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「ドッペルゲンガーの恋人」のレビュー

銅

ドッペルゲンガーの恋人 唐辺葉介

二つの手記

レビュアー:ややせ NoviceNovice

一般的にドッペルゲンガーは不吉なものだと言われている。
唯一絶対の存在であるはずの自分がもう一人いる。とすると、自ずと価値が半減するかのように思われるし、どうしたってどちらが主でどちらが従なのか考えずにはいられない。
この小説では、ドッペルゲンガーに例えられる存在が、記憶の移植を伴うクローン、肉体と精神両方を備えた複製として現れている。
死んだ恋人・慧の身体をクローンとして甦らせ、元のように暮らすことを望んだ主人公ハジの目論見は、正直甘いように思える。けれど、その甘さを誰が笑うことができるだろうか。

当然のごとく、自分という存在に違和感や疑問を感じるようになっていく慧に対して、ハジの応対はどこか真剣味がない。慧の身体に慧の記憶があるのだから間違いなく君は慧だと言い、環境要因による差異や最初の慧が既に死亡し埋葬されている(一度断絶している)という、慧にとっては自分の誕生に関わる大事を、単なる課程としてしか捉えない。
なぜ、恋人の苦しみが分からないのだろうと、とてもやきもきさせられる。

こうであったかもしれない自分、そして世界。
それを選択し直すことができたとき、登場人物達の価値基準は緩やかにおかしくなっていくかのようだ。
生命倫理の問題は置き去りにされ、誰にでも通じるはずの理が通じなくなり、選択されなかった道を切り捨てていくことによって世界は分割され、どんどん狭く私的になっていく。
それはハジの選んだストーリーであり、ハジが主役の物語だ。
視野は狭く、暗くなる。甘いのではなく、なるようにしてなったそのままを、ただ受け入れているだけなのだ。

そう考えると、苦しむ恋人のためにハジが下した決断とは、自分に都合のいい慧と世界を作り出したことを、そのまま慧にプレゼントし直すことだったのではないか、と思えてくる。
ストーリー上ではハジとクローンは同時に存在しているが、一人称の小説上では同時には存在できない。語り手であることを辞め、視点であることを放棄する。自分を切り捨てられる側の選択肢に置くなんて、これは広義の自殺であるかのようだ。
悪いことをして、人間からどんどん下等な生物に生まれ変わっていって、最終的にはバクテリアになりたいとまで言った作家を思い出す。

確かに、ドッペルゲンガーは不吉なものだった。
それは否応なしにこの世界の単一性を揺るがし、自分の欲求すら不確定なものにしてしまう。
ドッペルゲンガーは確かに私を殺す。互いに互いを食い合う蛇の図像のように、私のドッペルゲンガーの、ドッペルゲンガーが、私であるのかもしれない。

かくして、ハジのクローンと慧のクローンは、望んでいた平穏な暮らしを手に入れました。
めでたしめでたし。
我々はそれを初めて見聞きする物語のように読むだろう。
ただ、そこに切り捨ててきた自分からの記憶の欠落は、本当に無いと言えるだろうか。知らないうちに、ドッペルゲンガーを作り出してはいないだろうか。

そう思うと、じわりと不安に駆られてくる。

最前線で『ドッペルゲンガーの恋人』を読む

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2012.04.02

「ドッペルゲンガーの恋人」のレビュー

鉄

ドッペルゲンガーの恋人

違うからできること。わからないからしたいこと。

レビュアー:yagi_pon NoviceNovice

私は悲しいなって思うんです。
この結末を迎えた二人って。

恋とか愛って二つの楽しみがあると思うんですよ。
一方通行の楽しみと、交わる楽しみが。
片想いの楽しみと、両想いの楽しみ。
愛する楽しみと、愛し合う楽しみ。
もちろん人によっては、
片想いされる楽しみと、愛される楽しみもありますが。

けれど、この二人には交わる楽しみがないと思うんです。
実際、交わる描写がないんですよ。
むしろ意図的に描写していないと言ってもいいですけど。

結婚って、二人がいっしょになるということですよね。
そのいっしょになることの象徴が結婚式のキスで、
二人がつながり、交わるということですよね。

けれども、二人の結婚はつながりの描写が一切ないんです。
むしろウエディングドレスの画像付きメールを送ったり、
結婚式をあげたいと勝手に想像して
(そう考えているのは)「間違いない」と断言したりと、
一方的な思いを余計に強調しているようにすら見えます。

ただ、二人の中では交わる必要ないという見方もできます。
二人の中ではおそらく、クローン人間同士になったことで、
一つになったという思いがあるはずなんです。
少なくとも彼は、彼女と同じものになることを望み、
そうなったのですから。

物語の中の二人はきっと幸せなんだと思いますよ。
世界でたった二人だけの同じ者同士なんですから。
本当にわかりあっているのかもしれません。
二人ではなく、もはや一つとして。

けれども私は、やっぱり悲しいなって思います。
一つになってしまったら、
交わることはできないですから。

違うから、わからないから、交わるものだと思うんです。
彼女が彼女であるのかをたしかめるように交わった、
あのときの二人のように。
男と女で違うから交わったんだと思うんです。
同じだったら、一つだったら、それができない。

心が完全に通じ合っていないからこそ、
物理的に交わったり、つながるのだと思うんです。
手をつないだり、キスをしたり、セックスをしたり。
違うから、わからないから、
そういうこと、したいじゃないですか。

だれとも違う人間で、よかったなって思います。
まぁ、当たり前なんですけどね。


P.S.
SFってこういうところが好きなんですよね。
もちろんわくわくするようなSFも好きですけど。
当たり前じゃない現実にはないことを描くことで、
当たり前の現実にあることを再確認できるような、
そんなところが。

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2011.12.20

「ドッペルゲンガーの恋人」のレビュー

銅

ドッペルゲンガーの恋人

「一人になること」に抗った主人公と、「世界には(あるいは人生には)一人で行かざるをえない場所がある」ということ

レビュアー:USB農民 AdeptAdept

「私も花の下へ連れて行っておくれ」
「それは、だめだ」
 男はキッパリ言いました。
「一人でなくちゃ、だめなんだ」

――坂口安吾『桜の森の満開の下』


『桜の森の満開の下』は、坂口安吾の代表作の一つに数えられる作品です。
 上記の会話のうち、最初の台詞は女のもので、後の二つが男のものです。
『ドッペルゲンガーの恋人』のレビューを書くにあたって、まず、この男女のやりとりから私が感じたことを書こうと思います。

 女を拒絶して、「花の下=桜の森」へ行こうとする男ですが、なぜ「一人でなくちゃ、だめ」なのかは作中で明確に明かされません。男自身にも理由や根拠はわかりません。ただ、そうすることが正しいのだという男の確信と、坂口安吾の圧力のある文章が妙な説得力を生みだしています。
 私はこの二人のやりとりがなぜか妙に心に残り、小説を読み終えてからもずっと「なぜ、一人でなくちゃ、だめなんだ?」と疑問に思っていました。
 そして私が自分なりに得た答えは、「世界には(あるいは人生には)、一人で行かざるをえない場所がある」というものです。
 「その場所」というのが何なのか、今までうまく言葉にすることができませんでした。しかし、そういうものがある、という思いは今も変わらずあって、『ドッペルゲンガーの恋人』は、まさに「その場所」を描いた作品なのだと、私は思うのです。
 

『ドッペルゲンガーの恋人』には、オリジナルの人物の記憶を引き継ぐことで、個人の死を克服する術としてのクローン技術が描かれます。
 政府要人のための特殊な延命措置として研究されていたこの技術を用いて、主人公は自分の恋人を生き返らせることに成功する。――というのが、この物語の冒頭です。けれど、読み進めて行くうちに、オリジナルと同一の肉体と精神と記憶を持って生まれて来るクローンは、果たしてオリジナルと同じ人間なのか、それとも別の個人なのか、登場人物たちにも、読者にも上手く判断がつかなくなっていきます。
 その混乱にめげずに、主人公はクローン技術を肯定し続けます。彼女が前述のようなアイデンティティの不安に陥り、情緒不安定になっても、彼女の傍を離れず、好意も失くしません。彼女と離れることが彼女のためになると思えば、その決定にも従います。それは愛のために献身的に尽くす者の姿です。その姿勢は、序盤から終盤まで貫かれます。
 
 しかし、その情熱は、何か不自然さを感じさせるものであることも確かです。どうして主人公はそこまで献身的になれるのか、その情熱はどこから湧いて出るのか、作中の誰にも(主人公自身にも)わかりません。また、主人公の献身的姿勢とともに終始一貫して描かれるのが、主人公の、クローン技術への肯定的精神です。
 彼女への愛と、クローン技術への肯定的精神。
 この二つの意思が両輪となって、物語は進みます。
 私はここに、主人公の情熱の秘密を、あるいはこの小説の秘密を、見つけたように思います。

 その秘密とは、「一人になること」への抵抗です。

 恋人の死という残酷な離別。
 自らの死という空虚な孤独。

 クローン技術とは、クローン人間とは、それらへの抵抗の術として描かれているのではないか。
「一人になるのがいやだった」
 言葉にしてしまえば、そんなシンプルな気持ちこそが、主人公の精神の根底に流れ、情熱の源泉となっていたのではないだろうか――。

 物語の終盤。
 ある人物が主人公の前に現れ、「君だって死ぬときは一人だ」と告げるシーンがあります。
 私はその場面から、『桜の森の満開の下』に書かれていた男と女のやりとりを思い出しました。
 二つの作品は、深いところでつながっているように、私には思われます。それが「世界には(あるいは人生には)、一人で行かざるをえない場所がある」という感覚です。
『桜の森の満開の下』では、「その場所=桜の森」はとても美しい場所であると同時に、とても寂しく、とても冷たい場所であると語られています。
 私は、正直に言って、「その場所」を怖いと思っています。
 だから、クローン技術によって、「その場所」への抵抗を貫いた主人公に少し共感を覚えます。

 けれども同時に、主人公が「君だって死ぬときは一人だ」と告げられてしまうことが示すように、「その場所」から完全に逃げることはできないし、そんな技術も存在しないのだろうと、そう思います。

 唐辺先生は、その不可能性を自覚して作品を書いていると思います。
「人はいつか一人になる」
 その現実は誰にでも平等で、絶対のルールです。
 だけど、人はみんな「一人になりたくない」と強く願う。
 願ってしまう。
 不可能であっても、人は願わずにはいられない。
 そんな願いが表現された物語だからこそ、唐辺先生の作品は読者の胸を打つのでしょう。

 ――クローン技術とともに人生を歩んだ主人公は、物語の結末へと至ります。
 果たして、主人公が辿り着いた「場所」は、坂口安吾がかつて書いた、冷たく寂しい桜の森の満開の下だったのか。
 それとも別の、まだ誰も見たことも書いたこともない風景だったのか。
 そして、そこで彼が手に入れたものとは何だったのか――

 その意味と価値は、読者によって異なるかもしれないけれど、それはきっと、ただ甘いだけのものでもなく、ただ厳しいだけのものでもない。
 私から言える確かなことは、一つだけです。
 その意味と価値を知るためには、一人でそこへ行かなくてはいけない、ということです。

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2011.09.30

「ドッペルゲンガーの恋人」のレビュー

鉄

ドッペルゲンガーの恋人

SFとファンタジーの境界線

レビュアー:くまくま

 クローン体を作って生前の記憶を移植することで、恋人をよみがえらせる。ところがよみがえった彼女は、ほくろや指紋など、以前の身体との違和感に悩み、その悩みに共感してくれない彼との距離が開いて、それぞれ別の人生を歩むことになる。
 この物語を、クローンの肉体にオリジナルの精神が入る、入れ替わりものと見なしてみよう。そして星海社作品で入れ替わりものといえば「ブレイク君コア」だ。この二作品を読み比べることで、各作品の特性を見出してみたい。

 「ブレイク君コア」では、好意を持った女子高生の精神が別の人物と入れ替わってしまったにもかかわらず、入れ替わった後の人物に恋をしてしまう主人公を描いている。この二作品は、サイエンスか、オカルトか、という手段に違いあれど、アイデアの根底にある要素は同じだ。しかし、入れ替わった後の当事者の反応には方向性の違いが見られる。
 「ドッペルゲンガーの恋人」は、視覚情報を重視している。当事者が感じる違和感のきっかけはほくろや指紋だし、関係破綻のきっかけは外見の変化だ。記憶は継続し、相手に対する想いも残っているのに、その違和感は全てを台無しにする。ところが「ブレイク君コア」は、視覚以外の情報を重視している。恋人だと偽りキスをした時の粘膜の接触から引き起こされる脳天を貫くような快感や、会話からの印象など、本能的な感覚で相手を精神的に認識し、それでいて肉体には感覚器としての機能しか求めていない。

 つまり「ドッペルゲンガーの恋人」では、入れ替えを起こした結果として、精神と肉体は不可分なものだと結論する。恋愛という精神性の高い行為ですら、肉体による影響を免れ得ない。言い換えれば、肉体と精神のセットに人格は宿るのであり、その人格同士が恋愛をするのだと言う。これは、魂という、肉体を超えて伝播する人格の継続性の否定でもある。
 一方「ブレイク君コア」では、精神の優位性を主張する。肉体は外界とのインターフェースに過ぎず、それにより引き起こされる刺激を受け取る精神が、恋愛の主体となるのだ。だからこそ、肉体が入れ替わっても、その恋愛感情に変化はない。つまりここでは、魂の存在が前提とされている。

 この差異は「ドッペルゲンガーの恋人」がSFであることの証明でもある。サイエンスは、人間を人間たらしめている根源がどこにあるのかを未だ証明していない。機能面から見れば脳かも知れないが、それだけでは心臓移植時にドナーの記憶を引き継ぐ事例を説明できない。魂、あるいは心がどこにあるのかを、サイエンスは知らないのだ。ゆえに、サイエンスのアプローチから迫るならば、肉体が違っても同じ人間だ、と言い切ることはできない。
 こうして「ドッペルゲンガーの恋人」と「ブレイク君コア」には、境界線が引かれた。それは、SFとファンタジーの境界線だ。そして、作中キャラの行動からこうした区分ができるということは、各作品が、それぞれのスタンスに真摯に描かれていることを示している。

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2011.09.30

「ドッペルゲンガーの恋人」のレビュー

銀

ドッペルゲンガーの恋人

希望のドッペルゲンガー

レビュアー:6rin NoviceNovice

「ドッペルゲンガーの恋人」。この物語の中で、僕は人間と馴染み深い、恐ろしい生き物に出会いました。本書の帯に「胸を打つSFラブストーリー」とありますが、この物語はおぞましいものが登場する物語という意味ではホラーでもあります。

主人公が生前の記憶を移植した死んだ恋人のクローンと同居することや、多くのクローン人間が当たり前に存在し、人身売買などの犯罪に巻き込まれる世界、主人公が働く『フランケンシュタイン研究所』と揶揄される、死者をコピーとして再生しようとする研究チーム。これらのいかにもホラー的なモチーフをおぞましく感じる読者もいるでしょうが、僕は他のものにおぞましさを感じました。それは生きるうえで目を向けるべき大切なことを見ない主人公の姿勢です。
この世界の日本は戦時下にあり、国民であれば通常、戦争がいつ終わるのかが気になるはずです。しかし、主人公は戦争が間もなく終わるかもしれないことを伝えるニュースに興味がありません。戦争が終われば、記憶までコピーしたクローン製造の実用を目指す主人公たちが糾弾される可能性が高いのにです。
主人公は自身の未来を左右する、本来ならば目を向けるべき大切なことを見ないのです。
彼はクローン人間の研究者ならば知っていて当然のクローン人間たちの惨状を知らず、クローンであることに恋人が苦悩することを馬鹿らしく思います。
そして、クローンである同居する恋人の太った姿を見て『僕は養豚場の飼育員みたいだね』と言います。
僕は大切なことに目を向けない主人公がおぞましい。

大切なことに気付かない。気付いても目を向けるべきだと思わない。目を向けるべきだと思っても考えないようにする。
このように大切なことを無視して生活するということは、誰でもやっているはずです。
大切なことの無視。その分かりやすい例を挙げれば、国や地域の先行きを左右する選挙で、もっとよく検討すべきだったかもしれないと思いつつ用紙に記入して投票してしまうとか、投票に行くべきだと思っているのに面倒だから行かなくていいと判断してしまうといったことです(福島の原発事故以前、原発の危険性を十分に認識していなかった国民の姿勢もそうです)。
自分は大切なことから目を離さない。と思う方もいるでしょう。しかし、人間にとって大切なことは幾つもあります。その全てに目を向けるのは難しいと思います。
本来的に人間には、大切なことに向けるべき目が無い「のっぺらぼう」の一面があるのです。
精神科医や同僚、恋人が口にする、主人公への当たり前の疑問に耳を傾けない主人公。人間の、大切なことに目が向かない欠点を強調して描かれた主人公は、人間から抽出された「のっぺらぼう」といえます。
僕が主人公をおぞましいと思うのは、彼が愚かな人間、愚かな僕のドッペルゲンガーだからなのです。

「のっぺらぼう」である人間は事前に全ての把握すべき大切なことを知ることが出来ません。恋人の完全コピーとの同居という誰も経験していない未知の領域なら尚更です。この同居は主人公に予想外の困難と苦痛をもたらし、やがて押し潰された主人公は自暴自棄になります。破滅が死角からやって来たのです。そして、主人公はある驚くべき方法で、未来に対して前向きな人生を取り戻します。
怪物や幽霊の分かりやすい恐怖とは異なる、人間が人間自らを破滅させる「のっぺらぼう」であることの静かな恐怖。淡々と描かれる主人公の緩やかに進む破滅の過程から、「のっぺらぼう」であることの静かな恐怖が伝わってきます。

今年2011年、日本は地震や津波、原発事故などの大きな災害に見舞われました。対策がもっとしっかりしていれば、被害を抑えたり無くしたり出来たのかもしれません。災害の危険性を甘く見たり、不十分なシミュレーションに基づき対策を立てる「のっぺらぼう」でなければ万全の備えが出来たかのではないか。その思いが人間に自分たちの「のっぺらぼう」性を突きつけます。
現実が本作以上に「のっぺらぼう」のおぞましさを示す現在において、本作が描く「のっぺらぼう」のおぞましさはインパクトが弱い。しかし、崖っぷちから復活する主人公の姿からは逆境から立ち上がれる人間の強さが感じられ、それは、自分も苦しいけれど頑張るぞ、という元気をくれます。
「のっぺらぼう」のおぞましさを描くホラーである本作は、人間の強さに希望を感じられるという意味で、読者にとってまさしく「胸を打つSFラブストーリー」になるはずです。

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2011.09.30

「ドッペルゲンガーの恋人」のレビュー

銅

「ドッペルゲンガーの恋人」

もう一人の私は何の夢を見るか

レビュアー:zonby AdeptAdept

もう一人自分がいたらいいなー。
そうしたら面倒なことは全部もう一人の自分に押し付けちゃってさ。オリジナルの自分は好きなことばっかりしていられるのに。あるいは、もう一人の私はオリジナルの自分と同じ思考回路を持つはずだから、まさしく「つー」と「かー」。阿吽の呼吸の如き以心伝心具合でもって、普段の作業を二倍の速さで終わらせられちゃうのに。
なーんてことを、これまで誰でも一度は考えたことがあるはずである。
あの駄目人間で有名な、野比のび太も考えた。
それどころか、そののび太を更生させるためにやってきたはずの某猫型ロボットまで考えた。
「もう一人の自分」とは、小説から漫画に至るまで多くの作品の中で取り扱われ、また夢想されてきたテーマの一つである。

「ドッペルゲンガーの恋人」は、今よりももっとクローン技術が進化した世界。主人公の失われた恋人の体細胞からクローンとして再生された彼女が目覚めるところから始まる。彼女は目覚め、自分の状況を説明されてから泣く。

「すみません。せっかくの素晴らしい実験なのに、こんな、馬鹿みたいに泣いてしまって……。でも、どうしても涙がとまらないんです。おかしな話ですよね?死んでしまったのは私で、ここで泣いているのも私なんです。嗚呼、一体何がどうなっているのか……。すみません、どうか泣かせてください……本当に、頭が、おかしくなりそうなんです……」
と。

私はここで早くも、ひっかかりを覚えた。
常日頃、もう一人の自分がいれば楽(かもしれない)のになー。作業が分担できて便利なのになー。と考え、「ドッペルゲンガーの恋人」というロマンチックな題名と、胸打つSFラブストーリーという帯の惹句から、死んだ恋人がクローンとして蘇ってなんとなくハッピーという物語を予想していたからだ。
何より、そのひっかかりが「おかしな話ですよね?死んでしまったのは私で、ここで泣いているのも私なんです。」の一言に集約されていることに気付き、私は今まで考えていなかった(考えようともしなかった)事実に直面したのである。
オリジナルは私。
これは大前提である。
ではこれは?
オリジナルなのだから、主導権や支配権・決定権は当然私にある、と。
当たり前のように、そう…思ってはいなかったか?
オリジナルではない自分の存在。その自我について、一度でも思考を巡らせてみたことがあったか?
という事実に。
私の前に、もう一人の私が立つ。
私を指さして言う。
「お前がクローンで、私の方がオリジナルだ」
もしくは
「オリジナルはもうずっと前に死んだ。私達はクローンのクローンを続けている」
そこで逆転する。
私は私であって、それは揺らぐことのないことであるはずなのに、もしも鏡で見たように同じ容姿、同じ思考を持つ「もう一人の私」なる存在にそれを言われたとしたら、揺らぐのではないか。私は「私」になり、やがて「私というはずだった他人」になるのではないか。
それは、全く同じ意識と記憶、容姿を持ちながらにして違う「人格」を持つ他者。
それは、「私」が「私」でなくなる恐ろしい一瞬。
だから、さらりとした筆致で描かれてはいるが彼女が泣くこのシーンは、物語が終末をむかえるまで深く私の心に残るシーンになった。

東北の震災や、政治、芸能などの情報であふれる今からすると、もう随分前の話になるだろうか。
クローン羊のドリーが話題になったのを覚えている。
「ドッペルゲンガーの恋人」ほど技術がない世界の話だ。その世界からしてみればクローン研究史上に残る、ほんの最初の一歩でしかないのかもしれない。
しかしドリーは生まれた。
クローンとして。
けれどクローンとしては失敗し、ドリーはオリジナルの個体が持つ本来の老化現象に若くして襲われ死んだと聞く。人間ではないし、もうこの世にはいないので不可能なことではあるけれど、ドリーはクローンとして生まれて何を見たのだろうか。
もし話ができたなら、何を語っただろうか。
――もし、私のクローンができるとしたら私を指さして何を言うのだろう。
  同じ寝顔で眠る私の横で、どんな夢を見るのだろう。

私はもう、「もう一人の私」という他者を求めないだろう。
私の大切な人が死んでも、「もう一人の大切な人」を求めないだろう。

「ドッペルゲンガーの恋人」を読んで、私は確かに「私」のドッペルゲンガーを見た。

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2011.09.30

「ドッペルゲンガーの恋人」のレビュー

銅

ドッペルゲンガーの恋人

純粋に愛

レビュアー:ticheese WarriorWarrior

 恋人『木原慧』は死んだ。だから「木原慧」は生まれた。世界で唯一、オリジナルの記憶を受け継いだクローンとして。周りの人たちは死んだ『木原慧』が帰ってきたと喜ぶけれど、そんなことはありえない。ふたりは違うではないか。彼女の体はオリジナルより年若い。彼女とオリジナルには一卵性の双子程度の誤差がある。そして彼女は『木原慧』の死を経験していない。どれも理由はクローンだから。たとえふたりが99.999%同じだと言われても、残り0.001%の溝が埋められない。
 遺伝子レベルで同じ人間との溝が埋まらないのに、「木原慧」と主人公『土師悠司』との溝はもっと埋まらない。ただ違う人間だっていうことだけじゃない。クローン研究者の彼とではクローン、その家族、将来の展望と、あらゆるものに対する価値感が違う。特に「木原慧」が1番悩んでいることで価値観が違うのが手に負えない。

 人が解り合うって本当に難しい。家族とだって恋人とだってオリジナルとだって難しい。でも難しいからこそ、『土師悠司』と「木原慧」が解り合おうとする努力は美しい。幾多の問題が待ち受けているだろう。見苦しい所も見せるだろう。結果傷つくことも傷つけるもあるだろう。それでも愛を胸に立ち向かうその姿は、私の目に美しく写る。『ドッペルゲンガーの恋人』は美しいラブストーリー。解ってもらえるか不安だけど、私の胸にも愛があるからきっと大丈夫。

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2011.09.08


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