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「僕たちのゲーム史」のレビュー

銀

「僕たちのゲーム史」

この道をずっとゆけば、あの街にたどり着く。

レビュアー:オペラに吠えろ。 LordLord

 「スーパーマリオはアクションゲームではなかった」という帯の文句から想像されるような、さしずめ論理のアクロバットとでもいうべき新説を本書に求めて手に取った御仁は、少しばかり肩すかしを食らうかもしれない。著者ならではの新しい視点は一応、本書の中に含まれている。だが、それがメインではない。この本が語るのは、ゲームがーーそしてそのプレイヤーである「僕たち」がどのような歩みを経て、今、ここに立っているのかということだ。

 冒頭に引いた「スーパーマリオ」にまつわる言説を例にしてみよう。著者が「アクションゲーム」ではなかったと言い切れるのは、当時の説明書に「(スーパーマリオは)ファンタスティックアドベンチャーゲーム」だとはっきり書かれているからだ。この本にはそのように、説明書やインタビューからの引用が、作り手たちの言葉がたくさんある。のみならず、発売当時のゲーム雑誌の言葉ーーつまり、当時のプレイヤーの言葉もたっぷり盛り込まれている。著者は、それらを丁寧につなぎ合わせることで、「ゲーム史」という道を整備していくのだ。

 ここに、本書の大きな特徴がある。たとえそれが現代の視点から実質にそぐわないように思えても、著者は決して当時の人々の言葉を否定しない。もちろん、著者が拾い上げた言葉の中には現代のゲーム事情に照らし合わせれば、脱線しているようなものもある。だが著者はそうしたものも全て「ゲーム史」という道の材料に使う。そうすることによって、決して平坦ではなかった「ゲーム史」の実像を明らかにしている。

 道を歩くとき、僕たちは自分の足が踏みしめている地面のほかに、道ばたの草木や空模様、すれ違う人々に目を留めることだろう。そうしたものは、必ずしも全てが目的地にたどり着くために必要なものではない。けれども、歩いている道の空気を伝えてくれるものではある。「ゲーム史」でいうのならば、時代の息吹とでもいうべきものがそこからは確かに感じ取れる。僕たちは今、この本で描かれた「ゲーム史」の終着点たる「現在」に立っている。そんな僕たちがどこからやってきたのか。本書は、それを教えてくれる最良のガイドブックである。

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2014.03.27

「僕たちのゲーム史」のレビュー

銅

僕たちのゲーム史

遊びをせんとや

レビュアー:鳩羽 WarriorWarrior

 僕たちのゲーム史、の「僕たち」とは誰のことなんだろう。少なくとも、ゲーム機を持たず、テレビゲームは後ろで見ているだけという子供時代を過ごした私のことではないなと思いながら読んでみたところ、意外なことに「僕たち」のなかにゲームとは無縁の私も含まれていた。
 それはこの本が、歴史として様々なゲームを繋げていくために使った、ゲームがゲームである限り変わらなかった「ボタンを押すと反応する」という点と、時代やゲームのジャンルによって大きく変わってきた「物語をどのように扱うか」という二点。この二点のうち、「物語をどのように扱うか」という点について、現代でなんらかの娯楽に触れるならば、無縁でいられる人などいないだろうからだ。

 アドベンチャーゲームにしてもロールプレイングゲームにしても、さらにシミュレーションゲームにしても、物語性を豊かに膨らませていくことで発展した時期があった。
 これはのちにCD―ROMなどの記憶媒体が安価に普及するようになり、華麗なグラフィックや高音質の音楽がゲームに立体感を与えることが可能となってからは、それらと手を取り合ってさらに物語の充実が進んだ。
 さらに時代を下って、その類似はゲームの楽しみを外側でのコミュニケーションに置くということに見ることができるだろうか。それを意図的に取り込んで作られたSNSのゲームは、ゲームとしておもしろいかはともかくとして、コミュニケーションツールとして惰性でついつい遊んでしまう。
 これは、物語が完璧に出来上がりすぎていてプレイヤーが介入できず、ただAボタンを押しているだけといわれたファイナルファンタジーなどと対照的でありながら、よく似ているように思える。
 このようにして、優れた技術はゲームの内側に虚構性の強い物語を構築し、コミュニケーションはゲームの外側に終わらない円環の物語を作った。

 虚構と現実を行き来する楽しみ方だけでなく、本書でも触れられているように、現実のリアルタイムのうえにそのまま虚構の時間を重ねるような楽しみ方が、いつのまにか普通のことになっている。現実の自分の今を生きながら複数のゲームを進め、複数のキャラクターを使い分けながら自分自身もキャラのように個性を使い分ける。
 それが遊ぶという身体の体験に固定されたならば、脱出ゲームのような実際に身体を動かすものにもなるだろうし、特定の場所に固定されたならば、アニメやゲームの舞台となった土地を訪れる聖地巡礼のような観光と結びつく。
 また、メディアミックスという形は外側を持たない娯楽に多面的に外部を作り出し、そうでなくとも、二次創作という形で読者やプレイヤーが無数に作品の外側を作り出すことも、何ら目新しいことではない。そうやって私たちは、自分の分身を増やして遊ぶか、光源を増やして影絵遊びを楽しむかして、現実では通用しなくなってきた物語を個々で享受している。

 一対一で創作物と向かい合い、それと対峙するには勇気や覚悟が必要だ。それがどうでもいい価値のないものなのかもしれないという不安に、絶えず心は揺れる。そんなとき、それぞれで異なる物語の解釈をまとめようとする動き、そうすることで大きな物語の代わりにしようとする動きが、ゲームの外側、舞台の始まる前で行われているのかもしれない。
 ボタンを押す、それはいつの世も変わらぬ決定の意思表示だろう。ただその意思決定にいたるまでを、さまざまな物語が彩り、誘惑する。
 ゲームが人生に似ているのか、人生がゲームに過ぎないのか分からないが、こんな現在を生きている「僕たち」のゲーム史は、未だ、変わってきたものの歴史を追いかけて、変わらないものを探そうとする試みの途中にあるのだろう。
 ボタンを押すと、どんな反応があるのか。それは押してみないと分からないのである。

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2013.07.08

「僕たちのゲーム史」のレビュー

銅

僕たちのゲーム史

今、ゲーム史は優しさの時代へ

レビュアー:Thunderbolt侍 InitiateInitiate

ごくごく直近の事象を取り扱った歴史書には生の興奮がある。
その年代でホットだった事象を取り扱ったものはとくにそう。
書き手だけでなく、読み手の側にも一定以上の知識と体感があるため、より深く、歴史書の内容に踏み込んでいける。この興奮たるや。

70年代生まれの“僕”にとって「テレビゲーム」は最もホットだった娯楽の1つだ。

実は作者のさやわかさんとは私と全くの同年齢。
子どものころにファミコンを買ってもらえず、ゲーム雑誌でやたらゲーム文化に詳しい子どもになった(笑)という点も似ている。

なので、さやわかさんの語る「テレビゲームの歴史」はより実感をもって理解できた。意図的に一歩引いた、個人的感情を盛りこまない文章・構成になっているが、それでもやはり同年代にこそ強く伝わるものはある。

この新書を20代、40代後半の人が読んでも面白いと感じられるはずだが、70年代生まれの男性が読むと、それ以上の面白さが感じられるだろう。そういう意味で、さやわか世代に生まれた自分は運が良いな、と思ったり。

この「懐古」に強く寄った読み方は、「(「懐古」などだけではない)もう少し違ったアプローチができないだろうか」と筆をとったさやわかさんからしてみれば苦笑いしてしまうものなのかもしれないが、そこはちょっと許してほしいところ。

堀井雄二さんの担当していた「ファミコン神拳」の話題が出た時には脳内に「どいん」こと、土居孝幸さんのイラストとともに「あたたたっ」の文字が浮かんできたし、『ハイドライド3』といえば「はははっ、ジョークです」だよな〜、なんて当時を懐かしく振り返る事ができた。そうそう、『Ys』のキャッチコピー「今、RPGは優しさの時代へ」はたしかに話題になりました(翌年『Ys II』のリリア振り返りアニメはもっと?)。

登場するクリエイターや評論家の名前も懐かしかった。ちょっとHな福袋……もとい「ロードス島戦記」目当てで「ログイン」よりも「コンプティーク」派だった私にとって安田均さん、黒田幸弘さんのお名前は超ビッグネーム。雑誌「Beep」も今や伝説だよなぁ(誤字的な意味でも?)なんて。

もちろん懐古では終わらない。歴史書・評論書としての「僕たちのゲーム史」は秀逸だ。

歴史を紐解きながら「ゲームとは何なのか」を検証し、ゲームの「今」について納得できる考察を行なっている。

そしてその視線はどこまでも優しい。

この手のゲーム史本には、特に近年のゲーム市場縮小や、カジュアルゲーム市場の拡大をどこか嘆くようなものが多い。無責任な戦犯捜しも目に付く。

さやわかさんは、そこに一定の理解を示しつつ、ゲーム市場の今日を否定しない。それは、氏が「だれにも予知できない」とするゲームの未来の全肯定だ。

これまたさわやかさんに苦笑いされてしまうかもしれないが、本書において僕が最も感動したのはそこだ。この人の話をもっと聞いてみたい。そう思わせられた。

というわけで、明日『AKB商法とは何だったのか』を買いに行こうと思います。
えーと、レビューはどこに投稿すればいいのかな?(笑)

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2013.07.08

「僕たちのゲーム史」のレビュー

銅

さやわか『僕たちのゲーム史』

僕たちの知っている小さなものと、僕たちの知らないもっと小さなもの

レビュアー:USB農民 AdeptAdept

 この本には数多くのゲームが登場していて、その多くは僕もよく知っているものが多いです。
「スーパーマリオブラザーズ」「スペランカー」「ドラゴンクエスト」「ゼビウス」「ファイアーエンブレム」「シムシティ」「ストリートファイター」「弟切草」「月姫」「ポケットモンスター」「beatmania」「ひぐらしのなく頃に」「メタルギアソリッド」「ラグナロクオンライン」「モンスターハンター」他にも数多くの「知っているゲーム」が頻出します。
 でも、扱っているゲームの知識があっても、僕はこの本で語られている「ゲーム史」のようなものを考えたことは今まで全くありませんでした。この本では、ゲームの歴史を、<ボタンを押すと反応する>、<物語をどのように扱うか>という2つの要点を主軸に語っていきます。今挙げた僕の「知っているゲーム」もすべて、その2つの要点から語られていきます。
 僕にはそれが新鮮でした。僕は今まで、「シムシティ」について考えるとき、そのような視点で考えたことは皆無であったし、他のゲームについても同様です。

 では、この本の面白さとは、新しい「ゲーム史」によって、これまでのゲームを再定義していくことなのか?
 それは半分だけ正解だと僕は考えます。
 この本にはもう半分の面白さが語られています。僕はそれこそが、この本の本質であるとさえ思います。
 その面白さとは、これまでに積み重ねられてきた、ゲームに関する多様な視点や情報から、「ゲーム史」そのものを再定義することにあるのです。

 今僕が書いた「ゲームに関する多様な視点や情報」とは、冒頭で挙げたゲームのタイトル名といった記憶や記録に残りやすい情報ではなく、過去のゲーム雑誌の記事や、ゲーム開発者の宣伝文句や開発秘話など、時間とともに忘れ去られることの多い情報のことです。
「ゲーム史」という大きなものに対して、冒頭に挙げた「タイトル名」は小さなものと言えると思いますが、「雑誌記事や宣伝文句や開発秘話」などは、それよりもさらに小さなものです。(小さなものほど、記憶や記録から漏れやすく、また検索することも難しくなります)

 どのような歴史も、小さなものの集積で形作られていきます。けれど、その小さなものは、記憶や記録に残りやすく、検索も容易なものばかりが採用されやすい。そのこと自体が、悪いことではありません。ただし、それだけでは、より小さなものが歴史から自然に消えていきます。そして歴史から少しずつ多様性が失われていき、硬直化していきます。極端に言えば、ただ一つの正史のみが正解とされ、それ以外は歴史的に間違っていると切り捨てられてしまう。
 例えば、この本では少なくない項数を、『「スーパーマリオブラザーズ」はアドベンチャーゲームである』、という発売当時の情報を説明するために割いていますが、それは再定義された「ゲーム史」とその情報を接続するために必要な説明なのです。その説明なしに、知人に『「スーパーマリオブラザーズ」はアドベンチャーゲームである』と話したとしても、『いや、あれはアクションゲームだろ』という(現在の)一般的な解釈を返されるだけでしょう。その時、発売当時の情報という、より小さなものは、忘却され、多様な解釈の幅も狭くなっているのです。

 記憶や記録に残りにくく、検索することも困難な、小さなものよりもさらに小さなものを地道に積み上げ、歴史を再定義する仕事は、その忘却に抵抗しながら、解釈の幅を広げる働きをしています。その仕事は、古い情報を扱っているにもかかわらず、見たことのない新しい何かを見る人や読む人に与えます。

 この本の面白さとは、そこにあるのだと僕は感じました。

 僕たちの知っている小さなものより、もっと小さなもの。
 その集積によって、僕たちの知らない大きなもの=新しい歴史の再定義を行うことこそが、この本の本質だと僕は思います。

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2013.06.22

「僕たちのゲーム史」のレビュー

銀

僕たちのゲーム史

ゲームをしている。

レビュアー:ヴィリジアン・ヴィガン WarriorWarrior

 そんなにゲームをがっつりやってきたわけではないけれど、本の背表紙がドット文字なのと、タイトルの「僕たち」というのが気になった。
 「僕の」でないのはなぜなのか。
 著者は「ボタンを押すと反応すること」と「物語をどのように扱うか」の2つを軸に、これまでのゲームの歴史をざっくり描こうと試みた。

 昔流行っていた曲を聴くと、当時のことを思い出したりする。この本で目にした懐かしいゲームのタイトルはそんな風に僕に過去を思い出させた。実は結構ゲームやってたんだなと気づく。
 従兄とやった「マリオ」。弟のセーブデータ消した「ドラクエ」。友達とやった「ストII」。家族で汗だくになった「ダンスダンスレボリューション」。いつの間にか朝になってた「ひぐらし」。
 ああそうか、この本はゲームで育った人たちの、「僕たちの」これまでを振り返る本なんだ。

 「ボタン」と「物語」でテーマを絞ってゲームの海に網を張る。網にかかったゲームたちは不思議と「これまで」と「これから」を語る上での点になり、それを漁師である著者は、歴史として、ゲーム史として並べてゆく。
 海外のゲーム事情が大変興味深かった。
 国によって評価される作品や支持されるジャンルが違うのは当たり前だ。その傾向がざっくり分かるだけで「ゲーム」という物の見方や、その国の見方が変わってくる。
 ハードに施せる技術、ネット等の環境、ソフトのコストやリリースのタイミング、すべてが重なって、その国独自の「ゲーム文化」が立ち上がっていく。
 例えば、自分なら「ドット文字」を見ただけで、言いようのない懐かしさを感じてしまうし、お気に入りのバンドがよく使うファミコンっぽい電子音がたまらなく好きだったりする。
 ゲームだけではなく、グラフィックデザインや、音楽、ファミコンに勢いよく息を吹きかける(定番のあるあるネタ)といったことまでが「文化」として根強く残っている。セガサターンのコスプレなんてのをする人もいるとか(笑)。
 
 ところで、僕は今ゲームをしている。このゲームは「コミュニケーション」に重きを置いた「レビューを送る」ゲームで、さっきから僕は、キーボードという「ボタン」を連打している。結果として誰かの「物語」に関わり、良い影響を与えると願って「ボタン」を押している。
 僕は今ゲームをしている。
 君もそれに参加している。

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2013.06.22

「僕たちのゲーム史」のレビュー

銅

僕たちのゲーム史

ゲームという共通話題

レビュアー:etoile NoviceNovice

新書と呼ばれるものの多くは、
1冊のほとんどの文章を説明で埋められ、比較をし、一度遠回りをし、外堀を埋めてから核である結論=著者の言いたい事に迫るという書き方をしているものが多い。

しかし、この「僕たちのゲーム史」では
たった8ページ目で結論を延べているのである。

読み手にとってこれほど親切なことはない。

文中で知らないゲームのタイトルの話題が出てきても、
結論がはっきりとしていればスッと読み進める事ができる。

人と共通の話題を探す時、
ゲームの話をするというのはとても有効だ。
インベーダーゲームの頃から今に至るまで、
ほぼ半世紀、多くの人はコンピューターゲームというものに一度は触れているからである。

しかし1つだけ問題点がある。
ゲームの話をしようとしても
今まで生み出された大変な数のゲーム、そして世代によっての流行りも違うので
知らないという可能性もあるからだ。

この本はゲームの定義を
「ボタンを押すと反応するもの」としている。

歴史とはものごとの変化の過程でもある。


たとえ知らないゲームの話題があがったとしても、歴史を知り、
自分の好きなゲームとの共通点を1つでも持っていれば、
いつの間にか話も弾むのではないだろうか。

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2013.06.11

「僕たちのゲーム史」のレビュー

銅

『僕たちのゲーム史』

歴史という物語

レビュアー:やぎぽん NoviceNovice

ゲームの歴史を扱った本や、”ゲーム史”という言葉をタイトルに冠した本は本書以外にもあるわけだが、そうした本と一線を画しているであろう本書。それは、”○○史”というタイトルをつけるに相応しい本だからである。逆に言えば、それまでの多くの本は、はっきり言って”○○史”というタイトルには相応しくない。そもそも、”○○史”と銘打たれた本のほとんどが、細切れの単なる名場面集であることが私は残念でならないし、そうしたものを”○○史”と銘打つべきではないと思う。歴史と物語は切っても切れない関係であり、ストーリーなしにヒストリーは成り立たないと言ってもいい。History(歴史)の語源はHis Story(彼の物語)だという俗説もあるが、物語の抜け落ちた歴史を、歴史と呼ぶことができるのだろうか。そしてそうした本が”○○史”、つまりは○○の歴史という意味のタイトルに相応しいかははなはだ疑問である。
それに対して本書は、歴史のなかに物語という大きな流れがある。そこが、他の本と一線を画している点である。大ヒット作を集めて名場面集的なゲームの歴史の本は作れなくもないし、むしろそうした作り方のほうがはるかに楽ではあるはずだが、あえてそうはしない。大ヒット作であっても本書に登場しないものもある。それは歴史という物語を追っていく都合上カットしなければならなかったと著者は述べているが、そうした物語を重要視する姿勢こそが”○○史”というタイトルに対する真摯な姿勢だと私は思う。
では、なぜいままでこうした本が作られなかったのかといえば、それはそうした物語を重要視する作り方が大変だからという一言に尽きると思われる。毎年多種多様なジャンルのゲームが発売される昨今を、振り返るだけで一苦労である。ましてやそれを取捨選択し、物語という一つの道筋を立てなければならないのだ。一苦労どころの騒ぎではない。
かつて世界で最初の歴史書を作ったことで”歴史の父”とヘロドトスは呼ばれた。ならば、ひとつひとつばらばらだったゲームたちを集めて物語という流れを作り、歴史としてまとめた著者は、初めてのゲームの歴史書を作ったということで、”ゲーム史の父”と呼ばれてもおかしくはない。歴史書と呼ぶにはコンパクトな新書はいささか軽くも見えるが、その内容の重みは計り知れない。
さて、散々っぱら本の形式的な話をしてしまったが、内容についても少しだけ触れたい。語られる内容もまた、物語というものが重要になってくる。ゲームというものを「ボタンを押すと反応するもの」と定義した上で、ゲームが「物語をどのように扱うのか」ということを主軸にゲームの歴史という物語は進行していくからだ。”物語評論家”という肩書きを使う著者らしい視点である。
ゲームという歴史、ゲームの物語ははたしてどのようにはじまり、どのようにして現在へと至るのか。”物語評論家”が作った歴史という物語がどういったものかというところはぜひ、本書を手に取ってのお楽しみということで。

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2013.06.11

「僕たちのゲーム史」のレビュー

銅

僕たちのゲーム史

『僕たちのゲーム史』は、いかにして歴史書であるか

レビュアー:横浜県 AdeptAdept

「スーパーマリオはアクションゲームではない」
第一章の題である。
そんな馬鹿な。
いくらゲームに詳しくないとはいえ、僕だって『スーパーマリオ』のことは知っているし、あれをRPGやADVだとは思わない。
それに、もし仮にアクションゲームではないとして、だから何だというのか。
僕たち読者が不思議に思うであろうことを見越して、著者はこう語る。


たしかに、現代の僕たちから見れば『スーパーマリオ』はれっきとしたジャンプアクションの傑作と言えます。しかし、それはあくまでも現代から見た考え方です。発売当時に右に挙げたような考え方で作られ、売られたことこそが『スーパーマリオ』というゲームを、そして当時のゲーム全体を知る上では最大のポイントになるのです。


そこで僕は初めて、この1冊が、ゲームの歴史に真正面から向き合おうとしていることに気がついた。
たとえば僕たちが、いわゆる歴史を学ぶときに、どうしているか。
縄文時代の風習である抜歯について、虫歯ができたのかな、と思う人はいないだろう。また江戸時代の切捨御免について、刑法に規定されている殺人罪にあたるよ、とツッコミをする人もいないだろう。
現代の価値観に基づいて、過去の文化や風習を捉えることはできない。
それらが真に、どのような意味を持っていたのかを、理解・推測するためには、当時の社会や、ものの見方に則って考える必要がある。
何百年、何千年と昔のことを思い浮かべるとき、僕たちは、これを意識せずとも行うことができる。
しかし、たかだか30年くらい前のことになると、何故だか忘れてしまいがちになるのだ。

『僕たちのゲーム史』は、そんな当たり前のことを、されど僕たちが見落としていたことを、しっかりと実践している。
著者がTwitterで「過去のゲーム雑誌・書籍・広告からの大量の引用を含む本」であり、「史料を読む本」であると述べているのも、やはり過去に即して書かれた本だからだろう。
決して現代から俯瞰することなく、過去に寄り添いながら記述され、その結果として「ゲームとは何なのか」という全体像を明らかにする。
『僕たちのゲーム史』は、確かに歴史書である。

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2013.04.30


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