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「サクラコ・アトミカ」のレビュー

銅

サクラコ・アトミカ

想いは枠組みをこえる

レビュアー:zonby AdeptAdept

「サクラコ・アトミカ」は私にとって非常に印象的な一冊だ。
私は私の知らない世界やルールが登場する、ファンタジックな世界観を好まない。
世界観を理解するだけで苦労するし、世界観が違うということはきっと登場人物も感性が違うだろうと思うと、どうしても共感しにくいし、物語に入りこめないのだ。

最初は半信半疑でページをめくった。
だって冒頭から「畸形都市」なんて聞きなれない言葉が出てくるのである。
畸形都市に囚われたあまりに美しすぎる姫。サクラコ。彼女の牢番を務める、ヒトの形をした異形・ナギ。都市を支配するは、天才・ディドル・オルガ。目的はサクラコを犠牲として原子の矢を放ち、他の都市を焼き尽くすこと。
固有の単語も、この世界を律するシステムも完全に理解するのは、難しかった。
でも。
最後まで読んだあと、私は泣いていた。
帯のキャッチコピーには「―――サクラコの美しさが世界を滅ぼす」とある。
魅力的で、的確な表現だと思う。
けれど私にとってこの本は「肉体という枠組を超越した「愛」の物語」だ。

人間にはどれだけの愛や、人を想う気持ちがあっても肉体の枠組みを超えることはできない。
人に気持ちを伝えるには、肉体を使い、あるいは肉体を使うことによって何らかの行動を起こして伝えるしかない。それしか、私達は方法を持っていない。

この物語でナギは、自在に身体の形を変える。腕を伸ばすこともでき、どんな異形の姿にも変化できる。ナギはサクラコへの想いだけを糧に人智の及ばぬ異形になって彼女のために歩き、挑んだ。
この物語でサクラコは、耐えがたい美少女だった。誰もが畏れ、敬い、跪かざるを得ない程の美しさを所有し、やがてその身体は美しいが故に原子の矢となった。身体を失い、しかし失ったからこそ無力であった彼女はナギと共に闘うことができた。

この物語のその点に、私は価値を見出し、何度でも泣いてしまうのだ。
現代を舞台にした小説では、これは味わえない感覚だと思う。
化け物になっても一人のことを思って彷徨う絶望。破壊兵器として原子になりながらも闘うと決める意思。誰かのため。誰か一人のためになら、ヒトの姿だって捨てよう。
ナギが化け物に、サクラコが原子になる過程が、自己犠牲で片づけられていないのも好きな点だ。

この物語を読んでいると、あまりの辛さに読むことが辛くなることもある。
今もそうだ。適当に開いた一ページを読んだだけで、自分が涙声になっているのに気づく。
でも最後まで読んで欲しい。

読み終えた時に、ふわり、と原子のサクラコに包まれ、その傍らでちょっと困ったような笑顔のナギがいてくれるような気がするから。
そうしてサクラコのこんなセリフが聞こえるはず。

「何を暗い顔をしておる!奇跡は起きる。おんしなら、大丈夫じゃ!」

そうやって背中を押されているような不思議な気分に
きっとなるから。

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2013.06.11

「サクラコ・アトミカ」のレビュー

銅

サクラコ・アトミカ

世界を救う想像を、我々は祈りと呼ぶ。――――美しすぎる人間讃歌。

レビュアー:sika

「サクラコの美しさが世界を滅ぼす」
 絶対的重厚感を持って3.11の約一ヶ月後に世へ投げかけられた怪物のような作品。
 星海社FICTIONSの第一弾にして『とある飛空士への追憶』で一躍有名作家となった犬村小六の、衝撃的問題作だ。
 
 構成や設定、人物の作り込みは相変わらずの徹底ぶりで、一作にかけるべき力の入れようではない。
 これはもう「主人公の可愛さが」とか「二人の初々しさが」とかそういうレベルで語れる物語ではなかった。
 終盤のスケール感はもはや映画だってなかなか出せない壮大さがあり、『文章によるエンターテインメント』の臨界点に迫ったと思う。
 ハッキリ言って、『とある飛空士への追憶』を完全に超えている。
 もちろんあの過去の作品があるから今の犬村小六がいるのであって、あの成功があるからこの物語が書けたのだろう。
 なんにしても、作者の圧倒的天才に身震いすら覚える。
 物語の全てが救われる最後の一文は、読者全員がしばらくは忘れないであろう名文だ。

 ここまで考えうる限りの言葉で絶賛したが、別に、やっていることは単純なのだ。
「原子の矢」とか「生物兵器」とか、いろいろ理屈はあるのだけれど、難しい話じゃない。
 けっきょくのところ、問題はシンプルだ。
 少女が少年に恋をして、少年が少女を救いにいく。
 この本は、そんな読んだ誰もが幸せになれる物語だ。

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2013.04.16

「サクラコ・アトミカ」のレビュー

銅

サクラコ・アトミカ

愛が世界を塗り替える

レビュアー:6rin NoviceNovice

2011年に放映され、SF大賞候補作にもなった大人気TVアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』。そこに登場する、ぬいぐるみみたいな生き物・キュゥべえは、自分には心が無いと言う。キュゥべえの顔は大概は涼やかな微笑みをたたえていて、口を閉じたまま声を発し、変化しない。表情をつくる眉毛が無いその顔は、確かに心が無いと感じさせるものだ。幾人もの女の子を平気で酷い目にあわせる行いは、変化しない顔よりもっと、キュゥべえに人間らしい心が欠片もないと感じさせるものだった。僕は「心が無い」というその言葉に何の疑問も持たずに視聴した。

だが冷静に考えると、自分と異なり心がある人間が理解できないと嘆いたり、意外な出来事に驚くキュゥべえに心が無いというのはおかしい。僕は頭ではそう思う。しかし、それでもキュゥべえに心が無いのが真実なのだと感じる。つまり、僕の内部で「心が無い」という言葉が、本来ならばそこに含まれない嘆いたり驚いたりする状態まで、範囲を広げてしまっている。
心が有りつつ、心が無い「心が無い´」は現実にはありえない状態である。しかし、『まどか☆マギカ』の世界における現実として僕はそれを想像し、作品の中に見出した。想像力には今までにない新しい現実を創り出す力があるのだ。

『サクラコアトミカ』のキャラクター・ナギもキュゥべえと同じく、自分には「人間らしい感情は一切ない」と言う。
ナギは知事・オルガの命によって丁都の塔に囚われたサクラコの牢番だ。丁都では、オルガは想像しただけで全てが現実になる魔法のような力を持つ。サクラコは観測者の理想に合わせ、その美貌を変化させる、世界一の美少女である。ナギはサクラコを助けるために、想像する自己イメージに合わせ体を変形させる能力で、オルガに抵抗する。

「人間らしい感情は一切ない」という発言の少し後に、ナギは囚われのサクラコに憐れみを感じると言い、天衣無縫なサクラコに呆れたりする。客観的にみて僕は、人間らしい感情をナギは持っていると思う。それでもなお僕は、キュゥべえに心が無いと感じたのと同じように、ナギに人間らしい感情が無いと感じる。それはなぜか? 

それは、ナギがあらゆる男性を虜にする絶対美のサクラコを長時間見ていても、美しいと思わず、心を全く乱されないからだ。人間らしい感情がナギにあったら有り得ない話だ。これがキュゥべえの変化しない顔、心無い所業と同じ作用をぼくに及ぼしている。僕に、ナギには人間らしい感情が無いと思わせつつ、人間らしい感情があると感じさせるのだ。さらに、何度か時間をおいて繰り返される、サクラコの美貌に無反応なナギの様子が、人間らしい感情が無いと感じさせるその作用を強めている。そうして、人間らしい感情があるのに、人間らしい感情が無い「人間らしい感情が無い´」が生まれる。
重要なのは、ナギがサクラコに異性として惹かれないことが、ナギが「人間らしい感情が無い´」状態にあるという僕の認識を支えていることだ。それは、ナギがサクラコを愛することが、「人間らしい感情が無い´」という認識を崩し、ナギに人間らしい感情のある心が宿ることを意味するからだ。
そして、愛によって心が宿るロマンチックな物語は、その心の力でハッピーエンドへと進んでいく。
オルガの言葉が現実になる世界、丁都の外へナギはサクラコとともに飛翔する。想像力を用い、愛するサクラコを救いたい一心で造った翼をはばたかせて。ナギとサクラコ、二人の世界は、オルガの世界から二人だけの新しいものに塗り替えられたのだ。

読者の僕が「人間らしい感情が無い´」という新しい現実を創る。それが、愛によって心が宿るロマンチックな物語の構図を生む。そして愛する心が、想像力でオルガの世界を塗り替える。
読者やキャラクターの、既存の枠組みを飛び越え、新しい世界/現実を創る想像力が物語に躍動するのだ。
想像力が世界を創るだなんて、なんて夢があるんだろうと僕は思う。
アニメ好きの僕は、この作品がアニメにならないかと期待している。派手な戦闘シーンはアニメ映えすることだろう。なにより、アニメ鑑賞者によって姿が変わるはずのサクラコがどう描かれるのかを見てみたい。僕のこの想像も現実になってほしい。

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2012.05.18

「サクラコ・アトミカ」のレビュー

銀

サクラコ・アトミカ

手をつないで、さあ逃げ出そう

レビュアー:ややせ NoviceNovice

願ったこと全てが叶ってしまう世界。
それはさぞかし卑小で、狭く、つまらない世界なんだろう。確かにそんな世界なら、壊してしまっても惜しくはない。
計り知れない力を持った、ディドル・オルガ。願えばその通りになる、もはや全能の神と言っても過言ではないオルガにとってこの世界は、既に自分とイコールの存在なのだ。オルガがこの世界であり、この世界がまたオルガの構成要素なのである。

だから、オルガの思いつき、気まぐれに、振り回されるたくさんの人々の悲劇、といった印象はあまりなかった。
この一つの閉ざされた世界の中で、最強の意思を探して殺しあう一つの実験のようにすら思えた。
ときに露悪的に、わざとらしい言動をするオルガ。
それに立ち向かうナギとサクラコ。
全能の神に相対するには、少年と少女は幼すぎ、無力だ。
オルガの手のひらの上でじゃれ合い、ままごとのように心を確かめ合い、オルガから逃げ出そうとすることしかできない。
だが、この世界そのものが、もはやオルガの一部であり、オルガ自身なのだ。逃げ出すことなどできるはずもない。

けれど私は、ナギとサクラコがそれぞれに戦う瞬間よりも、逃げようと決めた瞬間に一番感動した。
その小さな離反から、全てが始まったからだ。
世界を滅ぼすための道具とされるくらいなら、と死を選ぼうとしたサクラコ。
無理だとわかっているのに、背に翼を広げたナギ。
逃避とは良くないものだと思い続けてきたけれど、ここに書かれている逃避は小さな気づきと強い意志に支えられて、まるで流星のように美しい。

物語を全部読み終えて、結末を知った今でも、私の中のナギとサクラコは楽しそうに笑み交わしながらじゃれあっている。
願ったこと全てが叶う世界ではなかったから、少年は誰よりも強くなろうとした。少女も誇り高くあろうとした。
夜の闇の中で、互いの心を探り合う二人が愛しく、この逃避行を叶えてやりたくてしょうがなくて泣きたくなるのだ。

「そうではない、ほんとにずっと飛ぶのだ」
「ん?」
「永遠に飛べ、ナギ」

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2011.12.20

「サクラコ・アトミカ」のレビュー

銅

サクラコ・アトミカ

一年桜

レビュアー:ヨシマル NoviceNovice

桜は散るからこそ美しいとは誰の言葉だったか。
あり続けることで増す美しさと消えてしまうからこそ強調される美しさ。
桜は確実に後者だろう。
すべてが動き出す春の長閑な日和の中だけに現れ、そして予定調和に消えていく。
その様は一瞬だけに輝く英雄譚と符合するようにすら感じる。
本書はそんな桜の話だ。

本書は囚われの姫であるサクラコと彼女を守る異形の騎士・ナギによる物語である。
サクラコは狂気の科学者ディドル・オルガによって畸形都市・丁都に囚われの身。
ナギはそのディドル・オルガによって作られた人造人間。
そんな二人が出会うことで物語は始まる。
敵同士だった二人が恋に落ち、運命を切り開くために絶望的なほど強大なディドル・オルガと対峙していく。
初な恋心を胸に戦う二人の主人公たちに美しさも感じることだろう。
ならば、彼らが桜なのだろうか。

そもそも、桜の花は花見という言葉に使われるように花の代名詞として広く認知されている。
しかしその魅力は美しさとしての桜の花だけではないだろう。
花見において、その主役は桜の花でないことは明白だ。
花見とは桜の花を見るという理由付けのもと春に起こる新しい出会いを演出するための場だ。
その場においては桜の花は花見という言葉とは裏腹に主役となることはない。
桜の花は出会いを演出するための舞台装置なのだ。

その上、桜の花が散る瞬間にこそ桜の醍醐味がある。
「花は盛りを、月はくまなきのみをみるものかは」とは吉田兼好の言葉だが、桜の花はその咲き誇る間だけでなく散りゆく刹那まで見るものを楽しませてくれる。
それは散りゆく桜の花が美しいという一点のみを論じているのではないだろう。
満開の桜の花が象徴する春の出会いが始まりだとすれば、その出会いが新緑の季節へと成熟していく様を感じさせるものが散り行く桜の花である。
こうした束の間の成長を陰ながら演出するものこそ桜の花の本質なのだと思う。

その意味で本書における桜とはディドル・オルガに他ならないだろう。
ディドル・オルガは強大な敵として冒頭から描かれている。
物語中でその威力で幾度となく主人公達を絶望させる。
けれど、その強大さを以て絶望させれば絶望させるほどその困難を乗り越える主人公達の結束は強まっていく。
ナギもサクラコもディドル・オルガを乗り越えることで成長していくのだ。
その演出をしているものが何を隠そうディドル・オルガその人と言えるだろう。

ディドル・オルガの一挙手一投足が物語を形作る。
そんな気がしてならない。
実際、強力過ぎる敵としてのディドル・オルガの最期は主人公によって倒される運命があることを予感してしまう。
そのある種の予定調和こそが主人公たるサクラコとナギの物語を浮き彫りにしてくれるのだ。
冒頭まったく手の届かない強大な敵に対して絶望しながらも、主人公達は助け合い成長していくだろう。
そして、ついには強大な敵であるディドル・オルガを脅かすことになるに違いない。
その予定調和をもたらす舞台装置としてのディドル・オルガを、散りゆく桜の儚さに重ねあわさずにはいられない。
その儚さこそ物語を美しくする最大の演出に思えるのだ。

最期にディドル・オルガはそれはそれまでの描写とは大きく矛盾するように生への執着心を見せる。
それまでの面妖さはそこにはなく、ただ醜いまでに未練を口にする。
それはまるで、散っていった桜の花びらが側溝へ溜りその美しさを失いながらも春の名残を残すようだ。

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2011.07.14

「サクラコ・アトミカ」のレビュー

鉄

サクラコ・アトミカ

奇跡の構造

レビュアー:大和 NoviceNovice

 サクラコ・アトミカはSF作品でありボーイミーツガールであり、直球勝負のラブストーリーだ。「想像力」というキーワードを軸に進むこの物語は、まるで読者にアジテーションを試みるかのごとく、力強いことばを投げかけながら読者と作品との間に奇跡を起こそうとする。サクラコ・アトミカが起こそうとする奇跡は、フィクションを発展させる可能性に満ちている。それは僕の胸を強く躍らせるものだ。僕は今から、ここにある奇跡について語りたい。

 まず作品の概要に触れておこう。サクラコ・アトミカは星海社FICTIONSより出版された、犬村小六によるSF小説だ。ヒロインであるサクラコは、あらゆる人間が絶対的に美しいと感じてしまう「世界一の美少女」だった。畸形都市・丁都の支配者であるディドル・オルガは、彼女の存在から「サクラコの美しさが世界を滅ぼす」という一文を思いつく。あらゆる想像を現実にしてしまう魔法のような能力を持っていたオルガは、その一文だけを根拠に「原子塔」を創造する。それはサクラコの美しさを原子の矢に変換して世界の都市に撃ち出すという悪夢の装置だった。原子塔の稼働が間近に差し迫る中、丁都に囚われていたサクラコは、牢の番人でありオルガの作りだした生物であるナギと出会う。やがてサクラコとナギは惹かれあい、丁都からの脱出を試みる――

 この作品が持つ魅力の一つは、サクラコとナギが見せる真っすぐなラブストーリーだ。見ているこっちが恥ずかしくなってしまいそうなくらい、純粋な気持ちを二人は叫び、謳い、ぶつけ合う。この物語は徹頭徹尾、サクラコとナギが結ばれ、幸せになることを目指して進んで行き、最後にはハッピーエンドを掴み取る。しかしハッピーエンドがもたらされるのは、愛の力によってではない。二人は想像力によって未来を掴み取るのだ。そう、この作品で特筆すべきは「想像力」というモチーフだ。

 例えば戦闘シーンに目を向けてみよう。そこではまさに「想像力」による戦闘が行われる。作中の説明を借りれば、“より強力な想像力を持った方が相手の想像力へ干渉し、物理空間を自分の都合の良いように変質させる”というものだ。簡単に言えば、この世界には「想像力によって現実を好き勝手に書き変える能力」を持った連中がいて、彼ら同士の戦いでは想像力が強い方が勝つ、というわけだ。

 また、サクラコの設定を見てみよう。サクラコは美少女だが、どんな美少女かは描写されない。その代わり、彼女には「観測する主体によって美しさが変わる」という表現が用いられる。簡単に言えば、それは「サクラコは世界一の美少女だ」ということが世界によって(あるいは作者によって)絶対的なルールとして決められている、ということだ。つまりは「サクラコは誰にとっても世界一の美少女なので、あなたが思う世界一の美少女を想像してください」と言っているようなものだ。

 このように、サクラコ・アトミカという作品は、登場人物たちが「想像力」を働かせると同時に、読者にも「想像力」を働かせるよう強く要請してくる。何故そう振る舞うのだろう? それはこの作品が、ただひたすらに「想像力の大切さ」をテーマとし、それを謳い上げるものとして作られているからだ。そしてそれを徹底的に描くために、「小説世界が形成される領域」を最大限に利用しようとするからだ。

 「小説世界が形成される領域」とは何か。簡単に言えば、それは「読者の頭の中」ということだ。小説は文字が並べられたページに作品世界が存在するわけではない。文章を読むことによって、読者の頭の中にイメージが浮かび上がり――そのイメージにおいてこそ、小説の世界は初めて形作られるものだ。つまり物語においてサクラコやナギが強く想像力を働かせようとする時、そんな彼らを思い浮かべようとして、僕らも強く想像力を働かせているのだ。

 そのことを強く自覚しながらサクラコ・アトミカという物語は書かれている。それが最も結実するのは終盤の展開だろう。ナギとサクラコはもはや滅び去るしかないような状況に置かれながらも、未来への祈りという形で「想像力」を働かせ、二人にとっての現実――つまり物語世界の運命を書き変えようとする。そこでサクラコが放つ言葉の一つ一つは、ナギを激励するようでありながら、同時に読者が二人の無事を祈り、想像するよう説得するかのようだ。二人の願いと読者の願いが徐々にシンクロしていきながら、ナギとサクラコは想像力によってその願いを成就させ、物語はハッピーエンドを迎える。

 ここで行われているのは、「ナギやサクラコの願い・祈り」と「読者の願い・祈り」を同一化してしまおうとする試みだ。両者を徐々に接近させていき、その差が限りなくゼロに近づいた時、僕らはまるで、自分たちの祈りがナギとサクラコを救ったかのように錯覚してしまう。無論、それはどこまで行っても錯覚でしかない。たとえ僕らが願おうと願うまいと、小説に並べられた文章は変わらない。そういう意味で言えば、サクラコとナギがハッピーエンドを迎えることは最初から決まっている。

 だからサクラコ・アトミカが目指しているのは、そこにある錯覚を、読者に信じさせようとすることだ。言い換えれば、それは読者の祈りが二人を救ったということを――つまり「奇跡が起こった」ということを、読者に受け入れさせようとするものだ。読者が奇跡を受け入れた時、物語は読者の願いによってハッピーエンドを迎え、読者は「想像力」の力を、大切さを、尊さを思い知る――そうなることをサクラコ・アトミカという作品は望んでいる。

 だが、ここにある種の危うさを見つけることができるだろう。読者が願うことによって、想像力の力によって、奇跡が起きる――それはあまりにも、「何でもあり」すぎるのではないか? そうやって奇跡が起きてハッピーエンドになるなんて、都合が良すぎるのではないか? 

 こういった疑問は必ずしも間違いではない。例えばサクラコ・アトミカにしても、終盤に起こる奇跡はかなり強引で、見ようによっては「ご都合主義」であるとも言える。そう意識してしまった時、往々にして読者はしらけてしまうものだ。

 しかしここで確認しておきたいのは、あらゆるフィクションは作者の都合によって作られている、という事実であり前提だ。「ご都合主義」か否かという問題は、作者の都合が分かりやすいか分かりにくいか、という問題でしかない。物語を面白くするため、ジャンル的な要請、編集者からの要望――どんな事情があり、どんな展開であろうと、それは作者によって選択されたものだ。

 例えば私小説であっても現実をベースにした恋愛小説であっても理路整然と推理が披露されるミステリーであっても、実のところ「何でもあり」であることに変わりは無い。そしてあらゆるフィクションは「何でもあり」であるという前提から最初の一歩を踏み出し、そしてその前提を隠すことによって意味や価値を生み出そうとするものだ。「何でもあり」だからこそ多種多様な物語が生まれ、僕らはそれらを楽しむことができる。けれど僕らがそれらを楽しむ時、元々は「何でもあり」だった、という地点に戻ったりはしないだろう。例えばミステリーであればミステリー的な秩序によってその前提は隠されるだろう。あるいは荒唐無稽で何でもありに見えるギャグ漫画であっても、そこにはその漫画なりの秩序が存在するだろう。「何でもあり」の上に最初の一歩を踏み出す作者に対し、読者はその「前提を隠している秩序」の上に最初の一歩を踏み出すのだ。そうやって前提が隠され続け、それが成功している限り、僕らは現実に引き戻されることも作者の都合を意識することもなく、ただ作品を楽しむことができる。

 もちろん、現実を意識したり作者の都合を意識したりすることが、作品を楽しめないということとイコールにはならない。むしろそういった部分を踏まえた楽しみ方は常套手段とも言えるだろう。だが多くの場合、そういった楽しみ方は、受け手が自分の意思によって選択しているはずだ。そういった楽しみ方は、あらゆる作品において元から読者に許されている。だからここで問題になるのは、そういった視点にしか立てなくなってしまうことだ。作品が「何でもあり」であること――つまり虚構であることを必要以上に意識させてしまう時、読者はその作品世界が真に存在するかのように「入り込む」ことが難しくなってしまう。言うなれば、読者と作品世界との間にある種の「距離」が生まれてしまう。

 そしてこの点において、サクラコ・アトミカは一つの困難を抱えている。実のところ、この作品はかなりメタフィクションに近い構造をしている。それはつまり、作品全体が「作品が虚構であること」を読者に強く意識させてしまう、ということだ。

 とはいえメタフィクションといってもピンからキリまである。例えば漫画において、キャラクターがコマの枠を認識しているかのように振る舞ったり、「締め切りに間に合わない」「背景を書くのが大変になる」という感じで作者の都合に言及したりするようなギャグやネタのようなものも、メタフィクションといえばメタフィクションだろう。だが多くの場合、メタフィクションは自己言及性や実験性と結びつき発展してきた。それは特にミステリーやSFにおいて顕著に見られる。そしてサクラコ・アトミカが用いる「想像力」「世界一の美少女」といったモチーフや終盤で起こる奇跡は、読者を作品に強く介入させようとする(まるで読者が作品に介入することが可能であるかのように振る舞う)もので、それは自己言及性や実験性を伴うメタフィクションにとても近いものだ。

 もちろん強くメタフィクションであろうとする時――つまり作品が虚構であることを意識させようとする時、作品はそもそも「そう意識させること」を目的としているし、そうすることによって初めて語れることもある。例えば「ミステリーとは何か?」「SFとは何か?」「フィクションであるとはどういうことか?」「なぜ僕らはフィクションを求めるのか?」――そういった自己言及的なテーマは、メタフィクションであることによってむしろ効果的に語られる。しかしその目的が前に出てきた時、同時に僕らは作品が虚構であることを強く意識するがゆえに、そこにある種の「距離」を感じてしまうだろう。その「距離」には、読者が作品を素直に楽しめなくなってしまうような――つまり、読者をしらけさせてしまうような危険性が常に伴うことになる。だからメタフィクション的な作品を作る作家達は、様々な手法によってその困難を回避しようと試みてきた。

 そしてサクラコ・アトミカは、こういった困難に対して一つの優れた解答を出している。ここでサクラコ・アトミカが利用しているのはジャンル的な定型性――いわば、ある種の「ベタさ」ともいうべきものだ。例えば「想像力」「世界一の美少女」といったモチーフは異能バトルや美少女キャラクターといった、ある種ライトノベル的なお決まりのパターンに接続されることでメタ性が前面に出ることを回避している。何故そうすることで回避できるのか? それは定型性が読者の解釈を助けている――つまり定型的な枠組みの中に収まることによってメタ性の前面化が抑えられている、という部分もあるだろう。でも僕が思うに、重要なのはむしろメタ性よりも違うものが前面化することだ。そこで前面化するのは、ある種ベタで、どこかジュブナイルじみた感覚――言うなれば「純朴さ」とでも表現すべきものだ。

 ボーイミーツガール/純愛的なラブストーリー、「想像力」という直球な言葉づかい、アジテーションじみた強い台詞・ことばの数々、片山若子による童話を思わせるような淡く美しいイラスト……そういった要素が次々と積み重ねられ、作品全体は「純朴さ」とも言うべき雰囲気・感触を帯びて行く。その力が最も発揮されるのは、終盤で起こる奇跡のシーンだ。先述したように、ここで起きる奇跡はかなり「都合がいい」ものだと言える。だがその都合の良さは、作品全体を満たす「純朴さ」によって、むしろ「作者の切実な祈り・メッセージ」として作品のテーマを強く打ち出すことになり、奇跡に説得力を持たせることに貢献する。言うなれば、多くの作品が「ご都合主義」であることを避けようとして、物語に様々な秩序や理を通そうとするのに対し――サクラコ・アトミカという作品は、「純朴さ」が作用することによって、むしろ「ご都合主義」であることこそが(テーマを描くための)最も効果的な展開として機能するように価値を転倒させてしまうのだ。それによって、サクラコ・アトミカはメタ性の高いギミックによって「何でもあり」であるかのような自由さを獲得しながら、同時にメタ性の高いギミックが感じさせてしまいがちな「距離」を感じさせないことに成功している。

 ここには批判も考えられるだろう。その「純朴さ」は誰にとっても通用するとは限らず、やはりこの物語を「ご都合主義的」だと受け取ってしまう人は少なからずいるはずだ――それはそうだろう。だがそもそもフィクションとは、究極的にはあらゆる人物にとって価値があるものではありえない。どんな小説も、どんなメッセージも、限られた人にしか届かない。それは当然のことだ。だからこそ、ただ素朴に「奇跡」が起こる物語を描いただけでは「ご都合主義」にしかならない。

 ならば逆に、「奇跡」が「奇跡」として成立するために必要なのは、それが「奇跡」だと読者が信じることであり――それを信じる読者にとっては、そこに確かな「奇跡」が起こっていると言えるだろう。つまり万人に届くフィクションは究極的には存在しえない以上、個々の読者と作品の間で起こるものだけがフィクションに可能な「奇跡」なのではないだろうか。ならば「純朴さ」によって奇跡に説得力を持たせるサクラコ・アトミカの構造は、十分に奇跡を起こしうる構造だと言える。

 この構造はサクラコ・アトミカだけでなく、他の作品やジャンルにおいても奇跡を起こしうる、あるいは奇跡を起こすヒントになるものではないかと思う。例えばそれは、ミステリーにおける「読者が犯人になる」というモチーフに転用できるのではないか? ミステリーでは「意外な犯人」を求める流れの一つとして「読者が犯人になる」という構造をもった作品がいくつか作られてきた。だが厳密な意味においてそれを成立させた作品はほとんど無いと言っていい。と言うより、そもそも僕らは犯人ではない(犯人であるはずがない)のだから、それは根本的に不可能なことへの挑戦であり、それを成功させるには奇跡を起こすしかないと言ってもいいだろう。もちろんサクラコ・アトミカ自体はミステリーではない。だがサクラコ・アトミカが起こそうとする奇跡を受け入れた時、僕らはサクラコとナギを救った犯人になっている、と解釈することもできるはずだ。

 とはいえ、この意見には首肯しづらい人もいるだろう。ミステリーには元々(作者が読者にクイズを出すような)知的ゲームとしての側面がある。だから多くの場合、ミステリーにおける謎の解決には明快なロジックが求められる。言い換えれば、数学のように証明してみせることが求められる。それはサクラコ・アトミカのように、心に訴えかけて奇跡を受け入れるよう説得するような態度とは一見して真逆にも見える。

 だが、僕ら読者は犯人ではありえない――つまりそもそも厳密な「証明」は不可能だということを踏まえ、そしてフィクションはそもそも虚構であり「何でもあり」であるという前提を踏まえた時、実のところ「読者が犯人になる」というモチーフにおいては、「数学的に証明してみせる」態度も「心に訴えかける」態度も、等しく「説得する」ための行為なのではないだろうか? ならばサクラコ・アトミカ自体が「読者が犯人になる」というモチーフの困難をクリアしていると言い切れなくても、そこにモチーフへの挑戦を更新するための可能性が眠っていると見ることは可能なのではないだろうか。

 今、僕は胸を張って言おう。僕はサクラコ・アトミカが好きだ。サクラコ・アトミカには色んな魅力があって、そのどれもにレビューを書かせるだけの力がある。そして僕を最も惹きつけるのは、サクラコ・アトミカを支える奇跡の構造だ。そこに秘められた可能性は、僕にフィクションの未来を感じさせてくれる。

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2011.07.14

「サクラコ・アトミカ」のレビュー

鉄

サクラコ・アトミカ

「うっさい、知るかボケエ」

レビュアー:ticheese WarriorWarrior

サクラコ「うっさい、知るかボケエ。……(パンダの変身を解いたナギに)

『サクラコ・アトミカ』で私が衝撃を受けたセリフ。
最初はなんて口の悪いヒロインだろう、と引いてしまった。しかし、今はこれが1番好きなセリフになった。このセリフは『サクラコ・アトミカ』のヒロイン『サクラコ』の魅力を目一杯伝えることができるものだから。

サクラコは囚われのお姫様。その命はいつ消えるかも分からない。
「うっさい、知るかボケエ」
サクラコの恋した相手は、悪の魔法使いの手先である化物だった。
「うっさい、知るかボケエ」
サクラコの出生の秘密はとても重苦しいものだった。
「うっさい、知るかボケエ」
サクラコとナギの挑む相手は不可能を可能にする存在。
「うっさい、知るかボケエ」

もちろんこんな所で使われたセリフではない。しかし、あらゆる困難や不幸を乗り越える彼女から、自然とそんな声を聞いた気がしたのだ。これは相手を否定するセリフではない。自分の意志を通すセリフだ。引かない、負けない、逃げないというサクラコの意志の力そのものだ。
その力がナギに伝わり、読者にも伝わるからサクラコは魅力的なのだ。

私も困難に直面した時にこのセリフを口にしたい。
「うっさい、知るかボケエ」
そして私もサクラコのように乗り越えてやる。

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2011.06.17

「サクラコ・アトミカ」のレビュー

銅

サクラコ・アトミカ

ラストシーンの美しさ。

レビュアー:牛島 AdeptAdept

なぜサクラコ・アトミカは私の心を掴むのか。この物語のどこに惚れこんでしまったのか。
私が最も魅力的に感じたのは、あのラストシーンでした。

文字通り世界一美しい少女、サクラコと、彼女を監視する立場だった異能の少年、ナギ。
徐々に惹かれ合う二人と、その前に立ちふさがる最大の障壁、丁都知事ディドル・オルガ。

どうなってしまうんだ、と読者を不安にさせるほどの理不尽な展開を乗り越え、最後はハッピーエンドで締めくくる。

そんな物語のラストシーンです。

やられたな……、と思いました。
犬村小六先生の著作「とある飛空士への追憶」でもラストシーンには心を奪われたのですが、その情景に勝るとも劣らない美しさを犬村先生は見せてくれました。もはや犬村先生はラストシーンに定評のある作家だと断言してもいい気がします。

あのラストシーンは、すべてを乗り越えた結果だと私は受け取りました。
原子塔に接続され肉体を喪失したサクラコと、オルガの魔法により醜く焼けただれた姿にされたナギ。
二人はオルガを倒し、丁都を吹き飛ばし、一羽の鳥になって飛び立っていく。
雲のなかを飛んでいくサクラコとナギ。
すべての障害を乗り越え、自由に飛翔する二人。

そして最後に本来の姿を取り戻した二人は微笑みを交わし合う――

ああもう!
理屈抜きに大好きです!

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2011.06.01

「サクラコ・アトミカ」のレビュー

銅

サクラコ・アトミカ

命の輝きに瞠目する

レビュアー:4406 NoviceNovice

「煤けた闇夜に花開いたバケモノと姫君の異世界譚は、闘う BOY MEETS GIRL の最先端(ニュー・フロンティア)。

炎でも灼きつくせない絆で結ばれた二人のシンクロ率はシンジ&アスカを超えたのか!?

ソースケ&カナメより強いのか!?

のび太&しずかちゃんとは較べらんないだろ!!

とにかく。
運命の出会いを果たしたナギとサクラコの命の輝きを見よ。
こころの在り方を知れ。

きっと二人ならナウシカの切り拓いた地平を越えて行く。
その翼で風を切って…。」


…と、応募に間に合いませんでしたが短文サイズにまとめてみました。

他書の話になりますが、本書を読みながらついつい思い返してしまった『風の谷のナウシカ』全七巻について…。

アニメ映画で主人公ナウシカが小気味よく空を飛び回るのは原作のマンガ本ではほんの序盤のお話し。

終盤は争いに巻き込まれて望まない殺戮に身を投じ、かつて滅んだ科学文明の遺産と対峙して世界と命の秘密に迫ります。

世界の命運を託されたナウシカは、凄惨な戦いの中で多くのものを失いながらも思いを果たしますが、物語は人々の輪と金色の光に包まれたナウシカのその後を語らないまま幕を閉じます。

一読者の私にはマンガの読後から何年ももやもやしたものが残って消えませんでした。
物語が終わりナウシカの憂いは晴れたのだろうか、前のように屈託なく笑うようになったのだろうか…と。

今、本書を読み終えてその積年のもやもやの上を軽々と飛び越えていく者があります。

ナウシカの見上げる空をナギがサクラコを抱いて飛んでいくのです。
「アホー、アホー」とサクラコの声が聞こえてきて、私の中のナウシカが思わず笑みをこぼします。

大作の描かれなかったその後と本書が交錯した瞬間でした。

この邂逅のために作者はナギに翼を、サクラコに軽口を与えたのかしら…と。

青き衣の者に笑顔を持たらしたのは姫君と黒き軍服の者だった…という勝手な脳内リンクのお話しになってしまいましたが、私にとって本書はその世界観・スピード感で大作に比肩し、補完までしてのけた快作です。

作者さま、出版社さま、良書をありがとう。

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2011.06.01

「サクラコ・アトミカ」のレビュー

銀

サクラコ・アトミカ

スーパー*ロボット

レビュアー:yagi_pon NoviceNovice

『サクラコ*アトミカ』がどんな話か説明すると、
ヒロインとヒーローが恋に落ちて、悪を倒す、そんなお話。
すごくシンプル!すごくストレート!!

正直言って、読み終わった後すぐは物足りなかった。
リアルロボット全盛の時代に、スーパーロボットの作品を見ちゃったみたいな。
でも、よく考えたらその考えは若干的外れなんだよな。

ロボットをリアルな兵器として描くリアルロボット作品はもちろん好きだけど、ロボットをスーパーヒーローとして描くスーパーロボットだって、自分は嫌いじゃないはずなんだ。
だってグレンラガンにあんなに熱くなれたんだ。あんなに涙したんだ。嫌いであるはずがない。
(リアルとかスーパーとかよくわかんねぇ!って人は、リアルロボット:ガンダム、スーパーロボット:マジンガーZ、くらいに置き換えてくれれば、わかってもらえるはず。)

それでもさっきの考えが完全に的外れではないとも思っているのは、リアルロボットを見るつもりでスーパーロボットを見てしまったら、それはがっかりするだろうなって話。
本格ミステリーって謳われているのに、読んでみたらキャラクター重視のライトなミステリーだったらやっぱりがっかりするでしょ。

そもそもなんでリアルロボット的な作品だと思って読んだかと言われれば、それは『とある飛空士』シリーズの影響が非常に強いわけで。まさかあの作品を書いたあとにこんな作品が来るとは夢にも思わなかったし。

というわけで、読み直してみたんだ。スーパーロボットをスーパーロボットとして見ればきっと楽しいはずだから。
SFだとか、ファンタジーだとか、ボーイミーツガールだとか、そんなカテゴライズはこの際どうだっていいんだよ。ただ、スーパーロボット的な作品だと思って読み返してみる。
スーパーロボットの基本はその定義とは別に、ヒーローが悪の組織を倒すっていうシンプルなものなんだよ。
だからさ、「ヒロインとヒーローが恋に落ちて、悪を倒す」なんて作品は、すごくスーパーロボットものっぽいと思うんだ。ましてやヒーローであるところのナギなんて、本当に“小さなスーパーロボット”みたいなものだしね。

さて、もう一度読んでみたわけだが、今度はすごいおもしろいんだ。だってスーパーロボット的な作品、好きなんだからまぁ当たり前だよね。
恋とか愛とか、勇気とか正義とか、夢とか希望とか、そういうシンプルなものがストレートに突き刺さってくる。

恋とか愛とか、勇気とか正義とか、夢とか希望とか、まぁ気合と根性を加えてもいいか。そんな要素がにじみ出てくるこの作品は、すごく「スーパーロボット」してるんだ。男の子的にはこういう作品、やっぱり好きだよ。嫌いな人なんていないとさえ思うね。

もう一度言おう。
『サクラコ*アトミカ』がどんな話か説明すると、
ヒロインとヒーローが恋に落ちて、悪を倒す、そんなお話。
すごくシンプル!すごくストレート!!
だがそれがいい!!!

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2011.05.09

「サクラコ・アトミカ」のレビュー

銀

サクラコ・アトミカ

正義*悪

レビュアー:yagi_pon NoviceNovice

この物語は、ヒーローとヒロインが、悪役を倒す物語なんだ。

でさ、こういう正義vs悪の物語を自分なりに楽しめるかどうか見極める一つの要素があるんだ。
それは、悪役が魅力的かどうか。
なんでかって?
自分が思うに、こういうタイプの物語っていうのは、悪役がいないと始まりすらしないんだ。この物語でも、悪役がいなければそもそもヒーローとヒロインは出会ってすらいないわけで。そう思うと急に、悪役が重要に見えてこないかな?
物語をまとめるのは正義なんだけど、物語を動かすのは往々にして悪役なんだと思う。
だからさ、ついついこの物語でも悪役を見ちゃうんだ。
正義vs悪の物語の主役はあくまで正義なんだけど、物語を動かすのも、物語を作るのも、往々にして悪役なんじゃないかなって思うんだ。
そういうわけで、ついつい悪役に目が行っちゃうし、悪役が魅力的じゃないとこういう作品は魅力的に感じられないんだよね。

そうそう、で本作の悪役なのですが、さてどういう人なのか。あとでいろいろと使える部分なので、まるまる引用しちゃうよ。

「願いが全部その場で叶っちゃうなんて、ひどい罰よ。もう、生きててもなーんも面白くない。あたしだって努力してなにかを達成したいのに努力する前に叶っちゃう。いっつも最低な気分」
「その力を善いことに使うと、いい気持ちになるかもしれません」
「してるじゃない。めちゃくちゃ善いことしてる。このクソ世界を焼き尽くしてあげるのよ、あたしが、責任を持って、ひとり残らず分子レベルに解体してあげる」
―『サクラコ*アトミカ』p226より


これは、悪役とヒーローの会話なんだ。
どちらが悪か、どちらが正義かは言わずもがなだと思うけどさ。

読めばわかるかもしれないけど、この悪役、ものすっごいチートなんだ。だって願えばその場でなんでも叶っちゃうんだよ。ドラゴンボールの神龍を従えてるようなもんでしょ?
けどさ、考えてもみてよ。なんでも叶えてくれる神龍が常にいたら、それはそれは最高の世界になるかもしれないけれど、そんなのがいつまでも続いたらきっとつまらなくなると思うんだ。
悪役からしたら、なんでも叶う世界は最高の世界なはずなんだけど、そんな世界をつまらないと言うんだ。あれだよね、悪役にしてはすごく真っ当だ。
テンプレートな悪役なら、「ついにこの力を手に入れたぞ、ワッハハハ」くらいは言ってほしいんだけど、どうやらそういうタイプではないらしい。

ココがこの悪役の魅力だと思うんだよね。
もちろん、この物語の魅力だと言ってもいい。

作中では変態扱いされてしまう悪役だけれども、テンプレートな悪役にはなりきれていないんだ。そこがいいよね。
きっと誰でも、なんでも叶う力を手に入れたら、最初は楽しいけどきっとつまらなくなるでしょ?なにか叶わないことがあるから、叶ったときがうれしいわけで、すべてが叶ったとしたらいつしか、うれしいとか楽しいとかそういう感情はどんどん無くなっていくと思うんだ。そしてそうなったら、最終的には狂っちゃうよね。
そう考えると、すごく真っ当に狂ってると思わない?この悪役。

この普通さが、この悪役の魅力なんだよ。
持っている能力は、全然普通じゃないんだけどね。

SFで、ファンタジーで、バトルしてて、
ヒロインは世界一の美少女と言われ、
ヒーローは羽が生えた世界最強の騎士で、
そんな何一つ普通なんてないその世界で、
ただ一つ普通っぽいのは、この悪役なんだよね。
ラムさん的に言えば、「正常に狂った」人なんだよね。

だからさ、世界をぶっ壊そうとするこの悪役の気持ちもわからないでもない。
そんでもって、そんなことを考えているとこの物語が急に悲しい物語に思えてくるんだ。
悪役という立場によって倒されてしまうからなおさらね。
悪役に一番感情移入できるっていうのも変な話だけど、そこがいい。

この物語は、愛と勇気に満ちた物語なんだ。
けれどもその裏にあるのは、何もかもを手に入れたとこによってなにもかもを失ってしまった悲しみに満ちた物語なんだ。
この物語は、ハッピーエンドだ。
けれども自分は、その幸せを幸せと感じさせてくれるためにかつてあった悲しみに、もう少しだけ浸っていよう。そのあとの幸せをかみしめるためにね。

悪があるから、正義がいるんだ。
悲しみがあるから、幸せがあるんだ。

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2011.05.09

「サクラコ・アトミカ」のレビュー

銅

サクラコ・アトミカ

虚構の中でしか、信じられないから。

レビュアー:横浜県 AdeptAdept

愛の力で世界を変える?

そんなのできっこない。
愛なんて、普通はちっぽけだ。世界となんて関わらない。
でもサクラコとナギは違った。
畸形都市・丁都を、世界を変えるために、自らの愛を全うするために。
彼らは戦い、愛を信じた。

だけど、そんなのは虚構だ。
現実の僕らは、愛で世界なんて変えられない。
でも変えたい。皆がそう思ってる。

だからこそ僕らは嫉妬する。
憧憬を抱き、犬村小六が描いた物語に欲情する。

そして僕らは、夢に縋りたくなって――。

「サクラコ・アトミカ」を、読まずにはいられない。

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2011.04.28

「サクラコ・アトミカ」のレビュー

銅

サクラコ・アトミカ

障害の多すぎる恋

レビュアー:くまくま

 恋は障害が多いほど燃えるというけど、ちょっと多すぎじゃないだろうか?

 サクラコは口が悪いけど囚われのお姫さまで、ナギはその牢番にして生物兵器。そして彼女は、彼の生みの親によって、生まれ故郷を滅ぼす最終兵器に改造される運命なのだ。

 そんな過酷な運命の中で、自分は兵器だから人間じゃないというナギを、こころさえあれば人間になれるというサクラコが、少しずつ口説き落としていく過程が醍醐味!

 銃弾飛び交う大激戦や、想像力を駆使した超能力戦を経て、この障害の多すぎる恋は成就するや否や?

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2011.04.28

「サクラコ・アトミカ」のレビュー

銅

サクラコ・アトミカ

恋と希望のSFロマン

レビュアー:

たとえ絶望一色に染められた世界でも、必ずどこかに希望は存在する。
「サクラコアトミカ」は数奇な運命に生まれついたふたり――量子論的美少女サクラコと、変幻自在の身体をもつ闘うために生み出された少年ナギの出会いの物語。
変態悪徳知事ディドル・オルガのグロテスクな趣味にいろどられた畸形都市”丁都”を舞台に、恋するふたりは閉ざされた未来を互いを信じる心によって、ときにけなげに、ときに力強く切り開いていく。
「サクラコアトミカ」――世に絶望という言葉があふれる今だからこそ、ぜひ読んで欲しい一冊だ。

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2011.04.28

「サクラコ・アトミカ」のレビュー

銅

サクラコ・アトミカ

ロマンティックな台詞に胸がっ!

レビュアー:matareyo

自分のことをバケモノだと言う牢番。彼は囚われのお姫様に言う。

「ねえサクラコ。きみのこころが見たいよ」

おおぅ。なんだこの甘い言葉はっ! なんか撃ちぬかれちゃったよ!

バケモノには「こころ」がわからない。でもね、私にだってそれはよくわからない。見えないし。どこにあるのかもわからないし。
そんなよくわからない「こころ」を追い求めて信じ続ける。それがこの物語。

私はこのセリフこそが、この物語そのものだと思うんだ。
だってこの時、牢番とお姫様の「こころ」が見えた気がしたから。私の「こころ」が撃ちぬかれたから。

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2011.04.28

「サクラコ・アトミカ」のレビュー

銅

サクラコ・アトミカ

燃える二つの生命と祈り

レビュアー:zonby AdeptAdept

生命が願うことに限界はなく、また願いは叶う。
最初は小さな火種でも、火が消えない限り熾烈に燃えるその願いは世界を変える力になる。これはそういう物語だ。
世界を滅ぼす為に囚われた、美しきサクラコ。塔の牢番にして肉体を自在に変化させる『無敵の個体』ナギ。

二人は出逢い、そして願う。

二つの生命は己の置かれた境遇よりもひたすら相手を想い、肉体の輪郭さえ曖昧になっても二人は行動することをやめない。痛みも悲しみも絶望も凌駕する二つの生命の祈りの灯火。
その行方が、胸に迫る一冊だ。

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2011.04.28

「サクラコ・アトミカ」のレビュー

銅

サクラコ・アトミカ

原子のサクラコは本の枠をも超えて

レビュアー:zonby AdeptAdept

自分が物語の単なる読者でしかないことが、こんなにもどかしいと感じたのは久しぶりの読書だった。
文字の間を天衣無縫に駆け回る量子的美少女サクラコ。そんなサクラコに振り回されながらも少しずつ心の解けてゆくナギ。真剣にかわされるふざけた会話。ささやかな逃避と約束。そして避けられない闘いと結末。
私はただ夢中でページを繰り、物語を見届けることしかできなかった。
だというのに。
物語に干渉できないただの読者でしかない私に、しかしサクラコは干渉してくる。

「祈れ。命に不可能などない」
と。

ずるいぞ、サクラコ。

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2011.04.28

「サクラコ・アトミカ」のレビュー

銅

サクラコ・アトミカ

星海社FICTIONSが作る、新時代

レビュアー:yagi_pon NoviceNovice

星海社FICTIONS、そして、物語の10年代<新時代>、開花宣言!
SF、ファンタジー、バトルもの、ボーイミーツガール、どうカテゴライズされたってこの物語は結局、どうしようもなくラブストーリーなんだ。
科学でも奇跡でも力でも、それだけじゃ足りないんだ。この荒波<新時代>を切り開いていくのにだって一番必要なのは、*愛*だろ?
そんな*愛*が、この物語にはたくさん咲いているよ。
始まりを祝う*愛*に満ちた桜<サクラコ*アトミカ>とともに、≪新時代≫の幕開けだ!

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2011.04.28

「サクラコ・アトミカ」のレビュー

銀

サクラコ・アトミカ

3年ぶりの再会

レビュアー:アカギン

犬村小六の作品に初めて触れたのは、3年前に彼のデビュー作をたまたま本屋で見かけたときである。
それから3年間デビュー作以来触れてなかった彼の作品に再び触れたのは、最近ネットでよく見かける星海社から本を出すことを知ったからだ。
「サクラコの美しさが世界を滅ぼす」
このキャッチコピーでもある一文から、どんな作品か全然見えてこない。
そこに強く惹かれてしまった。
3年前とはテイストが違うSF作品。
だけれど、主人公とヒロインの恋の物語は相も変わらず美しい。
ぜひ、読んでほしい!
犬村小六、そして星海社の最前線を!

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2011.04.28

「サクラコ・アトミカ」のレビュー

銅

サクラコ・アトミカ

拝啓、まだみぬ読者様。

レビュアー:牛島 AdeptAdept

SF? ブンガク? 御伽噺?
それとも読者サービスに溢れたイマドキの物語?
どれでもあってどれでもない。
我々が定義できる囲いなんて
さながら観測する主体によって変化するサクラコの美しさのように
この新次元の物語は易々と飛び越えてしまう。
言えることはただ一つ。
この物語は美しい。ただひたすらに美しい。

こころの在処はわからなくとも
こころの在り方は自分で決められる。

世界は残酷で醜悪でも
命には希望と可能性がある。

僕たちの“こころ”は未来を変えることだってできる。
祈りに満ちたこの物語が
どうか貴方に届きますように。

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2011.04.28

「サクラコ・アトミカ」のレビュー

銅

サクラコ・アトミカ

あなたの美少女

レビュアー:matareyo

美少女は好きですか?
私は大好きです。

美しくないよりは美しい方がいい、というのは人情なようで。巷の物語、特にライトノベルなどには美少女が溢れかえっています。かわいいですね。でも、美少女ってなんでしょうね。
美少女美少女美少じょ美しょうじょびしょうじょ……ビショウジョ?
あれ、ビショウジョって、ナニ?
あんまりいっぱいいると、安いですよね。供給過多でデフレです。そんなこと言うのは贅沢ですかね? もちろん「美しい」ことに説得力があれば安くはならないと思うのですが。

そんなわけで今回の作品。「サクラコの美しさが世界を滅ぼす」と銘打ってあります。大きく出ました。美しさがとても重要なようです。はてさて、そのサクラコさんとはいかなるお方なのか。彼女の外見描写を見てみましょう。

「世界一の美少女……。聞くも馬鹿馬鹿しい修辞だが、サクラコを目の当たりにした人間は全員が首肯せざるを得ない」

出ました! 美少女! 読者としては「またかぁ」といささか食傷気味なところ。しかも「馬鹿馬鹿しい修辞」って地の文で言わせちゃってます。自虐でしょうか。

「『言語に絶する』その美少女ぶりを、ある物理学者は『観測する主体によって美しさが変わる』と表現した。観測者が密かに抱いている『世界一の美少女』像が、サクラコの美しさに影響を与えているというのである。人はおのれの抱いている『絶対美』がサクラコ上に具現するさまを目の当たりにし、敬い崇めひれ伏してしまう……。その美しさは顔立ちやスタイルや瞳の色などに一切依拠していない。観測する主体によって美しさが変わるため細部を描写することもできない」

え? 物理学者? 観測? 美しさが、変わる、だと……!?

「サクラコは量子論的に美しいのだ」

おわり。なるほど……いや待て。
それは卑怯だろ!

と思わずつっこんでしまう私。だって「細部を描写することもできない」と表現を投げたわけですよ。下手すると作家としての敗北です。

で・す・が!

同時に「やられた」とも思ったわけです。ただ「言語に絶する」と書いたわけではなく、これらの表現はカッコ付きになっているんですね。筆者はこれらが陳腐な表現であることは百も承知なのです。
「言語に絶する」「世界一の美少女」「絶対美」。これらはイコールで結ばれます。さらに物理学者の言う「観測する主体によって美しさが変わる」もイコールにすることができます。絶対美であるのに観測する主体によって美しさが変わるという矛盾。この美しさを「量子論的」という言葉で納得させるのです。乱暴に言えばこのようなSF設定で片付けたわけです。美しさが人によって変わるから描けない。しかしそれぞれの絶対美がそこにある。つまり「言語に絶する」わけです。
どのようなわけでそのような美しさになっているかは後に明らかにされるとして、「世界一の美少女」をまがりなりにも納得させてくるところに、「こいつぁやられたぜ!」となるわけです。しかも無闇に使われれば「馬鹿馬鹿しい修辞」を逆手に取って、使わざるを得ない状況に持っていくところにユーモアさえ感じるのです。こうとしか言えないんだよ、筆者に言われているようで。
最初に読んだときは思わず笑いさえしました。こんな荒業ありかよ、と。でも「量子論的に美しい」と言われたんじゃあ仕方ないですよね。
サクラコはあなたの美少女なのです。

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2011.04.15


本文はここまでです。