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レビュアー「ticheese」のレビュー

銅

オカルト「超」入門、フェノメノ

フェノメノ「超」入門

レビュアー:ticheese Warrior

 人は武器を手に入れると使ってみたくなるもの。「武器としての教養」を謡う星海社新書の一冊『オカルト「超」入門』は、星海社新書の他の書籍に比べて役に立つかというと、日常レベルではそうでもない。少なくともオカルトの知識を得ることが、仕事上で必要な人は少ないだろうし、幽霊に憑かれていたり、宇宙人に拉致されそうなんて人はほぼ皆無だと思う。

 それでも『オカルト「超」入門』で得た教養を使ってみたい。武器として奮ってみたい。特に都市伝説に詳しいわけでもなく、心霊スポットに足を運ぶほどアグレッシブでもない私は、武器を活かす先にフィクションを選んでみた。

 星海社FICTIONSの一冊『フェノメノ』だ。

 なぜ『フェノメノ』を選んだのかというと、理由は二つある。まず第一に『フェノメノ』というのタイトルが、「(不思議な)現象」を意味する「phenomenon」から来ており、タイトルからまんまオカルトの作品だと明示しているのが分かりやすい。第二の理由はこの二冊のオカルトに対してとっているスタンスが、非常に似通っている点にある。
 『オカルト「超」入門』はオカルトの知識を学ぶことで、都市伝説や怪談話に怯えたり、怪しい宗教にハマってしまわないよう、オカルトを見極める目を読者に与えようとしている。対して『フェノメノ』ではオカルトサイト「異界ヶ淵」の管理人クリシュナさんが、サイトの常連であり物語の主人公ナギに散々オカルトとの付き合い方を説く。興味本位で首を突っ込むな。霊には霊の世界があり、迂闊に立ち入ると大変な目に遭う。オカルトは趣味として楽しみなさい。……だがナギはクリシュナさんの教えを守らず、不思議な現象に巻き込まれてしまうわけだ。

 それでは本題。実際に武器を使ってみよう。『オカルト「超」入門』によると、オカルトは発生した時代背景の影響を強く受けており、オカルトからその時代の文化を読み解くことができるとある。さっそく『フェノメノ』で考えてみた。
 『フェノメノ』の恐怖を醸成する一要素として、ナギの人間関係の希薄さが挙げられる。大学進学を機に上京したばかりの彼は、特段仲のいい友人も持たず、趣味であるオカルト仲間もオカルトサイト「異界ヶ淵」の常連ばかり。せっかくオフ会を開いて相談しようにも、話題を別の人間にとられて口火を切れない有様だった。だから実際に不思議な現象に悩まされても、頼れる人間が身近おらず、無闇にネットに書き込み顰蹙を買いまくる事態にまで落ち入る。
 また語られる都市伝説の多くはネットを介してもたらされ、信憑性のないにも関わらず、拡散性の高さから事態をより深刻なものに仕立て上げていく。ナギを助ける希望となった二人の女性、「異界ヶ淵」の管理人クリシュナさんと“みえる”少女夜石もネットを通じて知り合うのだが、夜石の方はネット上で気味の悪い都市伝説として語られる存在であり、ナギの先行きは中々明るくならない。

 1998年のホラー映画『リング』ではダビングされたビデオに貞子が憑き、2001年の『回路』ではまだ素人には接続も覚束なかったインターネットが死霊の跋扈する原因となり、2004年の『着信アリ』では普及率が8割を超えた携帯電話から死の予告がもたらされた。そして2012年『フェノメノ』ではネットが情報を交換し、人と出会い、都市伝説とそれに伴う現象が生み出される媒体となっている。確かな時代の変化がオカルトの世界にも存在しているようだ。
 ナギの人間関係が希薄だと先に述べたが、身近な友人よりもネット上の他人の方が頼りになる状況は、昨今あまり珍しくないようにも思われる。私自身もオフ会に出た経験があるし、普段はできない話をできるので非常に楽しくあった。
 オカルトで時代を解く。ただ粛々と物語を追うより、こうして改めて作品の時代を客観的に観察できるのは面白くあるし、普段の生活の中にオカルトを生み出すきっかけがあるのだと思うと怖さも増すというものだ。
 そして『オカルト「超」入門』と『フェノメノ』、どちらも2012年の本であるわけだが、オカルトに対するスタンスが似通っているのも頷ける。現代はとにかく情報の拡散が早く広い。触れようと思えばいくらでも事実でも虚偽でもオカルトな話に触れられる。それにともない危険な目に遭うこともあるかもしれない。趣味として楽しむのはいいが、決してハマりすぎるな。これも2012年の時代性なのだろう。

 『オカルト「超」入門』を武器として使ってみる。確かな手応えがあり収穫だった。しかし『フェノメノ』が時代性を追ってばかりの作品であっては面白みも減じよう。物語の第三話は東京に疲れたナギが実家の藤枝に帰省する話だ。暖かい家族や頼りになる親友たちがいて、見渡せばどこも見知った光景で縁故のある人ばかり。ぬるま湯に浸かるように安心しきったナギであるのだが、安全な場所に着いたと思ったタイミングが一番危ないのはホラー作品の伝統である。読者が期待している怖さは過不足なく充実している。
 そして何より人間関係の希薄さなど知らんとばかりに、オカルトに憑かれたナギを叱責し、助けしてくれるクリシュナさんは、まぎれもなく女神であるとしみじみと思った。ナギよ、悪いことは言わないから夜石よりクリシュナさんにしておきなさい。な?

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2013.07.08

銅

サエズリ図書館のワルツさん

紅玉いづき史

レビュアー:ticheese Warrior

 作家だって歳をとる。
 たとえ少年少女を描いてきたライトノベル作家であっても、今は一般レーベルで執筆する機会がどっと増えた。そうなると描かれる主人公も高校生ではなく、大学生や社会人であることが多い。作家の加齢と共に、物語の主人公も大人になっていく。ライトノベルがデビューではないが、分かりやすい例を挙げるなら綿矢りさの作品などまさにその通りだ。17歳でデビューした綿矢りさも作品の主人公は生き生きとした、しかし人物像としてはかなりけだるげな女子高生だった。そして30歳も目前に控えた現在は、職場や恋愛や結婚適齢期に悩む女性を主人公に描いている。間違いなくデビュー当時は書けなかった作品だろう。こんなことを言うと性差別だと怒られそうだが、一般に女性作家の方が時と共に主人公の年齢が上がりやすい気がする。学生就職結婚出産と、人生における環境の変化が劇的で、機会も多い為かもしれない。

 そして『サエズリ図書館のワルツさん』の作者紅玉いづきも、綿矢りさと同じく時と共に作品が変わってきた作家の一人だ。

 私は紅玉いづきのデビュー作、『ミミズクと夜の王』が大好きだった。ライトノベルより児童文学に近いファンタジー作品で、主人公のミミズクと名乗る少女は元奴隷で不幸な生い立ちにもかかわらず、あっけらかんとしていて芯の強いところが魅力だった。今でも私のデスクにはいつでも手に取れるように、未読の本のすぐ隣に『ミミズクと夜の王』が並んでいる。

 デビューから数作、紅玉さんはファンタジー作品を書いた。ミミズクと同じく、一本芯の通った少女が主人公。手に取るたびに私はいつも泣かされた。しかし変化が如実に感じられたのは4作目、メディアワークス文庫で出された『ガーデン・ロスト』だった。これはファンタジーではない。仲良しだった女子高生4人が、お互いの未熟さで傷つけ合って仲違いしたりする。そこには理想も魔法もなく、ただ現実が横たわっていた。作家が時と共に作品を変えていくのは悪いことではない。同じく歳をとって生きている私だって、成長すれば感じ方も変わるし環境も変わる。中学生の頃なら無理だったかもしれないが、当時『ガーデン・ロスト』は面白く読めた。
 しかしそれでもデビュー作に感じたものは、もう新しい作品では読めないんじゃないかという不安があった。

 作家だって歳をとる。私が紅玉さんの作品で次に読んだのは『青春離婚』だった。高校生の物語であるが、夫婦と離婚をテーマにした悩ましい人間関係を描いた作品だった。

 そしてさらに次が『サエズリ図書館のワルツさん』。とうとう主人公は大人の女性になった。私は出版されてからしばらく手に取れなかった。私の好きだった紅玉いづきの作品ではないかもしれない。恋人や友人と傷つけ合ったり、職場や結婚に悩んだりするのは別に嫌いな物語でもないが、好きかと問われればまあ普通。面白く読めても作家の変化に寂しい気持ちになるかもしれない。実際に読んでみると、いまいち主人公のワルツさん同調できない自分がいた。作家だって歳をとる。

 この寂しい気持ちに変化が訪れたのは、『サエズリ図書館のワルツさん』を読んでしばらく経ってからだ。『サエズリ図書館のワルツさん』がコミカライズされた。ビジュアル化されたサエズリ図書館は美しい近未来の図書館で、司書のワルツさんも魅力的な女性だと改めて思った。けれどきっかけは別のところにある。作中でワルツさんがカミオさんに薦めていた本のタイトルが絵の中に映り込んだ。原作では大人の都合か、作中紹介される本のタイトルが一切でない。私はずっと気になっていた。そのタイトルは『モモ』。せっかくだから私も読んでもみた、もちろん図書館で借りてきて。

 『モモ』の主人公モモは身寄りのない女の子で、施設から逃げ出して都会のはずれにある劇場跡地に住んでいた。モモの特技は悩んでいる人の話を聞くこと。人々はモモに話をしている内に、自然と答えが見つかって晴れやかな気分になった。ゆっくりとした時間の中で生きるモモに、すべての人間から時間を奪おうと目論む時間泥棒の魔の手が伸びる。助けてくれたのは友人たちと、時間を司るマイスター・ホラ。清浄で芯の強い少女が困難に立ち向かう、そんな話だ。 

 私には自然と連想するものがあった。『モモ』のモモと、『ミミズクと夜の王』のミミズクはよく似ている。どちらも不幸な生い立ちの、芯の強い女の子。
 ワルツさんはそんな本を悩める社会人カミオさんに薦めた。ワルツさんにとってモモの物語は何か感じるものがあり、カミオさんにもきっと得るものがあると思ったのだろう。それが分かると、私の中でワルツさんを見る目が大きく変わった。ワルツさんもまた、モモやミミズクと似た過去をもっている。戦災孤児で施設に入れられ、義父となった割津義昭に引き取られた。義父の愛情と本の魅力に触れる内、今の明晰さをもつワルツさんになったのだ。そして愛する義父を亡くした。

 ワルツさんはモモでミミズクだった。『ガーデン・ロスト』の少女たちで、『青春離婚』の佐古野さんだった。不幸を背負ってなお立ち、愛情と幸福を獲得し、それを失い傷つき大人になった。不幸も幸福も経験し、傷つき挫けることがあっても、なお強く自分の意志を貫こうとするワルツさんの姿は、紅玉いづきの描いた主人公たちの到達点であり、未来への通過点でもある。ワルツさんは強い意志こそ持っているが、どこか歪さも併せ持っている。お腹の子供に絵本を読んであげたい女性に、本の一冊も譲らない。あくまで貸すだけ。自分がずるいことも分かっているが、それは元々愛する義父の本で、自分にはどうしようもないと諦めている。

 作家は歳をとる。だけどそれは変わってしまうことではなく、作家も作品もかつての自身を土台にして存在している。私はもう紅玉いづきの新しい作品を読むことに寂しさを感じたりはしないだろう。時間と経験を経て書かれたそれらを読むのは、かつて好きだった作品の続きを読むのと同義だと思ったからだ。

(高井舞香を支持)

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2013.07.08

銅

ビアンカ・オーバースタディ

メタラノベとしての読み方が一例

レビュアー:ticheese Warrior

 【誰か続編を書いてはくれまいか。】
 あとがきにて、筒井康隆はそう読者に投げかけた。
 ずいぶん軽い物言いで冗談に聞こえるが、この作品『ビアンカ・オーバースタディ』を読むと、誰かが本当に書いてしまえそうにも思えてしまう。
 それくらいこの作品は土台と枠組みがしっかりしていた。

 【見られている。 でも、気がつかないふりをしていよう。】から続く話の始まりはたいてい同じ。階段で生物学教室隣の実験室まで上がるビアンカのシーンで始まる。階段の周りでは男子がビアンカの短いスカートの中を覗き見ていて、実験室の前には文芸部の塩崎哲也が座り込んでビアンカを待っている。
 登場人物の描写も、主たるメンバーはきっちりきっかり定型文で行なわれる。【一年下の文芸部の潮崎哲也。可愛いやつだ。この高校でわたしがいちばん可愛いやつと思っている男子だ。】【沼田耀子はわたしと同学年で、背が高くて美しく、その美しさといったらまるで悪魔みたいで、この高校でいちばん可愛いのはビアンカ北町だが、いちばん美しいのは沼田耀子だと言われたるするくらいの美しさなのだ。】これが三回四回と繰り返される。

 たいてい続巻が出るとされるライトノベルで、巻数を重ねることで規定されるキャラクター性が、『ビアンカ・オーバースタディ』ではたった一冊190ページあまりで固められてしまう。分かることは少ないが、逆に言えば定型から大きく外れなければ潮崎哲也は潮崎哲也で、沼田耀子は沼田耀子になってしまう。同じように【見られている。 でも、気がつかないふりをしていよう。】から続く定型で始まれば、たとえ著者が別人でも読者は『ビアンカ・オーバースタディ』の続きか、とまずは解釈するだろう。

 筒井康隆がこの作品でやったことで私が1番すごいと思ったのは、物語を動かすゲーム板と駒の造形を、丁寧かつシンプルに作り込んだことだ。早い話が●が三つくっつけば某ネズミのキャラクターになるように、優れたデザインは簡単に消費者にイメージを固めさせ、余計な描写を必要としなくなる。発刊ペースの早いライトノベルで、大量生産のききやすい定型の作成は、生産力に直結してくる。
 誰かが本当に(続編を)書いてしまえそう、それはSF小説の大家がみせた物語作りの神髄の一つだったと私は思う。


(高井舞香を支持)

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2013.07.08

銅

キヨミズ准教授の法学入門

ルールに流されないために

レビュアー:ticheese Warrior

 『キヨミズ准教授の法学入門』は刑法や民法、独占禁止法や著作権法などの世の法律を要点を絞って教えてくれる本ではありません。もっと抽象的に法の概念や法解釈の方法などから、法律の使い方や考え方を身につけさせてくれる本です。
 私は法律家でも法律家志望でもなく、これから裁判に出たりで法律に直接触れる機会などないという人でも、この本は読んで損にはなりません。法律とは単純にルールと言い換えても構わないのです。本の中でキヨミズ准教授が高校の文化祭実行委員会規約について学生たちと話し合ったように、私たちの身の回りにある職場や地域のルール、または参加するゲームのルールを使いこなし、ルールについて考えられる力を身につけられれば、必ずどこかで立つはずです。

 ではせっかくだから実践してみましょう。私も『キヨミズ准教授の法学入門』で得たルールについての考え方を、とあるゲームのルールに照らし合わせて使ってみます。

 そのゲームは、『さやわかの星海社レビュアー騎士団(以下SywkSRK)』です。

 一応説明をしましょう。『SywkSRK』とは、刊行物をはじめウェブサイトに掲載されたあらゆる作品、イベントや店頭販促物を含む星海社のすべての活動についてのレビューを、読者閲覧者参加者利用者(総じて消費者)たちが書いて送るコーナーです。レビューの質に応じて得点がもらえ、その合計いかんでは褒賞がもらえます。
 この説明文は『SywkSRK』のルールを記載するページから、ちょいとまとめたものです。法学的に考えるなら「法源」、しっかり明記された権威的存在で、ルールの源です。まずこの説明文を第一に考えねばなりません。
 さてこのルールを考える上で、一つの問題が発生しました。星海社から刊行された小説『マージナル・オペレーション(以下マジオペ)』がコミカライズされたのです。めでたいですね。ただ、そのコミカライズが掲載された先は月刊アフタヌーン。講談社から発行されている雑誌です。果たして『マジオペ』のコミカライズは星海社の活動に含まれるのか? レビューを書いて『SywkSRK』に送ってもいいのか? 
 とりあえずは星海社編集の平林さんの見解を答えとしましょう。平林「原作と絡めて書くならOK」つまりコミカライズ単体のレビューでは『SywkSRK』のルールに反するようです。直感に頼らず、ルールに照らし合わせて判断するこの方法を「法的三段論法」といいます。
 しかしさらにこの問題、考える余地が発生します。しばらく経って『マジオペ』のコミカライズ第一話が、星海社のウェブサイト『最前線』に掲載されたのです。「法源」には「ウェブサイトに掲載された作品はレビューの対象」とあります。さてどうなのでしょう? これはまだ平林さんに答えてもらってはいません。訊ねればすぐ答えてくれるかもしれませんが、それではあまりに芸がないので法学的にルールを検証してみましょう。
 平林さんがOKを出すにしろNOを出すにしろ、この問題には「法解釈」が絡んできます。「法解釈」とは法律の文章をどう読み解くか考えることです。ルールの「法源」では「ウェブサイトに掲載された作品」とありますが、『マジオペ』のコミカライズは果たして「作品」なのでしょうか? 『最前線』は星海社の作品の全文掲載を旨としています。第一話だけ掲載された『マジオペ』のコミカライズは「作品」ではなく、「宣伝」なのではないでしょうか。
 かつて『最前線』では『最前線セレクションズ』というコーナーがありました。星海社の編集者や作家がおすすめの本や映画などを紹介するコーナーです。中には『ドグラ・マグラ』などの昔の名作小説なども紹介されましたが、『ドグラ・マグラ』はまず間違いなく星海社の刊行物ではないでしょう。これはあくまで「宣伝」であって、紹介文を「(星海社の)作品」とすることはできても、『ドグラ・マグラ』自体を「(星海社の)作品」とすることは出来ません。
 同じように、『マジオペ』のコミカライズも月刊アフタヌーンに掲載されている作品の「宣伝」だと解釈することで、『SywkSRK』のレビュー対象とはならなくなります。
 逆にこれを、いや第一話が全部掲載されたのなら、それは「宣伝」ではなく「作品」の掲載だと言えるかもしれません。全文掲載を旨とする『最前線』も以前に『ビアンカ・オーバースタディ(以下ビアンカ)』で第一話とあとがきのみの掲載をやっている。『ビアンカ』は星海社の「作品」としてレビュー対象になっているじゃないか。過去の「法解釈」を引き合いに出し、良い「法解釈」を探すのも法学の考え方です。
 このように考えに考えてみても結局私では答えは出せないのですが、いざ平林さんに訊いてみる際に、ただ単に答えを待つのではなく、自らの「法解釈」を交えて話せば、何かが変わる可能性があるのかもしれません。変わらなくても法学的に考えて答えが明白なら、わざわざ質問する手間も省けるというものです。

 『キヨミズ准教授の法学入門』が教えてくれるのは、私たちが法律やあらゆるルールに流されず、むしろ逆に利用する発想とそのための思考法でした。

 最後にちょっとだけ蛇足を失礼。『SywkSRK』の『第三回騎士號争奪戦二代目姫決定戦』が第四場をもって終結だそうですが、「法源」では騎士號争奪戦の終了の条件は全十二場が完了するか、三人以上が騎士の称号を持つ状態になる、とあります。『二代目姫決定戦』は特別であるなんて明記されてはいないのですが、これは「法源」の導き方の一つ、「慣習」からきているものでしょうか。あくまで『SywkSRK』は星海社の企画なので、ルールの改変は勝手に行えるとする「慣習」。「近代法」の考え方を思うとちょっと悔しいので、今後はしっかり明記してほしいものです。


(高井舞香を支持)

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2013.07.08


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