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レビュアー「くまくま」のレビュー

銅

月のかわいい一側面

時の果てに実る執着

レビュアー:くまくま

 いや、ドンびくわ。それはないわ。好きな女の子に贈った携帯ストラップに盗撮カメラを仕込む?家の前のゴミ捨て場で、彼女の捨てたゴミを漁る?尾行して彼女の会話を盗み聞く?
 おいおいおい、完全なストーカーじゃないか。それもすさまじく悪質なヤツじゃない?しかも、次の満月には彼女は自分のことを好きになるなんて、妄想まで入っている。これのどこが、中秋の名月にふさわしいんだ?

 それがまさに第一印象。もはや弁解の余地なし。そう思って読み進めていくと、ある意味でそれは誤解であり、ある意味でそれはもっと根深いものであることを知らされる。
 前者の誤解は、必ずしも一方的な思いではなかったということだし、後者のそれは、一千年にも及ぶ執着だったということだ。その結末はまさに、日本人が思い描く中秋の名月にふさわしいもの。

 月が明るく地球を照らしているとき、地球もまた淡く月を照らしている。一方通行の関係に、美しさはない。

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2011.09.30

鉄

ドッペルゲンガーの恋人

SFとファンタジーの境界線

レビュアー:くまくま

 クローン体を作って生前の記憶を移植することで、恋人をよみがえらせる。ところがよみがえった彼女は、ほくろや指紋など、以前の身体との違和感に悩み、その悩みに共感してくれない彼との距離が開いて、それぞれ別の人生を歩むことになる。
 この物語を、クローンの肉体にオリジナルの精神が入る、入れ替わりものと見なしてみよう。そして星海社作品で入れ替わりものといえば「ブレイク君コア」だ。この二作品を読み比べることで、各作品の特性を見出してみたい。

 「ブレイク君コア」では、好意を持った女子高生の精神が別の人物と入れ替わってしまったにもかかわらず、入れ替わった後の人物に恋をしてしまう主人公を描いている。この二作品は、サイエンスか、オカルトか、という手段に違いあれど、アイデアの根底にある要素は同じだ。しかし、入れ替わった後の当事者の反応には方向性の違いが見られる。
 「ドッペルゲンガーの恋人」は、視覚情報を重視している。当事者が感じる違和感のきっかけはほくろや指紋だし、関係破綻のきっかけは外見の変化だ。記憶は継続し、相手に対する想いも残っているのに、その違和感は全てを台無しにする。ところが「ブレイク君コア」は、視覚以外の情報を重視している。恋人だと偽りキスをした時の粘膜の接触から引き起こされる脳天を貫くような快感や、会話からの印象など、本能的な感覚で相手を精神的に認識し、それでいて肉体には感覚器としての機能しか求めていない。

 つまり「ドッペルゲンガーの恋人」では、入れ替えを起こした結果として、精神と肉体は不可分なものだと結論する。恋愛という精神性の高い行為ですら、肉体による影響を免れ得ない。言い換えれば、肉体と精神のセットに人格は宿るのであり、その人格同士が恋愛をするのだと言う。これは、魂という、肉体を超えて伝播する人格の継続性の否定でもある。
 一方「ブレイク君コア」では、精神の優位性を主張する。肉体は外界とのインターフェースに過ぎず、それにより引き起こされる刺激を受け取る精神が、恋愛の主体となるのだ。だからこそ、肉体が入れ替わっても、その恋愛感情に変化はない。つまりここでは、魂の存在が前提とされている。

 この差異は「ドッペルゲンガーの恋人」がSFであることの証明でもある。サイエンスは、人間を人間たらしめている根源がどこにあるのかを未だ証明していない。機能面から見れば脳かも知れないが、それだけでは心臓移植時にドナーの記憶を引き継ぐ事例を説明できない。魂、あるいは心がどこにあるのかを、サイエンスは知らないのだ。ゆえに、サイエンスのアプローチから迫るならば、肉体が違っても同じ人間だ、と言い切ることはできない。
 こうして「ドッペルゲンガーの恋人」と「ブレイク君コア」には、境界線が引かれた。それは、SFとファンタジーの境界線だ。そして、作中キャラの行動からこうした区分ができるということは、各作品が、それぞれのスタンスに真摯に描かれていることを示している。

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2011.09.30

銅

六本木少女地獄

勝利の光を求める絶望的な戦い

レビュアー:くまくま

 六本木にたたずむ家出少年に声をかけた少女。彼らが始める六本木を舞台とした鬼ごっこが行われている間、鬼と子が入れ替わる様に、各々が抱えている事情が交互に語られていく。そして物語の裏面には、女と男、父性と母性、美徳と背徳、神と悪魔、旧約と新約といった様々な対比構造が見え隠れする。
 そんな不思議な構造の骨格を象徴していると感じたのが、六本木少女の次の台詞。「下手(しもて)に生、上手(かみて)には死」 六本木は綺麗で、まるで生きているみたいだが、それは、岩を、森を、川を殺した産物なのだ、と少年に語る中の一節だ。

 台詞中で上手・下手というのは、舞台用語らしい。演者と観客に向きのずれがない様に、客席から見て右側を上手、反対側を下手としているそうだ。そして通常、上座などの用語からも分かる様に、上手が価値の高い場所として扱われる。ここから前の台詞に二つの意図を想像したい。
 ひとつは、上手、下手という表現を使った理由だ。演者の視点に立って考えれば、「左手に生、右手には死」でも構わないはずだ。それをあえて上手、下手にしたということは、演者の価値観に観客を引き込みたいという意図が読み取れる。

 そうして引き込まれた先にある価値観は、普通とは逆転している。なぜなら台詞は下手=生であり、上手=死だからだ。上手から下手へ、死から生への流れは、エントロピーの逆転、時間の流れの逆転を意味する。つまりここで語られるのは、過去の出来事なのだ。
 父は少年になり、母は少女になる。生れ落ちた命は子宮へ、卵子へ、精子へと戻る。その先には母がいて、父がいる。女がいて、男がいるのだ。しかしそのスパイラルは、全てを内包する六本木という街から抜け出すことはできない。小さな街の中で、くるくるとめぐりめぐるだけ。

 少年は少女の思いを反映し、そのスパイラルに戦いを挑む。しかし、常識という、男という、母という敵は強大で、抑え込まれてしまいそうになる。少年が力の源とする父親の幻想も、根元から突き崩される。少年の、少女の味方はそこにはいない。敗北し、無力感にさいなまれながら、スパイラルの中へと引き戻される。
 こうして六本木少女は、スパイラルを、街を一人歩く。しかし、過去の先にはまだ未来がある。そして未来での希望は、まだ潰えていない。諦めさえしなければ、いつかスパイラルから抜け出すチャンスが訪れるかも知れない。

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2011.09.30

銀

演劇少女・原くくる 1st. インタビュー

華々しさの影にあるひたむきさ

レビュアー:くまくま

 前中後編に分かれて掲載されたインタビューは、後半に進むほど鋭く切り込んだ質問になり、徐々に面白くなっていきます。中編を読んだ時点までは「Mでつながる編集者と原くくる」というタイトルでネタ的に書こうとしていましたが、気が変わりました。真面目に書きます。

 このインタビューは、太田氏とさやわか氏のお二人が原くくる氏の創作の根幹に迫っていく趣旨だと思うのですが、インタビュアーそれぞれのスタンスに微妙な違いがあり、それが相乗効果を生んで、より面白い答えを引き出すことに成功しているように思います。太田氏は原くくる氏に対する理解がある程度定まっているので、当初は話題提供を行いつつ、さやわか氏が慣れてきてからはツッコミ役に徹する。一方でさやわか氏は、当初は間合いをはかりつつ徐々に接近し、間合いに踏み込んだあとは一気に切り込んでいくという分担です。
 その切り込み方は、型に対する相手の返し方を見るように、既存の様々な作家のスタンスを比較対象にしつつ、その相違点を探るというやり方になっています。それに対する原くくる氏の回答が大変面白くかつ独特で、その口からは劇的で運命的なエピソードの数々が飛び出してきます。

 こんなエピソードの宝庫状態を見せつけられてしまうと「やっぱり特別な人は特別なことがあるから選ばれた存在なんだな~」と思ってしまいそうになります。でもそんな考え方は、おそらく原くくる氏の望むところではないでしょう。彼女の回答からは、それとは真逆の、多くの人が自分と同じ様に考えられるのが当然だ、という様な想いが伝わってくる気がします。
 なぜそうかと言えば、劇的で運命的なエピソードが彼女の根幹というわけではない、と感じるからです。原くくる氏に特筆すべきところがあるとするならば、それは、何かが起きたときに、それはなぜなのか、どうしてなのかを、自分が完全に納得するまで、自問自答し突き詰める姿勢であるように思います。

 これは、誰もがやろうと思えばできることです。しかし多くの人は、長じるに従って、当たり前のことを当たり前と捉え、なぜ、という疑問を抱くことに恥ずかしさすら覚えるようになります。りんごが木から落ちるのを見ても、何とも思いません。そこで、なぜ、と考え続けることが出来る人が、万有引力の法則を発見できるののにもかかわらず、です。
 もちろん、ずっと考え続けていたからといって、誰もが星海社から戯曲集を出せるようになるわけではないかもしれません。でも、希望を抱くのが間違いだなんて言われたら、わたし、そんなのは違うって、何度でも言い返せます。

 それに、仮に挫折を味わうことになったとしても、その経験は無駄にはならないはずです。それからの人生において経験は指針となり、確固たる自分を形作る骨格になってくれると思います。
 だからこそ、世間の常識に流され過ぎず、一回くらいは自分を貫く挑戦をしてみてもいいんじゃないかな。

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2011.09.08


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