ここから本文です。

読者レビュー

銀

「空の境界 the Garden of sinners 「殺人考察(前)」第六回」

私はそれを認めざるを得ない

レビュアー:zonby Adept

現在Web上で公開されている「空の境界 the Garden of sinners 「殺人考察(前)」第六回」の十六頁の絵を見て、しばらくそこから次の頁に進むことができなかった。
その絵が、小説を読んで私が想像していた絵面よりも遥に胸に迫る筆致で描かれていたから。

「殺人考察」は黒桐幹也と、二人のシキの関係を巡る物語だ。
一つの身体の中に存在する、両極端な衝動を持つ「式」と「識」。今まで何の齟齬もなく重なり合っていた二つが、黒桐幹也という人間の介入のせいで二重にずれ始め、やがてその齟齬を埋めるために式はあることを実行する。
その結果として画面いっぱいに展開されるのは、黒桐幹也の上に馬乗りになる両儀式の図。
彼女の普段着である着物と髪はしとどに濡れ、雫を滴らせている。それに紛れて涙を零す瞳に光はなく、どこか遠くを見つめているように焦点は結ばれていない。その表情は、何かに諦観しているようにも見えるしまたどこか安堵しているようにも見える。自嘲しているようにさえ見える。背に重く垂れ篭める雨を、そして仄かな光をまといながら、式は言う。

「私はおまえを犯(ころ)したい」

告白のようだと思った。
式と識、二人分の。
けれど、「告白」と言うにはあまりに式の表情が、複雑な色味を帯びている気が私はする。
そう。
「告白」というより、それは「告解」に近い表情。
自分の欲望を吐露することで全てを終わりにしたい、というような。目の前の人間―黒桐幹也―に対する最後通牒であると同時の懺悔のような。受け入れられること、許されることなどないと思いつつ、口にせねばならなかった「告解」。
十六頁の絵は、たった一枚の絵。一つの台詞で私にここまで想起させる力があった。

私は原作至上主義者ではないが、無闇で打算的なメディアミックスを嫌う傾向にある。
だから小説としての「空の境界」は読んだが、映像は見ていない。漫画を読んだのは、ネット上でも読めるから、という至極単純な理由からであった。
しかし、私が予想以上の衝撃を受けたことは上記の感想を読んで頂ければわかるだろう。

メディアミックス化において、原作の文章の多くは削られることが多い。いわゆる地の文というものが根こそぎ失くなり、かわりに絵や映像や音楽がそれにとってかわる。常々、私はその過程においてキャラクターの心理描写が希薄になることに不満を感じていた人間だ。
だが今回の絵の一見で、私はその意見を翻さざるを得なくなった。
小説には小説でしか感じとることのできないものがあるのは知っている。そして今回、漫画では漫画なりに小説からは感じることのできない、否、文字だけでは感じることのなかった質感や感情を感じ取れることを知ってしまったのだから。

漫画には漫画の力がある。
それは時に、小説で感じた印象をも遥に凌ぐ時がある。
私はそれを認めざるを得ない。

それを我が身の体験として知ったことを、私は微塵も後悔しない。

2011.09.08

さやわか
このレビューはいいですね。というのも、「十六頁の絵を見て」というところからまず書かれているのがよいです。これだけ具体的に言われると、「どれどれ」と言ってその絵を見たくなります。というか見ました。すると、なるほどその後のzonbyさんの説がわかるのですね。たしかにあの表情は何とも言えない魅力がある。そこに書き手は気づいて、それをレビューに書こうと思った、その洞察力を作品から確認できるのはよいです。文章には細かな同語反復なんかがあって、少し客観的な目で推敲した方がいいかもしれません。ですが内容はよかったです。「銀」とさせてください。

本文はここまでです。