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読者レビュー

銀

「マージナル・オペレーション」02

パパな、民間軍事会社で食っていこうと思うんだ。

レビュアー:オペラに吠えろ。 Lord

 人は、どのように<大人>になるのだろう。そして、<大人>になるというのはどういうことなのだろう。今の日本では、二十歳になったからといって「はい、今日からあなたは<大人>ですよ」と言い渡されるわけではない。いろいろな権利が認められるといっても普通自動車免許は十八歳から、そして選挙権は二十歳からと少し幅がある。たぶん、社会的にもう<子ども>ではないとみなされることによって、<子ども>ではない=<大人>なんだ、と思うのではないだろうか。

 「マージナル・オペレーション」では、主人公アラタが<子ども>から<大人>へと成長する過程が描かれている。第1巻ではニート、つまり社会的に<大人>と認められにくい立場だったアラタが民間軍事会社に就職し、中央アジアで本物の戦争を経験することによって、社会的に認められていく=<大人>になっていく話だった。

 第2巻では、中央アジアの戦いを経たアラタが、24人の子どもたちと共に1年ぶりに日本に帰ってくる。戦争と隣り合った世界しか知らない子どもたちに、平和な日本を見せることが大きな目的だ。作中で使われている言葉を拝借するのならば、修学旅行。アラタはさしずめ引率の先生といったところで、彼は<大人>として振る舞うことを自らに課しているともいえるだろう。それは、アラタにジブリールという子どもの言動に悩んだときに「思春期」という言葉で自らを納得させようとするところや、そのために教育関係の本を読むと決意するくだりにも表れている。まるで、新米パパの奮闘記のようなのだ。種を明かせば、ジブリールはアラタに恋愛感情を抱いていて、だからアラタが他の女性と仲良くしているのが許せないだけなのだけれど……。

 そういった展開は、言ってしまえばコメディーだ。でも「子ども/大人」という観点からみると、アラタは<子ども>を<子ども>として扱うことによって、自分が<大人>であるということを自分に証明しようとしているようにも思える。もっと言ってしまえば、アラタは自身が<大人>でいるために、<子ども>に<子ども>でいることを強いているようにも思えるのだ。もちろん、日本の基準からすれば、ジブリールをはじめ、登場する子どもたちはまだまだ<子ども>だ。いくら戦闘能力に秀でていても、彼らは社会的に<大人>として認められていない。だから、ジブリールがアラタに認めてもらおうと<大人>ぶるあたりは微笑ましくもあるし、そういう意味ではアラタの認識が絶対的に間違っているわけではない。けれど、<子ども>であること、そして<大人>であることに絶対的な答えがあるわけではないし、白黒はっきり付けられる問題でもない。

 人は自然に<子ども>から<大人>になることを求められる。第1巻のアラタがそうだったように、子どもたちが<子ども>のままでは過酷な環境を生きていけなかったように。それでも、完全に<子ども><大人>と線引きできるわけではなく、<子ども>っぽい<大人>もいれば、<大人>っぽい<子ども>もいる。現段階では、アラタはまだ、自分を<大人>という鋳型に、子どもを<子ども>という鋳型に押し込めようとするきらいがあるように思える。そこのところを、今後の展開でどのような落としどころを見つけていくのか。続刊がますます楽しみになってきた。

2013.07.08

さくら
たくさんの子供たちを抱える新米パパのアラタ…戦い以外の彼らの一面。想像するだけで心が和みます。でも子供っていつか親離れする時がくるんですよね。好きな作品なだけにいつまでもジブリールたちには子供でいて欲しいです。
さやわか
話として成り立っているようで、成り立っていないようで、でも成り立っているという、不思議なレビューです。変わってるなあ……。このレビュー、おそらく書き手はちゃんと理解して書いているのだと思います。だから慎重に書き手の考えていることを追いながら読むと理解できる。そこには書き手の真剣さと熱意を感じました。だから「銀」にしております。でも、たぶん多くの読者はそんなことしないと思います。つまりたぶん、わかりにくいと感じると思います。なぜわかりにくいかというと、やはり<大人><子ども>という言葉が混交しているせいなのでしょうね。しかも<子ども>を<子ども>として扱うとか、しかも<大人>っぽい<子ども>とか、<子ども>っぽい<大人>とか、自分を<大人>という鋳型に、子どもを<子ども>という鋳型に押し込めようとするとか、関係が複雑になりすぎているように思います。内容は成り立っているので「銀」としましたが、このへんはちょっと整理してみるといいのではないでしょうか!

本文はここまでです。