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「最前線セッションズ」のレビュー

銅

演劇少女・原くくる 1st. インタビュー

私は如何にして戯曲を認識するようになったか

レビュアー:mizunotori

何年も通学している学校。何度も授業を受けた教室。
でも考えてみれば目の前の席に座るこの子の名前を知らない。
存在は知っていたが認識していなかった。
目には見えていたはずなのに脳がそれを処理していなかった。
そういうことがある。

回りくどい前置きだが、何のことかと言えば「戯曲」なのである。
恥ずかしながら私は最近まで「戯曲」という言葉の意味を知らなかった。
「戯曲」。
人類が積み上げてきた文化において決して少なくない一端を担うものであり、私のこれまでの人生においても何度もその二文字を目にしてきたはずである。少なくとも辞書的な意味だけなら十秒で知ることができるものだ。
それなのに知らなかった。
というよりも認識さえしていなかったのだ。

インタビュー中、「演劇は『遠くにあるもの』だ」という旨の太田克史氏の発言があった。
そういうことなのかなと思う。
私が「戯曲」というものを認識したきっかけは、もちろん原くくるのこのインタビューである。
私にとってはるか遠くにあった「戯曲」が、すぐ近くにまで引っ張られてきた。
原くくるという人物にはそれだけのオーラがあった。

再びインタビューによると、高校演劇では「生徒脚本の作品はあまりない」らしい。
少し調べてみたが、皆無というわけではないにしろ、「生徒が脚本を書いて当たり前」という空気では確かにないようだ。
私にとっては「演劇」も十分に遠くにあるものだが、その演劇をやっている子たちにとってすら「戯曲」はさらに遠くにあるものなのだろうか。
それほど遠くにあるものに、原くくるは最初から触れていた。
私が認識すらしていなかった世界に、彼女は自然に入っていったという。
ここにおける問題は、やるかやらないかでも、好きか嫌いかでもなく、認識するかしないかなのだと思う。
彼女には「認識する才能」があるのだろう。

とはいえ、はっきり言えば、「戯曲」を認識したいまでも、私が劇場に行くことはない。
「戯曲」よりも原くくる本人に興味があると言ってもいいくらいだ。
しかし、「最前線」で公開されている『六本木少女地獄』を読むと、これを演劇で見てみたいという気持ちも確かに湧いてくるのだ。
どうしたら私は劇場へ足を運ぶだろうか。
私自身にも分からない。
あるいは劇場へ足を運ばずとも演劇を楽しめるようになるだろうか。
原くくると、その才能を世界に広める責務を負う星海社の、今後に期待したい。

それはともかくとして、どうして drama の訳語に「戯曲」という字が当てられたのだろう。
それがいちばん気になっている。

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2011.09.08

「最前線セッションズ」のレビュー

銀

演劇少女・原くくる 1st. インタビュー

華々しさの影にあるひたむきさ

レビュアー:くまくま

 前中後編に分かれて掲載されたインタビューは、後半に進むほど鋭く切り込んだ質問になり、徐々に面白くなっていきます。中編を読んだ時点までは「Mでつながる編集者と原くくる」というタイトルでネタ的に書こうとしていましたが、気が変わりました。真面目に書きます。

 このインタビューは、太田氏とさやわか氏のお二人が原くくる氏の創作の根幹に迫っていく趣旨だと思うのですが、インタビュアーそれぞれのスタンスに微妙な違いがあり、それが相乗効果を生んで、より面白い答えを引き出すことに成功しているように思います。太田氏は原くくる氏に対する理解がある程度定まっているので、当初は話題提供を行いつつ、さやわか氏が慣れてきてからはツッコミ役に徹する。一方でさやわか氏は、当初は間合いをはかりつつ徐々に接近し、間合いに踏み込んだあとは一気に切り込んでいくという分担です。
 その切り込み方は、型に対する相手の返し方を見るように、既存の様々な作家のスタンスを比較対象にしつつ、その相違点を探るというやり方になっています。それに対する原くくる氏の回答が大変面白くかつ独特で、その口からは劇的で運命的なエピソードの数々が飛び出してきます。

 こんなエピソードの宝庫状態を見せつけられてしまうと「やっぱり特別な人は特別なことがあるから選ばれた存在なんだな~」と思ってしまいそうになります。でもそんな考え方は、おそらく原くくる氏の望むところではないでしょう。彼女の回答からは、それとは真逆の、多くの人が自分と同じ様に考えられるのが当然だ、という様な想いが伝わってくる気がします。
 なぜそうかと言えば、劇的で運命的なエピソードが彼女の根幹というわけではない、と感じるからです。原くくる氏に特筆すべきところがあるとするならば、それは、何かが起きたときに、それはなぜなのか、どうしてなのかを、自分が完全に納得するまで、自問自答し突き詰める姿勢であるように思います。

 これは、誰もがやろうと思えばできることです。しかし多くの人は、長じるに従って、当たり前のことを当たり前と捉え、なぜ、という疑問を抱くことに恥ずかしさすら覚えるようになります。りんごが木から落ちるのを見ても、何とも思いません。そこで、なぜ、と考え続けることが出来る人が、万有引力の法則を発見できるののにもかかわらず、です。
 もちろん、ずっと考え続けていたからといって、誰もが星海社から戯曲集を出せるようになるわけではないかもしれません。でも、希望を抱くのが間違いだなんて言われたら、わたし、そんなのは違うって、何度でも言い返せます。

 それに、仮に挫折を味わうことになったとしても、その経験は無駄にはならないはずです。それからの人生において経験は指針となり、確固たる自分を形作る骨格になってくれると思います。
 だからこそ、世間の常識に流され過ぎず、一回くらいは自分を貫く挑戦をしてみてもいいんじゃないかな。

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2011.09.08


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