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「怪談と踊ろう、そしてあなたは階段で踊る」のレビュー

銅

怪談と踊ろう、そしてあなたは階段で踊る

怪談/計算問題

レビュアー:カクラ・メロンソーダ AdeptAdept

怪談と名の付く作品は、恐怖を煽る事を目的とするのが一般的です。しかし著者の作風には、はっきりと違った傾向があります。
それは、恐怖を煽ることが目的ではありますが、はっきりと謎解きという目的を作品に持たせていることです。
超常現象ではなく、人の手で引き起こされた謎なぞであることです。

主人公の友宏は男子高校生3人組の内の一人。気弱なところがありますが、なかなか頭の冴えた男の子です。残りの二人は言わずもがな脇役。
もう一人、田無美代子はある理由でイジメを受けることになる女の子。物語の中心となる、神経質な性格です。
最後に、優花さんは豪快であっけらかんとした、頭の冴える刑事で、今回友宏の一家に一時的に居候してきます。
この三人からどんな物語を想像するでしょうか。イジメの背景に潜む事件。謎解きを解決するために活躍する男子高校生…?
物語は中盤まで、この三人を中心に回っていきます。

本作を一度読むと「お骨様の呪い」に囚われた少女に対するイジメの背後に潜む「謎解き」を楽しむことができます
本作を二度読むと「謎解き」の背後に潜む「恐怖」を感じることができます。
そして三度読むと「計算問題」だと思っていた謎解きが、実は「呪い」に介入された物語だと疑心暗鬼になります。
小説という媒体は、一見繰り返し読むのに適しませんが、筆者は本という媒体の特性を活かし、読む度にヒントを見つけられる作品にしています。

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2013.07.08

「怪談と踊ろう、そしてあなたは階段で踊る」のレビュー

銅

怪談と踊ろう、そしてあなたは階段で踊る

突き刺さるシャベル

レビュアー:カクラ・メロンソーダ AdeptAdept

怪談と名打った本作は、二つのモノが鍵となり、物語を彩る。一つは「骨」もう一つは「田無美代子」という人物。
本作は、田無美代子の謎の飛び降り(怪我で済む)の謎を読み説くことを目的としている。主人公であり高校生の友宏の自問自答、飛び降りを目撃した佐藤理恵の言葉をヒントに謎を読み説く「ゲーム」として読むこともできる。
高校生3人組が賽銭欲しさにでっち上げた「お骨様の鈍い」は、次第に学校内で一人歩きし始め、肥大化し、遂には田無美代子の転落事故が発生する。
「ひぐらしのなく頃に」「うみねこのなく頃に」といった著者の代表作は、残酷な描写と、いつ恐怖が目の前に現れるかわからない展開に、恐怖から逃げるようにあっという間に読み進めざるを得ないテキストだった。
本作は残酷な描写を控え、作者の作品に通じる背後から忍び寄るような恐怖を楽しむことができる物語にまとまっている。
ただし、著者の得意とする「突然現れる恐怖」で読者を驚かす種はしっかり埋まっているので、気軽に読む際は念のため注意してほしい。

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2013.07.08

「怪談と踊ろう、そしてあなたは階段で踊る」のレビュー

銀

「怪談と踊ろう、そしてあなたは階段で踊る」

怪談と遊ぶ少女達

レビュアー:zonby AdeptAdept

「男子は腹が立ったら仕返しをする生き物だけど、女子は憎かったら呪う生き物だもの」

二元論は好きではないけれど、この台詞にハッとしてしまいました。
特に「女子は憎かったら呪う生き物」という言葉。
全ての女子がそうとは言いませんし、否定したい気持ちも山々ですが、そうです。女子とは呪う生き物なのです。
というと、なんだか女の子があまりにも禍々しい感じがしますし、私自身何やら儀式のようなことをして人を呪うような人間だと思われては困ります。
具体的に言いましょう。

貴女が女子、あるいはかつて女子であったなら「おまじない」って身近なものじゃありませんでしたか?
あるいは男子、かつて男子であったならどうして女子がそんなに「おまじない」に熱心なのか理解できなかったこともあるのではないでしょうか。
「おまじない」という言い方が不自然であれば「ジンクス」や「占い」と言った方が分かりやすいかもしれません。
ええ。私にも経験があります。
好きな人の名前を消しゴムに書いて、全部使い切れたら結ばれる。
目の前を黒猫が横切ったら今日は不幸。
カラスの羽根は拾ってはいけない。
こっくりさんで使った十円玉は、神社のお賽銭に入れなければいけない。
そうそう。
星座占いなんかは、朝のニュース番組でやるほど定番の「占い」です。
星座占いや血液型占いなんかは別にしても、そういえば学校というものに通っていたころは随分とそういった「おまじない」や「ジンクス」の類が沢山あったものです。

呪いとはまじない。
そういう意味では女の子の日常に呪いは溶け込んでいるのです。
女の子はそれを呪いと意識しないまま、好きな人の預かり知らぬところで呪いをかけ、朝学校に来る前に見るニュースで星占いを見て、今日は幸運。あるいは不運と自分に呪いをかけ、時には憎い相手を呪いと知らずに呪うのです。
「怪談と踊ろう、そしてあなたは階段で踊る」の中でも、呪いを利用し架空の神を祀り上げたのは他ならぬ女子でした。

作者である竜騎士07さんの著書に「ひぐらしのなく頃に」という一連のシリーズがありますね。
あの物語の中でも、呪いに惹かれていったのは女の子といった印象が強くあります。
極自然にオヤシロサマという祟る神を受け入れていた竜宮レナ。
一つ遅れてついてくる足音を、可愛いとさえ感じていた園崎詩音。
まじない、祟りを作り出し、神になることを願った鷹野三四。

反面、男の子である前原圭一・北条悟史は祟りをおそれ、怪異をおそれ、金属バットでそれらに対抗しようとしました。

この物語は些細なオマジナイの物語です。
けれど、そこを。
底の底にじっと目を凝らして見て下さい。

オマジナイを呪いへ、そして祟り神へと祀り上げる
無数の無害で無邪気な
幾人もの女の子がきっといるはず。
―――そして、新しいオマジナイを、求めているはずですから。

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2013.05.29

「怪談と踊ろう、そしてあなたは階段で踊る」のレビュー

鉄

怪談と踊ろう、そしてあなたは階段で踊る

呪い祟られ踊らにゃソンソン

レビュアー:面倒臭がりヤ NoviceNovice

 宮島友宏はどこにでもいる中学生。彼と彼の親友二人が送るのは「平和でのどかな」或いは「刺激の無い退屈な」日常。
 彼らの日常は、彼ら自身が生み出した「祟り」によって、幸か不幸か幻の如く掻き消える。
 恐怖と悪意を糧に、際限なく肥大化する「お骨サマの呪い」は、微塵の容赦もなく人の業を暴き立てる。
 祟りに踊り、呪いに踊られ、友宏はめくるめく怪談の階段を疾走する。その先にあったものは―――。
 
 「ひぐらしの鳴く頃に」の竜騎士07が綴った、小説家デビュー作が星海社FICTIONSで楽しめる。背筋と心にくる怪作ホラー、裏の裏そのまた裏までどうぞずずずいとご堪能あれ。

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2013.04.16

「怪談と踊ろう、そしてあなたは階段で踊る」のレビュー

銅

怪談で踊ろう、されどあなたは階段でおどる 竜騎士

学校に必ずあるもの。

レビュアー:ややせ NoviceNovice

学校に必ずあるもの。階段と、怪談。

階段とは、説明するまでもなく異なる階へ赴くときに使用する等間隔に作られた段の連なりのことで、この規則正しく積みあがっていく段差はそのまま小学校中学校高校、そしてその中の学年を上がっていく生徒達の課程を表しているかのようだ。
そしてこの中学三年生という、受験という初めてのふるい分けが待っている不安定な時期。ここは階段にたとえるならば、ふわりとターンしなければならない階段の踊り場のような、季節なのだろう。

大きな社会の仕組みをなんとなく感じ取ってはいるけれど、それに飛び込んでいくのはまだ怖い。けれど対抗することもできるはずがない。
主人公の友宏とその友達は、退屈しのぎに全く新しい学校の怪談を創り、広めることを思いついて実行に移す。そして自分達が創った物語が脚色され、付け足され、細部が設定され、面白いように人々が信じ始めるのを目の当たりにする。
自分とはまったく関係のないように出来上がっていた世界が、ほんの些細な嘘で変化していくのだ。それはとてもわくわくすることだろう。
祟りを信じる者、信じない者、参加する者、語る者。同じ時に同じ学校にいて、無関係な人間などそこにはいない。どんなかたちであれ、そのストーリーと設定を知ってしまえば、誰もがその遊びの仲間なのだ。「このゆびとまれ」をした覚えがなくても、皆が共犯者で、共同執筆者の物語の作成。古風にいうなら、交換ノートで作るリレー小説のようなものだ。
小さくて、無数のネットワークを持つようになった物語は完全に滅びることはなく、どこかの、誰かの舌の上で踊り続ける。
それは否応なしに階段を進んでいかねばならない彼らが「いま」に残していく、ささやかな呪いなのではないだろうか。

さて「怪談が」というより、「怖い話が怖い」のはなぜだろうと考えたとき、まず思いつくのは「理屈が通らないから」ではないかということだ。
太陽の下のような、世の理で正しく説明できるような話ならば怪談ではない。
また、真っ暗闇のような、自分ひとりだけしか延々出てこない話も怪談ではない。
そう、たとえば、夕暮れ。蝋燭の明かり。不安定で複数の光源があるときに影が思いもよらない動きをするように、理解不能想像不可能だったことが起こる話が怪談なのではないだろうか。
この小説の一つの光源が友宏達怪談の生みの親だとするならば、その怪談に乗った同級生達、そしてイジメの被害者になった田無美代子もまた、揺れる揺れる不安定な光源だったのだろう。
現実にぴたりと張り付いたお話の影は、いつ、誰の意図でもってつかみかかってくるかわからない時に、怪談となる。
誰もが等しく参加できる物語には、同じように参加している「だれか」が存在する。人を呪わば穴二つ、というが、物語に現実に影響を与えることができるとき、その物語から受ける影響もまた現実的なのだ。

田無美代子は階段から落ちる。
たまたまシャベルが砂に埋まっていて、大怪我をするような高さではないのに大怪我をしてしまう。

  「・・・学校の階段にしちゃ危ないよねぇ。この柵、簡単に越えられちゃうじゃないの?」

この台詞には、びくりとさせられる。
そうなのだ、簡単にフェンスは越えられるし、あまりにも頻繁にシャベルは「たまたま」埋まっている。
ただの子供の遊びであり、どこにでもある学校の怪談だけれど、いつだって柵は簡単に越えられるのだ。試してさえみれば。

だから気をつけなければいけない、とレビューを結ぼうと思ったのだが、考えが変わった。

世界の半分は呪いでできているという。とすると、残りの半分はそうではないということだ。それは希望にしては多すぎる。
大怪我をしても命は助かることは、必然だったのではないだろうか。そして、ちゃんと階段から落ちてくるのを受け止められたのも、必然だったのではないだろうか。
「僕たち」はまっすぐには下校しない。寄り道をする。
けれど必ず帰宅する。そういうのを繰り返して、踏み固めてきた段階を誰もが通ってきた。これからもたくさんの誰かが通っていく。

先へ先へと歩いていくための道と、特別な段にだけ存在する先輩たちの物語という名の置き土産。
それはいつだって半分は呪いで、半分は祝福なのだと思う。
学校に必ずある怪談と階段とは、虚構へ容易に転がり落ちてしまうことと、そこから必ず帰れる結末のことなのだと、私は信じたい。

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2012.04.23


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