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レビュアー「大和」のレビュー

銅

うーさーのその日暮らし

おんなのこかわいい

レビュアー:大和 Novice

 2000年台初期に勃興したテキストサイト時代の雄であるうーさーがこうして最前線に登場していることに想いを馳せた文章を書こうと思ったのだがそんなことより相方の少女がかわいい。リアクションがいちいち可愛らしいし、普段つけている髪留めを自宅ではちゃんと外していたりする細やかさがいかにも女の子っぽくてキュンと来るし、とにかくふじのきともこの絵柄がキュートでたまらんのである。

 しかし真面目な話この女の子の存在は重要で、単純に女の子がいるだけで画面が華やかだよね、という点もあるのだけど、重要なのはうーさーに対する微妙な距離感である。うーさーに合わせている時もあれば、「そうかなぁ……」と疑問を呈していることもあるし、うーさーを無視してご飯を食べていることもある。つまり女の子はうーさーの言葉を相対化する役割を果たしている。僕らはうーさーの言葉を直接受け取っているのではなく、うーさーの言葉は一度他者に預けられた上で、イラストとなってから僕らに届いている。そうした変換作業が、うーさーの言葉にテキスト以上の奥行きを与えているように思う。あ、これ「1コマ漫画化されてるよ!」って言ってるだけじゃん。ヤべー。アホか。でも個人的には「漫画化されたこと」より「視点によって相対化されていること」が重要なんじゃないかなーって気がするよ。

 つまりここでは「坂本真綾が朗読することで小説とは違った新たなコンテンツと化す」みたいな変換作業が行われていて、つまりうーさーのその日暮らしのライバルは星海社朗読館であり、うーさースゲェ!!!となるのだが、でも女の子が可愛いのでいつも近くにいれるうーさーはマジ許さん。許さん。許さん。

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2011.12.20

銅

面接ではウソをつけ

「面接ではウソをつけ」という物語

レビュアー:大和 Novice

“星海社新書の目的は、戦うことを選んだ次世代の仲間たちに「武器としての教養」をくばることです”という文章が星海社新書のレーベル紹介文に載っていて、その考え方自体は諸手を上げて賛同する。のだけど、しかし困ったことに、星海社新書を次々と読んでたら、なんだか食傷気味になってきた。

 現代においてはあらゆるコンテンツは消費されるスピードが早く、終身雇用は崩壊しはじめ、もはや以前までに共有されていた人生のロールモデルは通用せず、(少なくともそういった危機感が世の中には確実に芽生えていて、)そういう流動性の高い社会に対応するには、あらゆる状況で通用するような汎用性のある意思決定の技術、態度、思考法、といったものが重要になってくるので皆さん習得しましょう――というのが、星海社新書が掲げている話なのだと思う。

 だがそういう話になると、どうにも「慣例に流されず自分の頭で考えましょう」「物事の本質に目を向けましょう」といった、態度や心構えに辿りつく話になってしまう。無論それぞれ違う題材やテクニックによって調理されているのだけど、最終的には同じようなテーマやメッセージに辿りついてしまうため、一見して全然違う料理だけど実は全部卵料理なんです!ジャジャーン!みたいな感じがしてしまい、もう卵飽きたよ、という気分になっている。無論、読書体験や読み方は人それぞれなので、それは単に僕の読書スタイルが噛み合ってないという話でしかない。だが正直なところ、段々と食指が動かなくなっている。うーん、困った。

 そして本書も正しく星海社新書のコンセプトを貫いているのだが、これが思いのほか、読んでいて「楽しい」本だったので驚いた。本書は就職活動、とりわけ面接に焦点をあてた本だ。著者は面接と営業は似ていると語り、営業マンとしての経験をベースに、面接を突破するにはどうするべきかを説いていく。しかしマニュアル的に攻略法を語っていく本ではない。

 「この本は弱者のための本です」という言葉を著者は繰り返すのだが、それはまさに著者自身も「弱者」であった経験から来ている。著者はかつて7年もの間、成績が悪くてクビ寸前の営業マンとして過ごしていた。しかし自身の営業方法が間違っていたことに気づき、アプローチを変えてみたところ、4年連続でトップの営業マンとして活躍することになる。

 その経験が本書では生かされている。著者はまず営業マンとしての困難――間違いや勘違いを提示し、それがある「気付き」をきっかけに改善し、成功へと辿りついたプロセスを語る。それはまるで読者が著者の「気付き」を追体験していくかのようだ。そうした「気付き」の体験が次々とテンポよく語られていく様は実に痛快で小気味良い。つまるところ、僕にとって本書は、かつて営業マンとして挫折と成功を味わった男が就職活動や面接の世界に挑んで行く物語であり、エンタテインメントなのである。

 恐らくそれは面白さを追求した結果ではなく、やはり著者の営業マンとしての経験が導いてみせたのだろう。著者が営業・面接のコツとして何度も語るのは「相手の立場で考える」ということだ。本書そのものにおいても著者は相手=読者の立場になるということを徹底し、自身の経験やメッセージを読者が分かりやすく理解できるように、そうした体験談のリズムを用いている。まるで著者が得た極意を惜しみなく凝縮したかのような一冊だ。だから本書は必ずしも面接を控えた人々だけを射程に捉えたものではなく、万人が読める/読むことで何かを得られる本になっているし、僕も自信をもって薦めることができる。

 新書として、エンタメとして、本書の門戸は大きく開かれている。こんな風に、楽しい読書体験を与えてくれる本を、星海社新書はたくさん作ってほしい。

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2011.12.20

銀

iKILL2.0

倫理的な痛み

レビュアー:大和 Novice

 やはり僕にとって、『iKILL』とは学校で授業を受けているような気分にさせられる作品なのだ。こんな授業をしたらPTAから苦情が来ると思うけど。なんせ『iKILL』シリーズには残酷で凄惨な描写がこれでもかってくらい盛りだくさんだ。例えば死体をバラバラに解体してく様子をじっくりと徹底的に描写したり、死んでしまった方がマシに思えるような壮絶で痛々しい拷問を描いたりする。そうした文章を前に、痛くて怖くて読んでいられない、と述べる人も少なくない。

 確かに『iKILL』の描写は惨たらしくて、僕自身、読んでいて息苦しくなることもある。だが『iKILL』という作品における「痛さ」は、例えば映画『ホステル』や『SAW』といった作品たちとは違い、必ずしも快楽やスリルやサスペンスといったエンタメ性の強化に奉仕していたりはしない。もちろん、そうした機能も皆無ではないのだが、本作における「痛さ」は、エンタメ的な機能を一度は担うものの、最終的にはむしろ、それらを楽しんでいた読者を糾弾することにこそ収束していく。

 それは前作『iKILL』から見られた傾向だが、本作『iKILL2.0』ではより顕著になっている。簡単に言えば、本作では読者が作品を読み進めることそのものが殺人を引き起こす、という構造を取っている。つまり読者に殺人者としての罪が与えられてしまうのだ。作者は凄惨で残酷な描写を積み上げていき、やがて最後には物語を楽しんでいた読者こそが糾弾され、積み上げられてきた全ては読者の罪へと還元される。

 そうした構造を見た時、僕は本作における痛々しくて非倫理的な描写の数々は、むしろ作者が持つ倫理意識の強さを裏付けるものに思えてしまうのだ。例えばサスペンス/ミステリー/スリラー/スプラッターといったジャンルでは多くの人々が呆気なく死んでいくことも少なくないが、『iKILL』にはそうやって倫理を度外視して快楽性を追求することを善しとしないような、どこか厳格でストイックな姿勢を感じてしまう。

 作品のテーマ/メッセージを最大限に表現するため、作者は痛々しい描写を徹底的に書き上げてみせる。そこに僕は、やはり倫理意識の強さ、作者が貫かんとしている信念、みたいなものを感じてしまうわけで、そうした態度からして僕は「厳格な教師みたいだなぁ」などと思ってしまうのだ。だが作品には堅苦しさや厳格さを通り越して、使命感に突き動かされて書いたのではないかと思わされるほどの圧倒的な凄みがある。そんな作品を作ってみせる作者を僕は信頼しているし、カッコいいと思うし、こんな先生の授業ならいくらでも受けたいな、と思うのである。

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2011.12.20

銅

金の瞳と鉄の剣 第一回

いくらなんでも悪すぎる!

レビュアー:大和 Novice

『キアは苦笑して、どこか遠い彼方へと視線を投げる。
 その瞳に何が映るのか、タウは知りようがない。だがそれでも彼は信じている。二人は同じ物を見つめ、同じ夢を見て、いつか同じ場所に辿り着くのだと。』

「最新&最高のバディものがここに!」というキャッチコピーが示すように、『金の瞳と鉄の剣』という作品は、二人の主人公――タウとキアの関係が大きな魅力の一つだ。二人は強固な絆で結ばれた相棒同士として描かれている。例えば竜と戦う時の連携では「お互いにタイミングは万全に心得ている」し、冒頭で引用した文章もタウのキアに対する強い信頼を表している。時には「もうどれだけ長い付き合いだと思っているんだか」なんてモノローグが飛び出すくらいだから、第一回の時点で既に、二人は相当な場数を共に駆け抜けたパートナーとして関係を確立しているのだろう。

 ところで、エンタテインメントの作家に対して「意地が悪い」という言葉は時折称賛の意味として使われる。読者の予想をしっかり裏切れている、ということだからだ。その前提を踏まえて言うけれど――この作品は、あまりにも意地が悪い。

 そう、この作品はとことん意地が悪いのだ。『金の瞳と鉄の剣』というタイトルをつけておきながら「剣は論外」なんて言うし、高河ゆんの華麗なイラストが置かれながら中身は地べたを這いずる傭兵稼業だし、「ファンタジーの王道中の王道」と言いながら遠大な世界観も数奇な運命も出てこない。

 何より意地が悪いと思ったのは、タウとキアの関係だ。

 この作品は二人の絆がいかに強いか、繰り返し繰り返し描いてみせるけど――その実、ひどく危うい関係であることが、第一話において既に示唆されている。例えば第一話の中ほどに、こんなシーンがある。

『(…)かろうじて輪郭として見て取れるのは、薄くぼやけた遠い山々の稜線だ。
 (…)不意打ちも同然に訪れた歓喜で、タウの魂は打ち震えた。
 (…)タウにとって、そこは未知の異境だった。
 今日この日までタウが見届け、経験してきた諸相だけが、決して世界の全てではない。未だ見ぬ驚異が、神秘が、何処かに待ち受けているのだという想い――それこそがタウを旅に駆り立てる理由の全てだ。』

 この描写からタウが非日常的な感動――いわば「リアル」の対義語としての「ファンタジー」を求めていることが分かる。ここで二人は「しばらく座り込んだまま、時を忘れて目の前の雄大な美観に見入」るのだけど、このシーンの構図はまさに二人の関係性を表すメタファーとなっている。この後キアは引き返すことを提案するも、タウはそれを却下して二人は山頂へ向かう。つまり二人が座り込んでいたのは「上る」ことも「下りる」こともできる場所なのだ。

 これは、二人がどちらにも振り切っていない、曖昧な立ち位置にいるからこそ成立している関係だということを示している。「上る」ことは「竜と出会う」行為であり、「竜殺し」の称号を得るための行為であり、すなわちタウが理想とする方向へと向かう道だ。だが実際に竜と遭遇してどうなったか。想定外の強さにタウは絶望し、死ぬことすら覚悟したが、キアは想定内だと言わんばかりに「ここに来たがっていたのは僕の方なんだ」と告げ、歓喜の笑みすら浮かべてみせる。キアは竜に勝って見せるが、それが当然の結果であるかのように戦闘シーンは描かれない。

 つまり、「上る」ことで出会うモノは、タウにとっては圧倒的なファンタジーであり、キアにとっては圧倒的なリアルなのだ。逆に言えば、「下りる」方向はタウにとってのリアルであり、キアにとってのファンタジーだと言える。キアは「来たがっていたのは僕の方」と言ったが、それはタウと同じファンタジーを欲しているからではなく、むしろ自分が竜と同列の存在であることを再確認するための行為だった。キアは自分を、人の形をしたバケモノみたいな存在だと思っていて、タウが「上る」ような行為によって何かを得るほど、キアは自分が「下りる」道から程遠い、山頂にいる竜のような異形の存在であることを自覚させられてしまう。

 だが厄介なのは、タウはキアを想うからこそ山頂に向かっている、という点だ。このすれ違いは二人が初めて出会った頃から決定的だった。

『血みどろの戦場の光景がどんなに凄惨であれ、人の世の欲望と裏切りがどれほど卑劣で非情であれ、ただそれだけで絶望するには及ばない。かつて、この世界はただそれだけの場所ではないと知ったとき、タウの人生は新しい意味を得た。その理解をもたらした友が傍らにいればこそ、今のタウが在るのだ。』

 リアルに打ちのめされていたタウはキアにファンタジーを見て、リアルに打ちのめされていたキアはタウにファンタジーを見た。それを拠り所に、相手に尽くすようにして二人は生きてきた。だが――否、だからこそ、二人の考える「リアル」と「ファンタジー」は完全に真逆なのだ。相手と出会えたからこそ生きる希望が持てた、ということが、求めるモノが違うことのそのまま裏返しとなっているのだ。例えばタウが竜の角を欲したのも、結局はキアに「タウが想うファンタジー」を見せたいがためだった。二人が行く道の選択はタウが主導権を握っていて、二人がタウの望む「ファンタジー」へ向かうことはほとんど宿命付けられていると言っていい。

 そして第一回は竜の角を得ることで終わる。それは二人が山頂へと向かって上り始めたことを暗示している。それはタウが望む道であり、キアが望まない道だ。そのまま進めば、求める道がそれぞれ違うという事実に二人は直面してしまうだろう。「最新&最高のバディもの」でありながら、虚淵玄は第一回で二人の関係が瓦解するきっかけを描いてしまった。

 なんて、意地悪なのだろう。

 きっと意地悪な虚淵玄のことだから、この作品は「最新&最高のバディもの」を謳いながら、二人が決定的に道を異にする瞬間を描かずにはいられないと思う。そんな時、虚淵玄はどんな関係を、どんな結末を二人に与えるのだろう? 僕は今から、楽しみで仕方がない。


 さて、ここでもう一度、冒頭で引用した本文を読んでほしい。
 そこにどんな意味が含まれているか。判断は各々に任せよう。

 でも僕が思うに、やっぱり、この文章は――いくらなんでも、意地が悪すぎる。

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2011.12.20


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