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レビュアー「またれよ」のレビュー

銅

望みを待つもの掴むもの(『幸福論 西川聖蘭第一作品集』)

もう答えてくれることのない

レビュアー:またれよ Novice

雨の日に出会った人殺しの少女は、傘に入れてくれた男を刺して言う。

「自分のためじゃない殺しが存在すると思っているの?」

そして少女は自殺する。命を取りとめた男はそれから雨の日には決まっていつもある場所に行くようになる。その姿は死んでしまった少女を待っているようである。

この物語は何が起こるというわけでもない。
雨の日、傘に入れてあげた少女に刺される。
ただそれだけの話だ。
静かな、動かない物語。それだけに少女の残した言葉が鮮やかに記憶に刻まれる。殺し、とは?
自分のために自分を殺した少女。
殺されることのなかった男。

望みを待つもの掴むもの。
タイトルは最後の項に書かれる。まるでここから物語が始まるかのような。けれどこの先には白紙しかない。
この最終項では男が雨の中、傘をさして佇んでいる。男の中ではまた一項目から物語が繰り返されているのかもしれない。男は少女に再び会い、傘に入れ、刺され、言葉を残され、命を取りとめ、そしてまた雨の中、傘をさしているのか。少女の残した言葉に、問いに、永遠に答えの出ぬまま物語を繰り返していくかのようだ。
なぜ殺すのか。なぜ殺したのか。なぜ死んだのか。答えは出ない。しかしこれは決してその答えを見つけるための物語ではない。生きること死ぬこと、それをただ目の前につきつける物語だ。答えてくれないからこそ、自らに問い続けざるをえないのだ。

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2012.05.18

銅

ダンガンロンパ/ゼロ

待て、読むな!

レビュアー:またれよ Novice

『ダンガンロンパ/ゼロ』を読もうとしている人を見たら私はとりあえず全力で阻止したい。そして聞きたい。


ゲームやった?


あ、やったの。クリアした。こいつは失礼。読むなとか言ったのは忘れて下さい、どうぞ心置きなく読んで下さい。

あ、やってない。……え、やってない!? そいつはいけねぇ。ああ本を開いちゃいけない。まだ本棚にしまっておこう。Webで読もうとしてるならブラウザなんて閉じよう。今読んでるレビューは開いたままにしとこう。そしてとりあえずゲームしよう。いやすべきだと思うよぉ、私は。

まず『ダンガンロンパ』というのはPSPのゲームなんだ。知ってたかな。どんなゲームか。様々な分野で超高校生級(たとえば主人公は超高校生級の幸運)と言われる高校生たちがある学校に閉じ込められてしまうのだけど、そこから出るには仲間を殺さなければいけないというルールがある。だけどたとえ殺したとしても学級裁判でその犯行が暴かれると自分自身が殺されてしまう。そういう極限状態の世界。次々と起きる殺人事件を主人公は推理していく。残酷なルール、そして凄惨な描写。だけどこんな絶望の中から必死に希望を見つけ出そうとする主人公の姿に、そしてあくまでも希望を描き出そうとする作者の芯の通った姿勢に深い感動を覚える。で、その「前日譚」に当たるのがこの『ダンガンロンパ/ゼロ』。

なぜ読む前にゲームをやるべきだなどと言うのか。
それは『ダンガンロンパ/ゼロ』の冒頭からこの世界の核心について触れられているから。有り体に言えばネタバレしちゃってるから。
……というのは読んだ人からよく言われているように思うんだけど、私は他にも理由はあるんだ。

『ダンガンロンパ』は極限状態の中での絶望と、そして希望を描く。絶望とは何か。希望とは何か。それがこのシリーズの重要なテーマなんだ。『ダンガンロンパ』は物語の必然性や因果性を自覚的に切り捨ててこの二つのテーマを強烈に提示してきた。シンプルゆえに浮かび上がる絶望と希望の文字。ゲームをやった人はこのテーマに対して何かしらの答えを見つけているんじゃないかな。
だからその上で『ダンガンロンパ/ゼロ』を読んでほしい。小説ではこのテーマが違う切り口で提示される。特に希望は、ゲームで出したはずの答えが揺らぐ。また問われるんだよ。絶望とは何か。希望とは何か。その境界で読者は悩むだろう。自分たちが絶望と思っていたものは希望で、希望と思っていたものは絶望となる。この二つの言葉に騙される。世界がひっくり返ってしまいそうな困惑。一度ゲームで希望を知ったからこそ、小説でまた疑いをもつ。絶望・希望と二項対立で簡単に言ってしまうけれども、その言葉はあまりにも頼りない。私にとっての希望と君にとっての希望は違うんじゃないかな。

『ダンガンロンパ』と『ダンガンロンパ/ゼロ』は媒体が異なるっていうのも大きなポイントなんだ。前者はゲーム。自らキャラクターを動かし、選択肢を選び、推理する。プレイヤーが操作することで物語は進む。そう言った意味でプレイヤーと物語の時間は同期している。つまりリアルタイムで物語が進行する。未来へ進んでいくんだ。
ところが後者の『ゼロ』は小説だ。ゲームで動かせたはずのキャラクターは自分で操作できない。ページをめくる、あるいはwebなら画面をスクロールすることで物語を進めることはできる。しかしそれは殺人事件と学級裁判が起きる『ダンガンロンパ』の時間から遡った、過去をなぞる行為でしかなくなる。プレイヤーだった読者は知っているんだ。この『ゼロ』の「前日譚」からあのゲームの絶望的な世界に向かってしまうということを。自分では操作できない過去。眺めることしかできない、動かすことのできない過去。これはゲームをやってしまったからこそ味わえる絶望なんだ。

まずは絶望と希望をプレイしてみてほしい。そして今度は読んでみてほしい。君にとって絶望とはなんだろう。希望とはなんだろう。

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2012.04.23

銀

竹画廊画集 2010-2011

画集版竹画廊探訪

レビュアー:またれよ Novice

星海社という出版社の、「最前線」というwebサイトに「竹画廊」なるデジタル画廊がある。名前の通り竹が筆を執り、その絵がサイトに投稿される。ときにUstreamでお絵描き配信などもあり、訪れる人々とともに作品が創られていく。この度その作品たちが集められ、画集となったとのこと。どのようなものかしらん。

さて件の画集。店頭をうろつき探し見つけ出したところなにやら長い。縦に細長い。表紙を見るところ、竹の描く人物その他が所狭しと描かれているようだ。シュリンクに入っているので中を見ることはかなわない。ふむ。ひとまず購入する。
家に帰る。
おもむろにシュリンクをやぶき始める。シュリンクなどと格好をつけても所詮はビニールの袋である。なにするものぞ。

やぶれた。

ハラリと画集の表紙から落ちる紙。はて。
どうやら帯だったらしい。本の帯。表紙のデザインかと思っていたが違った。それが落ちた。帯。果たして帯。本に巻き付けられているというより載せられている。よろしき加減の和菓子などについているのし紙のような。ああ、CDの帯と言えばわかりよいか。至極納得。自力でCDケースにくっついていられない儚げな趣。あの子らも帯であった。なるほど、いつもの本と勝手が違う。
さあ表紙が現れた。描かれているらしかったものは確かに描かれていた。人物動物何者とも知れぬ何かたちが愉快げに戯れている。縦長表紙の下方には「竹画廊画集2010-2011」と小さく。なるほどこれはカンバスであるらしい。一年の凝縮の先にこの表紙がある。生きものたちに埋め尽くされた表紙のその隙間に、最初は真っ白かったろうカンバスの片鱗がわずかに覗く。既にその一年は一年間となってまとめられている。これが画廊の入口か。
中は。さっそく覗こう。めくる。おや。縦にめくれる。横開きではなかった。大福帳が頭に浮かぶ。ぺらぺらぺら。ふむ、日めくりカレンダーと言えばわかりよいか。光陰如矢。めくる。イラストがぽんぽんと置かれている。ぱらぱらぱら。めくるめくる。めくるとすると日も巡る。縦長のカンバス。縦に縦にと伸び続ける。日付とともに上に過ぎ去っていく絵。画集を見開くと上は過去に、下は未来に。縦に流れる時間。webの竹画廊を覗いて真っ先に現れるのは今現在の絵だった。下スクロールは過去に向かっていた。しかしこの画集は逆である。下へ向かえば向かうほど今現在に近づいてくる。
歩みの方向も違えば印象もまた変わる。美術館などで絵などを見る時、近づいてみたり離れてみたり、横からのぞいてみたりなどしてみる、あの感覚。角度。感度。
めくっていると途中で気づく。カンバスの、あるいはページの一番下の絵がなにやら見切れている。はてな。なにかしらの手違いか。さにあらず。さらにめくって次のページ。その絵がしっかりある。見切れていない絵が泰然と構えている。ははあ。見切れていることがすなわち道標なのか。カンバス間に断絶はない。次の日付へ誘われる。未来へとつづき続けているようだ。
流れ、過ぎていく絵。コメント。様々な「その日」があったらしい。ときに見知った絵にも出会う。これはあのとき、あのUstreamで描かれていた絵だ。あんなコメントがあった。あのとき自分はこんなことをしていた。一瞬だけ、その絵に自分が交差する。もしかしたら自分もこの絵を描いたひとりではないだろうか。そんなことも思う。ほんの少し。ささやかに。そしてまた次の絵へ。
そうしていくうちに、いつのまにやら画廊の終点にたどり着いている。はて、いつからこの画廊に迷い込んでいたのか。過去から未来へ歩みを進めていたつもりが、ふと振り返れば、やはりそれは紛れもない過去だった。2010年から2011年へかけての軌跡。最後の絵が「またねー」と手を振る。あんなかわいらしい子に言われてはしようがない。こちらも手を振り返す。

前を向き、画廊を出るとそこは2012年である。ここもまた過去になろう。またね、と言われたのだ。

最前線で『星海社竹画廊』を見る

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2012.03.09

銅

レッドドラゴン

世界を創造する数多の冒険者たち

レビュアー:またれよ Novice

「うわあああ、音楽鳴ってる……なんか映画っぽい……!」

『レッドドラゴン』のプレイヤーの一人はそう言った。
そこに鳴る音楽。それがプレイヤーを、読者を物語の中へ誘う。新しい未知の世界へと旅立たせる。

映画の開幕、無音から音が鳴り出す時のあの静かな興奮。あるいは新作RPGを初める時。オープニングの音楽から、これから始まる冒険へ想いを馳せるあの高揚感。

音楽が鳴る瞬間に現実は背後に退き、眼前に立ち現れるのはまだ見ぬ世界。そこでは作家たちが物語を紡いでいる。選択の先、決断の末に物語が生み出されていく。読者はそれを追っていく。その先に何が起こるのかを想像する。あるいは選ばれなかった世界を夢見る。

例えば、ただぼんやりとその世界に鳴る音楽を聴いているだけでもいい。目の前にある文字はプレイヤーたちが辿った軌跡である。描かれた物語である。しかしその時、他の場所で他の人物は何をしていたのだろう。あの山の向こうには何があるのだろう。この事件の過去には何があったのだろう。くり返し流れ続ける音楽に身を包まれながら、物語を進めることををすこしばかり止めて、想像の世界に浸る。そんなこともできるかもしれない。

物語を繰り広げ、創造していくプレイヤー。その刺激にあてられて、読む方も何かを創りたくなるのかもしれない。それが読者に様々な想像を許すのか。無数の、あったかもしれない世界。これからありうるかもしれない世界。
音楽が鳴っていることに感動したプレイヤー。音楽が鳴りだしたことに惹きこまれた読者。どちらも同じ事を思う、同じ冒険者であるようだ。

この先にどんな世界が広がっているのだろうか。どんな世界に広げることが出来るだろうか。読むことで、世界は創られていく。

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2012.02.18


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