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レビュアー「ややせ」のレビュー

銅

怪談で踊ろう、されどあなたは階段でおどる 竜騎士

学校に必ずあるもの。

レビュアー:ややせ Novice

学校に必ずあるもの。階段と、怪談。

階段とは、説明するまでもなく異なる階へ赴くときに使用する等間隔に作られた段の連なりのことで、この規則正しく積みあがっていく段差はそのまま小学校中学校高校、そしてその中の学年を上がっていく生徒達の課程を表しているかのようだ。
そしてこの中学三年生という、受験という初めてのふるい分けが待っている不安定な時期。ここは階段にたとえるならば、ふわりとターンしなければならない階段の踊り場のような、季節なのだろう。

大きな社会の仕組みをなんとなく感じ取ってはいるけれど、それに飛び込んでいくのはまだ怖い。けれど対抗することもできるはずがない。
主人公の友宏とその友達は、退屈しのぎに全く新しい学校の怪談を創り、広めることを思いついて実行に移す。そして自分達が創った物語が脚色され、付け足され、細部が設定され、面白いように人々が信じ始めるのを目の当たりにする。
自分とはまったく関係のないように出来上がっていた世界が、ほんの些細な嘘で変化していくのだ。それはとてもわくわくすることだろう。
祟りを信じる者、信じない者、参加する者、語る者。同じ時に同じ学校にいて、無関係な人間などそこにはいない。どんなかたちであれ、そのストーリーと設定を知ってしまえば、誰もがその遊びの仲間なのだ。「このゆびとまれ」をした覚えがなくても、皆が共犯者で、共同執筆者の物語の作成。古風にいうなら、交換ノートで作るリレー小説のようなものだ。
小さくて、無数のネットワークを持つようになった物語は完全に滅びることはなく、どこかの、誰かの舌の上で踊り続ける。
それは否応なしに階段を進んでいかねばならない彼らが「いま」に残していく、ささやかな呪いなのではないだろうか。

さて「怪談が」というより、「怖い話が怖い」のはなぜだろうと考えたとき、まず思いつくのは「理屈が通らないから」ではないかということだ。
太陽の下のような、世の理で正しく説明できるような話ならば怪談ではない。
また、真っ暗闇のような、自分ひとりだけしか延々出てこない話も怪談ではない。
そう、たとえば、夕暮れ。蝋燭の明かり。不安定で複数の光源があるときに影が思いもよらない動きをするように、理解不能想像不可能だったことが起こる話が怪談なのではないだろうか。
この小説の一つの光源が友宏達怪談の生みの親だとするならば、その怪談に乗った同級生達、そしてイジメの被害者になった田無美代子もまた、揺れる揺れる不安定な光源だったのだろう。
現実にぴたりと張り付いたお話の影は、いつ、誰の意図でもってつかみかかってくるかわからない時に、怪談となる。
誰もが等しく参加できる物語には、同じように参加している「だれか」が存在する。人を呪わば穴二つ、というが、物語に現実に影響を与えることができるとき、その物語から受ける影響もまた現実的なのだ。

田無美代子は階段から落ちる。
たまたまシャベルが砂に埋まっていて、大怪我をするような高さではないのに大怪我をしてしまう。

  「・・・学校の階段にしちゃ危ないよねぇ。この柵、簡単に越えられちゃうじゃないの?」

この台詞には、びくりとさせられる。
そうなのだ、簡単にフェンスは越えられるし、あまりにも頻繁にシャベルは「たまたま」埋まっている。
ただの子供の遊びであり、どこにでもある学校の怪談だけれど、いつだって柵は簡単に越えられるのだ。試してさえみれば。

だから気をつけなければいけない、とレビューを結ぼうと思ったのだが、考えが変わった。

世界の半分は呪いでできているという。とすると、残りの半分はそうではないということだ。それは希望にしては多すぎる。
大怪我をしても命は助かることは、必然だったのではないだろうか。そして、ちゃんと階段から落ちてくるのを受け止められたのも、必然だったのではないだろうか。
「僕たち」はまっすぐには下校しない。寄り道をする。
けれど必ず帰宅する。そういうのを繰り返して、踏み固めてきた段階を誰もが通ってきた。これからもたくさんの誰かが通っていく。

先へ先へと歩いていくための道と、特別な段にだけ存在する先輩たちの物語という名の置き土産。
それはいつだって半分は呪いで、半分は祝福なのだと思う。
学校に必ずある怪談と階段とは、虚構へ容易に転がり落ちてしまうことと、そこから必ず帰れる結末のことなのだと、私は信じたい。

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2012.04.23

銅

ジスカルド・デッドエンド

ただのファンとして

レビュアー:ややせ Novice

私にも、尊敬して止まないクリエイターがいる。
私の場合、彼への憧れはその人を倣って創造するという方向には向かなかったけれど、ジスカルドにもう夢中になってしまって創作の世界へ飛び込んでいったデイジーの気持ちは、だからとてもよく分かった。
絵や文章を書く人、音楽を作る人、そしてもちろんゲームを組み上げる人。想像と創造を一つにしようと戦っている人にとって、この「ジスカルド・デッドエンド」は単なるファンタシー以上の生々しさで迫ってくるだろう。

デイジーの味方についてくれているジスカルドのゲームのキャラは、確かに相手の心を読んだり身体を意のままに動かすことができたりと、すごい超能力を持っている。
けれど、デイジーを襲ってくる方のキャラ達は、ミサイル飛ばすわ公園は破壊するわの圧倒的な力の差でもって向かってくる。
一見勝ち目のなさそうな戦いを、味方の能力をうまく組み合わせて何とか凌ぐのだが、圧倒的な現実の持つ力に対して、目に見えない想像力がどのように抵抗していくかのメタファーのように思えた。

更に、デイジーやその他のファンにとっては髪にも等しい存在であるジスカルドだが、いついつまでもその座に君臨していられないかもしれないという不安が見え隠れする。
神が神の座にいることに倦んだのか、飽いたのか。
そして、創作を続ける限り、創作者はより良いものを作ろうと高みを目指さなくてはならないものだ。
デイジーが意図しようとしまいと、これは神に対する戦いの比喩でもあったのだと思う。

一つの創作物を愛する集団がそれを護ろうとする戦いと、その創作物をもっと高めようと上を目指す戦い。
仲良く楽しめたらそれでいいという馴れ合いと、もっと楽しいもの素晴らしいものを追いかけようとする探究心。
作り手が感じるジレンマが、葛藤が、悲鳴を上げているかのような内容に、読んでいて辛くなるばかりだった。
友達ならば、「辛いなら辞めたらいいよ」と言うだろう。
けれどファンだったら。「辛いなら辞めてもいいよ」とはどうしたって言えない。辛くてもしんどくても、それでもやれ!もっと高みを目指せ!と言うしかないし、それがファンの矜恃でもあるのだ。

けれど、その結果として、神のように王様のように慕うクリエイターが倒れてしまったら……どうしたらいいのだろう。
作品を愛しているのか、作者を愛しているのか。芸術について語りたいのか、身内の流行について語りたいのか。
どんなもののファンにせよ、そのギリギリのラインの上に立ち、どちらに落ちることもないような(例えば冷静なレビューを書けるような)ファンでいたいと改めて思った。

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2012.04.02

銅

ドッペルゲンガーの恋人 唐辺葉介

二つの手記

レビュアー:ややせ Novice

一般的にドッペルゲンガーは不吉なものだと言われている。
唯一絶対の存在であるはずの自分がもう一人いる。とすると、自ずと価値が半減するかのように思われるし、どうしたってどちらが主でどちらが従なのか考えずにはいられない。
この小説では、ドッペルゲンガーに例えられる存在が、記憶の移植を伴うクローン、肉体と精神両方を備えた複製として現れている。
死んだ恋人・慧の身体をクローンとして甦らせ、元のように暮らすことを望んだ主人公ハジの目論見は、正直甘いように思える。けれど、その甘さを誰が笑うことができるだろうか。

当然のごとく、自分という存在に違和感や疑問を感じるようになっていく慧に対して、ハジの応対はどこか真剣味がない。慧の身体に慧の記憶があるのだから間違いなく君は慧だと言い、環境要因による差異や最初の慧が既に死亡し埋葬されている(一度断絶している)という、慧にとっては自分の誕生に関わる大事を、単なる課程としてしか捉えない。
なぜ、恋人の苦しみが分からないのだろうと、とてもやきもきさせられる。

こうであったかもしれない自分、そして世界。
それを選択し直すことができたとき、登場人物達の価値基準は緩やかにおかしくなっていくかのようだ。
生命倫理の問題は置き去りにされ、誰にでも通じるはずの理が通じなくなり、選択されなかった道を切り捨てていくことによって世界は分割され、どんどん狭く私的になっていく。
それはハジの選んだストーリーであり、ハジが主役の物語だ。
視野は狭く、暗くなる。甘いのではなく、なるようにしてなったそのままを、ただ受け入れているだけなのだ。

そう考えると、苦しむ恋人のためにハジが下した決断とは、自分に都合のいい慧と世界を作り出したことを、そのまま慧にプレゼントし直すことだったのではないか、と思えてくる。
ストーリー上ではハジとクローンは同時に存在しているが、一人称の小説上では同時には存在できない。語り手であることを辞め、視点であることを放棄する。自分を切り捨てられる側の選択肢に置くなんて、これは広義の自殺であるかのようだ。
悪いことをして、人間からどんどん下等な生物に生まれ変わっていって、最終的にはバクテリアになりたいとまで言った作家を思い出す。

確かに、ドッペルゲンガーは不吉なものだった。
それは否応なしにこの世界の単一性を揺るがし、自分の欲求すら不確定なものにしてしまう。
ドッペルゲンガーは確かに私を殺す。互いに互いを食い合う蛇の図像のように、私のドッペルゲンガーの、ドッペルゲンガーが、私であるのかもしれない。

かくして、ハジのクローンと慧のクローンは、望んでいた平穏な暮らしを手に入れました。
めでたしめでたし。
我々はそれを初めて見聞きする物語のように読むだろう。
ただ、そこに切り捨ててきた自分からの記憶の欠落は、本当に無いと言えるだろうか。知らないうちに、ドッペルゲンガーを作り出してはいないだろうか。

そう思うと、じわりと不安に駆られてくる。

最前線で『ドッペルゲンガーの恋人』を読む

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2012.04.02

銅

じじいリテラシー 葉石かおり

毒にも薬にもなるじじい活用法

レビュアー:ややせ Novice

長くなるのは新書とライトノベルのタイトル、といった感が否めない昨今において、この人を食ったような(一部の人をイラっとさせ、一部の人をニヤッとさせるような)タイトルはどうだろう。
『じじいリテラシー』
シンプルすぎて、スカッと爽快ですらある。

リテラシーを「活用する技術」として位置づけ、文字通りいかにじじいを効果的に利用してやるかという本である。
内容にも、「じじい」と「リテラシー」という単語のオンパレード。じじいのタイプ別の分け方や、それぞれの生態、攻略法など、人によっては失敬なと立腹すること甚だしいかもしれない。
だが、人によっては深く頷いてしまう分類なのもまた事実。

けれど、書かれている内容はいたって普通でまともなのだ。
じじいだろうとそうでなかろうと、誰だってこんな人は不愉快だよね、という例があり。
じじいだって人間だもの、こんな振る舞いするときもあるよね、という例があり。
つまりは、じじいという衝撃的な単語を逆手に取り、リテラシーというなんだか最近よく見るわねという単語で飾り付けた、極めてまともで普通な人間関係と仕事について書かれた本なのである。

タイトルとは裏腹に、筆者の文章からはじじいへの何とも言えない愛着のようなものが見え隠れしていて、そんな上手くいけばいいけどね、と思いつつも、脱力してつい笑ってしまった。
ついつい一人で何でも頑張ってしまうのが当たり前な世代にとって、目上の人間を頼る(甘える/利用する/ならう)のは、案外選択肢にないものかもしれない。
そこにあるのが好意であれ義理であれ、
じじいというのは大量に存在しこれからも減ることなど無いのだ。ならば、うまく付き合っていくしかないではないか。

誰だって、新書一冊を読んで職場環境が変わるなどと、真剣に期待などしていない。
けれど、たかが新書一冊、されど新書一冊、でもある。
どんなじじいからも学ぶことができるように、せいぜいこの『じじいリテラシー』を活用させてもらおうじゃないの、と思わされる楽しい本だった。


ジセダイで『じじいリテラシー』を読む

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2012.04.02


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