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レビュアー「ヨシマル」のレビュー

金

青春離婚

夫婦漫才

レビュアー:ヨシマル Novice

栄子:どうも~栄子で~す。
ヨシマル:ヨシマルです。今日もよろしくおねがいします。
栄子:ほんま今回も漫才頑張っていこかな思うてます。
ヨシマル:とうとう漫才言ってしまったよ!
栄子:いや、最近花粉症とか流行ってるやん。あたしはまだ大丈夫やねんけど、今年こそなってしまうんやないかって心配で心配で夜も寝れへんから、目は充血してるし。どうしたら防げるやろかっていろんな人に聞いて回ってるからかしらへんけど、噂になってしもうてるみたいで、くしゃみが止まらんねん。
ヨシマル:それもう花粉症かかってるから! ていうか漫才続けるの!? そろそろこのパターンも飽きてきたよ!
栄子:日本が誇る定形の美しさ。
ヨシマル:いいように解釈するな! まったく、そろそろ本題入ろうか?
栄子:はいはい。ということで今回は漫才漫画『青春離婚』でお送りします。
ヨシマル:漫才漫画?
栄子:ゴロだけで考えてみた。
ヨシマル:…………。
栄子:あらすじは内気な女子高生の郁美は同じクラスで同じ苗字の灯馬と出会う。二人は周りから「夫婦」と呼ばれるようになって――恋人未満の佐古野「夫婦」の青春物語。って感じやな。
ヨシマル:そうだね。登場人物は主に佐古野郁美と佐古野灯馬の二人。二人の会話を中心に進んでいくから漫才っていう例えもあながち見当はずれでもないのかな。
栄子:灯馬がボケでいくみんがツッコミやな。
ヨシマル:いくみんて……。
栄子:いくみんはいくみんやん。かわいいよいくみん。や、灯馬も捨てがたいんやけど。
ヨシマル:……もういくみんでいいや。まあ、でも漫才に例える理由として、形が決まってるっていうのはあるかもね。
栄子:形?
ヨシマル:うん。本作中で描かれている人物はいくみんと灯馬の二人の場合がほとんどなんだけど、二人が同時に描かれているコマでは必ずと言っていいほどいくみんが右側で灯馬が左側に描かれているんだ。
栄子:ほんまに?
ヨシマル:今のところはね。
栄子:…………。本当だ。
ヨシマル:立ち位置と言ってもいいかな。実際は座ってるときが多いけど。漫才でもボケとツッコミの位置は固定されていることが多いからね。
栄子:基本はボケが左で、ツッコミが右ってのが多いやんな。
ヨシマル:漫才でははツッコミの利き手の問題とかあるからなんだけど、本作でもいくみんが右側になっているのには理由があると思うんだ。
栄子:いくみんは根っからのツッコミやったんや!
ヨシマル:違っ――くもないんだよな。
栄子:え!?
ヨシマル:うーん、まあ、縦書きって右から読むよね。だから、一コマ中でも目線は自然と右から見ていくことになる。んで、やっぱり注目させたい人や喋ってる人を目につきやすい右側に描くことが多くなるんだ。
栄子:だから右側なんや。
ヨシマル:二人が主人公とは言っても語り部はいくみんの方だからね。二人が同時に登場してるときはいくみんのセリフが多くなるから自然と右側が定位置になる。
栄子:なるほどやなあ。…………あ、でもたまに灯馬の方が右側になってるとこもあるやん。
ヨシマル:そうなんだ。そのコマを見て何か気付くことはない?
栄子:んー。…………。あ!
ヨシマル:おっ。
栄子:いくみんがかわいい!
ヨシマル:おい! や、だから否定できないけど、そうじゃなくて。さっきも言ったけど――
栄子:あ! 灯馬が喋ってる!
ヨシマル:そ、そうなんだよ。もちろん灯馬が左側にいても喋ってることはあるんだけど。さっきも言ったけど右側って注目される位置なんだよね。だからいくみんが右側っていう定位置をあえて崩してまで灯馬を右にするってことは、それだけ灯馬に注目して欲しい、灯馬のセリフに注目して欲しいっていう現れなんだ。
栄子:確かに灯馬が右側にきてるときには「夫婦はデートしません」とか決めゼリフ多めやんな。
ヨシマル:うん。実はその後繰り返し使われる印象的なセリフも右側の人物が喋ってるんだよね。
栄子:天丼の場面ってことやな。確かにボケの被せは重要やし。
ヨシマル:天丼言うな! まあ、あとは冒頭の離婚シーンも灯馬が右なんだよね。これにはどんな意味があるのか、これから描かれるだろう灯馬の右側シーンと合わせて注目していきたいと思ったよ。
栄子:立ち位置も意味があるんやなあ。あ、気付いたんやけどそれって、一コマが横長で固定されてるからっていうのがあるんやない?
ヨシマル:確かに横長だと二人を並べて描くときに横並びになりやすいね。だから位置によって注目する人が分かりやすくなってるところはあるのかもね。小さいコマだったら、一コマに一人っていうのが多くなりそうだし。コマの大きさが変わらないっていうのも本作の大きな特徴の一つだしね。
栄子:Webページで読むことを考えてのことやろけど、新鮮な感じやな。
ヨシマル:実はヨシマルは新鮮というよりも、昔のマンガを思い出したよ。
栄子:昔のマンガ?
ヨシマル:例えば現在のマンガの原点の一つでもある手塚治虫の『新宝島』も本作のような横長で固定したコマを縦に並べている構図をとってるんだ。更に古くは、戦前の『のらくろ』なんかも似たようなコマ割りをしてる。ヨシマルも当時生きていた訳じゃないからそれがどの程度主流な表現なのかは分からないけれどね。
栄子:70年くらい前や……。
ヨシマル:もちろん昔と今じゃマンガが掲載される状況も大きく異なるけど、『新宝島』も『のらくろ』も現代に繋がるマンガの創成期に描かれた作品だ。
栄子:今現在もWebマンガという媒体の創成期って言えるんやないかってことやな。
ヨシマル:だね。だからWebマンガっていう新しい媒体のための表現なのに、それが数十年前と似たような表現になるっていうのは感慨深いものがあるよね。
栄子:でも、今のマンガはいろんなコマ割りが使われてるんねやな。
ヨシマル:紙のマンガがそうやって進化して今に至るように、Webマンガもきっとその形にあった進化をしていくんだと思う。これは本作『青春離婚』でということではないけれど、これからのWebマンガの表現がどう変わっていくのか。どう紙のマンガと道を違えていくのかっていうことを見てみたくなったよ。
栄子:新しく見えて実は原点に戻ってたんやなあ。
ヨシマル:そういうことだね。
栄子:しっかし――。
ヨシマル:ん?
栄子:『のらくろ』とか『新宝島』とかヨシマル何歳や!? どんだけじいさんやねん!
ヨシマル:まだ二十代だよ!

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2012.04.02

銀

六本木少女地獄

Feel or think!

レビュアー:ヨシマル Novice

さて、困った。
というのも『六本木少女地獄』を読んでみたものの感想がまるでないからだ。
感想がないというとネガティブに聞こえるかもしれないが、決してそういう意味ではない。単純に読み終わった後に口に出す言葉がなかったという文字通りの意味だ。例えば読書感想文を書きなさいと言われても白紙で提出する、そんな気分なのだ。

登場人物は二転三転し、時間軸は絡まり合う。それぞれの場面が何を表しているのか、読んでいるうちにどんどん分からなくなっていく。ストーリーを整理するだけでも一苦労だ。そんな中で本書について自分なりにどう感じただとか、どの場面が良かったかなんて考えるのはとても難しい。
しかし、これだけ読者を混乱させ煙に巻いたような話を読んで語る言葉がないというのも少し口惜しい気がしてならないのだ。
けれど幸運なことに、こんなときの対処法は知っている。

なにも感じないならば頭を使って考えるまでだ。

まずは登場人物を整理してみよう。
冒頭から出てくるのが、姉、少女、男、弟の四人。
そして、六本木少女と少年が登場する。
その後、エビライやエビコ、母、祖父、ギャルが登場し、太字の登場人物は出そろう。
他の登場人物として、エバラナカノブ・タロウやユウテンジ・ヨシコといった名前を付けられているキャラクタがいて、さらに男には湯田、少女にはマリ、姉にはランという名前がそれぞれついている。
登場人物だけでも混乱してしまいそうだけれど、どうやら作中での活躍も登場順で高そうだ。

といったところで内容を見てみよう。
最初に目が行くのは少女が想像妊娠するところだ。想像妊娠といえば金八先生を思い浮かべてしまうけれど、ここではキリスト教の処女懐胎の比喩だろう。キリスト教の処女懐胎とは、誤解を恐れず簡単に言えば、キリストの母親である聖母マリアが父親なしにキリストを身篭ったという逸話のことだ。
もちろん想像妊娠と処女懐胎では大きく異なることは断っておくけれど、人間の父親がいないことや少女の名前がマリちゃんというのだから意図してのことだろう。それから、少女(マリちゃん)が書く脚本の中でキリトが活躍しているというのも意味深長だ。キリトとはリングネームからも分かるようにイエス・キリストの例えだ。

ともあれ『六本木少女地獄』はどうやら新約聖書からモチーフを得ているところが多いらしい。処女懐胎を始め、男・湯田もキリストの十二使徒の一人であるユダということになるだろうし(実は十二使徒の中にユダは二人いるのだけれどここでは有名な裏切り者のユダのことだろう)、弟のリングネームはまんまイエス・キリトなのだから隠す気はないのだろう。
例えばエビライはフビライ・ハンに憧れているとは言ってはいるが、ユダヤ人のことを指すヘブライが元だと考えるのが自然だ。キリスト教はかつてユダヤ教から独立する形で発生していることから考えると、エビライとキリトが最初は仲間として、そして最後には直接対決になるという流れも理解しやすい。
だとするとなぜエビなのかも説明できる。どの程度の信憑性があるかは不明だけれど、ユダヤ教ではエビは食べてはいけないらしいのだ。理由としては弱いけれど、ヘブライとエビとの関連もありそうだ。

続いて、男(湯田)について考えてみよう。湯田とはもちろんイスカリオテのユダ、有名なキリストを裏切った人物だ。物語中でも最初は優しく接していた少女に対して暴行を振るうような描写が登場する。けれど、興味深いのは男(湯田)と弟(キリト)が同一人物であるかのような描写だ。弟はキリストだし、男はユダだ。裏切り者と裏切られた者が同一人物とはどういうことだろうか。実はこれに対する答えは用意できる。というのも、レオナルド・ダ・ヴィンチによる『最後の晩餐』に描かれたキリストとユダは同一人物がモデルだという噂があるのだ。作者もこの噂を知っていて、こんなストーリーにしたのかもしれない。もちろん別の意味があるのかもしれない。そうならば、どうしてだろうか。想像する余地が残っているのもいいものだ。

ざっと挙げただけでもたくさんのモチーフや関連する話が散りばめられている。
他には母のよしえや実況のユウテンジ・ヨシコのヨシコが『ヨシュア』を指しているのではないかなんて勘ぐってみたくもなるし、ラン姉ちゃんはそれが言いたかっただけなのかはな謎のままだ。
キリスト教について以外にも、タイトルの六本木から始まり、神谷町、中野荏原、祐天寺といった地名も隠されていて、それらを拾って調べてみるのも一興だろう。

さて、ここまで『六本木少女地獄』という戯曲に対する感想なくレビューを書いてみたけれど、したことは作中に出てきた言葉を拾って並べただけだ。それは作品を深く理解しているとは言えないかもしれない。
確かに、この場面が良かったとか、このキャラクタが好きだとか自分の気持が文章にできることは素晴らしいし、読むのも楽しみだ。けれど、そんな難しいことを考えなくても、物語の表面上しか捉えられなくても本を読む楽しみはあるのだ。『六本木少女地獄』が好きとか嫌いでなくても、感動や共感をしなくても、知らなかったことを知るきっかけにもなるし作者の意図を考えるだけでも楽しみはある。だから思う、感じないのならば、考えてみよう。

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2012.03.09

銅

iKILL

或るミステリ読みの憤慨

レビュアー:ヨシマル Novice

激怒した。
それは本書『iKILL』を読み終わったときのことだった。

筆者は本書を読み始める前に『最前線』の特集ページを読んでいた。
そこにはこう書かれていた。

ウェブ上に蠢く処刑システム
「i-KILLネット」の管理人・小田切明の
終わりなき”仕事”の果てに
待ち受けるものは……!?

この四行の紹介文には明らかな間違いが書いてあるのだ。

ミスリードという言葉がある。
小説では、あえて読者に間違ったように勘違いさせる文章を書く技法のことを指す。本書でもその技法が使われている話がある。
そして、ここが重要な点なのだけれど、このミスリードはあくまで勘違いを起こさせるものであり、著者が間違いを記述してはならないという暗黙の了解があるのだ。もちろん、それはあくまで暗黙の了解であり破ったからといって一方的な避難をするべきものではないかもしれない。けれど、作中においては本書の著者は間違いとなる記述しておらず、この点に配慮してあることが読み取れるのだ。

にも関わらず、作品の外で(果たして著者が関わったかどうかは分からない)、その暗黙の了解を覆す記述がされていること、さらには、堂々とミスリードされた間違いを記述していることに激怒したのだ。

当たり前だけれど、暗黙の了解とは意味もなくあるものではない。ミスリードの場合、それは物語の読み方自体を変えてしまうからこそ存在する。
読者を勘違いさせるミスリードを使った物語は、一回読めば読者は勘違いをしていたことに気づくことになる。読者は一回目に読むときには自分が勘違いをさせられていることを知り驚愕する。そして二回目以降読むときには、勘違いを起こさせるように計算された文章に驚愕することができるのだ。

そのため、この紹介文には二重の過ちがある。
一つ目はミスリードの内容を記述してしまったことだ。暗黙の了解である著者が間違いを記述しないのと同様、本書の内容を知っているはずの紹介文を記述した者が間違いを記述することはないと思ってしまう。そのため読者はその内容を知っているという状態になってしまう。だから、著者が勘違いを起こさせようと計算した文章の価値を奪ってしまうことになるのだ。
そして、二つ目の問題はミスリードされた間違いの方を記述してあることだ。読者が勘違いさせられたときに感じる驚愕は文章を読んで無意識の内にそう思わされていたからこそ感じるものだ。読む前に明示されたのであれば、それは単なる訂正に過ぎない。そこに驚きが生まれる余地はなくなるのだ。

もしかしたら上記のような読み方をする者が特殊な例なのかもしれない。いい作品なら暗黙の了解なんて関係ないという者が大多数かもしれない。けれど、暗黙の了解が成立するほどの人数がこういった楽しみ方をしていることをこの紹介文の著者には知ってほしいと思う。手前勝手な願いかもしれないが、そういった読者のための配慮をしていただけると筆者は嬉しい。

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2012.03.09

銅

iKILL

残酷な「生」

レビュアー:ヨシマル Novice

『iKILL』には「I kill=殺す」と「ィキル=生きる」という相反する二つの意味が込められている。主人公は殺し屋である小田切明。その名の通り殺すことを仕事とする小田切の目線で多くを語る本書は殺すこと、つまり死ぬことを描くと同時に生きることもまた強く印象づける。本書はそんな生と死を描いた小説だ。

自分の私生活をネット上に晒し続けるネットアイドルの殺害や自分をいじめる同級生の女子高生の殺害など、主人公である殺し屋の小田切明のもとには様々な依頼が持ち込まれる。小田切によって遂行されるそれらの殺人の描写は無慈悲とも言い表せられるほど生々しく、読者にとっては苦痛すら感じるような場面もある。これらの殺人の場面はまさに「I kill=殺す」を体現していると言えるだろう。

一方、本書にはもう一つ「ィキル=生きる」という側面がある。

本書の特徴に先に書いたような生々しいほどの残酷な描写がある。それは直接的な殺人の描写だけでなく、既に死体となった後の描写でも同様だ。第一話では殺された人体が腐り、そして朽ち果てていく様が丹念に描かれる。この場面は本書の中でも屈指の残酷な場面となっている。それは死に直結する描写でもあるのだが、この場面での残酷さとは、むしろ生きることをより強く思い起こさせる。本書の残酷さは人体が変化していく様子を生々しく詳細に描くことで成立している。読者は死体が朽ち果てていく様子を詳細に読み取ることで、死体がかつて人間だったことにあらためて気付かされる。同時にその死体がかつて生きていた事実と向き合うことになるのだ。

死体がかつてどう生きていたのかという点に関して本書は多くを語っている。そして残酷な描写によってその生と死を結びつけているのだ。果たして殺された人たちはどう生きていたのか。それが本書で残酷な描写に出会ったときに注目してほしいポイントの一つだ。

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2012.03.09


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