りこなす姿に、あぁ彼らは人知を超えた存在なんだと腑に落ちた。だからセイバーがバイクを駆るシーンが一番好き。早く映像で観たい。

そういえばセイバーなら、ロケットエンジンを積んでも乗りこなすのかな?気になる。

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2011.07.14

「Fate/Zero」のレビュー

鉄

虚淵玄『Fate/Zero』 あとがき

二人で時代を変えてみたい

レビュアー:yagi_pon NoviceNovice

Fate/Zeroをすべて読み終わり、あとがきを読む。
このあとがき、ラブレターみたいだな、なんて思う。
Fate/stay nightを書いた奈須きのこから、
Fate/Zeroを書いた虚淵玄へのラブレター。
いやでも、両方とも男だから、
ラブレターっていうのも変だけれど。
よくわからないなぁこの二人。

でも、一つだけわかっていることがある。
奈須きのこは虚淵玄という、
最強のサーヴァントを味方につけたのだということ。
彼は、未来の英雄だ。
もちろん過去にも彼を英雄視していた人もいただろう。
しかし彼は、このFate/Zeroをきっかけに、
まどかマギカという作品に携わって、
大きく羽ばたくことになった。
今ももちろん英雄だし、
過去だって、これからの未来だって彼は英雄になるだろう。

Fateはマスターとサーヴァントが織りなす物語だ。
彼らが欲する聖杯は、
マスターが強いだけでも、
サーヴァントが強いだけでも、
例え両方とも強かったとしても、
それだけでは手にすることができない。
二人が信頼し合わなければ、
聖杯を手にすることはできない。

一巻のあとがきでは、
虚淵玄の、奈須きのことFateに対するリスペクトが語られ、
六巻のあとがきでは、
奈須きのこの、虚淵玄に対するリスペクトが語られる。
二人の信頼が見える。
稀代のシナリオライター二人の信頼が。

Fateはマスターとサーヴァントが織りなす、二人の物語だ。
奈須きのこと虚淵玄、最強の二人が信頼し合うことができたからこそ
聖杯の力に匹敵するような最強の物語がここにある。

よくわかんないなって思ってたこの二人。
わかったことがもう一つある。
二人はまるで恋人みたいだってこと。
あー違う違う間違った。
この二人のコンビは最強だってこと。

最強の二人の、最強のコンビがつくった、最強の物語がここにある。

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2011.07.14

「Fate/Zero」のレビュー

銀

Fate/Zero

すべての冒険者に捧ぐ

レビュアー:牛島 AdeptAdept

 ライダーこと征服王イスカンダル。
 その最後の臣、ウェイバー。
 あらゆるキャラクターを悲劇が襲う悪辣な物語である「Fate/zero」において、一抹の清涼剤として胸踊る冒険譚を届けてくれた名コンビ。
 彼らが私に与えた影響は計り知れません。
 前へ前へ、ただ前に。
 胸の中にあるこの情熱は、確かに彼らに貰ったものです。

 白状しておくと。
「Fate/Zero」を初めて読んだとき、私は切嗣の最後に涙するでもなく、セイバーの末路に同情するでもなく、ただウェイバーに嫉妬しました。

 ……だって羨ましいじゃないですか。
 ウェイバー・ベルベット。自己を(彼にとって)正しく評価してくれる場を求め鬱窟した日常を送り、己の価値を信じようと必死なのに実は自分が矮小な存在だと思っている――その姿は紛れもなく等身大の少年そのものです。
 そんな少年が伝説の英雄に導かれ、世界制服へと乗り出していく。
 振り回されながらいやいや言いながらも王道の冒険物語を突き進む。
 パッと見それはご都合主義の物語で、まあ、言ってしまえば「涼宮ハルヒの憂鬱」のキョンの立場に対して中学生男子が抱く羨ましさと似通ったものを感じてしまったわけです。
 初めて読んだとき、私はウェイバーよりも更に幼く未熟でした。みっともなくも思ったものです。「なぜ自分は臣下の誉れに与れないのか」と。……今思うと、恥ずかしい限り、汗顔の至りですが。

 ウェイバーはただ幸運に与っただけの少年ではありません。「パワフルなキャラクターの相棒」という立場に終わらず、彼は大きく成長します。
「世界を征服する」という大望に誘うイスカンダル。
 彼の言葉を受けて忠誠を誓うウェイバー。
 聖杯戦争が終結した後も、ウェイバーは己の中にイスカンダルが遺した言葉が永遠のものであると確認します。イスカンダルに恥じない男になることを一人誓います。ただ、彼の言葉と笑顔だけを支えとして。

 それはひょっとしたら、それは一時の思い込みかもしれません。あるいはどこかで死後「王の軍勢」に召し抱えられることを望んでいるのかもしれません。

 しかし、それでもウェイバーの決意は美しい。イスカンダルと過ごすうちに彼が手に入れたものは、まさしくどんな聖杯よりも価値あるものです。
 ドラえもんから離れたのび太よろしく、ウェイバーもまたイスカンダルから自立します。その姿は実はイスカンダルに憧れたすべての読者の範となるものです。

 イスカンダルという規格外の男に憧れた――だったら、私もただ憧れている場合ではありません。己の道を進むのみです。
 信じる道を突き進むことの爽快さを、私は彼らに教わりました。憧れるだけだったそうした生き方は「偉大な、選ばれた英雄」だけに許されたものではないと、他ならぬウェイバーが教えてくれたのです。

 イスカンダルは最後まで心行くままに生き、ウェイバーはその姿を魂に焼き付け前を向いた。
 では読者は? もっと言えば私は?
 とるべき道はすでに彼らが示してくれました。あとは突き進むだけです。
 すべての冒険者に言いたい。
 ただ気の向くまま、血の滾るまま、存分に駆け抜けろ!

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2011.07.14

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/Zero

その先に

レビュアー:azumaakira

Fateシリーズの面白さとは何だろう?と考えたときに、真っ先に浮かぶのはやはり、聖杯戦争という舞台で行われる、その戦闘である。次に何かといわれたら、サーヴァントの真名を考えることだろうか。
聖杯戦争の主役というのがサーヴァントだというのは、間違ってはいないだろう。彼らによって行われる戦闘は、時に華やかな、時に悲惨なものでありながら、圧倒的な熱量で読者を魅了する。そして、それを行うサーヴァントの正体を考えることは、ミステリー的な、謎解きの面白さをもたらしてくれる。
そして、もちろん魔術師同士の戦いというのも面白さの一つであろう。互いの秘術を尽くして戦う彼ら彼女らは、時として、サーヴァント達の苛烈さをも上回る熱量を見せる。

しかし、Fateというのはそれだけの物語なのだろうか?ただ、戦闘シーンの面白さによってのみ支えられている物語なのだろうか?
私の答えは否である。この物語には、彼らの戦い以上に我々を惹きつけて離さないものがある。
それは、この物語が、キャラクターたちが「救い」を得るための物語だという点である。
この物語に登場するキャラクターは、そのほとんどが何らかの「救い」を求めている。
例えば
世界を救うことを願う切嗣
かつての自分の行いをやり直し、国を救いたいセイバー
そして、それ以外のキャラクターも、大きさの程度の違いはあれ、あるいはエゴイスティックなものでありながらも、誰かを、何かを救おうとして行動している。
その切実さが、誠実さが、愚直さが、我々の心を掴んで離さないのではないだろうか?

Zeroを読み終わった読者は、彼らの結末を既に知っていると思われる。
彼らがそれぞれの手段で目指した先に何があり、誰が救われ、誰が救われず、誰が成長し、誰が挫折したかを知っているはずである。
さらに、『Fate/stay night』という物語を知っている人々ならば、Zeroのさらに先に、何があり、誰が救われるかを知っているはずだろう。
そして、知らない人々にとっては、物語はまだ続いている。彼らの戦いを見るためでもいいし、彼らが求めた「救い」の結末を見るためでもいい。

できるなら、Fateという「救い」の物語を最後まで見届けたいと願う人が、一人でも多ければ、と、そんな風に願う。

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2011.06.17

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/Zero

新たなる風

レビュアー:ひかけ NoviceNovice

今回はFate/Zeroの1巻がタダで無期限読めるということで釣られてしまったので1巻についての感想を述べていこうと思う。

Fate自体はアニメ化されたFate stay nightを見ただけで、PCゲームのほうは全くプレイしていない。
だからはっきり言って知識は浅い。面目ないが。

しかしアニメを見た時にバトルシーンに強く心を惹かれた。サーヴァント、マスター同士の戦い。英霊の宝具。意地。諦めの悪さ。
そういったものがアニメに注ぎ込まれていた。少し説明が少なかった気もしないではないが。あ、あとセイバーかわいいよセイバー。
コホン。話を戻そう。

でもこの作品は女性受けしないだろうなと見ていて思った。この作品は少年の心を掴むものは多くあるが、女性が好きになりそうなところが見受けられなかったからだ。突如聖杯戦争なるものに巻き込まれた主人公 衛宮士郎。魔術師ではあるが才能が見出せず半人前。
ヒーローになることを渇望するが力がない。そういった存在。男子なら一度はヒーローになることを夢見て、守る力がなくて絶望した経験があるのではないだろうか。少なくても俺はそうだ。はっきり言って主人公に心を重ねやすい。俺に力があったらと何度望んだのかわからない。
まぁ望むだけで力が手に入るわけはないのだけれど。しかしこの主人公はそういった力を手にしてしまった。セイバーのクラスであるアーサー王という存在を。アーサー王が女の子だという理由でその力を行使しようとはしていなかったが。女の子は守るべき対象となっているのが見てとれる。
そりゃヒーローになるのだから別の人、しかも女の子を使うなどという考えは頭になかったのだろう。むしろ守るべきものが増えたと言ったほうが正しい。
こうして文章を打っている間も、自分の溢れ出るこの熱い気持ちをどう表現しようかと四苦八苦しているところだ。語彙力がないからというのもあるが。

主人公の設定段階だけでこう胸が熱くなるのだから本編が始まったら尚更、感情移入してしまって胸が高まってしまう。でも女子は胸が高まるのか?という問いかけをしてみたい。近くにFateをプレイ、もしくはアニメを見た女子がいないのであんまり確証はないが、この熱い設定、展開に心躍らせるのは男子ではないのか?
女子全員が胸が高まらないと言っているわけではない。ただ最初力を持たなかった少年が力を付け、敵と対峙し次第に強くなっていく。バトルものの王道を突っ走る作品だからこそそう思うのだ。だからこそ男子の死角となっているものが存在するのではないかと思うのだ。女性の目からすればすぐ見つかりそうなものなのに、男子過多の作品だからこそ見過ごしてしまいそうなものが。

私はやはり「女性」というものがそういった存在に当てはまるのではないかと思っている。このFate/Zeroを読み進めながら考えていきたい。

魔術師の血統を絶やさないためにはやはり女性という存在が必要だろう。どっかの国の首相も観客を大いに沸かすミュージシャンも誰もが女性の腹の中で育ち、生まれ、さまざまな環境の中で育っていく。例外はなしだ。誰もが女性から生まれてくる。つまり女性がいないと魔術師の血統は途切れてしまうわけだ。このFate/Zeroという作品には魔術師の妻となった人物やその子供の立場、強さ、愛情。そういったものが強く押し出されている気がする。文中に「友よ…君もまた良い後継ぎを得たのだな」などというセリフがあるがやはり後継ぎが生まれるには女性の存在が必要である。養子をとったとしても例外はなく女性から生まれてくる。それほどまでに女性の占める役割は大きいのだ。しかし魔術師の目から見ると女性は子供を産むための道具的なものに見えているのだろうか、血を絶やさないようにするための道具のような扱いをしされているような気がする。そして生まれた子供も同様だ。その時の女性の心情を省みると心が痛む。ただこの作品はそれだけではない。さまざまな人物が描写されていていることに注視したい。

まずはアイリスフィール。ホムンクルスの身でありながら魔術師殺しの異名を持つ衛宮切嗣との間に子を宿し、娘イリアスフィールを生む。そして数多くの命を奪い、切り捨ててきた衛宮切嗣を愛する存在。切嗣の目的のために器、つまり生贄になることに恐れず、気丈に振る舞い、切嗣を支えている。その姿は理想の妻を具現化したかのよう。娘であるイリアスフィールに弱さを見せることなく、母親というものを演じ続けた。そして愛し続けた。後悔と自責の念で苦しんでいる切嗣なんかよりよっぽど強い存在に見える。力ではなく意思の強さという面において。

次に言峰綺礼の妻だ。ほとんど描写されていないが、綺礼が愛した唯一の人物として取り上げられている。すでに死んでいるが綺礼の頭から離れないくらい、綺礼にとって大きな存在となっていたことが窺える。

そして遠坂葵。時臣の妻となった女性である。さきほど言った魔術師に道具として、自身のみならず子供まで道具的扱いを受けている女性である。
幸せを求め遠坂家という魔術師一家に嫁いでくるのは相当な覚悟を持ってのことだっただろう。しかし幸せになるならと遠坂家に来た。にも関わらず時臣という魔術師との間にふたり子を生み、そしてひとりの子供を間桐の家に送られるという悲劇を経験している。綺礼曰く「一昔前であったなら良妻賢母の鑑であっただろう。」だそうだが、葵と仲の良い雁夜には涙を隠せなかったところを見ると良妻賢母を貫いていても弱い部分があるのが見てとれる。しかし簡単には表に出さないところから彼女の強さというものが窺える。ちなみに葵を道具として見てるという根拠は時臣とのやりとりがなく、愛というものを感じられないからだと付け足しておく。

そして間桐の家に送られた「桜」という娘にも話を広げたい。間桐の家にいったばかりにひどい仕打ちを受けている。笑顔が消えそれでも懸命に生きているところを読むだけで胸が苦しくなる。雁夜が助け出そうとしているが。


こうして見ると、女性は強い存在だと思う。肉体ではなく精神的な意味で。女性に焦点を当てるだけでどれだけ強いのか、そしてどれだけ大きな存在であるかがわかる。
しかし同時に見える弱さ、心情にも注視する必要があるだろう。そして、その強い女性達を基点に様々な思いが錯綜し絡み合うこのFate/Zero

今回、私は新たな観点として「女性」というものを提起し、この作品をより楽しく読み進められるようになれたらと願うばかりである。

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2011.06.17

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/Zero (5) 闇の胎動

苦しい決断をする人々

レビュアー:くまくま

 最近、テレビや新聞を前に、決断力の無さを嘆く機会が多い。おそらく同じようなことを思っている方も多いだろう。そんな方にオススメしたいのが、この本だ。痛快な、潔い、苦しみ抜いた。様々な形容詞に彩られる決断の数々が描かれている。

 決断とは、何もしない場合の結果を予測すること、それを防ぐために打てる手段をあらゆる角度から検討すること、その手段を取った場合に失うものと得るものを把握すること、そしてそれらの価値判断を行い、未来を選び取ることだと思う。
 この性質上、決断がもたらす未来は、必ずしも幸福なことばかりではない。それでも何もしないよりはましだ、という強い想いが、彼ら彼女らに決断をさせる。そして後悔することすら知りつつ決断する姿は、きっと読む者の感銘を呼ぶ。

 こうして決断する人々を心に焼き付けたあとには、また現実を見つめ直してみて欲しい。もしあの時こんな決断をしていたら。その言葉は、後悔としてではなく、よりよい未来を築く糧として、今後に生かしていきたい。

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2011.06.17

「Fate/Zero」のレビュー

鉄

Fate/Zero 1 第四次聖杯戦争秘話

Fateをまだ知らぬあなたへ

レビュアー: tyoro

レビュアー騎士団を見ている人なら、作品に触れた事がなくても『Fate』という名前に見覚えはあるんじゃなかろうか。
僕は学生の時の友人が、ゲームにハマっていたのをぼんやり憶えている。

当時の僕はとても天邪鬼な性格で、友人に薦められたもののついぞ手にする事は無かったのだけど、それ以来何年も『Fate』の名を目にする機会があって気になってはいた。
でも今更、ゲームをやるだけの時間はとれないし...と、そこで出逢ったのがFate/zeroだった。


この本はzeroの名の通りFateより過去の独立した時間の物語であり、単体で楽しめるという友人の薦めも受けて読んでみる事にした。


プロローグを読みはじめて、それぞれ背負うものを持つ、各登場人物達が現れる。
そして物語の軸となり、彼らが死力を尽くして戦う事になるであろう聖杯戦争について語られていく。

近代ものでありながら中世の剣と魔法の世界のような空気を持つ独特な世界感。
とても荘厳で重い物語だな、と序章を読みおえての感想はそんな所だった。
そして1章を読みはじめる。















えぇぇぇぇぇぇぇ!!!!


けっこう雰囲気が変わるのでビックリする。
この驚きは是非手にとって確認してもらいたい。




聖杯戦争では7つのペアが戦うという性質上、物語の登場人物はかなり多い。
その為この1巻では直接的な戦闘はほとんど行われないし、世界観や人物紹介を軸にしながらお互いを探っていく様が描かれている。

では戦端の開かれる次巻まで、耐えて読まねばならないのかというとそうではない。
さっき書いた驚きものそうだけど、物語の導入にしては出来すぎているくらいに起伏に富んでいる。
この1巻はFate/zeroというシリーズがどんな物語になっていくのかを読者に期待させるだけの面白さを持っている。
そしてFate/zeroというシリーズは、Fateという作品に興味を持たせるだけの強い引力を持っている。
そう僕は確信する。



最後に読みおわって疑問に思った事がある。
この折り返しに書かれている肌の青い女性は誰だろう?

この作品を通しての難点として、キャラクターの容姿に対する言及が極めて少ないというのがある。

話しの性質上、本筋に関わってくる登場人物は非常に多い。
その上で説明的にならないようにという事を考えると仕方がないのかもしれない。
だが描かれているキャラクターまで誰だか分からないのは少し残念である。

これがシリーズ初見読者の壁かなぁと思ったが、そこは心配しなくていい。
そんな小説から入った読者の為に最前線には最適なページがある。

ここだ『Fate/Zero 1 第四次聖杯戦争秘話(link:http://sai-zen-sen.jp/sa/fate-zero/about/vol01.html)』

シリーズ1冊毎に特設ページがあり、その巻の段階での登場人物についてはキャラクターイラストが掲載されているのだ。
ページ自体は出来れば本編読了後に読んで欲しい所だが、これがあればキャラクターのビジュアルも補完してくれるので完璧である。


さぁ、もう君がFate/zeroを読まない理由はない。

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2011.06.17

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/Zero

正義の味方のなりそこない

レビュアー:ラム AdeptAdept

実はFate/Zeroでホントに一番好きなのはバーサーカーのマスターである、間桐雁夜でした。

もちろん竜之介も好きだけど。ていうかみんな好きだけど。

雁夜は、なんたって男としてダメダメなのだ。

前にも書いたけど、Fate/Zeroは愛の物語だ。
愛する人のために戦う。恋に生きる男、なるほど美しい。

しかしそれは両想いの場合であって、円満夫婦に横槍を入れる雁夜は邪魔にしかならない。
求められていない彼にできることは何もないので、愛する人のために戦いたい彼の想いは叶うことがない。故に愛する人のために戦いたいという自分の欲望のために戦うしかない。
雁夜は決して訪れることのない幸せな「いつか」を夢見るばかりで、摺り合わない現実を決して見ようとしない。
絶望の中の一抹の希望。
独りよがりに、自分の世界に浸った彼だけの幸せ。
そう、幸せな人なのだ。たとえ結末がどうであれ、自分の好きなことをやって満足している。
ならいいじゃない、と思うのだ。
雁夜が報われないことなんて、最初っから分かってる。どう転んでも幸せになんかなれない可哀想な子なのに、雁夜は自分だけの幸福と共にある。

残酷で誠実だとかいうのはきっとこういうことだろう。
視点を変えれば世界は反転する。
想うばかりで誰にも愛されない雁夜を、私も一方的に愛してあげようと思うばかりである。
バカな子ほど可愛い。ホント、そうとしか言えない。

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2011.06.01

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/Zero

英雄に憧れて

レビュアー:大和 NoviceNovice

 『Fate/Zero』には七組の勢力が登場する。その中で一番好きなペアを挙げろと言われれば、僕は迷うことなくウェイバーとイスカンダルの名を口にするだろう。

 ウェイバーは当初、いかにも卑屈で情けない青年として登場する。必ずしも無能な人物ではないが、行動や発想が一々セコくて小さいし、聖杯戦争に参加したのも自分の才能を誇示したいという、ただそれだけの理由だった。

 だがウェイバーが小さく見えるのは、彼自身の人間性というより、むしろイスカンダルという男があまりにも大きすぎるからだろう。彼はどこまでも豪放で何物にも縛られない。現代社会の秩序や常識も、聖杯戦争のルールや定石も、イスカンダルにとっては何ら問題になりえない。そもそも聖杯を得ることすら彼にとっては目的ではなく世界制服のためのワンステップに過ぎない。その在り方はまさに征服王と呼ぶに相応しいものだ。

 イスカンダルの影響を受け、ウェイバーは少しずつ変わっていく。

 マスターとサーヴァントの関係であるにも関わらず、ウェイバーに対するイスカンダルの態度はあまりにも真っすぐだ。叱るべきと思えば叱り飛ばすし、認めるべきと思えば認めてみせる。初めのうち、ウェイバーはイスカンダルの態度に戸惑う。彼は今まで誰かに称賛されたことは無かったし、称賛される必要も無いと思っていた。だがイスカンダルによって、思いもよらないことで自身の価値を認められたウェイバーは、わき上がる嬉しさをどうすればいいか分からず持て余す。

 しかしイスカンダルがウェイバーを褒める言葉は、必ずしもウェイバーの理想通りではない。例えば地味で定石通りの作業をウェイバーはきっちりこなし、その手際を見てイスカンダルは優秀な魔術師だと褒めるが、ウェイバーはむしろそれが気に入らず苛立ってしまう。ウェイバーにしてみれば、そんな華々しさの欠片もない作業はむしろ程度の低い魔術師がやることに思えるのだ。

 だがウェイバーは、時には叱咤され、時には認められ、時には問いかけ、時に勇壮な背中を見つめながら、凝り固まった心を少しずつ解きほぐしていく。最初はただ振り回されるばかりだったウェイバーも、やがてはイスカンダルを気遣う素振りすら見せるようになる。本当に微々たる変化かもしれないが、確かにウェイバーは大きな男へと成長し始めている。

 ウェイバーの成長は決して華々しく彩られているわけではない。決定的なシーンや演出よりも、むしろ何気ない会話や非戦闘時のやり取りによって、ウェイバーの変化は少しずつ積み重ねられていく。そのプロセスを見ていると、僕の胸で静かな喜びが、じわりと、滲むようにひろがっていくのだ。

 きっとそこにあるのは、ひどくシンプルな成長物語なのだと思う。ウェイバーが見つめる背中は神話や伝説によって語り継がれてきた英雄そのものの背中だ。イスカンダルによって影響を受けるウェイバーは、まるで英雄の物語に憧れる一人の少年のようだ。誇りや信念、狂気や復讐――様々な精神性が複雑に絡み合い、物語が進むほど重々しさを増していく『Fate/Zero』という物語の中にあって、二人が紡ぐ成長物語はあまりにもシンプルで、純粋で、尊いものに思える。彼らのやり取りを見ていると、まるで僕自身が幼く純粋な少年になったみたいに、彼らが心を動かす一つ一つの事がらに一喜一憂してしまうのだ。

 イスカンダルは正真正銘の英雄だ。その大きな背中には、多くの人々が憧れるだろう。ただ、イスカンダルほど大きな背中は持っていないけれど――ウェイバーもまた、僕の心を躍らせる英雄なのだ。

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2011.06.01

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/Zero(4)散りゆく者たち

理不尽で誠実な物語

レビュアー:ticheese WarriorWarrior

物語上の「転」に位置する『Fate/Zero(4)』では、多くの人物が転機を迎える。
セイバーと衛宮切嗣、言峰綺礼、間桐雁夜・・・
中でも大きな変わり目が2組の魔術師とサーヴァントの脱落である。
そして、その2組の脱落の仕方は非常に対照的だった。

かたや救いと安堵を感じながら。
かたや絶望と呪いを振りまきながら。

これを理不尽に感じる読者もいただろう。
あの2組の行いを鑑みるに、もっとふさわしい終わり方があったようにも思える。
しかし、この結末が読者にとって理不尽だったかというと、そうでもない。

著者「虚淵玄」氏は以前の巻からこの結末を臭わせる予兆を配していたのだ。
パートナーとの会話やライバル達の視点の中でそれらを見つけられれば、著者が綿密なストーリー作りをしていたことが解るだろう。その作りは理不尽な結末に至ったことを運命的な必然にし、幸運や悲運に美しさを与える。
美しい終わりならば、それがどんなものであれ受け入れることができるものである。

2つの視点において終わりを迎えた『Fate/Zero(4)』は『Fate/Zero』の「転」の巻でありながら2組の魔術師達の「結」の巻でもある。
1つの区切りを迎えた所で、一度物語を最初から読み返してみてはいかがだろうか。1度目には気づかなかったことに気づけ、あるいは『Fate/Zero』の「結」の予兆が見えてくるかもしれない。

そして読み返す中で著者の誠実な物語作りを知れば、さらに『Fate/Zero』を好きになることだろう。

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2011.05.09

「Fate/Zero」のレビュー

銀

Fate/Zero

「Fate/Zero」は愛の物語である

レビュアー:ラム AdeptAdept

主人公の衛宮切継は、当たり前のように人を愛せる人間味にあふれた男。
正義と愛の間で苦悩するが、家族を犠牲にしても己の正義を貫く非情なヒーロー。

一方、それに敵対する言峰綺礼は、聖職者ながら愛がわからない。
ゆえに自分と似ていると感じた切継に執着する。

あるいは恋愛、敬愛、自己愛、さまざまな種類の愛が「Fate/Zero」にはある。

特筆すべきは雨生龍之介、こいつは殺人鬼である。
私はこいつが大好きだ。殺人鬼だから、が理由ではないよ、もちろん。
龍之介は連続殺人犯でありながら、純粋に世界を愛し世界を楽しみ世界を肯定している。
素直な感情表現でもって人生を謳歌している。殺人鬼だけど。
すべての登場人物の中で、理想の信頼関係を築けているのもこいつ。殺人鬼なのに。
何にもとらわれてないその自由さが羨ましい。

龍之介の登場は、「死」について語るところから始まる。殺人鬼だからおかしい、殺人鬼だから狂っているということではなく、至って正常に狂っているので何故龍之介が殺人鬼になったのかの理由も分かりやすい。
龍之介に限らず、すべての登場人物のZeroに至った背景が濃く記されている。

「Fate/Zero」は愛の物語である。
じゃなきゃ殺人鬼なんか好きになんないもん。

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2011.04.15

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/Zero

七倍の楽しみ

レビュアー:ticheese WarriorWarrior

『Fate/Zero』は6巻構成と中々に長い。私はこのレビュー投稿時3巻まで読み進めていますが、未だに続きが気になってしょうがない心持ちです。そんな『Fete/Zero』の魅力を紹介します。

『Fate/Zero』(以下Zero)は七人の魔術師とそのパートナー達がそれぞれの物語を紡ぐ群像劇。
物語に通った軸はみな同じで、七人の魔術師たちがお互いに技と知恵を振り絞って戦いを繰り広げるというものです。戦いが進む内に、お互いをライバル視したり一方的に思いを寄せたりする関係性ができあがる――これにより魔術師達は『Zero』の世界の中でヒーローやヒールといった役割が振り分けられる訳です。

役割が明快になると読者が希望するのはヒーローの勝利。『Fate/Zero』のヒーローは間違いなく「衛宮切嗣」率いるセイバー陣営です。しかし読者がセイバー陣営の勝利だけを望むことになるかと言えばそうはなりません。この確信は、七人の魔術師達は彼らの陣営の中でもそれぞれの物語に合わせた配役がなされていることから来ています。

例を挙げるとバーサーカー陣営が分かりやすい。
「バーサーカー」のマスターである魔術師「間桐雁夜」の目的は間桐家にとらわれた少女「間桐桜」の救出。彼はあまりヒーロー然とした人物ではありませんが、ここでは「間桐雁夜」がヒーローであり「間桐桜」(またはその幸せを願う桜の母「遠坂葵」)がヒロインです。ヒールは桜を苦しめる「間桐臓硯」、ライバルは雁夜の私怨から「遠坂時臣」が務める――と、この陣営だけでもすでに一本の物語が出来上がります。
こういった具合に読めば、どの陣営にもヒロインやヒールが存在しています。

それが『Zero』が群像劇である所以で、『Zero』最大の魅力です。『Zero』で戦う魔術師達はヒールやライバルの役割を振られようと読者の中ではヒーローの立ち位置に座れます。読み手の主観で自在に姿を変えられる配役は物語を読み切る原動力になります。単純に結末を待つ楽しみが七倍になるんですから。

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2011.04.15

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/zero

じゃぁどうなのよ

レビュアー:さかもと

前回のレビューで、魔弾がどうの、王の器がどうのと語った私だが、なぜあんな文を送ったのか。

それはただ、多くの人にこの作品を知って欲しいからである。
作品を読まないと分からないような単語を羅列し、
「こいつのレビューに書かれてるこれってなんだろう?」
「なんか引きこまれそうな話だな」
「魔法とかって俺の好みかも!」
そんな好奇心や疑問を抱いて欲しかったから。

そして興味を持ってくれた人もいれば、そうでない人もいるだろう。
「これもよくあるバトルものでしょう?」
「どんな話かいまいち掴めないんだけど」
そう思った人たちが。
私は願う。
今回はそんな方達のほんのひとにぎりでもいい、興味を示していただけることを。

――私の思いと矛盾してしまうが、この話は人を選ぶ。
明るいドタバタ学園ラブコメディが大好き、あるいはそういったようなジャンルしか読まないような人にはお薦めしない。

ラブコメディに飽きてきた人、血が湧き立つような刺激が欲しい人。
そんな人の前に私はこれを差し出す。

一冊イッとく? と。
まるでイケナイ薬の売人のように。

地雷や銃器と魔術が合わさったノベルを見たことがあるだろうか。

特異な状況に立たされた人間たちの心理をまるでその場にいるかのような緊迫感で描写したノベルが存在し得たのだろうか。

単に肉弾戦を描いただけでない、心理戦、そして善と悪、何かを救い、求める人間の心と何もかもを破壊し、犯してやろうとする人間の残虐さ。

確かにこれを大雑把に説明してしまえば。
聖杯という何でも願いが叶う道具を求めて七人の魔術師と七人の使い魔が戦う話、だ。

――しかしこれはただのバトルアクションものでは無い。
私も感じ取れていない何かがある。
何を感じるのかは人それぞれなのだが。

どうでしょう、興味を持っていだだけましたか?

本屋の前のあなた、モニターの前のあなたも。
ハードボイルドな虚淵玄氏の世界観、『ウロブチズム』を是非是非肌で、心で感じて、私にも分からない『何か』を悟って。


そして、この作品を愛していただきたい。

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2011.04.15

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/zero(3)

戦いの始まり

レビュアー:さかもと

挨拶もなく、いきなりレビューを始めさせて頂く。

Fate/zero(3) 王たちの狂宴(以下本書)を
発売日当日に買い求めに本屋へ向かった私だが、どこの本屋でも売り切れなのである。
「あれ、発売日間違えたか?」と日付を確認しても、間違いなく3月10日。
結果、11日に目立たないところにある本屋で本書を手に入れた。

これはすなわち、本書が人気であると言う事を如実に知らしめているのではなかろうか。
表紙を飾る武内崇氏の美麗なイラスト、そして虚淵玄氏が綴る英霊の熱き闘い。
その全てが我々を魅了していることを。

――まさに最前線、まさに魔弾。
紙がコンテンダー、文字の一つ一つが魔弾。
紡ぎだされる文字の一つ一つが我々の内に眠る熱き引き金を引く。
同時に弾丸となりて、我々の心を打ち抜かん。
断言しよう。
私は本書に撃ちぬかれた。
なんというか、ズキュンとやられたのである。

王たちの狂宴。
このタイトルこそ相応しい。
彼らは己の誇りを問い、強さを敵に問う。
刃と刃が競演し、魔術師は敵を討たんと己が魔力と知恵を使い魔術の宴を行う。
切嗣は心を機械とし、セイバーは騎士道を貫く。
舞弥とアイリスフィールは愛した男のために。
闘いの中に起こる葛藤や恋慕、全てが見逃せない。
最初から最後までクライマックスなのだ。

王たちは強さと誇りを胸に誓い、女たちは愛と強さを胸に抱く。
惨劇の伯爵は狂いの宴を初め、山の翁は一部始終を見守る。

そして読み手たちは息を飲む。
人の域を超えた闘いと、書き綴られる言葉の魔弾に。

英霊よ、読み手よ。
いざ往かん。
始まりの、その先へ。
大いなる王の器へと。

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2011.03.22

「Fate/Zero」のレビュー

銀

Fate/Zero

一見さん歓迎

レビュアー:ticheese WarriorWarrior

『Fate/Zero』はPCゲーム『Fate/Stay night』の過去の物語である。
時系列の上では「Zero」を先に読むことは何の問題もないが、「Fate/Zero」は決して新規の読者に優しい物語とは言えない。すべてのSF・ファンタジーに言えることだが、固有の単語や独自の世界観は物語を深める上で重要な要素になる。しかしその反面、読者に未知の情報を伝えなくてはならない必要性が出てきてしまう。情報が上手く把握できなければ、読者は置いてきぼりになってしまうのだ。
「聖杯戦争」「サーヴァント」「聖杯」「サーヴァントのクラス」「令呪」「宝具」など、漫画やゲームに触れる機会の多かった世代でさえ初見の単語が数多く存在する「Fate」はその点で(ゲームや漫画などの)初心者に薦めにくい。さらに「Stay night」が「聖杯戦争」について何も知らなかった少年を主人公に据えているのに対し、複数の視点から語られる「Zero」はいきなり「Fate」の世界を形作る情報が氾濫してくるのだ。これでは読み始めが少々つらいかもしれない。
しかし設定でつまずく人もそこで諦めてほしくない。設定が多く複雑でも決してストーリー自体(3巻までの時点で)はそこまで複雑ではないのだ。これはキャラクターに振り分けられた明確な役割に起因する。
敵を打ち倒すヒーローがセイバー陣営
ヘタレな若者の成長で魅せるのがライダー陣営
囚われの少女を救い出す茨の道を歩む悲劇のヒーローがバーサーカー陣営
時には敵対し、時には味方となるライバルがランサー陣営
カリスマ的存在感を醸すヒールがアーチャー陣営
誰もが不快感を催す徹底した悪がキャスター陣営
暗躍する裏ボス的空気を纏うのがアサシン陣営
かなり安直に振り分けてみたが、視点の一定しない群像劇の体をとりながらも『Fate/Zero』はかなり分かりやすい配役をとっている。この配役を見ただけでどんな物語が繰り広げられるか想像でき、ワクワクしてこないだろうか? これが全6巻。現在3巻まで発売された『Fate/Zero』をこれから読む人に向けた(あくまで個人的な)解説である。あまり構えず読んでもらえると、布教する一ファンとしては非常にうれしい。
・・・そして以後の巻で著者の虚淵玄氏の味を堪能してほしい。

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2011.03.22

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/Zero 1 第四次聖杯戦争秘話

これは始まりに至るための物語

レビュアー:横浜県 AdeptAdept

「これは始まりに至る物語――」
でも僕はその「始まり」を知らない訳で。「Fate」と言えば格闘ゲーム「unlimited codes」でキャラの名前を覚えたぐらい。あとはマスターさんとサーヴァントさんが聖杯なるモノを争う事、遠坂凛が可愛い事は知っています。
友達から「マスターとサーヴァントは人名じゃないよ」と突っ込まれた夏の日も、今ではいい思い出です。
そのため「Zero」に手を出すのは、いずれ本編をプレイしてからと敬遠していました。
でも騎士団のレビューを見る限り、どうも「Fate」初心者だからといって楽しめない事はないらしい。だったら文庫版が発売されたこの機会に読んでみよう! ……と言う事で買ってきました。

ところがどっこい。
プロローグまで目を通した時の印象は、「正直分かりにくいなー」
やっぱり世界観を一から理解するのは少し難しいようで。あとちょっと説明が詳しければ、と思う箇所も多々ありました。
ただプロローグさえ乗り切れば、後はすんなりと読み進められましたね。
TYPE-MOONや虚淵玄独特の雰囲気を好きになれるか否か、まず最初で振り分けられるという意味では、決して悪くない気もしましたけれど。

また読み始めでは、世界観にどっぷりと浸かるまでには至れないため、この先の展開には漠然とした期待しか抱けませんでした。
ACT.1に突入すると、やっと作品を読む上での基礎知識が固まり、ある程度の土台ができ始めます。すると先程まではただ宙に浮いていただけの期待や妄想が、徐々に形を伴ってきます。今後の展開を予測するに足る情報量が身についたからです。

それでもやはり、僕が本編を未プレイであることは、至極勿体無い事だなぁと感じられます。「unlimited codes」で使用できるキャラが登場する度に、本編と「Zero」がリンクするような場面において、彼ら本編プレイヤーは如何ほどの感慨深さを抱いているのでしょうか。想像もつきませんね。
一方で未プレイだからこその楽しみ方もあります。表紙裏の煽り文によると、本編では「Zero」の内容が、断片的にではあれど語られていたようですね。ですがそれすらも僕は見ていない訳です。要するにこの先の展開を全く持って知り得ないのです。誰が聖杯を手に取るのか。誰が願い叶わず死に絶えるのか。今にも二巻の表紙を捲りたい! 気持ちが逸るばかりです。

「Zero」を独立した一つの物語として享受する事ができる点においては、僕も幸せ者だったようです。「『Fate』を知らないから」と足踏みしている方々も、是非「Zero」そのものを楽しむつもりで、気軽に読んでみればいかがでしょう。
しかしあとがきでは、読後に「どうしようもなく満たされぬ飢餓感が残ることだろう」とも記されています。「Fate」本編をプレイしない限り、完全な充足感を得られないという事です。これから僕は全六巻を読み切り、やがて本編をプレイしたくて堪らなくなるのでしょう。
どうやら僕にとっての「Fate/Zero」は、自分自身が「始まりに至るための物語」だったようです。

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2011.03.22

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/Zero

残酷で、誠実な物語

レビュアー:大和 NoviceNovice

 誠実であるとはどういうことだろう? ただ無闇に褒めてみせても誠実だとは言い難いし、かといって本音を正直にぶつけることが常に誠実であるとは限らない。だがそんなしがらみはどうあれ、僕は『Fate/Zero』の一巻を初めて読んで、そこに途方もない誠実さを感じて、とにかくこの作品を真っすぐに語りたくなった。だから僕は、失礼な言葉や不快な表現を吐いてしまうかもしれないけれど、この作品を可能な限り真っすぐ語ろうと思う。

 『Fate/Zero』について軽く紹介しておこう。どんな願いでも叶える『聖杯』をめぐり、七人の魔術師達が、『英霊』と呼ばれる「歴史に名を残した英雄達」を召喚し、殺し合う――『聖杯戦争』という争いが存在した。原作『Fate/stay night』は第五回聖杯戦争であり、その十年前にあたる『Fate/Zero』は原作で断片的に語られるのみだった第四回聖杯戦争を克明に描いている。『Fate/stay night』という大人気タイトルのノベライズ、その作者が同ジャンルの界隈において高い知名度を持つ虚淵玄だったこともあって、『Fate/Zero』は大きな話題を呼んだ。

 率直に言って、僕がこの小説を手に取った理由の8割くらいはレビュアー騎士団に向けてレビューを書くためだった。残りの2割は虚淵玄が脚本を担当している『魔法少女まどか☆マギカ』が面白かったから。元々、僕にとって虚淵玄は「面白いけどツボではない作家」だった。だからFate/Zeroの存在は以前から知っていたけど、手に取る気にはならなかった。僕はそもそも奈須きのこの大ファンで、レビューに関しても、Fate/Zeroを語るフリをしながら奈須きのこに関して語ることになるだろうな、と思っていた。

 そんな僕の考えは、いとも簡単に裏切られた。

 『Fate/Zero』は予想していたよりずっと面白い作品だった。びっくりした。ただ面白いだけじゃなく、なんというか……気持ちよく読めるのだ。それが意外だった。

 僕は『Fate/stay night』という作品に熱狂した。その作品の前日譚を虚淵玄が書くと聞いた時、耳を疑った。ファンによる二次創作ならばともかく、公式として『Fate』の作品世界を別の作家が書いてしまっていいのだろうか? 公式に足るモノを作れるのか? そもそも奈須きのこがそれを許すのか? 虚淵玄といえば、残酷で救いの無い物語を描く、血と硝煙が好きなハードボイルド作家というイメージだった。実力は申し分なくとも、奈須きのことは余りにもかけ離れているのではないか。どれだけ作品の出来が良くとも、違和感は免れないだろうと思っていた。

 しかし『Fate/Zero』という小説には少しも違和感を感じなかった。この小説はかなり、原作に対して、そして原作をプレイしたであろう読者に対して気を遣って書かれている。例えばこの小説は表紙や作品のイメージからして衛宮切嗣およびセイバーが主人公というイメージがあるけれども、実質的にはほとんど群像劇として描かれている。これは原作への配慮から来ているのではないか? と僕は感じた。

 原作をプレイした人からすれば、『Fate』の主人公は衛宮士郎だ。例外的なシーンはあるものの、基本的に『Fate』は衛宮士郎の一人称視点で進む。衛宮士郎は強いキャラ付けの無い、プレイヤーキャラ的≒世界を体験するためのインターフェース的存在として描かれていて、それはプレイヤーが奈須きのこの描く世界や物語に対して強く没入することを可能にしている。だから読者にとって『Fate』とは衛宮士郎の物語であり、衛宮士郎を介して体験する物語こそが『Fate』だった。

 『Fate/Zero』は一人の主人公を立てて描くこともできたはずだ。しかしここで三人称による群像劇という手法が選ばれることで、読者は今までと立ち位置をずらすことなく、ただそこにある物語を追うことができる。三人称による群像劇という手法自体は別段突飛なものではなく、自然に選択されたものだったのかもしれないが、そこに『Fate/Zero』の原作に対する姿勢や虚淵玄のバランス感覚が表れていると見ることは自然だろう。

 加えて、虚淵玄は奈須きのこが創り上げた世界観を極めてよく理解し、それに対して忠実であろうとする。聖杯戦争の設定、教会と協会の関係、魔術の仕組み、原作に登場したキャラ等々――制約とも言うべき数多くのルールがその世界には存在する。しかし虚淵玄は、そういった複雑に絡み合った世界の仕組みを、見事にキャラクターの設定に落とし込み、むしろ深みを出すことに活用している。例えば綺礼と時臣と璃正の関係だ。

『綺礼の真摯な授業態度と呑み込みの速さは、師からしてみれば申し分のないものだったらしい。(…)いまや時臣が綺礼に対して寄せる信頼は揺るぎなく、一人娘の凜にまで、綺礼に対して兄弟子の礼を取らせている程である。
 だが時臣の厚情とは対照的に、綺礼の内心は冷めていく一方だった。
(…)
 そんな綺礼の落胆に、時臣は露ほども気付かなかったらしい。はたして“父の璃正と同類”という見立ては、ものの見事に的中した。時臣が綺礼に寄せる評価と信頼は、まさに璃正のそれと同質だった。』

 綺礼がどこまでも虚無的な人物として書かれているのに対し、時臣は魔術師、璃正は教会の神父を象徴するようなキャラクターとして描かれている。彼らが綺礼を見る時、そこには綺礼の実態というより、むしろ自分が信じる価値観を強く投影してしまっていて、その価値観は世界観の特異さと不可分になっている。綺礼に対する時臣や璃正の思考・描写を追うことで、そこにはキャラクターが持つ信念と同時に、世界観のバックグラウンドが浮き上がるようになっているのだ。

 また、作品を作る上で困難だったと思われるのは、『Fate/Zero』が原作の前日譚であることだ。後日談であれば整合性を気にする心配は減っただろうし、あるいは100年や200年といった大昔であればもっと自由に出来ただろう。しかしこれはわずか10年前の物語だ。原作のキャラも多数登場するし、そもそもが原作のスタート地点を準備するような物語だ。物語というのは基本的に状況や登場人物達の変化を描くもので、例えば原作においても、衛宮士郎や他の登場人物達は事件の解決と共に何らかの答えを得る。

 だがこの物語は、原作の始まりに大きく関わる前日譚である以上、事件は何ら解決することがないだろう。それを象徴するかのように、『Fate/Zero』はとても残酷だ。原作を知っている人からすれば、明らかに死ぬしかないような人物や救われないような人物を、虚淵玄は次から次へと容赦なく登場させる。この物語は一巻の時点でどうしようもなくバッドエンドの可能性に満ち溢れている。

 だが選択肢が強く限定された状況下であっても、虚淵玄の筆が鈍ることは無い。むしろ水を得た魚のように、虚淵玄はそれぞれのキャラクターに譲れない信念を与え、両立することのない立場や願いを与え、残酷な現実を突きつけていく。何ら臆することなく、虚淵玄「らしい」物語をFateの世界に注ぎ込んで行く。二次創作でありながら、虚淵玄はその立場に甘えることなく、また自分を卑下することなく、果敢に奈須きのこの世界と戦っている。

 そう、何より僕にとって好みなのは、奈須きのこと虚淵玄という二つの想像力が互いを高め合うようにして『Fate/Zero』は構成されているという点だ。例えば他ジャンルのクリエーターとであればコラボレーションはよく目にするだろう。『魔法少女まどか☆マギカ』は正にそうだし、『金の瞳と鉄の剣』だってそうだ。他の小説だって一人で作っているわけではない。編集者やイラストレーターや校正者等、多くの人が関わり合いながら一つの作品を作っているだろう。しかし『Fate/Zero』の状況はちょっと特殊だ。小説の作品内で、物語の書き手同士が想像力をぶつけ合うことは中々無い。例としては世界観の共有やリレー小説やトリビュート小説なんかが考えられるだろうけども、ここまで状況が限定的で、原作に干渉するような作品はそうそう無いだろう。一般的なノベライズ作品だって、それが公式設定として生きているかどうかは分からないようなものばかりだ。

 もっとも、Fateの二次創作自体は数多く存在するし、そういった作品群も奈須きのこの想像力とぶつかり合っている、と言えるかもしれない。だが他の二次創作とZeroが違うのは、この作品が公式により発売されたということだ。Fateはノベルゲームでありながら数十万本もの売上を記録した、その界隈においては知らぬ者がいないほどのビッグタイトルであり、そのノベライズともなれば相当のプレッシャーだったはずだ。

 だがむしろ、制約やプレッシャーは『Fate/Zero』という作品のクオリティを上げる方向に働いている。ファンによる二次創作は細かい部分が破綻しているもの――公式設定を無視したり調べきれていない作品も多い。だが『Fate/Zero』は原作ファンが求めるであろう世界観の整合性や魅力を、丁寧に積み上げながらも大胆に利用し、求められた以上のモノを読者に提示してみせる。それでいて、虚淵玄は同時に「虚淵玄ファン」が求めるであろう彼らしさも限界まで描こうとしている。虚淵玄は、この本を手に取るであろうあらゆる読者に対して、仁義を切るようにして作品を書いている。

 これは恐らく、奈須きのこが過剰に世界観を創り込む作家だったからこそ成しえたコラボレーションだ。奈須きのこの世界観に対する強靭な想像力と、虚淵玄の物語に対する強靭な想像力が相まって、『Fate/Zero』という作品は非常に高いレベルまで昇華されている。僕が読んだのはまだ一巻だけで、物語自体はほとんどイントロダクションしか書かれていないけど、僕はこの作品を読んで泣きそうなくらい胸が熱くなったし、同時に嫉妬した。こんな機会を持てた虚淵玄が、僕は眩しくて羨ましい。

 最後に、あとがきの一部分を引用しよう。

『当時抱えていた創作活動における葛藤に、私はFate/Zeroの執筆を通して答えを得た。作家としての自意識を肥大させすぎたあまり内罰的になっていた自分を、この作品は救済してくれた。(…)道に迷っていた自分を今いる場所まで先導してくれたのが、このFate/Zeroだった』

 この物語は前日譚であり、原作の事件を準備する「ゼロに至る物語」であり、ほとんどの登場人物は救われないだろうしグッドエンドなんて望むべくもない。けれど、この作品をもって虚淵玄が救われたのであれば、『Fate/Zero』は一人の男が答えを得る物語として読めるだろう。ならば『Fate/Zero』という残酷な物語は、『Fate/stay night』に何ら引けを取らない、強くて美しくて、誠実な物語だ。

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2011.03.22

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/Zero 2 英霊参集

妄想乙もとい妄想素材乙

レビュアー:ticheese WarriorWarrior

レビューが掲載されたのをいいことに前回のレビューを踏まえて、『Fate』をよく知らなくても本を手に取る人が多くいる―という前提で書かせていただきます。なのでいまさらって言わないでくださいね(苦笑)

『Fate』がここまで多くのファンを獲得し、複数のメディア展開がなされてきた魅力の一つに「妄想を掻き立てる力」―そんな所があると思います。
本を一冊を読む。それには多大なエネルギーが必要なものです。そのエネルギーには作品のおもしろさだけではなく、物語に対する「同調」や「憧憬」のような読者の人格から引き出されるものも含まれています。今回は「憧憬」さらにそこから来る「妄想」について語ります。

キャラクター自体もさることながら、何でも願いを叶えてくれる『聖杯』、己のパーソナルに応じて呼び出される『英霊』。この2つは特に読者(あるいはプレイヤー)を魅了する設定です。
前者はドラゴンボールを始め、仮面ライダー龍騎、最近では魔法少女まどか☆マギカ(著者つながりでもあります)など多くの作品で登場する設定で、全人類規模で妄想力を刺激します。かなり小さくすれば「宝くじ当たったら何に使う?」なんかがそうですね。
後者は誰でも「自分だけのなにか」にはあこがれを持つもの。それが自分を「主」と読んでくれればなおさらです。「自分だったらどんな英霊が召喚されるだろうか?」あるいはかわいい女の子英霊(かっこいい漢英霊でも可)に主(本音はご主人様で)と呼ばれたい―みたいな自分を世界観に入り込ませて脳内で物語を構築できる魅力。それが『設定の妙/妄想させ力』です。

本文も長くなりましたが、作品が売れるには消費者(読者)の妄想力を刺激し、その妄想が二次創作になり、それをみた人が原作のファンになるみたいなループを起こさせる『設定の妙/妄想させ力』が高いことが現在のネット環境が整備された環境では必要であり、Fateはその力が非常に高い作品だという語りでした。

ちなみに、なぜ『Zero 2』のレビューでこんな大元の話をするかというと、2巻で私もライダーやランサーのような英霊が欲しくさせられたからです。ただし高所とNTRは勘弁(苦笑)

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2011.03.01

「Fate/Zero」のレビュー

銅

Fate/Zero 1 第四次聖杯戦争秘話

布教用

レビュアー:ticheese WarriorWarrior

00年代にPCゲーム界を席巻し、ゲームにアニメ、コミック、映画と広がりみせた作品『Fate/stay night』。
二次元を嗜好する人ならすでに名前ぐらいなら知っているであろう作品の前日譚が文庫化しました。
―そう聞きオタクで活字好きの身は勢いよく飛びつきました。さあ買ってみるとはずれかな?と思うも、読んでみると当たりかな?という印象でした。
はずれ?かと思ったのはライトノベルによく見られるキャラクターを描いた挿し絵が皆無だったこと―なぜせっかくのオールカラーの挿し絵なのに背景のみ?とは『Fate』を知る人なら誰でも思ったはずです。
当たり?と思ったのはネットで漁っていた情報以上に魅力的に描(書)かれた人物像と著者の筆力。つまりオタクとしてははずれかもしれないが、活字好きとしては当たりかもという・・・
あとがき含めて最後まで読み終えたあと気づいたのはこの文庫がFateファン、さらに広げて二次元好きを対象とするよりもさらに広い層を文章だけで狙える魅力を持っていることでした。(これはあとがきにも書いてあるんですがね)
人によっては挿し絵なしの方が想像が膨らんで良い場合もありますし、さらに知りたければ今の世の中いくらでも情報収集できますものね。―この文庫はあくまでたくさんの人に『Fate』(もしくは星海社文庫)を知ってもらう為の布教用です。そして布教は私には大成功されました(笑)
・・・ちなみに当たり?と「?」をつけたのは6巻に分けているため盛り上がる所まで1巻では到達していない所です。先は長いですね。

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2011.02.10


本文はここまでです。