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読者レビュー

銅

夜跳ぶジャンクガール

世界は狂っている、僕は生きている

レビュアー:横浜県 Adept

この作品に出てくるやつらはみんな狂っている

主人公の「僕」は、幼馴染・楓の首を絞めたい衝動に駆られる
楓は少女たちの自殺をネットで中継し、やがて自らも死を選ぶ
クラスメイトの足立は、その自殺中継に心酔する
後輩は死にかけた思い人に、最後のとどめをさす
「僕」の惚れこんだ美月は、眼球を舐め合う性癖をもち、非日常と死を望んでいる

世の中みんなが、こんなやつらだったら、どうかしている
でもこの作品では、確かに誰もが狂っている
もしかしたら、僕が気づいていないだけで、現実だって、似たようなものなのかもしれない

楓の葬式
彼女の母親は、とつぜん「僕」に殴りかかる
彼女の父親は、「出てってくれ!」と「僕」に叫ぶ
「僕」の存在が、彼の首絞めが、楓を死に追いやったのは事実だ
でも彼が「なに僕のせいみたいな遺言残してんだよ!」と怒鳴るとおり、命を絶ったのは彼女自身の責任だ
なにひとつ相談しなかったのも、自殺中継なんて犯罪を始めてしまったのも、最終的に悪いのは楓その人である
それでも彼女の両親は、「僕」を殴らずには、追い出さずにはいられなかった
この時点において狂っているのは、間違いなく両親だ
パトスを抑えられない両親だ
「僕」が理不尽だと感じるのは当たり前だ

本当は異常であるはずの「僕」が、むしろ正常である
ただの一般人だった楓の両親が、理性を失っている
だとしたら、僕だって狂ってしまうかもしれない
いまは普通に毎日を送っている僕だって、ふと何かの拍子に、たがが外れてしまうかもしれない
誰だって人間、みな心のどこかが狂っているんだ
作中のこいつらは、中二病よろしく、その異常な部分をこじらせてしまっているだけなんだ

では僕や「僕」は、一体なにを信じたらよいのだろう
もはや理性など、ブレーキの役目を果たしてはくれない
答えは、自分がいまここに生きている、ということ
自分や周りがどれだけ狂っていようと、自らが生きているその事実は変わらない
楓は死んだ、「僕」は生きている
楓の死が、「僕」の生を際立たせている
彼女の存在を意識しているからこそ、「僕」は愛する「美月と白目を舐めあう。痛くても幸せそうに、見せつけるように」
彼はこの先、日常の狂った一面と向きあおうとも、間違いなくそれを越えてみせられる
自分がいまここに生きている、そんな心の拠りどころとしての実感が、彼にはあるのだから

そして僕だって彼のように、もし自らの生を自覚できたならば、それはどれだけ心強いことか
けれど対比しうる誰かの死なんて、現実に望みたいものではない
だから僕はフィクションの中に、『夜跳ぶジャンクガール』の中に楓の死をみた
「僕」と同じように僕は、「僕」と僕は、生きている、そう思った

2012.01.30

さやわか
うーん、うまくまとまっているところと、そうでないところが交互に現れるというような印象でしょうかな。たとえば「この作品に出てくるやつらはみんな狂っている」という書き出しはショッキングでいいのですが、本当にみんな狂っているのであれば、そもそも正常/異常という区別自体が成り立たないので、「本当は異常であるはずの「僕」が、むしろ正常である」という言い方はできないということになってしまうと思います。つまり狂った人たちが、めいめい狂ったことをやっている、ということになる。若干ややこしいかもしれませんけど、わかりますでしょうか? それから「自分がいまここに生きている、ということ」が確かなことであるというのはいいのですが、その前にある「では僕や「僕」は、一体なにを信じたらよいのだろう」という接続はやや唐突に見えます。これは「正常/異常」についての話だったのですが、なぜ信じられるものとか、確かなものについての議論になるのでしょうか。想像なので違ったら申し訳ないですが、「これを書きたい!」というフレーズ単位のアイデアがいろいろ出された結果、それらを全体としてどう構成するかというのにちょっと考える余地を残してしまったという感じに見えます。ここでは「銅」にさせていただきます!

本文はここまでです。