ここから本文です。

「iKILL」のレビュー

金

iKILL

Q:生き続ける方法って、何?

レビュアー:飛龍とまと AdeptAdept

 A:自分を『殺す』こと。

 ここで言う『殺す』は、何も命を絶つことに限らない。

 我々の日々は常に順風満帆とは行かない。
 喜びだけに埋め尽くされる人生などそうはない。
 何もかもが美しいとは限らない。
 光があれば、影があるように。

 人は生き抜くために無意識に自分を殺している。
 昨日までの自分。
 友人と喧嘩した自分。上司に怒られた自分。落ち込んだ自分。
 負の感情に支配された自分そのものを、無意識のうちに殺す。それが出来る者は、混沌に支配された世界を悠然と踏み歩くことが出来る。ただそれが満足に出来ない者もいる。
 負に押しつぶされそうになると、人間は選択に迫られる。
 一つは、本当の意味で自分を『殺す』こと。
 そしてもう一つは、まず<何らかの方法>で自分を負に陥れた相手を『殺す』。のちに殺意を持ってしまった自分を、『殺す』こと。この方法でうっかり『自分殺し』に失敗した場合、どうなるかを想像するのは難くない。消えない殺意がどこへ転嫁するのか、それを知る者は死に損ねた自分だけだ。

 物語の主人公、小田切明は前述の<何らかの方法>を請け負う、一言で説明するならば殺し屋だ。
 一見決して安いとは言えない、しかし人間の命にしては安過ぎる512万円という金額を支払うことによって、彼はどんな方法を使ってでも『殺す』ことをやってのける。
 最も、ここで言う『殺す』とは本当の意味であり、決して先述した命を絶たない『殺す』ではないが。
 おそらく、彼は他人の『自分殺し』の手伝いをしているのだろう。依頼は耐えることなく訪れる。自分を殺し続けることに堪え切れなくなった人間達が、彼に金を払って助けを求める。殺意を持つ自分を、自分自身で殺すことが出来ないんだ。どうか手伝ってくれ、と。
 ……生きる為には、どうしても I kill が必要ということらしい。
 それはどこか矛盾しているようで、どうにも皮肉めいて聞こえるが。

 また、彼の華麗とも呼べる殺害風景が、この物語には余すところなく書かれている。
 残酷な描写も多々ある一方で、痛快さに似た何かさえ感じてしまうそれは優しさにすら思えてしまう。
「急ぐかい、それとも、ゆっくりやるかい」
 もう、私はこの血なまぐさい物語に取り憑かれてしまっているに違いない。

 自分を殺すだって? 訳の分からないことを言うな、悪いけれども何を言っているのかさっぱり分からない、そう思う方は是非この物語を一読して頂きたい。私の綴った言葉の意味を理解することが出来るかもしれない。
 赤く彩られた空間に魅入られてしまえば最後、間違いなくあなたは自分を『殺す』ことになるだろう。

 本来目を背けるはずであった、惨たらしくも美しい世界を見つめてしまったという自分を――

「Q:生き続ける方法って、何?」の続きを読む

2013.04.30

「iKILL」のレビュー

鉄

渡辺浩弐『iKILL』

生死の狭間をつま先立ちで

レビュアー:ユキムラ AdeptAdept

 我が家でお茶摘み器と呼ぶグッズがある。
一般的には茶摘鋏と呼ぶのだろうか?
剪定鋏の刃先に、サンタクロースが持ってるようなでっかい袋の口部分をくっつけたやつだ。
 刃をかませると、切り落とした部分が袋の中に入る仕組みになっている。
これでお茶の木をザクザク切っていくと、お茶摘みが非常に楽になるというアイテムである。
幼い頃は家の手伝いでお茶摘みをしていたのだが、ちまちまとした手作業が面倒で、このお茶摘み器には非常にお世話になったものである。
 ところが。
このお茶摘み器、困った難点がある。
 さすがに袋に貯めすぎたため、収集場所で袋をひっくり返す…と。
時々、お茶の葉にまざって出てくるのだ、血が。ヘビの頭が。
 お茶畑は山中にあるから、当然、蛇だって出る。
お茶の木に潜んでいたヘビが頭を出した瞬間に、お茶の葉と一緒にざっくりやっちゃったわけですよー。
 新緑に輝くお茶の葉に、ぐねりと禍つヘビの赤。
子どもにはけっこうなトラウマになりました。

 そんな幼少期のことを思い出したのです、この本を読んで。
ユメに出てくるような、後味の悪さ。
なのにどうしてか目を逸らせなくて、吸い寄せられて。
自らの欲のために、他者を虐げるを良しとする人達。彼らが繰り出す行為の数々。
 その本の舞台は、地のニオイでむせ返りそう。
 その本の中では、恨みの深さで沈められてしまいそう。
 人の体なんて、所詮、血袋肉塊だと。告げられる。
 痛みが。ひたひたと、私をワルツに誘う。
 固執していた100円玉で殴り殺される人も。
自らアキレス腱を切る人も。
汚泥の闇に堕ち死する人も。

 それらに、触れる。
彼らの痛みと悼みに触れる。
 痛苦を奏でる文章は、問いかけてくるのだ 私に。
生きているとは何ぞや…と。
 それはかつて、死したヘビの頭が私に向けた双眸の色と同じ問い。
命の果てを、そのきわを。
つま先立ちで、測る行為。

最前線で『iKILL』を読む

「生死の狭間をつま先立ちで」の続きを読む

2012.06.08

「iKILL」のレビュー

銅

iKILL

或るミステリ読みの憤慨

レビュアー:ヨシマル NoviceNovice

激怒した。
それは本書『iKILL』を読み終わったときのことだった。

筆者は本書を読み始める前に『最前線』の特集ページを読んでいた。
そこにはこう書かれていた。

ウェブ上に蠢く処刑システム
「i-KILLネット」の管理人・小田切明の
終わりなき”仕事”の果てに
待ち受けるものは……!?

この四行の紹介文には明らかな間違いが書いてあるのだ。

ミスリードという言葉がある。
小説では、あえて読者に間違ったように勘違いさせる文章を書く技法のことを指す。本書でもその技法が使われている話がある。
そして、ここが重要な点なのだけれど、このミスリードはあくまで勘違いを起こさせるものであり、著者が間違いを記述してはならないという暗黙の了解があるのだ。もちろん、それはあくまで暗黙の了解であり破ったからといって一方的な避難をするべきものではないかもしれない。けれど、作中においては本書の著者は間違いとなる記述しておらず、この点に配慮してあることが読み取れるのだ。

にも関わらず、作品の外で(果たして著者が関わったかどうかは分からない)、その暗黙の了解を覆す記述がされていること、さらには、堂々とミスリードされた間違いを記述していることに激怒したのだ。

当たり前だけれど、暗黙の了解とは意味もなくあるものではない。ミスリードの場合、それは物語の読み方自体を変えてしまうからこそ存在する。
読者を勘違いさせるミスリードを使った物語は、一回読めば読者は勘違いをしていたことに気づくことになる。読者は一回目に読むときには自分が勘違いをさせられていることを知り驚愕する。そして二回目以降読むときには、勘違いを起こさせるように計算された文章に驚愕することができるのだ。

そのため、この紹介文には二重の過ちがある。
一つ目はミスリードの内容を記述してしまったことだ。暗黙の了解である著者が間違いを記述しないのと同様、本書の内容を知っているはずの紹介文を記述した者が間違いを記述することはないと思ってしまう。そのため読者はその内容を知っているという状態になってしまう。だから、著者が勘違いを起こさせようと計算した文章の価値を奪ってしまうことになるのだ。
そして、二つ目の問題はミスリードされた間違いの方を記述してあることだ。読者が勘違いさせられたときに感じる驚愕は文章を読んで無意識の内にそう思わされていたからこそ感じるものだ。読む前に明示されたのであれば、それは単なる訂正に過ぎない。そこに驚きが生まれる余地はなくなるのだ。

もしかしたら上記のような読み方をする者が特殊な例なのかもしれない。いい作品なら暗黙の了解なんて関係ないという者が大多数かもしれない。けれど、暗黙の了解が成立するほどの人数がこういった楽しみ方をしていることをこの紹介文の著者には知ってほしいと思う。手前勝手な願いかもしれないが、そういった読者のための配慮をしていただけると筆者は嬉しい。

最前線で『iKILL』を読む

「或るミステリ読みの憤慨」の続きを読む

2012.03.09

「iKILL」のレビュー

銅

iKILL

残酷な「生」

レビュアー:ヨシマル NoviceNovice

『iKILL』には「I kill=殺す」と「ィキル=生きる」という相反する二つの意味が込められている。主人公は殺し屋である小田切明。その名の通り殺すことを仕事とする小田切の目線で多くを語る本書は殺すこと、つまり死ぬことを描くと同時に生きることもまた強く印象づける。本書はそんな生と死を描いた小説だ。

自分の私生活をネット上に晒し続けるネットアイドルの殺害や自分をいじめる同級生の女子高生の殺害など、主人公である殺し屋の小田切明のもとには様々な依頼が持ち込まれる。小田切によって遂行されるそれらの殺人の描写は無慈悲とも言い表せられるほど生々しく、読者にとっては苦痛すら感じるような場面もある。これらの殺人の場面はまさに「I kill=殺す」を体現していると言えるだろう。

一方、本書にはもう一つ「ィキル=生きる」という側面がある。

本書の特徴に先に書いたような生々しいほどの残酷な描写がある。それは直接的な殺人の描写だけでなく、既に死体となった後の描写でも同様だ。第一話では殺された人体が腐り、そして朽ち果てていく様が丹念に描かれる。この場面は本書の中でも屈指の残酷な場面となっている。それは死に直結する描写でもあるのだが、この場面での残酷さとは、むしろ生きることをより強く思い起こさせる。本書の残酷さは人体が変化していく様子を生々しく詳細に描くことで成立している。読者は死体が朽ち果てていく様子を詳細に読み取ることで、死体がかつて人間だったことにあらためて気付かされる。同時にその死体がかつて生きていた事実と向き合うことになるのだ。

死体がかつてどう生きていたのかという点に関して本書は多くを語っている。そして残酷な描写によってその生と死を結びつけているのだ。果たして殺された人たちはどう生きていたのか。それが本書で残酷な描写に出会ったときに注目してほしいポイントの一つだ。

最前線で『iKILL』を読む

「残酷な「生」」の続きを読む

2012.03.09

「iKILL」のレビュー

銅

ざいんさんのイラストレーションについて

毒の名前は【ざいん】

レビュアー:zonby AdeptAdept

なぜだか不穏な感じがするのです。
なぜだか長い間見ていてはいけないような気がするのです。
ええもちろん、一度目にしたら最後、目を奪われてしまうことを知っています。
だからこそ、見続けてはいけないんです。
でも見過ごすことも許されていないのです。

私が話しているのは――――
そう。
「iKILL」「iKILL2.0」に使われているざいんさんのイラストレーションについて。
滑らかに描かれた少女の肌の質感。青味がかったフィルターを通したような画面。
この世界の一部を切り取り、再構築された世界は緻密なようでいて、どこかざらついた質感を伴っています。
日常の景色を借りた、非日常の構図。
繰り返される蛍光色。その光の攻撃性。
焦点を結ばない少女達。
美しいから、目をそらすのです。
綺麗だから、怖いのです。
正確過ぎて、ずれているのです。
見続けてはいけないなんて言うのは、怖いなんて言うのは言い過ぎでしょうか?
でも私にとってそれは紛うことなき真実なのです。

―――不安定だから、愛しいのです。

あまりにきらやかで、なごやかで、幸福をそのまま絵にしたような絵には惹かれません。
正当に美しいものは、正当なだけで何のひっかかりもないまま頭の中で溶けてゆく。
溶けた後には痕跡すら残らないから。
私は、怖いものが好きです。
私は、綺麗で汚いものが好きです。
見るだけで心ごと奪い去られ、脳髄に生々しい爪痕をつけ、かすかな断片でも焼き付くような絵が好きなのです。

エゴン・シーレの描く、崖の上で抱き合う恋人達の姿。
その絵から立ち昇る切迫感。
ハンマースホイが描いた、外に出ることも中に入ることもできない部屋。
安定しているはずの空間が歪む瞬間。
エドワード・ゴーリーが描き出す、ただひたすら死にゆく子供達。
実現してはいけないことが、紙の上で演じられるという現実。

それらは、美しいだけでは済まされない何かを提示してきます。
綺麗な花には棘がある。
気になる絵には毒がある。
花に触れば血が流れ。
絵を見続ければ、その毒にやられることもあるでしょう。
けれどその痛みが更に絵を印象的な物にさせ、毒はやがて麻薬となって脳内を駆け巡るのです。
もっと。
もっともっと。
と。
私はざいんさんのイラストレーションを求め、その毒にやられてしまわぬよう直視はしないように、それでも時たまイラストレーション見たさだけで「iKILL」「iKILL2.0」を開くのです。

でも、気を付けなければ。
有名な人が言っています。

「誰であれ、怪物と戦う者は、その過程において自らが怪物にならぬよう注意すべきである。
長い間奈落をのぞきこんでいると、奈落もまたこちらをのぞき込むものだ」

と。

気を付けて。
あまり長い時間絵を見続けていると、絵の中の少女と目が合ってしまうかもしれないから。

「毒の名前は【ざいん】」の続きを読む

2012.01.30

「iKILL」のレビュー

銀

iKILL2.0

倫理的な痛み

レビュアー:大和 NoviceNovice

 やはり僕にとって、『iKILL』とは学校で授業を受けているような気分にさせられる作品なのだ。こんな授業をしたらPTAから苦情が来ると思うけど。なんせ『iKILL』シリーズには残酷で凄惨な描写がこれでもかってくらい盛りだくさんだ。例えば死体をバラバラに解体してく様子をじっくりと徹底的に描写したり、死んでしまった方がマシに思えるような壮絶で痛々しい拷問を描いたりする。そうした文章を前に、痛くて怖くて読んでいられない、と述べる人も少なくない。

 確かに『iKILL』の描写は惨たらしくて、僕自身、読んでいて息苦しくなることもある。だが『iKILL』という作品における「痛さ」は、例えば映画『ホステル』や『SAW』といった作品たちとは違い、必ずしも快楽やスリルやサスペンスといったエンタメ性の強化に奉仕していたりはしない。もちろん、そうした機能も皆無ではないのだが、本作における「痛さ」は、エンタメ的な機能を一度は担うものの、最終的にはむしろ、それらを楽しんでいた読者を糾弾することにこそ収束していく。

 それは前作『iKILL』から見られた傾向だが、本作『iKILL2.0』ではより顕著になっている。簡単に言えば、本作では読者が作品を読み進めることそのものが殺人を引き起こす、という構造を取っている。つまり読者に殺人者としての罪が与えられてしまうのだ。作者は凄惨で残酷な描写を積み上げていき、やがて最後には物語を楽しんでいた読者こそが糾弾され、積み上げられてきた全ては読者の罪へと還元される。

 そうした構造を見た時、僕は本作における痛々しくて非倫理的な描写の数々は、むしろ作者が持つ倫理意識の強さを裏付けるものに思えてしまうのだ。例えばサスペンス/ミステリー/スリラー/スプラッターといったジャンルでは多くの人々が呆気なく死んでいくことも少なくないが、『iKILL』にはそうやって倫理を度外視して快楽性を追求することを善しとしないような、どこか厳格でストイックな姿勢を感じてしまう。

 作品のテーマ/メッセージを最大限に表現するため、作者は痛々しい描写を徹底的に書き上げてみせる。そこに僕は、やはり倫理意識の強さ、作者が貫かんとしている信念、みたいなものを感じてしまうわけで、そうした態度からして僕は「厳格な教師みたいだなぁ」などと思ってしまうのだ。だが作品には堅苦しさや厳格さを通り越して、使命感に突き動かされて書いたのではないかと思わされるほどの圧倒的な凄みがある。そんな作品を作ってみせる作者を僕は信頼しているし、カッコいいと思うし、こんな先生の授業ならいくらでも受けたいな、と思うのである。

「倫理的な痛み」の続きを読む

2011.12.20

「iKILL」のレビュー

銅

iKILL2.0

ページの中から語りかける声

レビュアー:zonby AdeptAdept

声が、聴こえると思った。
実際に耳に届く訳ではない。
読んだ文章が脳内で響き、呼応するように内側から声がする、と思った。
その声は問う。
それは牽制するようにも、誘うようにも聴こえる。

「次のページを読むか?読まないか?」

その声を打ち消すように、私は次々とページをめくることを選択し続ける。
まるでその声を無視しようかとするように。
まるで、先急ぐように。

前作の「iKILL」を読んでいたので、その内容が一筋縄ではいかないこと。おそらく目を背けたくなるような残酷な描写がされることは、ある程度予測がついていた。
しかし私は一ページ目の見開きで、早くも出鼻をくじかれることとなる。
文字は横書きで、左は誰かの告白文から始まる。そして右ページにはこんな文字。

*このメールは全自動でお届けしています
*ご興味があれば、ページを送って、読み続けて下さい
*あなたが読み続ける限り、配信は続きます。
*ご興味がなければ、読むことを中断するのも、それはあなたの自由です。

私はこれらの文章が、メールに送られているという設定で書かれていることを理解する。
ああ、そういう世界観なのか。そういう約束なのか。
この四つの*の意味を、私はその程度にしか受け取らず、「読む」ことを選択して次のページをめくった。めくってしまったのだ。

―――やがて私は、「iKILL 2.0」を読み終える。
「iKILL 2.0」を読む前の私とは、微妙に意識の変化した私だけがそこに残る。
読む前の私には戻れない。
声はもう、聞こえない。

読み終えた私は、考える。
この物語を、"読まない勇気"がある人間がいるだろうか。
読み続ける限り、終着点まで止まらない残酷な配信を、途中でなかったことにできる人間がいるだろうか。
読み終わって尚、読む前と一ミリたりとも変わらずにいられる人間が、いるのかどうか、と。

「次のページを読むか?読まないか?」

この声、聴こえますか?

「ページの中から語りかける声」の続きを読む

2011.12.20

「iKILL」のレビュー

銅

iKILL

星海社FICTIONSの黒一点 01.「パッケージについて」

レビュアー:牛島 AdeptAdept

 iKILLという作品を語るにあたって、どうにもこの作品は一本のレビューには纏めきれない魅力があるな、という確信がありました。そんなわけでレビューネタを小分けして勝手に連載(?)を始めたいと思います!
 題して「星海社FICTIONSの黒一点」! 途中で途切れたら私の気力が切れたかボツをくらったと思ってください!

 さて、初回のテーマはこの作品のパッケージについて。ブラックすぎる装丁や、ざいん氏のイラストについて語りたいと思います。

 書店で見かけた方や本棚に納めている方はお気づきだと思いますが、白を基調にした背表紙が多い星海社FICTIONSの中でこの「iKILL」シリーズの真っ黒なカバーはかなり目を引きます。この背表紙の吸引力はなかなかのものではないでしょうか。
 こうした「黒」を強調する仕掛けは本文中にも出ています。紙に印刷したインクが持つ特有の黒さ――光の具合で微妙に変化する味わいが、ページをめくる瞬間に垣間見えます。深みのある「黒」が強調されることで、各巻のテーマカラーにもなっている蛍光色のピンクとグリーンが映えることもポイントでしょう。これらの色の組み合わせから醸し出される、鮮やかなのに不吉なイメージは、作品の内容にも見事にマッチしていると思います。

 そうした色使いが映えるのも、イラストを担当するざいん氏の表現力があってこそだと思います。綺麗なのに、どこか不吉なイラストたち。
 お手元にある方は「iKILL」のイラストを見てみてください。なぜ、ざいん氏のイラストがこうも印象的なのか。そこには三つの大きな魅力があると思います。
 一つは先ほどから繰り返している色使いです。「傑出した色彩感覚」というフレーズにはまさに、としかいえません。ざいん氏の絵は単純に視覚的な魅力があるだけではなく、色彩をうまく使うことで、塗りの中に輪郭に頼らない絵画的魅力が含まれています。
 二つ目は「iKILL」に掲載されたイラストに描かれた背景についてです。これらはすべてよく知っているものでした。UFOキャッチャーの筐体も。公園のブランコも。脱衣所の洗濯機も、机が並べられた教室も、すべて私たちの記憶の中にあるものです。よく知っているはずなのに、なぜかざいん氏のイラストは未知の世界に感じてしまう。当たり前の、身近な風景をここまで不気味に描くというのは尋常ではありません。
 三つ目はキャラクターの目力です。人物や構図、年齢もバラバラなのに、不思議とざいん氏の描く人物の眼に惹かれてしまいます。当たり前で、なのにどこか異質な人物の眼。イラストの魅力がそこにはあるように思います。

 デザインとイラストにおける色使い。
 カラーページ印刷ならではのこの二つの色彩が「iKILL」の魅力に大きく寄与していることは言うまでもありません。

 と、いうわけで。
 第一回「パッケージについて」はこれにておしまいです! 次回からはどんどん内容やキャラクターに踏み込んでいきたいと思います!

 続く!(といいなぁ……)

「星海社FICTIONSの黒一点 01.「パッケージについて」」の続きを読む

2011.12.20

「iKILL」のレビュー

銅

『iKILL』

生きるってなんだろう。

レビュアー:ユキムラ AdeptAdept

 『iKILL』を初めて読んだとき私が抱いた感想は、重い...だった。
私はこの『iKILL』という作品を、割とスタイリッシュでさっぱりとした物語だと思い込んでいたのだ。
飲み物でたとえるなら、麦茶あたりだろうか。
くどくなくて、喉に引っかからずにするする飲めるイメージ。
実際はウィスキーだった。

 噴くわさ。
一気飲みとかできんし。
つーか、相手選びすぎるけん。


 ページをめくる手は徐々に早くなり、その一方で心は重くなる。
ヤバイ、今の落ち込みぎみのテンションで読むんじゃなかった!という後悔。
積読本を減らそうと早起きを頑張った休日が、たった一冊のせいで断念に終わる予感をシュピーン☆ミと受信する。

 なのに、止められない。
カルビーの某商品じゃないのに、やめられない//とめられない♪

 その気になれば目を逸らせるはずの、たかが紙片。
 けれどそこには、一歩間違えば自分にありえるかも知れない未来があって。
電車に乗ったとき、隣に座った人が出くわしているかもしれない現在があって。
知人の誰かが味わったかもしれない過去があって。
 そんな『かもしれない』を持ち味にして、このウィスキーはワタシという名の読者に告げる。
 ――生きているとは何ぞや、と。



 はっきり言って、軽い気持ちで手を伸ばすことはお勧めしない。
重い話とか若干グロってるのとか、苦手な人に強制なんてできやしない。
だから、『ウィスキーが好きな人』に限って、心身の状態が万全なときに、この【ウィスキー】を読んでほしい。

 だいじょうぶ!
最終的に、読んでソンはしないから!!

「生きるってなんだろう。」の続きを読む

2011.12.20

「iKILL」のレビュー

鉄

iKILL

抑止力という力

レビュアー:ひかけ NoviceNovice

この世界には抑止力というものが存在している。らしい。

空の境界でも抑止力について触れているところがある。アラヤは抑止力に知覚されないように行動し、式の体を手に入れ、根源というものに至ろうとしていた。失敗に終わったけれど。
これは抑止力ではなく巴という人物のくだらない家族愛に負けたという結果だったとトウコはアラヤを諭すのであるが。

MGS(メタルギアソリッド)でもPW(ピースウォーカー)とか言って核抑止を目指したりしている。核が撃ち込まれたら報復として自動で撃ち返すシステム。核を撃てば自分にも跳ね返ってくるというような体系を作り上げようとしていた。そうすれば核が撃てない。相手が核で死のうが自動で撃ち返すのだから、そりゃ撃てない。自殺志願者なら知らないが。

iKILLでも抑止力めいたものが存在している。凶悪犯罪者を「裁く」という名目で殺していくことで犯罪自体に怯えさせること、犯罪者の場所をなくすことを成し遂げた。ここでは殺人抑止とでも言おうか。相手を殺すことはすなはち自分も殺されるという体系。そりゃ殺せないわ。

てかそもそも抑止力って何。正直わからねぇ。「悪い人には天罰が」みたいなもんじゃないの?でも上記のものだと天罰とは少し言いにくいし…やってるのは人だからね…うーん。。
人類というグループが持つ「ひとつの方向性」に持っていこうとする力を抑止力というものとしてみたらどうだろう。
例えば、誰かひとりが周りと違った行動をする。するとそれを周りが是正していこうとする。そんな力。ひとりの暴走を止めるようなそんな感じ。その周りと違った行動がとてつもなく大きいものであるとき、人類全体としてはそれに匹敵するものを持たねばならないが。だって同程度の力を持たないと是正できないしね。言うなれば核とかが該当するだろう。

この考えには利点がある。それはひとつの方向性しか人類は持ちえないということだ。
人類にひとつの方向性しかないと考えた場合、別の方向に進んでいく人を特定しやすい。普通、人は人を殺さない。ならそれに背く殺人鬼が別の方向へと進んでいく人物だ。というふうに。でもiKILLの世界の場合方向性がズレてる。しかもひとつの方向性のほうがズレてる。
人を殺す者を是とし、それを妨げようとするもの非だとしている。そしてそれがひとつの方向性へとなってしまっている。

抑止力って武力なんじゃないかという想いが沸いてきた。核抑止って言ってもやはり武力であるのに変わりはないし、抑止ってものは押さえつけるようなイメージが強い。勝ったものが正義の武力とも似ている気がする。

ここまで言っておいてなんだが抑止力について私はイマイチよくわからなかった。いろいろ考えてたらあれやこれやといろいろ浮かんで決定できなかった。
それくらいに抑止力というモノがわからない。iKILLは今のふわふわした抑止力というものの怖さを伝えているのかもと思ったりもした。今を取り巻き、守ってくれている抑止力はそのうち自分たちに災いとして降りかかってくるのではないかというような問題を提起しているかのように。

「抑止力という力」の続きを読む

2011.09.30

「iKILL」のレビュー

銅

iKILL

「悪」というモノ

レビュアー:ひかけ NoviceNovice

個人的にこの話はキライだ。というか女の子がひどい目にあう描写があるとほんと読みたくなくなる。
Fate/Zero読んでるときもソラウとか葵とか桜とかの描写見てたら目を背けたくなったし、星海社関連じゃないけど「るろうに剣心」に出てくる巴とかもきつかった。
ようするに女性にはひどい目にあってもらいたくない。もちろん容姿とか性格とか家柄とかそんなものは抜きにして。
正直好感度上げようとしすぎみたいに思われるかもしれないなこれ。いや、でも本当に心から思ってる。

このお話の主人公は「殺人」を仕事とする小田切明。そしてターゲットがHN(ハンドルネーム)瑠璃という「女性」である。依頼を受けた小田切明は瑠璃を殺さねばならない。そして瑠璃を殺した。
そして私は最後まで読み終えひとりごとを呟いた。

「小田切明ってこれ…言峰綺礼っぽくね?」

そう、Fateでおなじみの彼だ。言峰綺礼だ。なんとなくだけどそう思わせることのできる部分はある。
例えば計画の周到さと遊び心だ。綺礼は自身の高い身体能力と共に知性も兼ね備えている。Fate/Zeroでもそれは至るところで見受けられる。高い身体能力は言うまでもないが、様々な局面で柔軟な対応をし、切嗣の存在を見抜いている彼を知性がないと否定することはできない。そんな彼が計画の周到さとともに遊び心を魅せた場面がある。雁夜と時臣と葵のみつどもえのシーンだ。

綺礼は時臣を殺した後、とある計画を思いついた。それはとても綿密で遊び心という衝動に駆られたものだった。
死んだ時臣と時臣に恨みを抱いていた雁夜とを会わせ、その場に時臣の妻である葵を置くという計画。しかも自分の興味のためだけに。恨んでいた相手がいない虚無感を抱く雁夜、そこに葵がやってくる。息をしていない夫である時臣を見、夫を殺した犯人を雁夜だと決めつける葵。そして葵は雁夜は好きな人などいたことがないんだと雁夜に告げる。葵を好いてきた雁夜にとってこれほどまでにないダメージだっただろう。そして雁夜は葵の首を絞める。葵が自分の知っている葵ではないと絶望して。姿形は似ているけれど葵ではないものとして。
そんな一連の出来事によって起こる嬌声を聞きながらワインを飲む綺礼。

小田切明も似たようなことをしている。綿密な計画によって瑠璃を殺した小田切。そして瑠璃を殺してからの一連の出来事は遊び心によるものだ。
死んだ瑠璃の映像を流し、その上で小田切は瑠璃として瑠璃の小さなコミュニティとの会話を楽しんでいる。そして死んだ瑠璃の真似をして楽しんだりもしている。最後は涙を流しながら笑ったとも言っている。

Fateを読んでいた時と同じような悪寒が私を襲った。「小田切明ってこれ…言峰綺礼っぽくね?((((;゜Д゜))))ガクガクブルブル」みたいな状態だったのだ実は。
Fateでは凛の父である時臣の形見だと言って綺礼が凛にナイフを手渡すシーンとかもある。そのナイフは綺礼が時臣を殺したものであるが。それを告げられず、父の形見として受け取り涙する凛。そしてほくそ笑む綺礼。

「悪」として存在するiKILLの小田切とFateの言峰。この2者の視点を知った今、どうにかして読み解こうと必死である。何かないか、何かないか…と。最前線にあるiKILLのあらすじにはこうある。


他人の欲望を糧に暮らすネットアイドル。復讐のために死体を切り刻む女子中学生。忌まわしき過去を百円硬貨で清算するビジネスマン。
ウェブに渦巻く無数の“悪意”を源にして静かに稼働を始める処刑システム「i-KILL」ネット……。
謎の管理人・小田切明の終わりなき “仕事”の果てに待ち受けるのは、“救い”か、それとも……。あなたにかつてない戦慄を呼び覚ます「iKILL」シリーズ第一弾!!

私はまだiKILLを今出ている分すべて読んだわけではない。だからこそ、これから「謎の管理人・小田切明の終わりなき “仕事”の果てに待ち受けるのは、“救い”か、それとも……。」というところを読み解かねばならないならない。そんな義務を自分に課しているという近況報告でした。

「「悪」というモノ」の続きを読む

2011.09.08

「iKILL」のレビュー

銅

iKILL

読まなきゃわからない

レビュアー:ラム AdeptAdept

怖い話が嫌い。
だって怖いじゃん。
怖いとゾワゾワってなるし、主人公が怖い目にあうのも可哀想で嫌。
「iKILL」も、レビュー読んで怖い話だって思ってたんだけど、勢いで読んだらあれ? すっげー面白いよ?
結局どんな話か分かっていなかったので、冒頭からすごく引き込まれた。

だから誤解を恐れずに言う。「iKILL」はホラーではない。
ほんのちょっと怖いのも嫌な人は、まぁ怖いんだろうけど、怖くなるとこまででもちょこっとくらいは読めるよ。うん、いける。大丈夫大丈夫。

だって「iKILL」は面白い。
今まで読んでなかったことを即後悔したくらい。

確かに残酷な描写がリアルなのだけど、主人公の小田切さんは感情がフラットで、残虐さも、小田切さんの見ているものを後ろから見ている感じで、ちょっとだけ距離が遠いのだ。
登場人物が怖がっていないので、そんなに怖く感じない。

でもだからこそ、4章で急にあなたは、あなたは、と波のように連呼されることに恐怖を感じるけど、そこまで読んでもう怖いとか言ってられないし。
「iKILL」は、たとえば、酔った勢いでやってしまった失態を犯したとき、冷静になってそんなことをした自分が怖くなるお酒って怖いねっていう怖さ。それはホラーじゃなくて、自分への失望とかそういう怖さなのだ。
小説読んで自分に失望とかしたくないよね、でも、だから怖がりながらも読める。
怖い話だから……って読まないのはもったいないよ! 私みたいに!!

「読まなきゃわからない」の続きを読む

2011.08.17

「iKILL」のレビュー

鉄

iKILL

不幸な読者とそうでない者たち

レビュアー:横浜県 AdeptAdept

I はじめに

どんな作品にも賛否両論はつきものだ。
世界中の人々が『iKILL』にそろって同じ評価をつける。そんなことは決してありえない。
価値感は人によって違うのだから。
僕はこの『iKILL』に肯定的な感想を抱いた。けれどその逆であるという人、つまりは否定的な意見を持つ人だって、いるに違いないのだ。

そして僕は思うんだ。
そんな彼らは、きっと幸せであると。


II 『iKILL』の持つメッセージ性

『iKILL』は「劇薬です」と作者の渡辺浩弐は語る。
「日々ネットに触れている」人たちへの劇薬であると。
実はこの作品には強いメッセージが含まれている。
それはことごとく僕らに自省を促す。
あるいは僕らの内なる残虐性や本能を暴きだす。
例えば多くの人間が過去に経験したであろう、愚ろかな行為を描き出したり。
例えば既に他の方がレビューされているように、目を逸らしたいのに逸らせない、そんな残虐たる描写で、読者の身に潜む狂気を思い知らせたり。

それが最も顕著に表れているのは、最終章の「4 殺し屋には顔がない」ではないか。
この章は二人称視点、すなわち僕たち=読者の視点で物語が幕を開ける。
僕たちは「i-KILL」ネットというHPを通じて、過去に凶悪犯罪を犯した者たちを次々と処刑していく。
だが僕たちが直接に手を下すわけではない。罪を負わされることもない。
何故ならネットが持つ匿名性に守られているからだ。
やがて彼ら凶悪犯が殺される映像はHPにアップされる。僕たちはそのむごたらしい光景に思わず顔をそむける。……そのはずが、ついつい最後まで閲覧してしまう。抑えきれない興味と好奇心が湧き出てしまったのだ。
だがやがて僕たち読者はあることに気づき、不安に駆られ始める。
本当に僕らは正しいのだろうか?
凶悪犯を処刑するとはいえ、やっていることはただの人殺しではないのか?
匿名性という盾に隠れ、大勢で個人を裁いていく僕らに正義はあるのか?
そもそも、その盾は安全なのか?
そうして僕らは、この残虐なサイトから手を引くのである。


III 読後感想と思ったこと

この最終章で僕は慄いた。
ネットの匿名性を利用して、自らは安全な場所に身を隠す。そんな者たちで寄ってたかって個人を攻撃する。
かようなことをしでかした経験が、僕にはあったからだ。
作中で描かれている読者は、まさに僕自身のようだった。
僕は過去に自らが犯した愚行を眼前に突きつけられた。
当時の僕がいかに卑しく低俗であったのか、まざまざと見せつけられ、自覚させられ、考えさせられた。

こうして僕にとっての『iKILL』は、たいそう意味のある作品となった。
僕の心にまで届けられたメッセージは、確かに「劇薬」ではあったが、それによって僕は救われた。
『iKILL』という鏡に映った姿を見たことにより、僕は自らの愚かさを知りえた。ゆえにそれを超越しえた。
だから僕は声高に叫ぶ、『iKILL』に読むべき価値はあると。


IV 他方で生まれるアンチ

だがしかし、そうは思わぬ人たちもいるのだ。「はじめに」で述べた通りである。
では『iKILL』に否定的な意見を投げかける彼らは、どうしてこの作品に価値を見いだせないのか。
それは彼らアンチが幸福な人間であるからに違いないのだ。

『iKILL』のメッセージに戦慄した僕のような人間は、この作品に対して感心せざるをえない。あるいは恐怖を覚えるしかない。だって自らの本性を覗かれたも同然なのだから。

一方のアンチは感心も恐怖もしない。
その理由は1つしかない。前提が既に違うからである。
僕は作品のメッセージ性を強く感じたが故に『iKILL』を評価した。
そう、彼らは作品のメッセージ性を感じ取れなかったがゆえに、『iKILL』を評価できなかったのだ。

つまり彼らには、眼前に突きつけられるほどの残虐性や、過去に愚行を犯した経験がないのである。
人間の悪しき本能を晒しあげる作品を前にして、何も感じずどこ吹く風とは、なんと幸せな人生を過ごしている者たちであろうか。
僕が自らの忌むべき残虐性に怯えている傍らで、それを虚構の存在としか捉えられない、いや捉えることのできる人間がいるだなんて。この世の中は理不尽すぎる。どれほどに人格のよいお方なのだろうか。

ただもしかすると、彼らは単にそのメッセージを受け取れなかっただけかもしれない。
あるいは気がついたけれど、逆に顔を背けているだけかもしれない。
それでも僕の彼らに対する「幸せ」との評価は変わらない。
前者がごとく自らの狂気に対し鈍感でいられるならば、不必要な心配を抱える必要はないし、後者がごとく目を背ける勇気を持っているならば、不安の大元を意識から外に放りだせるのだから。まさに「目を逸らしたくても逸らせない」僕とは大違いだ。

以上より最後に僕はこう述べておく。
『iKILL』は素晴らしい作品である。
しかしこの感想は、僕が残虐かつ愚かな人間に生れついてしまったこと、すなわち不幸であることの裏返しなのだ。
そしてそれを自覚させてくれるのもまた『iKILL』なのである。

「不幸な読者とそうでない者たち」の続きを読む

2011.07.14

「iKILL」のレビュー

銅

iKILL 第二回『狼なんかこわくない』

やさしい殺し屋

レビュアー:大和 NoviceNovice

 『iKILL』はひどい物語で、好きだ。悲惨な境遇だったり残酷な描写だったり、痛々しくて見ていられなかったり――「そりゃ、あんまりでしょ」って言いたくなるような物語を『iKILL』は次々と語っていく。第二回『狼なんかこわくない』も、やっぱりひどい話だ。この回が、どんな風にひどいのかと言うと……色々「だいなし」になってしまうのだ。

 例えば、こんなシーンがある。


「体で払いますッ」
 制服のブラウスの胸元を両手で持って、思い切り力を入れて、両側に引っ張る。ゆうべ部屋で何度もやってみた動作だ。ばっ。一気に全開にする。
 ブラはつけてこなかった。裸の胸が一瞬でまるだしになるようにしておいた。
 練習した通り、うまく行った。
 未久は自分の胸をそっと見下ろした。
 片方の乳首が、へっこんで、すごくぶかっこうになっていた。
 失敗。だいなしだ。


 こんな風にして、第二回では色んな事が「だいなし」になる。他にも、死体はミステリー小説みたく処理に困ったりするどころかフードプロセッサーで軽々とミンチにされるし、後藤未久がイジメの復讐を自分で成し遂げたかと思えば実は上手くいってなかったりするし、そもそもが未久の自力なんかじゃなく最初から仕組まれたことだったりするし、仕組んだ小田切明にもまた別の面倒な作業が待っていたりするし……まるで「現実なんてこんなもんだよ」とでも言いたげに、悲惨さや残酷さや痛々しさを伴いながら、いろんなことがだいなしになって、僕らが抱いている理想や想像や幻想が次々と破壊されていく。

 でも読んでいると、なんだか心が軽くなってくる。それは「残酷描写でスカっとした」みたいな話じゃなく、ハッと気付かされるからだ。

 うまくいかなくて当然なんじゃないか?
 だいなしになって当然なんじゃないか?

 僕らは普段、色んな事が理想通りにいかず、不平不満を溜めながら日々を生きる。でも、そんな時に僕らが描く理想像って、必要以上にハードルが高かったりするんじゃないか? それはあくまで理想であって、うまくいかなくて当然なんじゃないか? 『iKILL』はそんな当たり前で、けれど見過ごしがちな現実に目を向けさせてくれる。理想を低く持て、ってことじゃない。ただ「無駄に肩肘を張る必要は無いよ」と言われている気がして、ふわりと肩が軽くなるのだ。
 
 『狼なんかこわくない』という物語は、色々なものをだいなしにしながら、僕の中にある無駄な理想や幻想を次々と殺してくれる。そして僕のココロとカラダはちょっぴり軽くなる。僕らは日々を営みながら、色んな事がうまくいかなかったりだいなしになったりするけれど、それでいいんだ。たとえそれがぶかっこうでも、理想通りじゃなくても、最終的に立ち向かう勇気を得た後藤未久みたいに、未来へ向けて強く生きていくことができるはずだ。

   *   *   *

 かつて『狼なんかこわくない』という歌があった。1933年に発表された、ディズニーによるアニメ『三匹の子ぶた』の挿入歌だ。当時のアメリカは世界恐慌の真っただ中にあった。そんな中で発表されたこの曲は人々を強く勇気づけた。「狼」は突然襲い掛かった世界恐慌のメタファーとして機能し、『狼なんかこわくない』という歌は狼≒世界恐慌を笑い飛ばそうとする歌として受け取られ大ヒットした。

 『iKILL』の第二回『狼なんかこわくない』は、後藤未久が理不尽なイジメと戦う勇気を得る物語だ。このタイトルにどんな意味が込められているか、判断は各々に任せるけれど――少なくとも僕は『iKILL』という作品から勇気を受け取った。

 『iKILL』はひどい物語で、好きだ。
 ひどさの裏に、やさしさが滲み出ているからね。

「やさしい殺し屋」の続きを読む

2011.06.17

「iKILL」のレビュー

銅

iKILL

そこに死体があります。私は生きています。

レビュアー:matareyo

この物語を50字で要約しました。

死体が腐る。死体を解体する。頭部を陥没させて死体にする。生身の人間を散々なぶった挙句に死体にさせる。

ふぅ、こんなところですかね。
って、ちょいちょいちょい。あいやしばらく。逃げないで。お待ちになって!
言いたいことはわかります。存じております。未読の方は顔をしかめられることでしょう。あー、ええと、一体何の話だい、と。既読の方の呆れ顔が目に浮かびます。そいつはちと乱暴に過ぎやしないかい、と。そのようなご指摘は覚悟のうえ。それでも私はここが要点だと思うのです。

人間、あるいはかつて人間だったモノに対しての容赦ない仕打ち。それがこの物語では描かれる。おぞましい。気持ち悪い。不快。肌が粟立つ。腹の底がぞわぞわする。わかったよ。わかったから……。もうやめてあげてくれ!
そんな感情が渦巻く。目をそむけたくなるような描写がこれでもかとばかりに続くのだ。だから、耐えられなくて、本を閉じる……とはいかないんだなぁ、これが。困った。

目をそむけられない。

気持ち悪い、不快だと思っているはずなのに。だけれども純粋な好奇心が勝ってしまう。切り刻まれる人間だかモノだかを食い入るように見ているのだよ、私は。どうしたね?
人間はどうなるのだろう。これはもはや人間なのだろうか。どこまでが人間なのだろうか。
子供が無邪気にアリを潰すような純粋な好奇心。潰す。動いているものが止まる。命であるらしきものが命ではないナニモノかに変わる。さてこれはなんなのか。そういう無表情な好奇心。
そういうの、ありませんでしたか?
それが蘇ってしまうからままならない。

作中、こんなことが書いてあったのです。


「痛みとは主観的なものである。
目玉を刃物でざっくりと切られたら。想像するだけでも誰もが耐え切れないほどの苦痛をイメージするはずだ。
しかしながら、眼球部位の神経は実際はまばらであり、感覚はとても鈍い。痛みは、それが取り返しがつかない行為だという知識がもたらすものなのだ。 
もし死の覚悟を確固として持っている人間がいたとしたら、その苦痛は耳たぶにピアスの穴を開けることと変わりはない。逆に生にたっぷり執着を持った人々がその光景を目の当たりにしたなら。間違いなく、激しい嫌悪をもよおすだろう。
あるいは。顔の皮を丁寧に薄く剥いでいき、その下にあるものを標本のように露わにしていったら。
イマジネーションの外側にあるものをつきつけられた時、人は目をそむけることができなくなるものだ」


ああそれ、私の状況ではないか。想像した苦痛のイメージ。激しい嫌悪。それでも目をそむけることができない。この物語で重要な要素となる「i-KILLネット」の住人たちと、私は同じだったのです。
私も彼らと一緒なのか……。怖い。

『iKILL』は私が生きていることを突きつける。普段は平穏無事に安穏と過ごしているのだと思う。生きている実感などない。そんなことは考えもしない。死ぬことについても同じ。だけれども。ここで私はイメージした、人間の物理的な痛みを。イメージできなかった、その上を行く痛みを。だから容赦なく見続けた。痛みと嫌悪を感じる人間。好奇心に無邪気な人間。私はそれなんだよ。身のうちから湧き上がるジクジクした痛みとゾクゾクする心地良さ。矛盾するような感覚。私は感じている。感じていることを実感する。生きている。
『iKILL』は否が応にも、想像を強要する。そして私という人間を見せつけてくるのです。こいつは、堪えますなぁ。

ところで私、こんなんで大丈夫なんでしょうか。どう思います?
そんな心配をさせるなんて、まったく罪なお話しだよ。

「そこに死体があります。私は生きています。」の続きを読む

2011.06.17

「iKILL」のレビュー

銅

『iKILL』というか後藤未久

これって最早、恋だよね

レビュアー:横浜県 AdeptAdept

『iKILL』とは、全裸で死体をバラバラにした美少女・後藤未久が、140Pほど後方で、セーラー服に身を包み、トーストを口に咥えた上で、主人公と曲がり角でぶつかる作品である。それが全てである。

いや、嘘だけど。
ほんとは残虐性とメッセージ性に満ちた、ふかいふかーい作品なんだけど。

でもさ、僕はもうこのギャップ萌えにしか目がいかなくなっちゃってるんだよ。
そう、ギャップ萌えなんだよ。

僕は一度、後藤未久に恐怖している。
彼女はノコギリで死体を切り刻み、ハンマーで叩き潰し、内臓にハサミを入れ、フードプロセッサーでぐちゃぐちゃにし、あげく排水溝に流している。
それも全て、人殺しを頼むために。
殺し屋の主人公に、512万円を支払うために。

……こんな怖い女子中学生がいるか?
人を殺すために死体をバラすとか、どういうことだよそれ。
何かが矛盾しているよね。何かが破綻しているよね。
いや、破綻している最たるものは、後藤未久の精神なんだろうけどさ。
しかも最終的に、彼女は自分を虐めていたクラスメイトを殺してもいる。

だから僕は、この後藤未久の内に潜む狂気に慄いた。
なのにっ! なのにさぁっ!

そんな女の子が「どっし~ん!」って叫んだり、登校中(という想定で)僕と衝突したり、その口にはトーストが咥えられていたり、僕のことをお兄ちゃんと呼んでくれたりするとは……。
あれ、ぶつかったのも「お兄ちゃん」なのも、僕じゃなくて主人公の小田切だったっけ。
あまりに萌えすぎて倒錯しちゃったぞ。
いっそこのさい小田切よ、今すぐ僕と代わりたまえ。

それにしてもずるい。
理性を失った、ヒトとしての凶暴な本性を露わにさせておきながら、こんなにも女の子らしい様子を見せつけるとかっ。
死体から飛び散る体液と、悪臭に塗れた裸体を描いておきながら、オレンジ色のセーラー服を着せやがるとかっ。
醜い部分を先に見たせいで、可愛い所が余計に目につくんだよっ!
くっそぉ、許さない! こんな方法で僕の心をくすぐるだなんて!
絶対に許さないんだから!

……ところで一つお訊ねしたいのですが、続編の『iKILL2.0』には、後藤未久ちゃんって登場します?

「これって最早、恋だよね」の続きを読む

2011.06.17

「iKILL」のレビュー

銀

渡辺浩弐『iKILL』

12年後のゲーム・キッズ

レビュアー:fei

 ──貴方が「デジタル」と初めて出会ったのはいくつの時でしょうか。

 わたしが『iKILL』の作者・渡辺浩弐と初めて出会ったのは高校生のとき。
 部活の先輩とゲームやインターネットで遊ぶことについて雑談をしていた時に、「君だったらこんな話も読むと面白いんじゃないかな」と勧められ、翌週の活動日に手渡されたのが『1999年のゲーム・キッズ』三部作の文庫本だった。

 そのシリーズが最初に出版されたのは、1994年。ゲームの専門週刊誌に掲載されていたショート・ショートだった。「1999年」その言葉は、執筆当時には世紀末や新世紀を目前とした不安感と高揚感に溢れ、もてはやされていた単語だったのではないかな、と思う。
 しかし、胡散臭さを感じながらページをめくったとき、わたしが感じていた安っぽさはそっくりなりを潜めてしまった。
 ”今”より少しだけ先を見据えた、”すぐ次の時代”をなぞるストーリーの数々。これは単なる空想ではなく、「今、新しく開発されたこの技術がこうやって実用化されていき、数年後の世間はこうなるかもしれない」と、生々しい現実に立脚した未来が描かれた本なのだ。
 そして、過去に書かれた”未来だったはずの物語”は、ある程度が実際に先進的な技術として姿を現し、2002年のわたしのところには、既に”現実”として届いていたのだった。
 衛星通信を利用したナビゲーションシステム、プレイヤーの行動を記録して学習するAI戦闘システムを組み込んだTVゲーム、毎夜のように携帯電話やPCからインターネットへ簡単に接続し、チャットや掲示板で会ったこともない相手とお喋りを楽しみ友情を育む”わたし達”。
 そんなデジタルな生活を、渡辺浩弐ははっきりとした根拠をもって予測していたのだろう。


 あれから10年近くが経ち、今ふたたび、わたしのところへ渡辺浩弐の本が届いた。
 インターネットの大手通販サイトで、1クリックで予約注文され、発売日に自動配送された書籍。どうやらこの『iKILL』という本も、元々は2006年に講談社BOXとして発売された、わたしの知らない過去の物語だったようなのだ。
 奇妙な縁があって、星海社という存在を知り、この本に触れる機会が訪れた。
 わたしはまた、高校生のころを思い出しながら、「少しだけ過去になってしまった話」を手に取る。
 ……これは、本当に過去の話なのだろうか?

 私生活のすべてをWeb上で配信するネットアイドル。
 携帯に入った謎のメールに導かれ、復讐の準備を始める女子中学生。
 最新鋭の技術を操る立場にいながら、百円玉に満ちた記憶を捨てられなかったサラリーマン。
 顔も見えない人間達が、大衆という皮を被って世論のふりを声高に叫ぶ処刑システム・i-KILLネット。

 すべて、今のわたしが経験している現実に即して書かれたような、「今でもこの場に存在し得るかもしれない物語」なのだ。
 映像のストリーミング配信や3D技術が確立し、Web2.0が宣言された執筆当時から、2011年の今に至るまでテクノロジーは進化を続けている。しかし、WikipediaやFlickr、blog、Google AdSenseやUstreamなどわたし達が現在利用している技術も、この本が書かれたころに着想があったものだろう。
 だからこそ、この物語にわたしは深く深く入り込んでしまうような気がしてならない。
 これらの技術を駆使しながら、”ゲーム・キッズ”から”大人”へと成長した本作の主人公・小田切明。彼は”現実”の中で次々と人を殺してゆく。それは殺し屋としての依頼であったり、自身に降り掛かるトラブルを解決するためだったり、発端はさまざまであるが、4つの章では必ず人が殺される。小田切はデジタルな世界に振り回されつつも、巧妙に殺人を重ねてゆく。

 しかし、これは単にデジタルなだけの物語ではない。
 物語の中には、確かに生きた人間が存在し、生々しい姿を晒しながら日々を過ごしているのだ。

 中津田聡子(瑠璃)は、ひきこもるために自分の実生活を配信しながら生きていた。
 後藤未久は、虐めっ子への反撃のために死体を解体し、生身の自分を実感した。
 木村は、夢だったはずのゲームというデジタルに追い回されながら生活していた。
 長田浩典は、自分の復讐が顔の無い集団によって膨れ上がり続けるのを恐れ、生きることを諦めた。

 生きることと死ぬことが隣り合わせに共存する『iKILL』の世界。既に次巻の制作が発表されているが、これから小田切明は生死どちらかに取り込まれることなく、その狭間を綱渡りしながら、また人を殺してゆくのだろうか。
 わたしもまた、この物語に取り込まれてしまうのだろうか。

 ──そんなことを思いながら、またわたしはこの本をそっと開く。
 わたしが高校生だったあの頃から大人になるまで、一緒に成長した物語。
 最後のページまで視線を進め、奥付の文字に指先で触れ、そっとため息を漏らす。
 今まで読んでいた”現実”に恋い焦がれながら。

「12年後のゲーム・キッズ」の続きを読む

2011.06.17

「iKILL」のレビュー

銅

「iKILL」2 狼なんか怖くない Never Trust Under 14

狼はどこにいるのか

レビュアー:zonby AdeptAdept

♪狼なんか怖くない 怖くないったら怖くない 狼なんか怖くない~
「iKILL」の第二話を読み始めてしばらくした頃から、私の頭の片隅では自然にこの歌が流れていた。無邪気で陽気な旋律のはずなのに、どこか陰鬱で淡々とした平坦なリズムで。
そして。
そのリズムに合わせて、物語の中では一人の少女が、バスルームに転がる男の死体を解体していた。最初は、そのあまりに現実離れした光景に立ち竦む少女だがおずおずと、やがて大胆に死体解体へとのめりこんでゆく。

その解体におけるあまりにリアルで、生っぽい描写が好きだと言ったら、誰か私を軽蔑するだろうか。

無論、それが単純に死体損壊に対する憧憬や、ましてや自分もやってみたいなどという気持ちからの「好き」ではないことをここに明記しておく。
私が強烈に惹きつけられたのは、目に浮かんでしばらく忘れられない程鮮やかな死体の描写だ。流れ出る体液。砕ける骨。引きずり出される内臓のリアル。特にフードプロセッサで手を解体する場面の描き方は、他に見たことがなく新鮮だった。
また、解体の作業を進める少女が世にもおぞましいことをしているというのに、だんだん読み手である自分と同化するような感覚が、不気味で何故か――何故だか心地よかったのだ。全ての作業が終わって少女が感じた誇らしさを、私自身も共有してしまう程に。私自身が、何か特別なことをやり遂げたのではないかと錯覚してしまう程に。

絶対に実現してはならない悦楽、というものがここにはある。
現実で得てはならない達成感、というものがここにはある。
死体を解体する行為自体にではない。
それらは死体を解体した後にやってくる。
でも、それらを味わうのは物語を読んでいる間だけにした方が良いだろう。
気をつけろ。
「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」
なんてことを、どこかの偉い人が言っているから。
私は死体解体になんて縁がないし(縁なんかあったら困る)、幸い本気で人を殺そうと思ったことは一度もない。けれど、この物語に惹かれたのにはやはり、自分の中にある何かが反応したからなのだろう。
例えば、私の中にいる「狼」、みたいなものが。
そいつは残酷な物語に反応して牙を向き、唸り声を立てる。いつでも攻撃できるよう姿勢を低くして、血の匂いを敏感に嗅ぎ分ける。

だから。さあ、小さな声で歌おう。
♪狼なんか怖くない 怖くないったら怖くない 狼なんか怖くない~
自分の中の「狼」をなだめるために。飼いならすために。手懐けるために。「iKILL」ために必要でも、「狼」を否定しなければならない。

物語の中の少女のように狼になってしまえば、本当に狼が怖くなくなると知っていても。

「狼はどこにいるのか」の続きを読む

2011.06.01


本文はここまでです。