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「メイ・デイ」のレビュー

銅

メイ・デイ

あなたに出会えてうれしい

レビュアー:ラム AdeptAdept

広大な書物の海の中、自分好みの作品に出合えるということはまるで奇跡なのです。恋のようなときめきと、お酒のような酩酊を覚える素敵な出来事です。
だから、私は、好きな作品ができると同時に作者も好きになります。
なので、主人公の行動はとても得心がいきました。すべての作品を読み、献身的な介護をし、同じようになりたいと修行する。
たとえどんなダメ人間でも、暴力をふるう父親でも、関係ない。
素晴らしい作品をつくった尊敬すべき人。
血のつながりなど瑣末なことです。
それでも。
故意に気付かずにいた彼女の感情は確かに愛だと私は感じていました。
なればこそ、私は『メイ・デイ』という作品を、この結末を愛さずにはいられない。
作者が、作者と同じ名前の登場人物をどれだけダメ人間にみせかけようとも、彼女の思慕から優しさを見つけるたびに、私も『メイ・デイ』作者への思いが募っていくのですから――。

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2014.06.18

「メイ・デイ」のレビュー

銀

メイ・デイ

そのナプキンから目を背けるな

レビュアー:横浜県 AdeptAdept

 主人公の「私」は、心が壊れている。離婚した母には見捨てられ、父からも暴力を受けている。それでも父との間に家族のつながりを求めようとする彼女は、典型的な共依存の状態にあり、僕たちに危うさを感じさせる。そんな「私」の心は、壊れているが、しかし、強い。「守られてはいけない」という自負に支えられている。その強さは、小説家だった父の言葉を、魔法のようだと感じたことに由来していた。その魔法を継承した「魔女」として過ごす生活は、「私」にとって、僕たちの考える普通な生活よりも大切なものであった。
 もちろんそれは彼女の思いこみだと、僕たちはそう考えるだろう。「私」の見せる強さは、不安定な自我のうえにかろうじて成り立っているにすぎない。だから彼女が「私は父親の子供ではない」という真実を受け入れたとき、僕たちは「私」を祝福する。彼女もついに現実を直視したのだと。
 しかし彼女はやはり壊れていた。彼女は父との親子関係を解消する代わりに、新しく男女の関係を結ぼうとする。その決意には、以前のような危うさも感じられない。彼女はついに、父親と家族のつながりを結ぶための、たった一つの冴えたやり方に気がついたのだ。
 作者の大間九郎は「この短編は少女の闘争と、さらなる闘争の物語。甘えんな!戦え!って話」とツイートしているが、しかし読者の僕たちは、そのような「闘争」に身を投じる「私」の姿を受け入れることができるのだろうか。きっとその多くは、作中の一般人、校長先生のように絶句をするのが関の山だろう。大間九郎が「守られてる読者の鼻先に使用済みのナプキンぶら下げるような小説」とつぶやいたように、僕たちはどこか複雑な読後感に苛まれてしまう。そしてそれはまた、作者の思うつぼなのであった。
 だがしかし、これは当然の反応であるとも言えるだろう。僕たちは魔女ではない、「私」のような「闘争」に身を置く強さを持たない。だからこそ僕たちは「守られている」。でもそれでよいのかと大間九郎は呼びかけている。もちろんよくはないはずだ、僕たちだって、心のどこかで「闘争」に惹かれているところがあるのではないか。この「メイ・デイ」を読んで面白いと思ってしまったとき、どこか胸糞の悪い思いをしながらも、この作品について、「私」についての考えをめぐらせてしまったとき、あるいは「闘争」について、かえって過剰な拒否反応を示してしまったとき、僕たちはすでに「闘争」への欲求に貫かれていたのではないか。そうでなければ、僕たちにとって「私」の行動は何の意味も持たなかったはずだ。「メイ・デイ」は退屈な小説だったと、ただそのように感じるだけで終わりだったにちがいない。
 「メイ・デイ」を読んだ僕たちが、改めて闘争に身を投じることになるのか、それともこれまでと同じように守られつづけることを選ぶのか。いずれにせよ、「メイ・デイ」は僕たちに「甘えんな!戦え!」と語りかけている。それは父の言葉が「私」にとって「相手に自分の意思を伝える道具」ではなく「相手を支配する、やはり、魔法だ」と感じられたのと同じように、僕たち読者に向けて、大間九郎から放たれた魔法であるのかもしれない。だから彼が「使用済みのナプキン」を僕たちの鼻先にぶら下げたとき、僕たちは嫌悪感を催しながらも、いやそれゆえにこそ、またそのナプキンを嗅いでみたいと思ってしまうのだった。

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2014.05.20

「メイ・デイ」のレビュー

銀

大間九郎『メイ・デイ』

大間九郎の描く、最悪な人間と、最悪な世界と、人の心を動かす「何か」。

レビュアー:USB農民 AdeptAdept

 大間九郎の描く物語が好きだ。

 主人公(小学生女子)の父親は、クズだ。人としても親としても作家としてもクズだ。そいつの名前は大間九郎。本当だ。別に作者をディスっているわけじゃない。
 主人公の少女は、クズの父親と二人で生活している。家事炊事は少女の仕事だし、朝が来るたびに父親が寝ゲロを喉に詰まらせていないか、真冬に裸で布団にも入らず寝ていないか、そもそも生きているのか、確認するのも少女の仕事だ。それが小学生女子には荷の重すぎる酷い生活であることは間違いない。そんな少女の心を支えているのは、「大間九郎」(紛らわしいので、登場人物の大間を「」で括る)が昔に書いた小説だ。そこに書かれた言葉は、少女にとって世界のどんなものよりもきれいですてきな「魔法の言葉」だった(大間九郎による「大間九郎」の持ち上げっぷりが凄まじい)。「魔法の言葉」を使う「魔法使い=「大間九郎」=父親」の血を自分は引いているという事実は、少女に、自分もいつか「魔法の言葉」を使う「魔女」になることを決意させる。

 少女はよく理解しているのだと思う。どんなに最悪な人間にも、人の心を動かす「何か」はあるし、どんなに最悪な世界でも、人は「何か」に心を動かされながら生きていくということを。
 それが大間九郎の描く物語だ。

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2014.05.20

「メイ・デイ」のレビュー

銅

メイ・デイ

すべてのエンドをハッピーに

レビュアー:鳩羽 WarriorWarrior

魔法などないのだから、当然魔法使いもいない。言葉が魔力を持つこともない。

子供が親に殴られたり蹴られたりするものを読んで、その子供自身に感情移入することが難しくなった。
だから、その子供が何を感じ、どう思おうとも、それがたとえ信じていなければ耐えられないほどの現実を支えるための虚構であったとしても、一人の大人として、そのフィクションを肯定することはできなくなった。
それは魔女になるための試練ではないし、その言葉には魔力が宿っているわけではない。
私はこの主人公の子供に、そう諭したくてしょうがなくなる。

メイ・デイ。
メーデーという方が一般的だろうか。
それは冬期の終わりと、夏期の始まりを告げる節目の日だ。前夜は魔女たちが浮かれ騒ぐワルプルギスの夜。
それは何も変わらなさそうなところに、決定的な変化が訪れる日。
いや、変革を起こす日なのかもしれない。

この子に起こった変化がいいことなのか悪いことなのか、私にはわからない。
だがそれが、受け身の子供時代に終わりを告げることだったのは確かだ。
その選択によって、あなたの言葉も力を持つかもしれないし、立派な魔女にだってなれるかもしれない。
私はこの主人公の子がこれから語るだろう言葉の方にこそ、魔法の力を感じる。

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2014.05.20

「メイ・デイ」のレビュー

銅

メイ・デイ

勘違い

レビュアー:ジョッキ生 KnightKnight

ラストでそうくるか、と唸ってしまった。いやーそうくるか。

母親に捨てられ、父親と共に過ごすも、食べ物もろくに与えられないような生活を送る少女の物語は、彼女がその状況から解放され、幸せになることで終わるだと思っていた。

でも、違った。

そもそも、彼女が抱く父親への想いを、俺を含め、作中の大人達みんな勘違いしていたんだな。

思い込みというか、よく聞く、虐待されてる子はそれでも疑いなく親元を離れない的な話が頭の中にあって、彼女も例外なくそれなんだろうと思っていたんだ。

だから後半、彼女が父親への想いを語るたび、その想い深さを知って、ちょっと恥ずかしくなっちゃった。表面的なことだけを見て、何を分かった気でいたんだろう。最後の少女の言葉を聞いて唖然としていたのは、作中の大人達だけじゃなく、俺も一緒だ。

この物語は、不幸な少女の話なんかじゃなかったんだなー。見事に騙されたぜ。

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2014.05.20


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