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「果てなき天のファタルシス」のレビュー

銅

果てなき天のファタルシス

美しい青空の下で

レビュアー:AZ AdeptAdept

 世界は不条理だ。努力は報われず、良い人は損をし、自然は容赦なく人の命を奪う。理由なんてないし、私たちは運命に従うしかない。
 『果てなき天のファタルシス』の世界もやはり不条理だ。人類は、ファタルという正体不明の敵に襲われその数を減らしている。主人公である八尋は事故で記憶を失い、わけもわからぬまま戦いに巻き込まれていく。戦いの中で八尋は一人の女の子に思いを寄せるが、彼女は敵の攻撃で命を落としてしまう。それどころか、彼女のクローンまで現れて、次々と死んでいくのを八尋は目にする。
 八尋は、それほどの目に遭うような悪い行いをしたかというと、そんなことはない。むしろ、仲間のことを思い、チームの中で自分の役割をこなそうと努力している。なのに、この仕打ちだ。八尋は、「不条理だ! 理不尽だ!」と神を怨んでもいいと思った。
 しかし、八尋は最後まで自棄になったり呪ったりすることはなかった。仲間とともに生きることを諦めなかった。世界を愛することをやめなかった。だからこそ、最後に彼が見た青空は、どこまでも美しかったのだろう。
 世界が不条理なのは、どうしようもないことだ。だが、だからといって世界を呪うのは間違っている。「それでも、世界は美しい。」という冒頭の言葉通り、どんなに運命が辛くとも、強くあり続ければ、世界は美しく輝くだろう。

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2013.06.22

「果てなき天のファタルシス」のレビュー

銅

果てなき天のファタルシス

君は何エンド?

レビュアー:ジョッキ生 KnightKnight

 最後の終わり方をどう見るかで、その人の価値観が測れる気がする。そこで、試しに僕の中での見解を挙げてみます。

・バッドエンドの場合
ループがこれに相当する。如何にもがいても果てはなく、終わりのない地獄と化した世界。
・ノーマルエンドの場合
無事脱出したが、状況に変化はなく、ファタルとの戦いは続いていく。俺達の戦いはまだ始まったばかりだエンド。
・ハッピーエンドの場合
クローン説を推したもの。物語前に存在した主人公と、物語の中の主人公、そして物語最後の主人公が別であるパターンで、それぞれにそれぞれの人生は完結しており、終わりがあることで救われる。

 以上が僕の答えです。基準としては、主人公がその人生を全うしたかどうかで判断しました。ハッピーエンドだけが唯一死があり、それ以外はまだ終わらない。そんな認識です。

 この小説の世界は、ファタルという正体不明の生物に襲われ続ける人類との攻防を描いたもので、はっきり言って救いがない。生きてる限りは戦い続けなくてはならない世界。であるならば、死こそが救いになる。そう考えました。死があることでどう生きたかが決定され、そこに意味が生まれると僕は思うから。

 これはあくまで僕の中での考えでしたが、皆さんはどう思いましたか?是非聞いてみたいです。

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2013.06.22

「果てなき天のファタルシス」のレビュー

銅

十文字青「果てなき天のファタルシス」

『手を伸ばせば手が届きそうな青い空』

レビュアー:USB農民 AdeptAdept

 私が本書で最も記憶に残ったのは、「触手怪物の放出する催淫ガスで発情しつつ、健気に性欲に堪えて戦い続けるも、やっぱり圧倒的な性欲には勝てなかったよ」というエロゲー的展開だった。阿呆みたいな感想で申し訳ない限りだけど、実際、もっとも胸が熱くなったシーンなのだから、救いがない。
 そしえ次に印象に残っている場面は、ラストで描かれる青空だ。

 2つのシーンは、私の中で密接につながっている。
 やや唐突かもしれないが、2つのシーンの間に、「青春」というキーワードを挟むと、2つのシーンの意味と、作品のテーマとが結びついていることが理解できるはずだ。
 それを説明するためには、まず性欲についての話をする必要がある。

 こんなことを考えたことがあるだろうか。自分が老いて、老人になったとき、それでもまだ性欲が衰えずにいたらどうしよう。80歳にもなってまだ、若い異性の子と性的な関係を結びたいと考えていても、それが難しいだろうことは容易に想像がつく。
 なんというか、そういう、非常にままならない感情や欲望を持っている時期というのが、実は多くの人にはあって、十代の頃は誰しもそういう気分に振り回された記憶があるんじゃないかと思う。その記憶を「青春」と呼んでもいい。十代の頃に感じる、ままならない性欲は実に「青春」的であるし、同時に性欲衰えない80歳の老人も、実は「青春」を生きているのではないかと、私は思う。

 すべての「ままならない」の裏側には、「青春」がぴたりと張り付いている。そして、その隠れた「青春」に気がついたとき、それまで持て余していた「ままならない」が、自分にとって大事な意味を持っていたことに気づかされる。

『果てなき天のファタルシス』に描かれているのは、その気づきであると私は思う。

 この小説で描かれる世界は、ひどく理不尽なことばかりが起こる。謎の敵の侵略。子供に戦闘を強要する大人社会。両親の仕事の秘密。それから、主人公が記憶を失っていることも、この世界の理不尽さを強調する役目を持っている。そしてもちろん、冒頭に書いた催淫ガスの場面でも理不尽さは感じられる。(意志とは無関係に、身体を発情させるとか、本人にとってすれば理不尽以外の何者でもない)(その直後の場面で起こる、悲劇とも喜劇ともとれる展開もまた、とても理不尽だ)
 この物語では、「ままならない」「理不尽」な出来事が、主人公に重くのしかかり続ける様子が執拗に描かれている。主人公はそのことに苦しみを覚え続ける。

 しかし、最後の最後で、主人公はその経験が単なる「理不尽」ではなかったことに気づく。
 その記憶の中では、確かに自分や友人たちがありありと存在し、息づいていて、リアリティを持っている。「ままならなさ」や「理不尽さ」が強ければ強いほど、記憶のリアリティの強度が上がっていく。苦しい経験は、自分や友人たちがそこにいた証でもある。
 絶対的劣勢の戦場で、主人公はそのことに気づく。そして仲間のために、「理不尽」な程に強力な敵へと立ち向かっていく。

 そのときの彼はもう、「ままならない」現実に振り回されることもなく、「理不尽」な状況に膝を折ることもない。「ままならない」の裏側にある、「青春」に気づいたから。
「青春」とは、自分たちがかつて確かにそこにいた証であり、その人生の手触りのことだ。

 物語の最後を飾るのは青空だ。
 ひどく「ままならない」物語の果てに現れたのは、手を伸ばせば触れられそうなほどに、確かな存在感を持った、抜けるような青空だった。

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2013.06.11

「果てなき天のファタルシス」のレビュー

金

果てなき天のファタルシス 十文字青

少年は空を

レビュアー:鳩羽 WarriorWarrior

 なんという清々しさだろう。
 不安も、怖れもなく、高いところから辺りを見渡しているような。自らの熱を完全にコントロールしている若い獣をみるような、そんな読後感だった。
 主人公の八尋は、事故で記憶をなくし、目覚めるとすぐに兵士としての戦いの日々をスタートさせることになる高校生の少年だ。ファタルという謎の生物が人類を襲撃してきて、仲間も八尋自身も、いつ死んでもおかしくないギリギリの状況で戦い続けている。
 記憶がない、つまりは過去の思い出もない八尋にとって、仲間としてそばにいるクラスメイトたちとの関係はどこか希薄で遠慮がちだ。もちろん、八尋に人間らしい感情がない訳ではない。けれど、うまく戦闘をこなすことができなくて苦悶し、効率的にファタルを倒すことができるようになれば達成感を感じ、慰めてくれたり誉めてくれたりする一人の少女を好きになり、という反応は、素直すぎて危うく思える。
 同じように、どんどん戦闘そのものもルーチンとなっていき、なんのために戦うのか、目的も、意義も、疑問もないまま、虚しい薄い色をした空だけが八尋の意識を収束していく。
 この度々描写される薄い空の色。
 諦めに似たこの色は、何かを想像することを拒むかのように頭上にかぶさっている。

 誰かを気遣い思いやるための想像力、なにか良い方向に変えていくための想像力、そんなことはささやかなことに過ぎないと嘲笑するかのように、日常の大きな疲労は小さなきっかけを濁流に飲み込んでいく。
 青とは、若さや未熟さを表すときによく使われ、日本語の語源からすると曖昧で茫洋とした色のことであったらしい。
 八尋たちには、その曖昧で定まらないなかを開拓していく自由がない。未熟さを糧に、己で判断を下していくことも許されない状況にある。無謀が許されず、すでにどこかで決められた白黒、突きつけられる生死を受け入れるだけの日々からは、彼らにとっての価値そのものが生まれないのかもしれない。
 けれど、八尋は、つまらなく思えるものを、薄い空を、丹念に重ねていったように思う。
 猜疑心ややりきれなさに放り出したくなっても、自分の心から目を逸らさず、好きな子のことを好きなままでいた。近くにいる仲間を見放すこともなく、数少ない繋がりを維持しつづげた。彼の場合、できることとは戦闘しかなかったのかもしれない。だが、その一見特別でもなんでもないものを重ねて、重ねて、重ねて、青い空にした。私にはそんなふうに見えた。
 どこにそのドラマの起点があったのかは、分からない。だが、雛が卵の殻を抜け出るようにして、八尋は一瞬と永遠を等価値にしたのだ。
 そのとき、世界の美しさに、確かに時間は止まったのだろう。

 この物語は、始まりの場面と終わりの場面が一致している。けれど、悪夢のようにループするのではないかという懸念は不思議と感じられない。
 解説では、ファタルシスという言葉はファタルとカタルシスを足した言葉ではないかという説が述べられているが、そこにエクスタシスも付け加えたい。これは同じことの不気味なくり返しではなく、外に勢いよく飛び出ていく原始的な快楽の話のように思える。そうでなければ、こんなに清々しいはずがない。
 世界だけが美しくて、それが一体なんになるだろう。脱皮するように、少年は何度でも世界を脱ぎ捨てていけばいいのだ。
 八尋と同じ年頃の読者は、この小説をどんなふうに読むのだろう。そんなことを想像するのもまた、楽しかった。

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2013.06.11


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