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「ひぐらしのなく頃に」のレビュー

銅

ひぐらしのなく頃に礼 賽殺し編

変えたいこと、変わらないもの

レビュアー:まななみ NoviceNovice

もしも過去に戻れてやり直すことができたら。
そんなこと、誰でも思うのではないでしょうか?
けれど実際、過去に戻れたとしても、今も愛しい世界だったら、貴方はどちらをとるのか。
もう一つの世界には既に、「平和」という梨花がずっと求めてきた結果があります。
最初からある仲間の幸せ、
自分の家族が生きている。
なにより、あの惨劇が起こらない。
どれもが梨花にとっての幸福である。
けれど、
もといた世界は
沢山積み重ねてきたものがある。
それは結果だけの世界よりも
過酷で辛いものだったけれど、
大好きな仲間達とのり越えてきた世界。
貴方だったらどちらをとりますか?
本当の幸せはどちらにあるのか。
そんなことを考えさせられる一冊でした。

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2013.04.30

「ひぐらしのなく頃に」のレビュー

銅

竜騎士07『ひぐらしのなく頃に』

私は、討ち死にさえ乗り越えたジャンキーの未来を読み解きたい。

レビュアー:ラム、ユキムラ

 未来は変えられる。
 ただし、それを知るには、未来を知っていなければならない。
 全く同じ未来がなくとも、結論はいつも同じ。
 古手梨花は必ず死ぬ。
 そしてリセット。
 それでは未来は変わらない。
 古手梨花は必ず死ぬ。

『ひぐらしのなく頃に』の主人公のひとり・古手梨花は未来に恋をしている。愛を注いでいる。
 未だ到達できない未来を求めて、生き抜く為に足掻いて、その数だけ討ち死にし続けている。

 殺されれば殺される程に、強く。
 彼女は未来に手を伸ばす。
 何度も何度も繰り返し続け、絶望さえ味わい尽くしても尚。
 それは、刮目すべき生への渇望。決して諦めてはいけない切なる望み。

 だから私は、変わらぬ日常に飽いてしまっている人にこそ、古手梨花の生き様を読んでもらいたい。確固たる未来を求めて足掻いた一人の戦士の姿こそを。

 その願いが、恋が叶うハッピーエンドの最後まで。

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2013.04.16

「ひぐらしのなく頃に」のレビュー

銀

『ひぐらしのなく頃に解 第四話 祭囃し編』 の表紙

物語と彼らを見送る

レビュアー:横浜県 AdeptAdept

本編最終話にあたる祭囃し編の表紙は、今までのものと趣向が異なっています。
鬼隠し編から皆殺し編にいたるまでは、1冊ずつのイラストが独立していました。各巻1人、ときに数人のキャラクターが中央に据えられています。
祭囃し編はどうでしょうか? なんと上中下巻の表紙絵が繋がっています。これら3冊を横に並べると、1つのイラストが完成する仕組みになっているのです。
はじめ上巻が発売されたときには、もちろんながら見抜けませんでした。中巻の表紙で気がつき、下巻の発売と同時に3枚の絵を床の上でくっつけてみました。

イラストの舞台は祭りの会場です。作中に登場する綿流し祭でしょうか?
みんながとても楽しそうです。上巻の帯にある「惨劇」の2文字が、とても似つかわしくありません。上巻発売時は不思議に思ったものです。いまから最終決戦だというのに、なんでこんなに愉快な表紙なのでしょうかと。
でも完結後に再び眺めてみると、これは下巻で大団円、幸せな結末を迎えたあとのものだと分かります。

またメインキャラクターたちの笑顔も素敵ですが、その後ろに描かれている人混みにも注目したいですね。赤坂や大石など、重要な脇役たちが顔を揃えています。ほとんどの巻で死んでいたはずのキャラクターもいますね。
祭囃し編では、誰も死ななかったのだと、みんなが幸せになれたのだと、そう実感できる表紙に仕上がっています。

ちなみに上巻には圭一とレナが描かれています。みんなは彼らを先頭にして、ぞろぞろと歩いているんです。
ようは上巻、中巻、下巻と順に繋いでいく度に、彼らの行列は後ろへ後ろへといくわけです。そこにはある種の哀愁を感じます。長かった物語も、ついに終わりを迎えたのですね。祭囃し編を1冊読んで次へ進むごとに、僕たちは彼らを数人ずつ見送ることになるわけです。

そんな彼らは、決してこっちに顔を向けてはくれません。それぞれが、それぞれの方向を見ています。
ただ1人だけ、こちらをじっと眺めているキャラクターがいました。
下巻に描かれている梨花ちゃんです。
作中での彼女は、惨劇の全てを知る裏の主人公でした。どうやらこのイラストにおいても、他のキャラクターを超越する立場にあるようです。こっちが「視える」んですね。彼女はどこか含みのある目線を投げかけてきます。でも口元は確かに笑っていて、この先の、祭囃し編の向こうにある、明るい未来を感じさせてくれるのでした。

そして彼女の左手は、不自然に挙がっています。こちらを向いて。
これで『ひぐらしのなく頃に』の本編は終わったのだと、別れを告げるように。
僕はやはり、それを見送りながら、手元にある3冊の本を、棚にしまうのでした。

最前線で『ひぐらしのなく頃に 鬼隠し編』を読む

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2012.06.08

「ひぐらしのなく頃に」のレビュー

銅

ひぐらしのなく頃に解罪滅し編下

平凡な日々が幸せに

レビュアー:まななみ NoviceNovice

自分が今まで書いた皆殺し編、祭囃し編から少し戻った所にある罪滅し編。
今までのを見るとやはり、自分で言うのもなんですが、ひぐらしのなく頃にが好きなんだな、と思います。
重なる部分と、比べる部分と、憧れる部分。沢山の思いが詰まっています。
今日は重なる部分がある、罪滅し編について書きたいと思います。
この物語は竜宮レナという一人の少女が中心に広がっていきます。
彼女はただただ、平穏な日々を望んでいた。今、私達の中の大半は「つまらない」と思ってしまう平穏・・・平凡な日々を。
けれど、沢山の経験をしたら分かると思います。どれだけ平凡な日々が幸せか。ただ、彼女は平凡な日々の取り戻そうとした。そのやり方を間違えてしまった・・・。大きな事件は些細なことでも起こってしまう。それがただの一言でも。
そんな描写もいつしかの話にありました。
これもきっとそうだった。
その解決のために、レナと圭一が戦い、涙し、理解しあい・・・、そして来世は・・・。
平穏、平凡の素晴らしさを教えてくれる一冊です。

最前線で『ひぐらしのなく頃に 鬼隠し編』を読む

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2012.06.08

「ひぐらしのなく頃に」のレビュー

銅

KEIYA「ひぐらしコラム」

現実と物語をつなげるコラム

レビュアー:USB農民 AdeptAdept

「ひぐらしのなく頃に」というフィクションは、作品外の現実を貪欲に取り込んでいる。雛見沢という架空の舞台に、実在の風景、事件、法律、社会問題などを散りばめ、物語を支える細かな設定や背景描写にリアリティを持たせると共に、受け手である我々に、この物語が決して、荒唐無稽なだけのおとぎ話ではなく、現実の地続きとして考えられたフィクションであることを強く訴えかけている。

 KEIYAさんのコラムは、このことに誠実に向かい合っていて、読んでいて小気味いい。鬼という言葉の由来、当時の文化状況や家電製品の普及率、ファミレスの時代性、公衆電話の変遷など、普通の読者が気づかずに読み流してしまう細部に丁寧に拾い上げている。

 私が特に面白く読んだのは、警察の捜査能力についてのコラムだ。KEIYAさんのコラムは、現実の資料と、作中の描写とをつき合わせて、それが昭和58年当時の科学捜査の描写として、決して間違っていないことを示していく。歯形と治療痕による死体の鑑定。焼死体の解剖結果。薬物の描写。当時はまだ確立していなかった、DNA鑑定技術。コラムで語られているほとんどの情報を私は知らなかったが、思い返してみれば「ああ、そういえばそんな描写があったな」と気づくことが多かった。さりげなく描写されていた、それら一つ一つの情報が、作中での警察組織や怪事件に、ただの絵空事に感じさせない緊張感を生んでいたのだろう。

 コラムを読めば読むほど、「ひぐらし」という作品に現実味が宿っていく。フィクションと現実との接点を丹念に読み込み、解きほぐしていくKEIYAさんの文章は、数ある「ひぐらし」読解のサブテキストの中でも、群を抜いて面白い。

最前線で『ひぐらしのなく頃にスペシャルコラム』を読む

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2012.04.23

「ひぐらしのなく頃に」のレビュー

銅

ひぐらしのなく頃に祭囃し編(上)

結末に近づいて

レビュアー:まななみ NoviceNovice

「ひぐらしのなく頃に」、もう終わりが近づいていると思うと、少し残念な気持ちになってしまいます。
けれど、同時に喜びがあります。
「ひぐらしのなく頃に」の後半の主人公、
古手梨花の結末、昭和58年の先の世界、奇跡が起こせたか。
この三つがとても気になるところです。
「皆殺し編」で学んだことをいかし、
どんな結末に至っても、
私はこのシリーズの作品を通して「強さ」を学びました。
梨花がどんなことを学んだのか、
この目で確かめてほしいです。
そして、読む人全員も、何を学べたか、
考えてみてほしくなる一作品です。

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2012.04.23

「ひぐらしのなく頃に」のレビュー

銀

「「ひぐらしのなく頃に 解 目明し編(上・下)」

裏方のいない劇場

レビュアー:zonby AdeptAdept

例えば想像するのは、大きな半球。
ドーム型の劇場である。
真ん中には仕切りがあり、ドーム内の空間は更に二つに仕切られている。そこでは一つの物語が上演されている。
ただし、裏方はない。物語は両面で同時に上演されている。

片面で上演されているのは「ひぐらしのなく頃に 綿流し編」という物語だ。主人公は前原圭一という一人の少年。彼は引っ越した先の雛見沢という村で、園崎魅音とその双子の妹・園崎詩音。そして雛見沢に古くから伝わる因習に翻弄され、残酷劇の中に身を投じて謎を遺す。
一方反対側で上演されるのは、「ひぐらしのなく頃に 解 目明し編」という、「綿流し編」の裏側とでも言うべき物語である。一転して主人公は園崎詩音という、表の物語ではあまり目立たなかった人物にスポットが当てられている。前原圭一を主人公とした物語とは違い、こちらの演技は一年前から開始されている設定だ。彼女はその中で一人の少年と出逢い、別れ、それらと微妙にリンクしながら「綿流し編」へとなだれ込んでゆく。

題名こそ違えど、これは二つで一つの物語だ。
ただ、前原圭一と園崎詩音。この二人の視点を分けることで、こんなにも物語に広がりが生まれるのかということに、私は驚いた。
一つの物語を二人の視点で描く。
これは既存の物語や、アマチュアの描く小説にも多々見られる手法だ。
ただ私は今まで(今でも)この手法が嫌いである。
なぜならこの手法は必然的に、場面の反復や台詞の反復が多くなるからである。既に知っている情報を何度も聞かされるのは面倒なばかりか、読む気まで削がれることさえあるのだから結構深刻な問題だ。
しかしこの二つの物語はその側面を持ちながらも、見事にそのデメリットを回避しているところにぞくぞくした。
前原圭一にしか見えない情報。知り得ない情報。感じ得ない気持ちと、園崎詩音しか見えない情報。知り得ない情報。感じ得ない気持ちが合わさった時、読み手である私達はただ先に提示された「ひぐなしのなく頃に 綿流し編」をただなぞっているだけではないと、気付かされるのだ。

よおく。
よおく、見て欲しい。
ドームを隔てる壁には、一つだけ扉がついている。
その見えるか見えないかかの扉を、園崎姉妹だけが行き来している。
一見、彼女らがこの劇場、物語の裏方のように見えるかもしれない。
だが違う。
彼女達も所詮は、物語の中で自分の見えるもの、感じたことにただ翻弄される登場人物の一人に過ぎない。

では、誰が裏方なのだろう。
裏方は劇場にはいない。
それは目の前にいる。
それはページを繰る。
二つの物語を二つの視点で読み、反復させ、情報を繋ぎ合わせる。登場人物ですら知らない真実を知り、裏と表を一つの物語として再編集する。
純粋に別々の話として読んでいた内は、まだ劇場の観客として愉しむことができただろう。
けれど、全てを知ってしまったらもう観客では居られない。

――そう、この物語の裏方は他の誰でもない読者なのである。

それぞれの物語の穴を埋め、この表と裏の関係性。真実を知った貴方は、きっと薦めずには居られまい。その緻密に織り上げられた世界を、誰かに伝えられずには居られまい。
私が、そうだから。
私は、裏方だから。

裏方には仕事がある。
劇場を整備し、観客を招き入れるという仕事が。
「面白い本、ない?」という言葉を、私はいつでも待っている。
「これ、読んでみない」という言葉と、「ひぐらしのなく頃に 綿流し編」「ひぐらしのなく頃に 解 目明し編」を携えて。

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2011.12.20

「ひぐらしのなく頃に」のレビュー

銀

ひぐらしのなく頃に 皆殺し編(上)

自分にとっての「ひぐらし」

レビュアー:KILA NoviceNovice

「正解率1パーセントの衝撃ミステリー」という見出しに惹かれて自分はこのシリーズを買い始めた(それまでは存在を知らなかった)訳だが、読み始めて思ったことだが、このシリーズは「ミステリー」と分類するよりかは、むしろ「人間ドラマ」といったほうが正解なのではないか、ということだ。いずれの作品においても、登場人物の心情が細かに描かれており、その心情の変化から事件が動き出し、最後は・・・。という風にストーリーが展開される。今回の皆殺し編では、今まで6編の物語によって紡がれてきた謎がほぼすべて明るみになり、最終話へと続いていくための1つのターニングポイントとなっている。皆殺し編を読んだ自分の感想としては、一言でまとめるならば、「最も悲惨な奇跡」といったところだろうか。(祭囃子編を除いた7編の中で)最も真相に近づきながらも最も悲惨な結果を生み出すことになってしまうこの話には賛否両論あると思うが、個人的には著者が言いたかったことが如実に表れた作品だと感じている。現代では希薄になった「人と人とのつながり」というものの重要性を知る上でこの作品は外せない。

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2011.12.20

「ひぐらしのなく頃に」のレビュー

銀

ひぐらしのなく頃に

表紙絵とその流れ

レビュアー:yagi_pon NoviceNovice

表紙の絵に意味を自分なりに見つけられたとき、私はなんだかものすごくうれしい気持ちになる。

星海社文庫版の表紙絵は、罪滅し編の上巻までずっとキャラクターの立ち絵だった。変化の前兆となったのは、罪滅し編の上巻。それまでは基本的に笑顔が向けられていた表紙だったのに対し、この巻の表紙のレナの表情は、崩壊していた。そして罪滅ぼし編の下巻では、キャラクター一人の立ち絵ではなくなり、レナを除く部活メンバーの集合絵になる。
個人的には、ここまでの表紙絵の流れがすごく好きだ。
原作者の竜騎士07さんは、「『ひぐらしのなく頃に』っていう作品は、すごくシンプルにやりたかったんです。はっきり言っちゃうと、『友達と仲良くしましょうね』っていうのがテーマなんです。」と言っている。
ここまでの表紙絵の流れもすごくシンプルで、一人一人の立ち絵が続き、それが唐突に壊れ、けれども仲間が手を差しのべる。巻数が多く、一見複雑に見えるこの物語は、その中に潜むテーマがシンプルなので、こうして表紙絵に凝縮することができる。たとえ一人一人では壊れてしまうようなことでも、仲間がいれば大丈夫、そう思える。

実は講談社BOX版でも罪滅ぼし編の上下巻の表紙絵も、同じく壊れたレナと部活メンバーという構造をしているのだけれど、私は文庫版の方が好き。BOX版も文庫版も夕暮れどきの同じような場面なのだけれども、文庫版は圭一が差しのべる手がちょうどイラストの中心にきている。登場人物たちとともにたくさんのつらい想いを重ねてきた一読者としては、すぐにでも手を掴んでしまいたくなる、そんな絵なのだ。文字通り「仲間が手を差しのべる」様子が中心となっている、そのシンプルさがいい。

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2011.12.20

「ひぐらしのなく頃に」のレビュー

銀

ひぐらしのなく頃に

『ひぐらし』はグロいから嫌い

レビュアー:enoki NoviceNovice

僕は『ひぐらしのなく頃に』が嫌いだ。中学校時、友人の家で漫画『鬼隠し編』を開いて、閉じた。
 嫌いな理由は単純明快、やたらとグロいからだ。
 僕はグロが嫌いなのではない。意味のないグロさが嫌いなのだ。物語の構成上など必要な効果を狙って書かれたグロならばむしろ賞賛をもって受け入れる。
 しかし、中学校時の僕には『ひぐらしのなく頃に』は受け入れられなかった。漫画版だけであったが、その時刊行されていたものにはもちろん最後まで目を通した。最後まで読み終わってさえ、そのグロさに、理由を認められなかったのである。

それから数年後、僕は星海社ウェブサイト最前線にて、おかしなものを見つけた。

 『はるかぜのふく頃に』なる対談企画らしい。内容はというと、『ひぐらし』の作者竜騎士07と、かの泣く演技で有名なはるかぜちゃんが、対談した、その様子が載せられているのだった。
 僕は首をひねった。何が起きればこの二人が対談するなんてことになるのか。
 『ひぐらし』は嫌いだ。興味なんて毛ほどもない。……しかし、気になる。この妙なマッチング、予想に反して気弱そうな竜騎士07の顔、はるかぜちゃんのネコミミメイド。どうにも気がひかれる。
 結論をいえば、僕は好奇心に負け、おとなしくサイトを開いたのだった。


 対談の内容について詳しく書くつもりはない。ただ、僕にとっては非常に有意義な内容であったことは記しておきたい。
 僕は『ひぐらし』が不必要に多いグロがあるから嫌いだ、と上に記した。星海社『ひぐらし』特設ページのスペシャル欄にある竜騎士07の

「『ひぐらしのなく頃に』という物語は、不気味なイメージが有名になってしまい、一般的には「怖い」作品であるとのご評価をいただいています。」

というメッセージからも『ひぐらし』がそのグロさ、怖さから一部または多くの人に敬遠されているだろう事が覗える。アニメの放送中止はそれを如実に表しているだろう。
 僕は、そういう人にこそ、この対談を見てもらいたい。当然、本当なら作品をよく読んで、理解してもらうのがいい。けれどそれでも分からなかった僕のような人にこそ、見てもらいたいのだ。
 この対談では、『ひぐらし』におけるグロさの狙いがしっかりと言われている。「グロいから嫌いだ」、この理由に対する否定が述べられているのだ。ディスコミュニケーションのもたらす悲劇――『ひぐらし』の必須要素としてグロはあるのだ、と。


 はるかぜちゃんと竜騎士07の対談は、僕に『ひぐらしのなく頃に』の読み方を教えてくれた。それは作者から提示されるという読者にとって最も恥ずべき形ではあったが、一大ムーブメントを巻き起こした作品を理解できるのだから、文句は言えない。

 僕は『ひぐらし』が嫌い、だった。だからこそ、僕と同じく蒙昧な『ひぐらし』嫌いの読者は、このスペシャルな対談を見てみてほしい。ここから始まる一歩というものがあってもいいだろう? 


 大丈夫だ、そのグロさには理由がある。

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2011.09.30

「ひぐらしのなく頃に」のレビュー

銅

ひぐらしのなく頃に/第一話鬼隠し編(上)

本文と挿絵とWebの三本の矢

レビュアー:ticheese WarriorWarrior

 星海社文庫『ひぐらしのなく頃に』は少々風変わりなライトノベルだと思う。本文だけでは作品の世界観が完成しないのだ。
 物語は5人の仲良しグループの会話をメインに進む。というかほとんど会話で描写を埋めてしまっている。地の文でのキャラクターや時代背景の描写が極端に少ない。これはキャラクターの魅力で読者にアピールするライトノベルという分野ではよくあることでもあり、特異なことでもある。たいていのラノベ読みが思い浮かべる通り、ライトノベルには挿し絵が付き物である。モノによっては登場人物の紹介全てを挿し絵で済ませてしまっている作品もあるくらいだ。『ひぐらしのなく頃に』はその傾向が特別に強いように思う。学校に通うキャラクターはそれぞれ別の制服を着て登校しているようなのだが、衣服に関する描写がほぼない。むしろキャラクターの容姿に関する描写自体がほとんど見られない。私は目を皿のようにして読んだ訳ではないので他の読者に「あるよ」と言われればそれまでなのだが、少なくとも容姿を印象づけるような描き方はされていない。はっきり言ってしまうと容姿の表現は挿し絵に丸投げになっている。さらに付け加えるなら時代背景的な描写もおろそかだ。昭和58年という読者に馴染みのない時代を舞台にしているにもかかわらず、特に印象強くは描かれない。これは著者自身メタな会話でキャラクターに弄らせているのでわざと省いているのだろう。そうして時代背景の描写も挿し絵に投げている。これを「丸投げ」と書かなかったのは時代背景の注釈を星海社のWebサイト『最前線』でも行っているからだ。とにかく『ひぐらしのなく頃に』は小説の本文で文章を裂くべきことを他所に任せきっている作品なのだ。
 元々がゲームなので、絵がありきで物語を進めるのは分かる。少々開き直り過ぎとも私は思うのだが、10冊を超える長い巻数を鑑みるに、文章だけで描ききれよとは口が裂けても言えはしない。それに私はむしろ星海社文庫『ひぐらしのなく頃に』の挿し絵の妙に驚いているのだ。
 星海社文庫『ひぐらしのなく頃に/第一話鬼隠し篇(上)』の挿し絵は9枚。全てフルカラーで描かれている。内舞台と時代背景を描いたものが4枚、キャラクターを描いたものが3枚、ミステリー部分に必要な資料を描いたものが2枚ある。舞台と時代背景を描いた挿し絵は絵としてつまらないものではあるが、そのページにくると本文中で忘れがちになる時代背景が頭に戻ってくる。昭和58年には携帯電話などの個人レベルの通信手段やテレビゲームといった内に籠って行う遊戯もない。だからこそキャラクター達は村を快活に動き回る。ミステリーにおいてそういった小道具の有無は重要なので時代背景を刷り込んでおくことは必要だろう。古めかしい小物の挿し絵は読者を作品世界に繋いでおくアンカーになっている。
 次はなにより大事であろうキャラクターの挿し絵だ。3枚の内2枚がヒロイン全員を絵の中に収めたもの。これによりヒロインの容姿が読者にはっきりと伝わる。挿し絵の中にヒロイン名を伝える文字等はないが、ヒロインは微妙に年頃の違う面子であり、唯一同じ年頃とみられる沙都子と梨花の内の梨花が巫女服を着用している絵があるために特定が容易だった。たった3枚の中に効果的にヒロイン達を描いた挿し絵の必要性はとにかく大きく、その在り方も良いと思う。例えばラノベにありがちな挿し絵に、キャラクターが派手に動いている絵と魅力的で特別な衣装を見にまとった絵が多い。どちらの絵も『ひくらし(略)』に入れることは可能だがそれをしていない。先に述べたようにキャラクターの容姿の説明を丸投げされた挿し絵に普段の彼女らの姿を描いていないものは論外なのだ。『ひぐらし(略)』の挿し絵は自らの役目を堅実に守ったものだと言える。残るはミステリー部分に必要な資料を描いたものだが、これは正直私は意味がわからないので省く。(特にフルカラーで)描く必要もないとも思うのだが、解答編まで読んでみれば重要なキーになっているかもしれないので何とも言えないのだ。
 『ひぐらしのなく頃に』はとにかく長い。長い上に奥が深い。だから挿し絵からWebサイトに至るまで最大限に活用して描いた小説版は、Webと出版物の両刀で攻める星海社にぴったりの作品と言えるだろう。まだ1巻のみでは何も分からず、小説としての特異な形式を物珍しがることしかできないが、それは楽しみが多いとも言える。ならば挿し絵のヒロインに脳内でスク水や体操着でも着せながら続きをのんびり読むとしよう。

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2011.09.30

「ひぐらしのなく頃に」のレビュー

鉄

ひぐらしのなく頃に

ゲームとして

レビュアー:大和 NoviceNovice

 僕が『ひぐらしのなく頃に』というゲームと出会ってから、既に7年もの月日が流れている。後に様々な媒体でメディアミックスされる、その原典となるPC版が、僕と『ひぐらし』との出会いだった。プレイしたのがまるで昨日のことのように感じられるだけに、驚きと一緒に何やら感慨らしきものが沸き上がってくる。そして『ひぐらし』は今なお文庫版として再生し、新たな読者を、そして新たなゲームのプレイヤーを増やし続けている。そう、ここにあるのは一冊の小説でありながら、同時にゲームなのだ。これは『ひぐらし』という作品に触れる上でとても重要なことだと僕は思う。どういうことか、順を追って語るとしよう。

 『ひぐらし』はノベルゲームとして――公式の表記を借りるならサウンドノベルとして人々の前に姿を現した。画面にはキャラクターや背景のグラフィック、そして文章が表示され、プレイヤーは画面をクリックすることで物語を読み進めていく、という形式だ。

 僕は当然のごとくゲームという言葉を使っているけれど、『ひぐらし』をゲームだと思わない人も多かった。選択肢が無かったからだ。ノベルゲームにおいて、選択肢はプレイヤーが物語の進行に介入できるほぼ唯一の瞬間だった。それが取り払われてしまえばプレイヤーはただ黙々と物語を読み進めることしかできない。もはやそれは「ノベルゲーム」ではなく、ただの「ノベル」なのではないか?

 しかし公式ページには、こうも書かれている。

“ですが、本作品はただの小説ではなく、やはりゲームです。”

 つまり『ひぐらし』をゲームたらしめているのは選択肢の有無といった形式によるものではないのだ、と作者は語っている。では『ひぐらし』におけるゲームとは何を指しているのか? これは作者自身の言葉を持ち出すのが手っ取り早いだろう。WEBサイト『最前線』上に掲載された対談『はるかぜのふく頃に』において、作者である竜騎士07はこう語っている。

“(...)ゲームって、誰かとコミュニケーションをとって初めて成立するものなんですよ。そういう意味では『ひぐらしのなく頃に』を読んだ後に誰かと、「これってどういうことだったんだろうね?」って(...)議論していただけたら、それは立派なゲームなんです。”

 ここで作者は、ゲームという言葉の根本的な意味合いに立ち返ろうとする。例えば「『ひぐらし』はゲームではない」と言う時、その「ゲーム」とはTVゲームやPCゲームといった一部の形式に限定されてしまっている。しかし単純に「ゲーム」とだけ表記するならば、それは機械的なデバイスを通じてプレイするものだけを指すのではない。ジャンケンだとかはないちもんめだとか、単純なクイズの出し合いみたいなものだってゲームであることに違いは無い。そしてゲームが成立する最小の条件は「コミュニケーションが成立する瞬間」なのだと作者は語る。ならば作中の謎について議論を交わしたり、作品を題材に自由に話し合って楽しむことができる『ひぐらし』という作品は、やはりゲームなのだと言えるだろう。

 そういった作者の姿勢は『ひぐらし』という作品において徹底的に貫かれている。正当率1%という印象的で挑戦的な惹句、それを裏付けるかのように次々と提示される謎、続きが発表される度にプレイヤーを翻弄する物語、『ひぐらし』の世界を彩る魅力的なキャラクター。ひとたび触れれば、もう『ひぐらし』について語りたくて仕方がなくなってしまう――そう言っても過言ではないくらい強烈な世界を作者は作り出してみせた。

 それに応えるようにして、ネット上では『ひぐらし』のムーブメントが起こった。公式掲示板で、2ちゃんねるで、個人のホームページで、至るところで『ひぐらし』に関する議論や推理が繰り広げられた。興奮の渦がネット上を席巻した。言うなれば、作者は作品の内側ではなく、作品の外側に広大なゲーム空間を作り出してしまったのだ。

 ここで目を向けてほしいのは、『ひぐらし』という作品は物語のレベルにおいてもコミュニケーションという題材を扱っている、ということだ。連続怪死事件、祟り、村の暗部、様々な事件や恐怖が主人公たちを襲い、彼らは疑心暗鬼に駆られ悲劇を起こしてしまう。しかし物語は彼らが独りで抱えているものを少しずつ紐解いていき、やがて仲間と話し合うこと、相談することの大切さを謳おうとする。

 そうやって物語のテーマとしてコミュニケーションの大切さを謳うだけならば、他にも多くの作品で書かれてきたことだろう。だが『ひぐらし』という作品が凄いのは、そのテーマを貫くあまり、作品の外に踏み出して、実際に人々を繋げてしまったことだ。そこには作者の徹底した態度が、覚悟が、それらを裏付ける切実さが感じられて、もはやこの作品が一つの奇跡であるようにすら僕は感じてしまう。

 そして『ひぐらし』は文庫として再生し、人々の前に姿を現している。先述の定義に従うならば、ここにあるのは小説であると同時にゲームだ。読者は『ひぐらし』という小説を読むことで、『ひぐらし』について話し合い、議論を交わし、ゲームを楽しむことができる。

 そうやって立ち上がるゲームは、きっと僕の記憶にあるゲーム空間とは別のものだ。当時のような熱気やムーブメントが起こりうるはずもない。僕にとっては寂しいことだけれど、でも両者の間に優劣は無い。人が多いだとかムーブメントが起こっているだとか、そんなことが絶対的な価値を決めたりはしない。例えば数人の友達との間だけで楽しむゲームでも、彼らにとっては掛け替えのない体験になることだろう。そうやって読者がゲームを楽しみ、個々人の間で『ひぐらし』が思い出深い作品となるのであれば、それはとても素晴らしいことだ。

 当時は「新たな作り手による挑戦的な作品」だった『ひぐらし』も、今では「過去に伝説を作った名作」という位置づけになるだろう。当時とは作品を取り巻く環境が全く違う。受け取られ方も全然違うはずだ。それでも『ひぐらし』という作品は、時間や媒体や形式を超えたところで「ゲーム」であろうとするのだと思う。

 文庫版『ひぐらし』を小説として楽しむのも悪くない。『ひぐらし』は魅力的な物語で君を迎えてくれるだろう。ただ、どうせならこの作品はゲームなのだと思って触れてみてほしい。友達と話し合ったり議論を交わしたりしてほしい。そうやって楽しまれることこそ、作者がこの作品に込めた、もっとも切実な願いなのだと思う。

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2011.09.08

「ひぐらしのなく頃に」のレビュー

鉄

ひぐらしのなく頃に 祟殺し編(上・下)

『優しい暴力』と贖罪

レビュアー:zonby AdeptAdept

「ひぐらしのなく頃に 祟殺し編」を読んだ人が最初に抱く感想は、きっとこういうものに違いない。
・残酷だと思った。
・沙都子が可哀想だと思った。
・救われないと思ったし、報われないと思った …エトセトラエトセトラ

私も初めはそう思ったし、その時はそう思っただけで終わってしまった。(その時は、ゲーム版と漫画版、アニメ。三つ形での「ひぐらしのなく頃に 祟殺し編」を見ていたというのに)しかしここに来て今一度活字という形で物語を再体験した結果、この物語を表すワードをふと思いついた。
それは――『優しい暴力』、だ。

『優しい暴力』。
なんとも矛盾した言葉の組み合わせではある。
「暴力」に優しさなど存在するのかどうか、と聞かれれば大抵の人は「ない」というだろう。
無論、冗談では済まないくらい痛いデコピンや、おともだちパンチなどを除いた純粋な「暴力」としての話である。(そこには言葉の暴力も含まれる)
そう、暴力は暴力でしかなく一片の言い訳を挟むまでもなく、暴力でしかない。
暴力は醜いものであり、あってはならないものであり、忌避すべきものであり、ましてや――己が誰かに対して暴力を振るうなど決してやってはいけないことなのだ。
ではなぜ優しいのだろう。

「ひぐらしのなく頃に 祟殺し編」で、主人公・圭一は、叔父から虐待を受ける仲間・沙都子をその状況から救いだすために、ある「暴力」を行使する。
その描写には微塵の優しさもない。爆発しそうな心臓を無理やりに押さえつけなお、おさまらない緊張感。相手に暴力を振るい、それが確実に相手にダメージを負わせているという、えげつなくも絶対的な感触。相手を追い詰め、暴力の末に感じる錯覚の達成感。
そこに優しさはない。
暴力だけがそこにはある。
暴力を振るうことは簡単である。その理由も簡単であることが多い。
相手に自分の言うことをきかせたい。相手よりも上に立ちたい。相手の何かを奪いたい。
事実、沙都子の叔父はそんな簡単な理由で沙都子に虐待を行なっていた。

そこから分かるように、暴力という事実に優しさはない。
しかしいかにして暴力に至ったかに、優しさがあると私は感じたのだ。
優しいからこそ…、暴力に至るしかなかったのだと思う。
沙都子を助けたい。またあの楽しい日々の中に沙都子を戻してやりたい。また幸せそうに微笑んで、自分の名前を、あるいはどこかへ行ってしまった兄のかわりでもいい「にーにー」と呼んで欲しい。
ただ、それだけの、ささやかな、望み。
自分だけが助かりたいのならば、現状を変えることが無理だと思ったなら。
見捨ててしまえばいい。
なかったことにすればいい。
まるで沙都子など、最初からいなかったかのように…。
圭一は、優し過ぎたのだ。
「暴力」に、至ってしまう程に。

だが「暴力」は贖罪を持って還される。
それがどんな形の、例え優しさが理由の暴力にせよ暴力には贖罪が伴わねばならない。
圭一も例外ではない。圭一は受けることになる。飛び切りの贖罪を…。

「ひぐらしのなく頃に 祟殺し編」は、惨劇が起きる物語だ。見るも無残な物語だ。残酷な物語だ。可哀想な物語だ。救われない物語だ。報われない物語だ。やりきれない物語だ。

―――でも『優しい暴力』と贖罪の物語でもある、と私は思うのだ。

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2011.07.14

「ひぐらしのなく頃に」のレビュー

銀

ひぐらしのなく頃に 鬼隠し編

俺のレナがこんなに物憂いわけがない

レビュアー:ヨシマル NoviceNovice

そのセーラー服の少女の視線から感じたそれは、どうしようもなく違和感だった。

オレンジに焼けた茅葺きの民家にツートンカラーの制服は組み合わせとすればミスマッチに感じるかもしれないけれど、『ひぐらしのなく頃に』を知っているものならお馴染みの光景だ。学校帰り、点在する民家、佇む少女、本書の表紙に描かれたそれらは『ひぐらしのなく頃に』の世界観を象徴するようなものばかり。けれど、この表紙に描かれた少女・竜宮レナから伝わってくる雰囲気は私の知っている竜宮レナのそれとは異なっているように感じられて仕方がなかった。端的に言えばこの表紙に描かれた竜宮レナは私の知っている竜宮レナではなかったのだ。

いったい私の知っている竜宮レナと表紙に描かれた竜宮レナはなにが違ったのか。
答えは単純。絵が違う。
当然のことだけれどこれは重要なことだ。

私の『ひぐらしのなく頃に』原体験は原作のゲームだ。原作である『ひぐらしのなく頃に』はノベルゲームと言われる形態をとっている。簡単に説明すれば、ノベルゲームとは立ち絵と呼ばれる人物の絵とともに画面上に表示される文章を読み進める形式のことを指す。特に原作ゲーム『ひぐらしのなく頃に』ではゲーム中の人物のビジュアルは全て原作者・竜騎士07による立ち絵によって描かれている。だからだろうが、私の竜宮レナのイメージは原作者である竜騎士07が描いたものが強い。もちろん、竜騎士07の描く竜宮レナが本書のイラストレーター・ともひの描くそれと異なることは当然だ。けれど私が感じた違和感はキャラクターデザインやタッチの違いとは別のところにあった。

ノベルゲームでは立ち絵のキャラクターの表情を変化させるために場面に応じて目や口等の顔のパーツだけを取り替える手法を使う。そのために多彩な表情を作れるけれど、予め決められたパーツを使うので喜怒哀楽といった典型的な表情がその主になる。嬉しい時には笑顔になって、悲しい時には涙を流す。言葉を喋る時には立ち絵が表示されるのだから、ことさら表情は誇張されて表現され、一連の会話の中でも大きく表情を変化させる。だから私の中で竜宮レナとはいつでもそういった分かりやすい表情をする人物だった。

翻って本書の表紙に描かれた竜宮レナはどうだろう。セーラー服を着ているから学校帰りであることは推測できるけれど、視線の先に誰がいるのか分からない。なんとも形容しがたい物憂い表情を浮かべているのだ。喜んでいるわけでもないし、怒っているわけでもない。まして哀しみや楽しみの表情でもないだろう。それは一瞬を切り取ったように感じられる。近しい人の前であるなら次の瞬間には笑顔が溢れるかもしれない。敵対心が強ければ引きつった顔になるに違いない。そういった次の瞬間への可能性を持った表情なのだ。一枚の絵だからこそ現れる次の瞬間への連続した一瞬なのだ。

違和感の正体はここにあった。原作のゲームだったら仲間といるときは嬉々とした表情をするし、そうでなければ嫌悪感なり無表情といった自己主張をしているだろう。つまるところ、私が知っていた竜宮レナなら表紙の竜宮レナが浮かべている微妙に陰のある表情をしないのだ。だから、私にとって本書の表紙に描かれた竜宮レナは別人だったのだ。

『ひぐらしのなく頃に』は各編毎に少しずつ登場人物の過去であったり行動パターンが異なってくる。それによって多種多様な物語が生まれることこそが『ひぐらしのなく頃に』の特徴の一つでもある。これもある意味でそれぞれの編で別の人物になっていると考えられるのじゃないだろうか。つまり、単体での『ひぐらしのなく頃に』でもキャラクターが別人に摩り替わっていて、各編ごとに竜宮レナがいるということだ。私が本書の表紙で感じた違和感はビジュアルという気付きやすい形で顕在化しただけに過ぎないのではないだろうか。もとから各編によって別人になることを許容している『ひぐらしのなく頃に』にはメディアや描き手によって種々に派生する可能性を感じさせてくれる。別人に摩り替わる――人が変わることで物語は全く別の側面を私たちに見せてくれるのだ。

さて、今回のレナはどんなレナなのか。その物憂げな表情で何を考えているのか、誰を見つめているのか。妄想しながら表紙をめくる。

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2011.07.14

「ひぐらしのなく頃に」のレビュー

銅

ひぐらしのなく頃に 綿流し編

ひぐらしのなく頃に…

レビュアー:sakuran NoviceNovice

突然ですが私は推理小説・ミステリーものにおいて興味深い要素は「現実では為し得ないこと」だと思います。

「ひぐらしのなく頃に 綿流し編」は、双子の姉妹・園崎魅音と園崎詩音の入れ替わりが面白い本です。

ミステリーで入れ替わりをするのは主に兄弟姉妹・双子で、これもそのうちの一つ。
性格は正反対、でも根本的なところではそっくりな魅音と詩音。
恐らく現実で入れ替わってもそっくりで誰も気づかないなんてことは在り得ない、だからこそ小説の世界に浸れる、そんなことを感じさせてくれる本だと感じました。

魅力的な双子の姉妹、テンポの良いキャラクターたちの掛け合い、思わずページをめくりたくなる様なスピード感のあるストーリーと、久しぶりにのめり込んでしまうような本に出会えたような、そんな気がします。

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2011.06.17

「ひぐらしのなく頃に」のレビュー

銅

ひぐらしのなく頃に 鬼隠し編

ひぐらしのなく頃に

レビュアー:sakuran NoviceNovice

「ひぐらし」を知ったのはほんの2年前、入学した学校の教室で友人が妖艶な目をした女の子の描かれたボックスに入った本を読んでいるのを見たときでした。

その箱を裏返して見てみると、表紙に映った女の子・レナが持っていたのは―――鉈。
そのイラストがすごく衝撃的で印象に残っていました。

そして周りの多くの人が読んでいることを知り、2年前に教室でひぐらしを読んでいた友達から鬼隠し編上下巻を借り、読み終えたのが1週間前。


―――――面白い。


それがまず出てきた感想でした。
もともと背徳的な物語には惹かれやすい私でしたが、可愛い女の子達の二面性、主人公・圭一の逃走劇とテンポのいいストーリーの流れもあいまってつい読み込んでしまいました。

是非続きも読んでみたく思います。

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2011.06.01

「ひぐらしのなく頃に」のレビュー

銅

ひぐらしのなく頃に KEIYAスペシャルコラム

至高たるサブコンテンツ

レビュアー:横浜県 AdeptAdept

 スペシャルコラムの面白さって、どこにあるんだろう。ぶっちゃけ言うと疑問だった。「ひぐらし」の世界観や時代背景を、僕は確かに知りえたよ? でもさ、だから何なのかなぁ、と嘆息してしまったんだ。かなり見聞は広まるけれど、わざわざ公式サイトに掲載されるようなものなのかなって。
 結論を先に言うと、僕の考えは間違っていた。それに気がついたのは、レビューを書くために、「ひぐらし」の本編を読み直したときだ。最初は変わらずページを捲っていたんだけれど、これはどうやらおかしいなと、僕は次第に思い始めた。
 今までは気にもかけなかったセリフ・文章に注意をひかれたんだ。
 例えば「なるほど、この記述は昭和58年が舞台だからこそなのか」とかね。昭和を知らない僕のことだから、スペシャルコラムを読んでさえいなければ、きっとこんな感慨を抱くことはなかったろう。他にも、事件における矛盾した情報・怪しむべき概要など、初めて目を通したときには、なんとも思わなかったような箇所が、ことごとく網にかかっていくんだ。
 2度目の読了を終えた僕の頭には、初回とは比することもできない情報量、そしていっそう深く読み込んだが故に増幅された、物語への熱量が渦巻いていた。
 このコラムは、「ひぐらし」をもっと楽しむためのもの。だから、コラムの文章と睨めっこをしているだけでは、その秀逸さに気づけなかったんだ。新たにえた知識や視座を、「ひぐらし」本編の文章とリンクさせて初めて、僕らはコラムの意味を、役割を、そのサブコンテンツとしての本領を、まざまざと見せつけられるんだ。
 確かにこのスペシャルコラムは、公式サイトにないともったいないね。こんなにも作品の奥深さを増してくれるんだから。その価値を理解すらせずに、「いらないんじゃない?」とか思ってすみませんでした。
 「スペシャルコラムは読んでないや」とか、あるいは「読んでみたけどいまいち分かんないや」と嘆いているそこのあなた、今すぐ本棚から「ひぐらし」を引っ張り出して、コラムと一緒に読み直してくるといいよ。きっとそこには、以前よりもずっと鮮明に、「ひぐらし」の世界が拡がっているはずだから。

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2011.06.01

「ひぐらしのなく頃に」のレビュー

銅

ひぐらしのなく頃に 綿流し編(上)

魅音+詩音=不穏

レビュアー:zonby AdeptAdept

――最初に感じるのは異和感と嬉しさという複雑な感情である。

前作「ひぐらしのなく頃に 鬼隠し編」を読んでいるならば尚のこと、その複雑な感情は強く感じられることだろう。なぜならば今作「ひぐらしのなく頃に 綿流し編」では、前作で行われた残虐な行為。悲惨なストーリーは無視され、死んだはずの登場人物が何事もなかったかのように、再び「ひぐらしのなく頃に」の世界を構成しているからだ。

主人公・前原圭一とその仲間達が送る楽しいゲームとスリルに満ちた毎日。レナはご機嫌で笑いながら攻撃を繰り出し、魅音は手段を選ばず勝利を求める。沙都子は相変わらずトラップマスターとしての手腕を発揮し、梨花ちゃんは可愛くも鋭い狸っぷりで皆を骨抜きに。前作同様…否、前作以上にヒートアップする彼らの日常。テンポの良い会話と、個性的で時に息のあった連携に、読み手は「鬼隠し編」の上巻で感じたような、高揚感と痛快感を感じることと思う。これを「嬉しい」と感じないひぐらしファンがいるだろうか、いやいない。しかし最初に書いたように読み手は「嬉しさ」を感じながら、同時になんとも言えない「異和感」を感じ続けることになるのも必至なのが、この「ひぐらしのなく頃に 綿流し編(上)」なのである。

それはお馴染みのメンバーの中にするりと紛れ込んだ異分子。極自然に、極々自然に彼女は物語の中に登場し、彼女が関わることで物語は前作とは違う方向に導かれてゆく。

彼女の名前は「園崎詩音」。

園崎魅音の双子の妹。自らを「おじさん」と呼び、活発で豪放磊落な性格の魅音とは正反対の性格をしている。女の子らしく気がきく少女であり、何故か、何故だか魅音とは離れて暮らしている。きわどく可愛い制服が(ある意味)売りの、園崎家系列飲食店「エンジェルモート」でアルバイト中。おろした髪と、魅音ならば絶対にはかないであろうスカート姿で登場するキョラクターだ。
綿流し編では新たな登場人物である彼女が主体となり、圭一の選択を左右する大きな鍵となっている。

 「園崎詩音」とは「園崎魅音」が作りだした架空の兄弟なのか。魅音が詩音なのか?詩音は詩音なのか。本編の中で翻弄される圭一同様、きっと読めば読むほどこの姉妹について、疑問は増していくはずだ。そして最初は「異和感」としてしか感じられなかった「園崎詩音」というキャラクターに次第に愛着をおぼえていくだろう。その既存のキャラクタ―に劣らない、物語をひっぱる力のある個性ゆえに。

だがゆえに…ゆえに「不穏」に至る。
魅音と詩音。
双子の姉と妹。
相反する性格のはずの二人に共通する、底知れぬ気迫。
二人は圭一の前に現われては消え、消えてはまた現われる。魅音の中に時折詩音が顔をのぞかせ、詩音の中に時々魅音が顔をのぞかせる。すれ違い、入れ違い、勘違い。照れ隠し、誤魔化し、有耶無耶にする。

圭一と魅音。圭一と詩音。詩音と魅音。

それぞれの会話や仕草の中。表情の描写。さりげない関わりの中に楽しいだけではない「不穏」を、次に繋がるであろう、しかし何に繋がるかは分からない得体のしれない「不穏」を、感じ取ることができるだろう。「鬼隠し編」がそうであったように、楽しい日常の中に狂気は潜んでいる。ある瞬間を境に、「不穏」の種は爆発し、日常を破壊する。
くるりくるりと表情を変え、せわしなく入れ替わる二人の少女像は「綿流し編(上)」のところどころに、傷や嘘や糸を張り巡らせて待っているのだ。
日常の反転を。
嘘が本当に、本当が嘘に変わる一瞬を。
この「不穏」がどう決着するのかを見届けるために。

不穏の正体を知りたいのならば、「ひぐらしのなく頃に 綿流し編(下)」にてお確かめ下さい。

何が嘘だったのか、何が本当だったのか、それは彼らがおのずと語ってくれるのだから。

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2011.04.15

「ひぐらしのなく頃に」のレビュー

銅

ひぐらしのなく頃に

忘却が生みだす「再生」と「謎」

レビュアー:大和 NoviceNovice

 僕の中で、『ひぐらしのなく頃に』という作品は『祭囃し編』をプレイした時点で「終わった」作品だった。だから以前に講談社BOXで小説化された際も、あまり心は動かなかった。今回の文庫化も同様だ。しかしレビュアー騎士団に向けて検討してみた結果、僕はここで凄く面白いことが起こっていると気付いた。この作品は終わるどころか、むしろ再生し、新たな謎すら生みだしているのだ。

 『ひぐらしのなく頃に』は言わずと知れたノベルゲームの傑作で、同人ゲーム界の歴史を切り開いた作品だ。大雑把に説明すれば、昭和58年の雛見沢という田舎で起こった殺人事件に主人公が巻き込まれていく、という話。「正当率1%」という挑発的な宣伝文句、ノベルゲームとしてのクオリティの高さ、次々と浮上する謎、それに対する議論の沸騰、様々な要素が人々を引き付け一大ムーブメントを巻き起こした。

 まずは竜騎士07という作家の巧みさについて触れておこう。例えば(さやわか氏も言及していたけれど)ひぐらしにおけるキャラの会話は非常に特徴的だ。その発言がどのキャラの発言か、断片的に見ても一瞬で判断できるくらい、徹底した書き分けがなされている。言い換えれば、徹底した記号化が行われているということだ。ここでいくつか台詞を引用させていただこう。

『「かぁいそかぁいそなのですよ、にぱ~☆」』

『「見えたッ!! これだっぁああぁああぁああ!!!!」』

『「「な、なななんですってぇえぇ!? 7は一番わかり難いはずですのに~!?!?」』

 ここでは明らかに、従来の小説が避けてきたような表現が使われている。たとえば「~」という波線、「☆」という記号、「!!!!」「!?!?」という感嘆符や疑問符を重ねて強調する方法が挙げられる。これらのセリフから、キャラクターがマンガの如くダイナミックに動いているシーンをイメージすることは難しくない。これらは明らかにネット上のコミュニケーション、チャットやメールにおける文字だけを使ったコミュニケーションの流れを汲んでいる。ネット上では、いかにして文字だけのコミュニケーションで多くの情報、例えば発言だけでは分からない感情などを相手に伝えるか、という方法が考えられ、発展してきた。それらとマンガ的な想像力を組み込むことで、ひぐらしはキャラ会話の圧倒的な効率化、引いてはスピード感やテンポ感を生みだすことに成功している。

 しかし、この方法は記号性に依存しているが故に、著しくキャラクターや会話から身体性を奪ってしまう。言い換えれば、文字だけでやり取りをしているような、ある種の「軽さ」が否応なく表に出てきてしまう。

 ところが、ひぐらしという作品において、この「軽さ」は全くマイナスに作用していない。例えば前半のシーンにおいて、この「軽さ」は主人公達が無邪気に和気あいあいと遊ぶ雰囲気を上手く表現しているが、後半のホラー展開になると、むしろ前半の「軽さ」こそが過剰な落差を生みだすための前フリとして作用する。同時に、この過剰な記号化が可能にする表現によって、キャラクターの会話や行動にはいくつもの伏線やミスリードが張りめぐらされる。また、ネット上のコミュニケーション方法を取り入れたこの技法が、コミュニケーションに焦点を当てた作品のテーマを雄弁に物語っているとも言えるだろう。いわば竜騎士という作家は、「軽さ」を率先して引き受けることで、通常ならば欠点になりそうなことを徹底的に武器として利用している。この徹底した態度にこそ、竜騎士が他の作家と一線を画している理由があると僕は思う。キャラクターや文章のテンションから誤解されがちだが、竜騎士は勢いではなく、むしろ非常にクリアでタイトな視点や態度を武器とする作家なのだ。

 こういった指摘から、『ひぐらし』という作品の「内部」がいかに優れているかを語ることは難しくないけれど、やはり『ひぐらし』という作品の魅力は、作品の「外部」に向き合ったことにこそある。

 原作の『ひぐらし』は選択肢の存在しないノベルゲームだった。通常のノベルゲームにおいては選択肢を選択することでプレイヤーが作品世界に介入する。だが『ひぐらし』はそれを取っ払って、ただストーリーを読ませる作品を「ゲーム」として提示した。このことには少なからず反発があった。「こんなのゲームとは呼べない!」といったものだ。

 でも『ひぐらし』は間違いなくゲームだった。『ひぐらし』にとってのゲームとは、ノベルゲームという形式ではなく、むしろゲームの外に広がるコミュニケーションの空間だった。そこでは『ひぐらし』によって提示された謎に対する意見や議論や願望が渦巻いていた。『ひぐらし』の狙いは、そういった空間を作ることにこそあった。知らない人はイメージしづらいかもしれないが、『ひぐらし』の出題編が出揃った時、『ひぐらし』を取り巻く熱気は凄まじかった。公式サイトの掲示板を見れば連日連夜の激しい議論が繰り広げられていたし、全く関係ない目的で訪れたホームページにも『ひぐらし』に関する情報や考察が書かれていた。広がりながら密度を高めていくコミュニケーションの渦にプレイヤー達は熱狂した。そういった空間への参加こそが『ひぐらし』という世界への介入だった。そこには間違いなくゲームがあった。

 これらの点を踏まえた時、僕らは『ひぐらし』の小説版と向き合うに当たって、恐ろしい事実に直面させられる。それは、『ひぐらし』という作品は小説という媒体であっても、その「ゲーム性」を全く損ねていない、ということだ。『ひぐらし』が投げかけてくる謎は小説版においても全く衰えることなくそこに存在する。つまり『ひぐらし』は小説でありながらゲームなのだ。

 このことは『ひぐらし』が「ゲームをゲームたらしめているものは何か?」という問題意識に基づいて作られたことを示唆している。無論、それはノベルゲームの時点で見られるものでもあった。選択肢の無いゲーム。ただクリックするだけの作品をゲームと呼べるのか? という問題。しかし少なくとも、(公式サイトでは「サウンドノベル」と表記されているが)そこではノベルゲームという体裁は取られていた。形式として多くのノベルゲームの文脈上にある、という事実が、この選択肢が無い=物語を読むだけの作品を、プレイヤー達に「ゲーム」として認識させていた。だが小説版『ひぐらし』においては、もはやゲームというパッケージすら投げ捨ててしまった。ゲームという体裁を脱ぎ捨てることで、『ひぐらし』は「ゲームをゲームたらしめているものは何か?」という問いを、極限と言ってもいいくらい徹底的に突きつけてくる。その徹底した態度に、僕は痺れにも似た感動を覚えずにはいられない。

 そしてこの文庫化にあたっては、思いもよらない現象が起こっている。原作が完結してから既に何年もの月日が経っているわけだが、この作品は時間の経過によって色褪せるどころか、むしろ再生してしまっているのだ。

 先述の通り、ネット上はひぐらしの議論で溢れていた。意識せずともひぐらしの情報に触れてしまうことも多かった。言い換えれば、ネタバレに触れてしまう可能性が高かった。『ひぐらし』の最大の魅力は謎の提示にあり、それこそがゲーム空間を作り出していた。しかし『ひぐらし』が盛り上がれば盛り上がるほど、ネタバレに遭遇する危険は増えた。それは『ひぐらし』のゲーム性を損ねるものだ。ブームの最中にあって、何のネタバレもなく『ひぐらし』に触れることは非常に難しかった。

 しかし今や『ひぐらし』を語ろうというサイトはそれほど多くない。積極的に検索をすれば出てくるだろうが、自然と目に入ってくる、というようなことは少ないだろう。これは寂しいことでもあるけど、人々に忘却されることによって、『ひぐらし』はそのゲーム性を復活させた。再び議論に没頭させることを可能にしたのだ。

 一方で、ここには『ひぐらし』が直面する困難がある。それは当時のような巨大なゲーム空間を作り出すことはもはや叶わない、という端的な事実だ。当時の空気を作り出していた原動力は、明らかに「謎の答えを知りたい」という欲求だった。しかし今では、検索すれば簡単にその答えを知ることができてしまう。例えば友人同士で示し合わせて答えを見ないようにする、ということはできるだろうけども、当時の『ひぐらし』が持っていた、大勢の知らない人と『ひぐらし』を介して繋がっていく、議論を戦わせていく、といったような力はもはや無い。

 無論、当時のようなゲーム空間を抜きにしても、『ひぐらしのなく頃に』という作品は多くの示唆に富んだ読み物として読むことができる。しかし、やはり『ひぐらし』が大ヒットした原因、『ひぐらし』に多くの人が惹きつけられた原因は、そのゲーム空間にこそあった。恐らくは『ひぐらし』というゲーム自体が、何年も経った後に読まれるという事に関しては、あまり想定されていなかったのではないか。勿論どんな作品でも、発表した時とずっと同じ様に受け取られることはない。『ひぐらし』に限らず、どれだけ人々が熱狂した作品であっても、時代の流れは作品の風景を変えてしまう。だが『ひぐらし』は物語の外に対して自覚的な作品であっただけに、その「落差」がより目についてしまうのだ。

 これは『ひぐらし』というゲームモデルが、ある種の更新を迫られているとは言えないだろうか。時代を越えても尚、多くの人を惹きつけるような「ゲーム性」の設計。それを考えた時、もしかしたら『ひぐらし』は物語すらも捨ててしまわなければならないのかもしれない。純粋なゲームルールとシステムの抽出こそが、最も時代を越えて残る存在なのかもしれない。

 あるいは、この問いは『ひぐらし』という作品が竜騎士07という作家に向けて出題した謎であり、ゲームなのかもしれない。だが心配は無用だろう。竜騎士07の正答率は、100%に違いないのだから。

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2011.03.01

「ひぐらしのなく頃に」のレビュー

銅

ひぐらしのなく頃に 鬼隠し編

最初にして最終形の物語

レビュアー:zonby AdeptAdept

「ひぐらしのなく頃に」が話題になり始めた頃。あれはそう、同人ゲームとして名をあげ、漫画化、アニメ化、ゲーム化と様々にメディアミックスされ始めた時分だっただろうか。
私はそれらを横目に見ながら、こう思っていた。

絶対に、「ひぐらしのなく頃に」なんて見てやるものか。

理由は実に単純。ちょっとグロいけど、魅力的な女の子が出てきてラブ&ピースな流行の軽いお話だと思いこんでいたからだ。周囲の評判も、○○属性やら巫女服メイド猫耳ギャルゲーなど表面上のキャラクターのネタ的要素。いわゆる萌えとしての記号ばかりが強調されていた感がある。そんな感想を耳に挟む度にさらに私は頑なに「ひぐらしのなく頃に」から一定の距離を保ったまま、興味はあるけど見たら負けという一人冷戦状態で膠着していた。

そんな私が「ひぐらしのなく頃に」の世界に初めて触れたのは、漫画である。友人に借りたのだ。ははあ、まあそろそろ周りの熱も冷めたようだし、読むだけ読んでみようと手にとったのが運のツキ。

――はまった。
気づいたらPS2版のゲームをプレイしていた。それどころかPCの体験版もプレイしていた。銀BOXで出版されているものも読んで、星海社文庫に至った次第である。

最初の決意は何だったのであろう。どのメディアで物語を体験しても内容は皆同じなのである。雛見沢という寂れた村に一人の少年が引っ越してくる。少年を取り巻く個性的で魅力的な少女達。しかしそこで怪事件が起こり少年の日常は脆くも崩れ去る…などと書くと、本当に単純だ。あらすじも結末も知っているのに、あらゆるメディアを横断してその世界に触れてしまう恐ろしいまでの求心力…。
噂に聞いていた○○属性も巫女服メイド猫耳ギャルゲーその他諸々、確かにあった。けれどそれらはあくまで表面的な装飾で、その下には怖気が走るほど魅力的な謎と伏線が張り巡らせられていた。陽気で軽快なキャラクター達の残酷で複雑な心理が、見事に描き切られていた。
ポップでキッチュな包装紙をはぎ取った末に、湯気のたつ内臓を見つけてしまったような。
甘くて美味しいお菓子にかけられたシロップが、実は人間の血液だったかのような。
それが、私が垣間見た「ひぐらしのなく頃に」だった。

中でも最も最初の作品である「鬼隠し編」が、私は一番好きである。初めて物語を読んだ時、明かされなかった謎と散りばめられた断片を、繋げては壊し繋げては壊し、どきどきして眠れなかった程だ。正解率1%は伊達ではない。
本気で推理したいと思うならば「鬼隠し編」は、全編くまなく一文一句、油断してはならない作品だ。彼と彼女達のさりげない日常、楽しげな一コマ、間に挟まる破片的な文章にまで、神経を張り巡らせていなければならない。そしてそれらにこそここから始まる「ひぐらしのなく頃に」シリーズのすべてに共通する核のようなものが極めて巧妙に潜み、息づいている。
シリーズを読む進めていく内に、いろいろと分かってくることがあると思う。けれど、全てを知った後、もう一度読み直したくなるだろう。

最初にして、最終形ともいえるこの物語を。
消費物としての物語が多い中、原点をもう一度確かめたいという気持ちにさせられる稀な作品だと思う。

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2011.03.01


本文はここまでです。