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「壜詰病院」のレビュー

銀

壜詰病院

音楽のように読む小説

レビュアー:zonby AdeptAdept

目を使って小説を読むということは、もう長い間続けてきたのだけれど、耳を使って小説を読むというのは初めてで、例えるならそれは、耳の中にとろとろと水のような、しかし水ではない何かもっと濃密で複雑な液体を少しずつ流し込んでゆくような感覚だった。
佐藤友哉が紡ぐ「壜詰病院」という源液を、朗読者である古木のぞみの透明感があり、どこかイノセントな印象を持つ声で希釈する。そこにピアノの旋律と赤ん坊の鳴き声を加えて、その液体は出来上がっている。
イヤフォンから流れ出したそれは、何の抵抗もなく鼓膜をすり抜け脳内に侵入し、拡散する。
物語は頭の中で活字に姿を変え、映像に姿を変え、驚くほど鮮やかなイメージを炸裂させながら駆け抜けていった。それはとても足が早い。
夢から醒めたような心地でイヤフォンを外し、たった今聞いたばかりの物語を反復しようと試みるのだけれど、浮かんでくるのは断片的なイメージや台詞。ぼんやりとした全体的な雰囲気などだけで、一本のまとまりのあるストーリーを思い描くことはどうしてもできなかった。

それに気づいた時、実はちょっとショックだった。

本を読む時、読み終わってから思い出せないような読み方をしたことはない。読んだからにはストーリーを覚えていたいと思うし、人物の感情の機微や仕掛けを把握しておきたいと思う。
「壜詰病院」だって同じだ。「耳で読む」という方法が違うだけで、自分なりに真剣に「読んだ」つもりだったからだ。
耳から物語や世界観が入ってくるという読み方に慣れていないせいだからだろうか?と考えた。
ならば、慣れるように流したままにしてみよう。とループに設定し、再生をクリック。

…。
ループした具体的な回数など覚えていない。
最初は集中し、文章の一言一句を覚えようとするかのようにじっと座って聞いていたのだが、段々それにも耐えられなくなり、違う作業をしながら聞き出していたからだ。
相変わらず、ストーリーはうまく覚えられないままだったが、しかし明確に変化した点はあった。
一言で言うと、馴染んだのだ。
馴染んだ。
染み込んだ。
スポンジに水を垂らす様を思い浮かべて欲しい。乾いたスポンジに水を垂らしても、最初の一滴は染み込むばかりか弾かれてしまうだろう。だが、一度表面に染み込み、道筋ができると面白いように水を吸い込むようになる。私の頭に起こったことも、それと似ている。
一度よりも二度。二度よりも三度。三度よりも四度と聞いていく内に、私の頭の中には道筋ができ、「壜詰病院」が流れる度に、その道筋は太く広くなり、流れる情報を量も増えてゆく。
やがて頭の中が物語の雰囲気や空気で飽和し、最初とは比べ物にならないくらいの愛着が生まれているのを確認するのだ。
そうやって作品を自分の中に取り込む、馴染んでゆく様は過程は音楽を聞くことに似ているかもしれない、と感じた。
好きなアーティストの新曲が出た時、一回聞いただけでは勿論、覚えられない。しかし何度も繰り返し聞く内に、いつの間にか曲に合わせて口ずさめるようになっている自分に気付くだろう。
寄り添うように、ごく自然に、外側からきたはずのそれが、いつしか内側のものになっているという感覚。
物語を頭で理解するというよりも、身体で理解すると表現できるような感覚は、私にとって初めてのものだった。

私が今までしてきた読書とは随分方法が違うけれど、これが「壜詰病院」という耳で読む小説の一つの読み方なのかもしれない。
何度も繰り返す、というのが大きなポイントだ。
一度に全部を理解しようなんて身構えなくても良い。
物語に、朗読の声に身を委ね、受け入れて揺蕩うだけで良いのだ。
音楽を聞くように、読めば良いのだ。
そうすればいつの間にか、遠そうに見えた距離は縮まり
きっと貴方は

「壜詰病院」の中に流れ着く。

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2014.03.27

「壜詰病院」のレビュー

銀

壜詰病院

ラジオ小説としての「壜詰病院」

レビュアー:USB農民 AdeptAdept

 ーーその小説は、静かなピアノの旋律から始まる。

「壜詰病院」は、星海社Webページで公開されていた、星海社ラジオ騎士団というWebラジオで放送されていた朗読作品だ。
 夢野久作の作品を彷彿とさせるタイトルのこの作品は、死や諦念や情念などの要素で、ごくごくと濁った彩りを放つ作品だ。死があちらこちらに湧き出すような病院で、一人の少女の数奇な体験が描かれている。

 ところで、この作品は制作サイドから珍しいジャンル名を与えられている。
 連続ラジオ小説。
 聞き慣れない言葉だ。その言葉からは、NHKの連続テレビ小説がすぐに思い浮かぶが、そこにはあまり共通点がないように思う。
 一般的には、「連続ラジオドラマ」と呼ぶのではないか。なぜ、わざわざ「ドラマ」の部分を「小説」に置き換えているのか?

 もうひとつ、この作品で気になる点がある。
 星海社からはいくつかの朗読CDが発売されているが、それらは基本的に、BGMが存在しない。けれど「壜詰病院」には、ピアノ曲がBGMとして使われている。それもまた、なぜなのか。

 私はこの二つの要素は、密接に関係していると考える。

 なぜ「ドラマ」ではなく「小説」なのか。それはこの作品が、小説と同じ要素を持っているからだろう。しかもそれは、紙の本であること、のような媒体としての要素ではない。もう少し目には見えにくいことだ。

 ところで小説とは何か。それは文字の連なりだ。しかしただ文字が連なっていればいいというわけではない。それは一貫性のある論理的なつながりを持っていなくてはいけない。(ここでの論理とは、科学的、客観的である必要はない。特殊な論理性で書かれた小説も世には多い)だから(広い意味での)論理性を持たない小説はあり得ない。
 そして小説の妙味とは、作者ごとに文体が異なることで、そこで生まれる論理性にも様々な種類が生まれることにある。

 では、「壜詰病院」における「文体」とは何か?
 佐藤友哉の文章か? しかし、佐藤友哉のクレジットは原作だ。作品全体を左右する文体レベルの論理性は、別の存在にゆだねられている。クレジットに並ぶもう一人の存在。朗読の古木のぞみだ。
 佐藤は「壜詰病院」の文章を、古木が読むことを前提に書いたという。そこには、古木の声で表現されることが、この作品の前提にあるという意識が窺える。(そのためか、星海社の他の朗読CDには必ずついている、本文を載せたブックレットが、この作品にはついていない。制作サイドから、佐藤友哉の文章ではなく、古木のぞみの声でこの作品を体験することを奨められているように私には思えた)
「内容=何を書くか」と「文体=どのように書くか」という分類でこの作品を捉えるならば、佐藤が「原作=何を書くか=内容」を担当し、古木が「朗読=どのように読むか=どのように書くか=文体」を担当していると言えるだろう。
「壜詰病院」の「文体」とは、古木のぞみの「声」ということになる。

 そして音楽もまた、この作品の論理性を支えるために存在している。
 人間の感情は、イメージに引っ張られやすい。映画やゲームなどで、悲しい曲調の音楽が流れていると、それだけでその場面が悲しく見えてくるのは、よくあることだ。そういった音楽の持つ力というのは不思議なものとして捉えられやすいが、しかし基本的に音楽もまた、文章と同じく限られた記号の並べ替えによって作られている。そこにはやはり、一貫した論理性が存在している。リズムも音階も考えずに、ただ音の記号を並べただけでは、聴く人に何かを感じさせることはできない。
 音楽もまた、ラジオ小説を支える論理性の一つなのだ。

 ここまでの話で、冒頭の問いは次のように答えることができるはずだ。
「壜詰病院」は、なぜ「ラジオ小説」なのか。
 それは、「小説」と同じように、作品内の論理の一貫性を最重要のファクターとして意識しながら制作されているからであり、また、その論理性を「文字」ではなく、「声」と「音楽」で表現した「小説」だから、「ラジオ小説」なのだ。

「壜詰病院」は、静かなピアノの旋律から始まる。その旋律は、少し悲しい色を帯びている。そこへ音を重ねるように、古木のぞみのかすれ気味の細い声が入る。その相乗効果は、どこか俗世とは遠く離れた世界観をよく伝えている。


 静かな場所で、この作品を聴いていると、まるで物語の舞台に自分がいるように思える瞬間がある。
 ここではないどこかにある、とても死に近い場所としての病院。
「壜詰病院」。
 その病院は、声と音楽に支えられて、そこにある。

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2013.07.08

「壜詰病院」のレビュー

銅

壜詰病院

朗読CDというジャンルはアリか?

レビュアー:レディオ NoviceNovice

朗読と聞いてまず思い浮かべるのは朗読少女だろう。
文庫本などの文章を読み上げてくれるものなのだが、
私は本は自分のペースで読みたいと思う人間なので、
過去に使用したことがない。
よくあるドラマCDとは何が違うのだろうか?

朗読ということで当然一人の声優さんによって読み上げられている。
そしてドラマCDとの大きな違いは状況や心境などが詳細に読み上げられることだ。
そう、これは小説なんだと思い知らされる。

そう考えると自分のペースで聴けない朗読CDは正しいメディアなのか?
答えは個人によって異なるかもしれないが私は疑問に感じた。
その理由は私自身この物語を2、3回聴かないと、
話の本筋を理解できなかったからだ。
ここは重要なポイントだと感じている。

やはり目で見て読んで理解するのと、
耳で聴いて理解するのでは結果に違いが生じる。
見間違いや聞き間違いは当然あるのだが、
間違える傾向は目と耳で同じにはならない。
つまり内容の理解も目と耳では違いが出てくるということだ。
その事を内容に盛り込んで作成しなければならない。
ではこの作品ではどうなのか?

登場人物は主人公、先生、赤ん坊、妹、少女二人とあまり多くない。
各話で考えてもメイン3人に+1名以上登場することはない。
時間の制約もあったかもしれないが、
これ以上登場人物や情景があっても理解しづらいと考えたのであれば、
著者はよく解っていると感じる。

あと一つ触れておきたいことは声優さんだ。
私は朗読している古木のぞみさんの事が大好きだ。
この世の中で一番好きな声優さんだと断言できる。
なので朗読を聴いていてもどうしても古木さんのイメージが入ってきてしまう。
これは聴く側として問題はないのだろうか?

例えば有名声優さんが朗読するとその方が演じたキャラクターをイメージする人はいないのだろうか?
よくTwitterで声優さんがナレーションをしているのを聴いて、
声優さんの名前ではなくキャラクター名で引用する人を見かける。
そのキャラクターでナレーションしているわけではないので、
個人的には声優さんに失礼だと感じる時がある。

このように朗読を聴いてもその声優さんのイメージで聴いてしまわないだろうか?
そしてそのイメージで聴いた時に著者の思いは伝わるのだろうか?
ここでは答えを出せないが考える必要があると感じる。

さて結論として朗読CDは成立するか考えてみたい。
私は条件付きでありだと感じている。
やはり文字を読むのが嫌いな人もいるだろうし、
そのような人に文章に触れてもらう機会ができることはいい事だ。

ただし文庫本をそのまま朗読しても、
状況や心境などが複雑に絡み合うような内容だと、
聴いただけでは理解できない恐れがあるので、
そういう形での朗読CDは出さなほうがいい。
あくまで朗読CD用に物語を作成、
もしくは再構築しないと成立しないだろう。

最後にこの物語はとても辛く切ない。
しかし人の因果とはどの様なものなのかが描かれている。
人が生きること、人が死ぬこと、そして人を愛すること。
それが閉塞された先の見えない病院内で繰り広げられる。
少女が何故壜詰を集めるのかを理解した時には涙することでしょう。
ぜひ機会があれば聴いてみて欲しい。

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2013.07.08

「壜詰病院」のレビュー

銀

壜詰病院

原点放流

レビュアー:ヴィリジアン・ヴィガン WarriorWarrior

 佐藤友哉が小説に触れるきっかけとなったのは、ラジオで聞いた「パラサイトイヴ」のラジオドラマだったそうだ。その後、原作の小説を読み、本屋にあった講談社ノベルスに手を伸ばした青年はそのレーベルでデビューした。出版した本が売れなかったりしつつも三島由紀夫賞作家にまでなった。
 夢が叶ったと言っていいだろう。佐藤友哉は自作を朗読してもらう機会に巡り合えた。彼が自分の原点と向き合って選んだ物語は、明確な生と死だった。
 タイトルは「壜詰病院」。朗読は古木のぞみ。
 佐藤友哉は、彼女に読んでもらうことを前提に、この物語を紡いだ。
 主人公は死が差し迫った15歳の女の子、トオリ。彼女の体は「壊れかけ」で助かる見込みがない。自分に襲い掛かる死をやわらげるかのように彼女は壜を集める。中には、この病院で死んだ人達の体の一部が入っており、そのコレクションを眺めることが、彼女の日課になっていた。
 そんな彼女が「黒ずくめの男」から唐突に赤ん坊を預かることになる。赤ん坊の泣く様子から、かがり火を連想した彼女はその小さな男の子に「カガリ」という名前をつけ、自分の息子として所有し、飼育し始める。
 主治医である「先生」、双子の妹「ユウリ」や助からない患者達と、ピアノのBGM、古木のぞみの声、赤ん坊の泣き声という最低限の構成で、じんわり物語は進行してゆく。
 この作品は朗読のみで、文字媒体での発表はないため主人公の名前も「トオリ」と書いてはいるが、案外「トーリ」とか「とおり」とか「十折」だったりするのかもしれない。おそらくそれすらも聞き手にゆだねているのだと思う。
 
 さて、唐突に赤ん坊を預けられたように、唐突に作家になったつもりで考えてみよう。「朗読CDを作りたいんで脚本書いてもらえませんか? 読むのは古木さんです」と急に仕事が舞い込んできた。いつかやりたいと思っていた夢の企画。でも、さてどうしよう?
 「古木のぞみ」という声優の特性を最大限活かしつつ、持ち前のどす黒さは維持しつつ、そうだ! 難しい言葉をたくさん出そう! 言いにくそうな、とっつきにくいが引っ掛かりのある感じの言葉をたくさん! そんなことを新人脚本家は思いついたに違いない。
 もちろん読み手に嫌がらせで難しい言葉をかき集めたわけではない。佐藤友哉は古木のぞみの特徴を心得ていた。
 それは「たどたどしさ」である。
 この「壜詰病院」において、脚本家としての彼の狙いはほとんど成功していると思う。15歳で死が迫る少女が放つ「赤子解体(懐胎)」「老婆毒殺」「双子分断」「内臓溶解」「手術準備室」等の言葉達は、難解さや禍々しさよりもむしろ、背伸び感や拙さで溢れている。

 ただ、この作品の売り方はもう少し何とかならなかったのだろうか、とは思う。昨年の10月に8話までラジオ騎士団内で公開されていたが、最終話はCDでしか聞けなかった。CDの販売は、昨年10/6~10/8に開催された徳島マチアソビvol.9と、10/20に秋葉原で行われたラジオ騎士団公開収録のときのみで、それを逃した私がCDを手に入れるには、今年5月のマチアソビvol.10まで待たねばならなかった。それ以降はアニメイトにて絶賛発売中(ステマ)だが、いくらなんでも間が空きすぎである。
 まぁ、最終話をCDという壜に詰めて放流した結果、受け取るのに7ヶ月必要だったということにしておこう。中身が腐敗してなくて本当に良かった(笑)。
 佐藤友哉と古木のぞみを知ってる人なら、聞いて損はない内容だと思う。ラジオ騎士団で聞いていた人も最終話まで全話連続で聞いてみて欲しい。長編映画を観た後のような満足感が得られる筈だ。
 夜の病院の薄気味悪さ、嫌悪するけど覗きたくなる、ちょっと怖いけど聞きたくなる、絶望にまみれた少女の拙さを応援したくなる、そんな朗読CDだ。

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2013.06.22

「壜詰病院」のレビュー

銅

壜詰病院

詰め切れなかったあの空気

レビュアー:ticheese WarriorWarrior

 壜詰病院はまず星海社ラジオ騎士団の1コーナーとして配信された。番組初めてのゲスト佐藤友哉が書き下ろし、パーソナリティーの古木のぞみが朗読する。番組自体がにぎやかで、和気あいあいとした空気で進む中、死の臭いに満ちた壜詰病院は一種の重石の役割を果たしていた。それまで同じくパーソナリティーである平林緑萌とさやわかに、散々にツッコミを入れられトークの拙さを弄られる古木のぞみが、朗読が流れ終わると声で演じる技能を持った一人の仕事人として扱われる。ぐずついた空気は一新し、古木のぞみも声優の面目躍如で勢いを取り戻す。
 私はこの朗読終わりの空気が好きだった。パーソナリティー三人が溜めていた息を吐き出し、一体となって一つの作品について語りだす。そこには若輩と人生の先輩の垣根はなく、ただ楽しいラジオ番組が再び動き始める。
 今はもうラジオドラマとしての壜詰病院は終了し、朗読CDにパッケージングされて販売されている。私の手元にも一枚ある。だがそこに、作品を語り合った三人の声はない。1話1話の終わりに息をつき、和む時間は存在しない。代わり流れるのは壜詰病院の結末の物語。番組では最後の2話を流していない。重石は重石のままであるのだろうか。それとも晴れやかなエンディングを迎えるのか。
 あえて内容を語りはしないが、もしあの三人がエンディングを一緒に聞き終えたなら、今までのどの回よりも暖かな空気で感想を語り合ってくれるだろう。私はそう信じている。

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2013.06.22


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