編集部ブログ作品

2015年8月 5日 23:00

【第5回】角川歴彦とメディアミックスの時代

教育のこと、「黒子のバスケ」脅迫事件のこと。 大塚英志 

〈1〉

角川ドワンゴの持ち株会社の社名がカドカワに変更となり、その一方で川上量生が通信制の高校の構想を明らかにしたことで、コンテンツとプラットフォームの融合という株主向け説明にさえならなかった統合後のビジョンが初めて明確になった。

 出版社としての角川はもはや消滅し、プラットフォーム企業としてのドワンゴも大きく変わるだろう。

 旧社名「カドカワ」が「カドカワ」の「カ」「カ」、「ドワンゴ」の「ド」「ワ」の組み合わせだという説明がもはや方便でしかないのは、角川書店は「カドカワ」の「名」のみ残し、「ドワンゴ」というWEB企業に吸収されたという事実しかそこにはないからだ。経営統合がなければ、出版社としての旧KADOKAWAは経営破綻していたはずだ。類似出版社のM&Aという「同業他社潰し」が目的としか思えない無策の合併の繰り返しによって肥大したKADOKAWAが、この先、単独で存続していけるほどに、この国の出版をめぐる状況は良くないことは誰の目にも明らかだった。ニコ動の会員収入という安定した収益モデルを持つプラットフォーム企業との経営統合と、それを社内的方便とするリストラで旧KADOKAWAは存続が可能になったという事実は誰も公言しないが、指摘しておくべきだろう。旧KADOKAWA内では吸収合併した各出版社の類似部分のレーベルの統合がこの先進むが、それが「効率化」なのかといえばそうではない。KADOKAWA傘下にラノベの多ブランドが存在することで「書店の棚」をグループで寡占できた状況に自ら終止符を打つことになる。吸収合併による寡占化のメリットより短期的収益の改善を目標としているので、合併企業の資産としての編集ノウハウを社員のリストラ、ブランドをレーベル統合という形でそれぞれ捨ててしまっている。ふり返ってみた時、この無策の同業他社の吸収は、M&Aに用いた資金の使い方として適切だったのか、といえば疑問である。統合した出版社の出版コンテンツのアーカイブが資産となる、という「方便」については、大映のアーカイブさえ活かせていない現状を見た時、説得力はない。講談社なら戦前から、秋田書店でも戦後以降の作品で現在も「再使用」に耐え得る古典的作品がライブラリーとしてあるが、KADOKAWAが吸収した出版社のラノベのアーカイブや経済系出版社のビジネスハウツー本に長期的価値があるのかは判断に苦しむところである。

 

 

 旧エンターブレインや「電撃」レーベルが「ブランド」として独立の姿勢を崩さないのは、逆にこの2つのセクションのみはドワンゴの新体制の中にポジショニングされうる価値があるからで、そうでないレーベルは統合によって消滅し、コンテンツ企業としての旧KADOKAWAは縮小に向かっていく、という流れは明快である。それは『少年サンデー』の発行部数が40万部を切った衝撃からも明らかなように、KADOKAWAに限らない問題で、例えば、講談社と集英社の合併のような強者連合がまず起きて、それが次に外資のプラットフォーム企業と結びつく、ぐらいしか残る選択肢はないのだが、まあ何でもいい。

 

 今回は、カドカワの教育事業について少し記す。

 カドカワの中では実は2つの教育についての構想がある。これは水と油であり、分けて考える必要がある。一つは角川歴彦を中心とする、アニメ・まんが系の教育の輸出という考え方に基づくものだ。これは安倍政権でのクールジャパンがらみの角川歴彦の発言を検索していけば、その文脈が推察できるはずだ。歴彦が「クールジャパン」なる語を今更臆面もなく使うのは、その利権の中に彼が今やすっかり浸かっているからである。

 今年の3月、クールジャパン機構からKADOKAWAの子会社である角川コンテンツアカデミーに4.5億円が出資され、「アニメ制作や声優を育てる」学校を海外に開設、そこにパソナなどが出資する旨の報道がなされた。クールジャパン機構は形式上、株式会社だが、原資の多くは国税であり、「出資が決まった10件のうち4件(4割)、額にして約290億円のうち174億円(6割)が特別の利害関係を持つ企業への出資となっている」という指摘もある。角川コンテンツアカデミーの出資者「パソナ」はクールジャパン機構の株主であり、この指摘に含まれる。企業がクールジャパン機構に出資すると国税を原資とする事業資金が出資企業に融資されるのは妥当なのか、あるいは、「パソナ」という企業の「筋の悪さ」については各自が調べればいい。シンガポール、台湾で開設済みという記事(15年3月30日、日本経済新聞)もあるが、シンガポールでは現地のまんが・アニメ研究者から文化侵略だという批判が事実として出ている。このことは角川歴彦にも直接伝えている。巨大な飛行機に日本アニメのキャラが乗ってシンガポールに飛来するイラスト入りのパワポでプレゼンされれば、いくら「親日的」とされる国でも戦時下の記憶が甦る。だが、プレゼンする当事者が歴史に無知なので話にならない。アジアの国々は、韓国、中国のように戦時下の記憶を正面から怒る国と、台湾やシンガポールのようにあからさまには怒りを語らない国がある。しかし、静かな怒りは双方にある。それを表に出さない気遣いを踏みにじると、怒りは却って大きくなる。

 この機会に話しておくが、ぼくの「世界まんが塾」はなまじぼくが角川周辺にいるためにこの一部と見なされがちだが、この構想は全く別物だ。日本で経営が立ちゆかなくなった専門学校の経営者を使って質の悪い教育を国税を含むクールジャパンがらみの資金で「輸出」することは、まんがやアニメーションの未来にプラスにならないのは言うまでもない。それはここで書く以前に、カドカワ並びに、角川コンテンツアカデミーの経営者に伝えてある。

「世界まんが塾」は非営利的な活動で、受講生から参加費を取らない。国際交流基金の支援などで公的資金を原資とするお金も使わせてもらっているが、6割以上はぼくの自費だ。国際交流基金に会計報告も提出している。援助を受けても節約して、余ったお金は支援先に返金している。そしてパブリックなお金にも支えられた活動だから、製作した教材や授業用のパワポなどのノウハウは各地域の希望者に無償で配布している。そして、このプロジェクトの最終目的は、①どの国にも使用可能なまんがの教科書の作成、②それを教える教師の育成、にある。

 ①は進行中で、②は世界まんが塾の講師や関係者が、トゥールーズ、北京に赴任していったことは「ニコ生」の番組を観ている方はご存知であろう。現在は3人めの講師として中国の留学者を育成中で、それとは別にヨーロッパのある都市に1名送り込む計画をしている。

 いつも言うことだが、これは誰かに頼まれてやっているのではない。何故、やるのかといえば、こういう形でこの国のまんがは「外国」と出会い直すべきだと考えるからだ。その動機の一つは、ぼくたちの表現の未来の問題だ。確かにこの列島の中で閉塞しながらクールジャパンの妄想的報道によって、世界中で日本まんががハリウッド並みに評価されていると思い込み、劣化していくのは勝手だが、ぼくはそれにつきあいたくない。日本のまんが表現がその「方法」を海外の描き手に伝えていくことで、そのぶつかり合いの中でまんが表現が変化していく契機をつくりたいと考える。だからこそ、「教えること」「研究すること」「創作すること」を同時にできる人間を順に鍛えて、海外に送り出している。彼らがたどり着いた場所で、彼らが出会った人や彼ら自身によってこの国のまんがが、変化し、違う何かとして生き延びていけばいい。

 もう一つの動機は、口はばったいが「外交」だ。もっと生々しい言い方をすれば、「文化」による安全保障だ。この点で「日本文化に理解のある消費者の存在や、日本のゲームやアニメの海外展開を支える現地人材の援助」を目的とする角川歴彦とは根本的に考えが違う。海外に市場や下請けを求めることとは本質的に意味が違う。

 歴彦は、海外でまんが・アニメを教えることを、海外に「日本文化に理解のある消費者を拡大」する、としか考えられない。些細なことだが、何故「日本文化の理解者」でなく「日本文化に理解のある消費者」なのか。こういうところに本音が出る。「海外のファン」を「消費者」としか考えられないことに、歴彦やコンテンツ産業の人々の貧しさがあるのだ。無論、ビジネスは否定しない。だったら中国富裕層から大量の資金を集め、舞台を中国に「トランスフォーマー」をつくるハリウッドのやり方こそ学ぶべきである「トランスフォーマー」という「国産」(と、敢えてわかり易く属性を記す)キャラが日本抜きでアジア初の世界市場商品となっていることに指をくわえてみていることに、この国のコンテンツ企業の脆弱さがある。「クールジャパン機構」は、ハリウッドに資金を全額突っ込んでくれた方が、遥かに未来がある。

 だから、ビジネスとして海外とどう関わるかという点でも歴彦は間違えているわけだ。

 そもそもこの学校で日本企業の「下請け」を今更育成しようとしていることが時代錯誤だ。この発想が貧しい。角川アカデミーを卒業した人材をパソナの現地法人が「派遣」する事業をする、と本気で考えていないか心配だが、考えているのだろう。しかし、ハリウッド版「トランスフォーマー」を作れない日本のコンテンツ産業にアジアの優秀な人材がスタッフになるはずもない。アジアは今や日本ではなくハリウッドの外注先である。そして中国は出資先である。だから、アジアを「出資先」ではなく「下請け」と考える時点で経営者として時代を読み誤っている。

 

 話を戻す。お題目に聞こえるかもしれないが、文化に於ける深い理解者を育むことは「外交」の基本ではないか。

 この部分でぼくは割と本気である。

 敢えて「国家戦略」という不快なことばを使えば、「日本的まんが・アニメ」の創作法を教えるということは、「書く」という、より深い水準で「日本文化」を理解しようとする人間を各地域で育成する「国家戦略」であるべきだ。韓国が韓国のポップカルチャー研究者に億に近い予算を付け、海外の大学の日本ポップカルチャー研究のポストを次々奪い、あるいは、アジアへの関心は研究者レベルでもこの数年、中国に移行しているので東洋学に於ける「日本学」のポストは減っている。彼らに教わる学生が増えることで、韓国学や中国学の研究者がアメリカでもカナダでも増えている。ここで韓国のやり方を非難するより、他国に「文化の深い理解者」を増やしていくことは重要な安全保障の一環だということを思い起こすべきなのだ。集団的自衛権だけが安全保障ではない。

 なるほど、海外には相応に日本まんがのファンはいる。しかし彼らを「消費者」という移ろい易い人間としてでなく、より深い理解者として育むことが国際関係に於いていかに重要なのかを歴彦もクールジャパンのバカどももわかっていない。そういう「文化」の水準で理解者を増やす外交を戦後のこの国はけっこう地道にやってきていて、アジアや中東でつくった信頼を、たった今、踏みにじっている自覚はどこまであるのか。

 ぼくがよく冗談で「まんが塾」をやっていると行く先々で政治問題やテロが起きる、と語るが、そのことの本当の意味を他の人はあまり理解しようとしない。

 しかし、いい加減、考えろ、といいたい。

 何故、反日デモの吹き荒れた北京でぼくのまんが塾のワークショップだけが開催できたのか。

「反日」と「嫌韓」が救い難く反目し合う日韓関係の中で、ぼくの創作入門書がこの3年で何故8冊全て韓国語訳されたのか。

 パリのテロの直後、イスラムの子供たちの学校で、あるいはアフリカ系移民たちの集まる図書館で、いわば、フランスの最後のセーフティネットの様な場所で、何故、ぼくのワークショップが容易にできたのか。

 イスラエルの大学で学会の講演の後、こっそりと「まんが塾」ワークショップをやったけれど、彼らにはこの先、徴兵が待っていて、徴兵検査で「パレスチナ人を見たらためらわず撃てるか」という質問に、ためらわず「イエス」と答えなければいけない社会を生きている。そういう場合に何の障壁もなく行けるのは何故か。

 それは、「まんが」や「アニメ」というチャンネルに乗って移動することが幸いにもぼくができるからだ。

 ぼくが所属する国際日本文化研究センターの関係者は、自分たちの研究所がいかに国際的な権威かしばしば語るが、ぼくの神戸時代の愛すべきバカ学生らは、日文研など潰れた通販会社(日本文化センター)と区別はつかない。日文研なんて、イスラム移民の生徒にとっても何の価値もない。ぼくやぼくの仲間が平気で国境を越えられるのは、ぼくらが「まんがの創り手」だからだ。ぼくの生徒たちはせいぜいまんがの著書が1冊あるだけだが、それでも「おまえ、まんが家か、凄いな」と「壁」越えることを許される。

 そうやって、教え子の中島千晴はこのチャンネルに乗ってフランスのトゥールーズに流れつき、この間、パリで久しぶりに会ったら、フランス領ギアナに今度ワークショップをやりにいくと笑っていた。日中関係が最悪の中で浅野龍哉が北京に赴任するのも、北京側が「日本学を学ぶ手段としてまんがを描くという行為を学生に教える先生の必要性」を今後の日中関係のためにかなり本気で考えたからである(これはけっこうリアルな話だ)。

 まんが・アニメというチャンネルは、政治や社会的対立を不用意に飛び越えてしまう、とぼくはいつも言ってきた。しかし、そのチャンネルを使って、政治や社会的対立を乗り越えて、ぼくたちは思いがけないところに行くことができる。それを生かさない手はない。

 たどり着いた先で「教える」ということは、消費者や下請けを増やすことでなく、「理解者」を増やし、同時にぼくたちの側が彼らを同じ水準で「理解していく」ことになる。本当に「教えること」でフランスのことも中国のことも多少は深く理解できるようになる(この話はどこかでいずれ書く)。そういう当たり前のことが角川アカデミーにはできない。

 だから、この角川の「専門学校の半端な教育の輸出」は、クールジャパンの徒花以上にはなり得ないと考える。

 

 さて、もう一つ、「教育」の話がカドカワ周りで進んでいる。

 

 それが川上量生の通信制の高校である。これは逆に「内向き」というか、「国内問題」である。アベノミクスにも拘わらず下落し続ける角川ドワンゴ株が下げ止まったように、統合以降、初めて好意的に受け止められたニュースではあった。

 ここに至る「背景」を書ける範囲で少し書く。

 まず、大前提として、ぼくは昔も今もドワンゴやニコ動に対して批判的である。

 だから腹が立てば放送中でも帰るし、空気も読まない。

 不快なものを批判する場合、その中に入り込んでやる、というのがぼくの流儀だ。一方でWEBについては、ここではもう詳しく書かないが、「民主主義のインフラ」「近代のやり直しのインフラ」としての可能性を感じていたから、その点では関心もある。

 最初に角川の佐藤辰男から川上が会いたいと言っているということで引き合わされた時、ぼくは神戸の学生の就職先のコネの一つ以上の興味はドワンゴに直接的にはなかった。そこで彼は「物語消費論」の話をし、ぼくはその話にとうに興味がなかった。ただ「子供向けの創作の塾をいつかやりたい」という話をした。そこに川上がそれなりの興味を示した。しかし、そこに角川の環境がからんだ瞬間、全く違うものになるのが角川という会社のダメなところで、その一部がニコ生の「物語の学校」になったがとにかく人がいない。

 それでも、NHKの語学番組のテキストの売り上げに興味を示し「WEB上の教養講座」を思い立った歴彦も含め、この数年、川上と歴彦が「教育」にそれぞれの思惑で関心を持ち始めていることは窺えた。しかし、興味深いのは、その方向性が全く異なる点だ。

 歴彦は「教育」をマネタイズの手段としか考えなかった。いや、企業だから考えていい。しかし、そこではやはり「どういう教育をするべきか」という理念が必要だ。だが、彼は結局、「コンテンツをマネダリングするためのプラットフォーム」としてしか企業を考えられず、出版人として「何をつくるか」を考えることができなかった。だから、「教育」も、また「アジアのアニメ専門学校チェーン」という「インフラ」でしかイメージできなかった。それは厳しいが、彼の限界である。彼がスティーブ・ジョブズを模していう言う「エコシステム」は収益モデルで、「社会」という概念はない。達成されるべき社会像に異議はあるが、社会という環境に根を下ろすのがジョブズのエコシステムだ。しかし歴彦にとって、マネダリングのツールとしてのソーシャルメディアが彼にとっての「社会」である。歴彦は、相応にインフラは考案できるが、それ以上でもそれ以下でもない。厳しい言い方だが、歴彦に教育者としての資質はない。

 ジブリの『コクリコ坂』では教育者としての徳間康快が描かれるが、それはある程度、実像だ。そういう部分に共感した人を幾人も見ている。しかし、歴彦は違う。人は歴彦の先見の明に共感するが、理念に共感はしない。

 無論、ビジネスという点では川上もニコ動の有料会員制という収益モデルの「次」を考える必要がある。WEB企業は、所詮はワンアイデアで成り立つ。WEB企業はトップのワンアイデアで生き残っていくものだ。

 現状のモデル、つまり、定額制でコンテンツ見放題、ここに「投稿」が加わるという「ニコ動的枠組」は膨大なキラーコンテンツを抱える外資系のWEB企業に強みがある。外資のネット系テレビ製作会社の日本進出や提携が進んでいるが10年以上前、角川は衛星放送向けテレビドラマ製作会社をつくった。既存のキー局に支配されない独立系のドラマ製作会社で、例によって癇癪を起こして数年で潰さず存続させていたら、ニコとの統合で日本版Netflixの可能性があった。余談だが、これも数年で放り出したハリウッド向けに角川作品をデベロップメントしていく会社がいまあれば、ハリウッドが中国の資本で日本の素材で世界市場向けのコンテンツを作る、というたった今進行中の潮流にぴったりあてはまったのに、と思いもする。

 話しを戻す。当然だが、アンダーグラウンド投稿サイトとしての存続は株式を上場している企業としては限界がある。他方、ドローン少年の配信先がニコ生だけでなく、韓国のafreecaTVも入っていたように、アジア圏のWEB企業では「ニコ」は模倣しやすいビジネスモデルである。それらがシェアを奪われない保証はない。

 次のビジネスモデルの構築が必要なのは当然である。

 それが教育事業進出の背景1である。

 背景2は、「ニコ動」の「社会化」である。これはぼくの憶測にすぎない。

 ぼくも川上に直接話したことがあるが、他領域の人間で彼に関わった人は「ニコ動には社会を悪くした責任がある」散々言ってきた。その批判への回答が教育事業である気がしないでもない。

 プラットフォーム企業はあくまで「場」の提供者であり、コンテンツはユーザーの投稿だから、その内容に社会的法的責任を負わない、というのがWEB企業の一貫した方便である。ほくはこの言い草が死ぬ程嫌いだ。著作権の侵害やリベンジポルノのなどの人権侵害さえも、しかし「コンテンツ」としてプラットフォームに置かれている状況が今もあるが、プラットフォーム側は「コンテンツ」の中身からは免責されるという一般論がある。そして、その象徴としての「2ちゃんねる」が「ニコ動」の出自だという演出をドワンゴはこれまでしてきた。

 プラットフォームがコンテンツに責任を持たず、しかし実質としてはコンテンツとしてユーザーは対価を払っているという構図は、FC2ほどではないにしても、プラットフォーム企業のビジネススキームである。角川という企業や歴彦にかつてはかろうじてあった出版社や出版人としての倫理観のようなものが瞬時に消えていったのは「プラットフォーム企業」への舵を切ったあたりからだ。これは自覚がないとは言わせない、と言いたいところだが、「自覚」や「内省」の放棄がプラットフォームの前提だから、当然、自覚はないだろう。「ニコ動」に関しても、生放送や公式チャンネルで何が配信されようとあくまでも場の提供であって企業に責任はない、という考えは今も現場にはある。「超会議」の憲法企画のように、自分で「座」を組みながら「場」を提供したとしらばっくれるあの感じである。

 WEB企業が、自身をプラットフォームでありメディアでないとすることでコンテンツ企業としての責任を自ら忌避してきたことは、ここでは繰り返さない。

 そして「ニコ」は、動画から配信まで、表現なり言論の無法な場を提供する一方で、「社会を悪くしてきた」側面がある、と言わざるを得ない。これは一つの原則論だが、企業は人の欲望の上にサービスを提供するから「社会を悪くするリスク」は常にある。電力会社は快適な生活のインフラを提供する一方、COの排出や原発というリスクを産むし、自動車会社も交通事故というリスクを産む。重要なのはそのリスクの除去に向けた不断の最小化の試みである。これはメディアも同様で、受け手の興味に訴えかける一方で大衆のリテラシーを下げる、というリスクが成り立つ。反知性主義はテレビが産み、WEBが増長させた側面は否定しようがない。

「ニコ」も同様であり、「ニコ」がネトウヨやヘイトスピーチにプラットフォームとして場を与える、というよりは加担し、政権与党に近いスタンスをとり、あるいは政治を「ネタ」にすることで政治への真摯な立場を失効させることにも同時に加担したことに無自覚であったとは思えなが、無自覚だ。「憲法」討論会の顔に「ニコ」のペイントをしてくれ、という唯一の仕切りは、その救い難い無自覚さを物語っている。そこに一瞬でもいたことが恥ずかしかったし、腹も立ったので、「オトシマエ」をぼくもつけ奴らにもつけさせたのがあの長ったらしい題名の番組だ。それはともかく、プラットフォームであるが故に「コンテンツからは免責される」という「場」は、政治的な無責任の「場」として機能する。「ニコ」ではユーザーのアクセス数や来場者数やらがTVの視聴率のように錦の御旗となり、「視聴率」を追うことでテレビに生じた問題をこれも無自覚に短期で繰り返した。「在特会」がチャンネル開設をそもそもニコ側から打診された的なことを語っているがこれは事実だろう。「数字」のとれる「コンテンツ」としてネトウヨ的番組はかつてあった。今、さほど取れなくなったあのは、安倍の連続ニコ生出演が物語っている。こういった考えなしのネトウヨ向けの番組は、リベラルの側からみれば確実に世の中を「悪く」した。これを、もっと既存のメディアの方が世の中を悪くした、という比較論で相対化しても意味はない。

 この考え方は、サブカルチャーの創り手も同様だ。ぼくたちのつくるものは快楽を与えるが、「世の中」を相応に悪くする。ぼくもかなり悪くした。そういう自覚を多少まともな物書きなら持っている。ジブリの人々をぎりぎりぼくが信じるのは、私的な場であるにせよ、不意に「オウム的なもののある部分はジブリがつくった」と語る時があるからで、だから彼らはそのバランスの中で社会的なのである。宮崎駿が映画作りを辞め、沖縄という現場に行ったのはその証左だ。映画が世の中をよく出来なかったことへの責任を「解散」後のジブリは払おうとしている節さえある。

 資本主義システムの中で生きる限りぼくたちは無垢ではいられない。しかし自分のもたらしたリスクを最小化していく責任が同時にある。それがマッチポンプに見えなくもないが、そういう批判は「自分のもたらす害」を自覚できないものの幸福な特権だ。

 その意味で「ニコ動」はやはり確実に「社会を悪く」した。例えばぼくは川上の中に不意にヘイトっぽいものの言い方が出てくる不用意さを幾度か感じ、批判もした。「在特会」サイトの閉鎖騒ぎはそういう脆さと無縁ではない。「2ちゃんねる」以降の世代に染みついている不用意な物言いをぼくは下の世代にしばしば感じる。星海社の人のゲラの赤入れにさえ感じる。その悪意のなさをぼくは擁護はしない。

 無論、「リベラルな側から見て社会を悪くした」という議論は「政権側からみれば社会をよくした」という不毛な相対論と化す。しかし、それとは別に、もう少し本質的な部分で「ニコ」は「社会を悪くした」といえる。例えば、「ニート」や「不登校」と呼ばれる若者に「場」を与え、それが彼らの現状を維持してしまう装置となってしまっている点がその一つだろう。ある時点までは「ニコ」のそのような要素は一種のセーフティネットとして機能しなかったわけではない。「ニコ」に逃げ込むことで死なずに済んだ者もいるだろう。当然だが、「ニート」や「不登校」は「ニコ動」が直接、産んだものではなく、この国の社会システム、教育システムの問題である。とはいえ、この教育システムを安直に「日教組」や「戦後教育」に帰結させて批判する議論はいいかげん不毛であるから、つきあわない。

 だが「ニコ」的なものは、社会の欠陥が起因の「ニート」「不登校」さらには、「非正規」、敷衍すれば将来や社会への不安・不満を持っている者に「場」を与えた。そして彼らの「不満」の吐露を「コンテンツ」とし、さらに少額を払えばより快適な環境を与えるというビジネススキームをつくった。

 何だかこう書くと最低の会社であるが、実際、「最低」である。

 その中で川上の考える「教育事業」は、「ニコ」が逃げ場を与えてきた者たちの社会復帰をサポートするものである。すくなくとも、そういう「理念」はなりたつ。「理念」をきれいごとや商売の方便だと批判することは容易だが、一方の旧角川が社会的な理念を建前としても示せなくなったことに比べれば「まし」である。

好い加減、他人の理念を嗤い足を引っ張る、この国の隅々に浸透したさもしい態度は止めにしたほうがいい。

「ニコ」はニート、フリーター、引きこもりを直接産みはしなかったが、同時に「ニコ」周りに「閉じた空間」をつくりそこに留まり続けることを可能にした。つまり「社会復帰」を忌避できる場を提供した点で、「増やし」はしないが「維持」はしている。それが「リスク」だ。

 そこに「ネトウヨ」が発生しやすいことについての興味深い理由をある人間が分析したことは後で触れるが、川上の教育構想はこの「ニコ」のリスクに対処しようというものだ。

 つまり、「ニコ」という逃避の場を介して「社会」に再接近させるという構想である。

 通信制高校というのは「高卒」の資格がとれる。つまり大学の受験資格が得られる。

 大学進学も可能になる。この点を軽視すべきでない。

 無論、学歴に以前ほど価値がなく、卒業して意味のある大学とてどこまであるか、という問題はある。

 しかしそれでも「学歴」はあった方が相対的には「まし」、である。大学名に関係なく目的を持って学べば相応のものが得られる大学も、単に資格に留まらず、「学問」という点も含め、学ぶ価値のある大学はまだこの国にはある。この国の外にも山ほどある。

 通信制高校は「単位をとり、高卒になる」ところから「大学を受験する」というところに受講生を導く。「ニコ動」はこの間、大学の卒業式の中継などで大学の事務方と接触しているが、ここでちゃんとパイプを作っていれば「受験生を集めたい大学」との利害は良くも悪くもできているはずだ。それなりの進路指導は出来るだろう。あるいは、50人ほどの選抜クラスでも作って東大・京大受験に特化すれば幾人かの合格者は出せるだろう。無論、そのことはデモンストレーション以外に何の意味もない。くだらないことだ。「既存の価値」の再生産に過ぎない。

 しかし、そこから外れた者の社会復帰のツールにはなることを「わかり易く」は示せるだろう。

 実は、ぼくはかつていた大学で「生き残り」のため通信制の大学について試算したことがある。2018年問題は、田舎の三流私立大学にとってはリアルすぎる問題だからだ。e−ランニングなどWEBを併用したとしてもさほど大きなインフラはいらず、同傾向の大学が複数で共通の通信制大学を作れば、スクーリングを各地に設けるというインフラ投資も回避でき、そして身も蓋もない話だが、受講料を払っても卒業しない人の数の多さを含め、収益性は悪くなかった。ビジネスとしては成り立つんだ、という試算だけはした。通信制高校の事例も調べて、なるほど採算はとれる、と思った記憶がある。コンテンツ系の高校・大学を一貫した通信制教育機関は「あり」だ、というのが結論だった。とはいえ、あの大学の存続に何の関心もなかったから提案書は提出しなかったが。

 無論、「ニコ動」の通信制高校も当然、「卒業できない人」を大量に出す。彼らはあるいは再度「搾取」されることになる。しかし、卒業する、しない、という選択は本人次第の部分が大きい。単位制なので、勉強の習熟度が卒業の一義的な基準になる。学生同士、教員との関係、いじめなどのリスクは相対的に少ない(とはいえ、スクーリングやWEB上では相当にトラブルは予見される)「自分の努力不足」以外の卒業できない要因は通学制に比して少ない。そういう場所に向いている者は「ニコ」周りには少なくない。

 他方、「サービス」に受動的なユーザーでありたい、と願う者には「擬似的な学園生活」が提供されるだろう。「ニコ」的でくだらないバーチャル学園ごっこを提供する「サービス」が仕込まれるはずだ。学費さえ払えば「おわらない学園生活」が提供される。「超会議」は「学園祭」として再定義されるかもしれない。したがって、ただの「学園ごっこメディアミックス」になってしまうリスクがある。それが「学ぶ」という行為を「嗤う」空気を生まないとは言えない。恐らく生む。

 しかし、その上で教育の質をカリキュラムやインフラを含めてどこまで向上させていけるのか。「社会復帰率」を数字の問題でなく、どこまで質的に向上できるのか。通信制高校は文科省の管轄だから、海外での専門学校チェーンより国の相応のチェックを受ける。「高校」は「ネタ」ではない。仮に「ニコ」の一部がそういう迂闊な態度であっても、それでは済まされない。解決すべき問題点を挙げれば歴彦の専門学校アジアチェーン以上に多いが、それは既に「高校」である時点で社会的責任を相応に背負い込んでしまっているからである。ビジネスの正否は一企業の責任だが、学校教育法上の「高校」は社会的責任を伴う。そのことにどこまで自覚があるかわからないが責任を背負わざるを得ないステージに「ニコ」は進んだことは事実だ。

 もう一度言うが、ドワンゴは社会を悪くした。その「悪くした部分」の一部分に処方箋を示すことで次の企業としてのビジネスモデルを設計した。これを最初から狙っていたら、確かにマッチポンプである。しかし、そこまでの先見の明は川上にもない。それでも「責任」を回避してきたプラットフォーム企業の初めての「責任」のとり方にも思える。思えるが、今のところ、それ以上でも以下でもない。

 それでも川上はこの部分で「理念」のようなものを初めて形にしかけている気がしないわけではない。それが彼の成長なのか、企業家としての「方便」なのかは厳しく見ていく必要がある。何しろ「ニコ動」の連中のやることだから、教育さえも破壊するリスクとてある。それは最悪だ。

 しかし、それでもこの試みが重要なのはこの国は「ニコ生」のモニターの前の18歳にも選挙権を与えた、ということだ。「ニコ生」で話したように、これから高校生をどう教育していくのか、愛国心を教えるなどという愚かなレベルでなく、柳田國男の言い続けた「公民」=「有権者」をどう育てるかという「民主主義の最後のチャンス」に今、この国はある。そのなかで「通信制高校」というセーフティネットの意味は正しくやれば、ある。

 その先には「教育の民主化」という可能性さえ、見えないわけではないのだ。

 「ニコ」でも他の動画投稿サイトでもいいが、少し手を加えれば、いや、投稿する側が意識をかえればそのままeラーニング教材の共有の場になる。Wikipediaの「教科書」作り構想などもあるにはあるが、機能していない。「ニコ」がベースのe−ランニングなどは当面は鉄板で、ネトウヨ的陰謀史観や「カルト」の「教材」の巣窟になるリスクがある。それ以上に、受験産業や通信教育企業の草刈り場になるリスクの方が大きいだろう。それでも尚、WEBに「民主主義のインフラ」としての可能性があるとすれば、SNSと「教育」の結びつきだとぼくは考える。そのことは幾度もぼくは柳田國男論で繰り返してきた。

 海外の大学はe−ラーニングで教育を世界中に開放しようとしている。今は理系が中心だが人文諸科学の復興はむしろWEB上で起きる気がする。「文系」の教養が理系に必要になって来る。「文系」の復興にとって、データベース化される書物という人類の資産の公共化のもたらしたものは大きい。皆、気がついていないが、WEB上でアクセスできる資料だけで分野によっては博士論文が書ける時代である。「資料」を研究者や機関が寡占することで人文系の研究者は特権的でありえたが、もはやその差は以前より小さい。WEBは民主主義のツールとして機能し、「学ぶ」という行為も民主化する。こういった「夢」はWEBの最初期に実は語られ忘却されてきたものだ。「自由ラジオ」に関わった人々が最初期のネットにこういう夢を見ていたのが懐かしく思い出される。

 そういう状況のなかで、かつて教科書の会社であった角川書店は角川兄弟によって死にいたり、ドワンゴは名前だけカドカワになった。さて、「民主主義のインフラ」としての社会的使命を企業の将来像としてリセットできるのか。正直、不安の方が勝る。

 それでも歴彦の学校にぼくはチップを置かない。それは、ぼくの実践の方が彼の学校より「まし」だからだ。

 しかし、川上の学校にはチップを置く。リスクは高いが、「世の中がマシになる可能性」をわずかにでも孕んでいる。

 いずれにせよ、「学校」は実際にやってみると本当にくだらなくて馬鹿げていて、生徒も親も同僚の教員も文科省も殺意を覚えるほどに腹が立ち、しかし、そうやって一緒に神戸で怒っていた生徒や助手がぼくの周りで「まんが塾」の教師になって世界中に散っていくのを見ていると、「教育」はやはり「おもしろい」のである。

 その「おもしろさ」に歴彦や川上が気づけばいいし、気づかないなら、「ああ、カドカワって昔あったよね。最近、インドのWEB企業に買われたんだっけ」と数年後、アフリカのどこかの国で「まんが塾」をやりながら、ぼくたちが懐かしく思うことになるだけである。

 

〈2〉

 そういうわけで「角川暦彦とメディアミックスの時代」については殆ど書くモチベーションもなくなってきたが、メディアミックスという問題に絡めて一点、忘備録替わりに書いておく。

 それは『黒子のバスケ』脅迫事件についてである。ぼくは以前どこかで、この事件の本質は「メディアミックスシステムからの疎外」ではないか、と印象だけ書いた記憶があるが、そのことについて少し記す。彼の犯行に少しの正当性もないが、かつて李珍宇や永山則夫が自身の犯罪の社会的背景を民族差別や貧困といった社会政策的問題として分析し、それは「お前が言うな」との根本的な問題があるとはいえ、相応に一般論としては正確であったように、渡邊の分析にも一定の説得力がある。

 ぼくは「メディアミックス」がイアン・コンドリーなどの北米系研究者や朝日新聞が「初音ミク」を論じる際に主張されるユーザーの創造的消費である、という議論に一貫して懐疑的である。創作の快楽を与える消費の出現と企業管理については「物語消費論」で89年の時点で予見した通りだ。他方、こういった「創造的消費」は、メディアミックスシステムを用いた新たな隷属的労働である、という指摘がないわけではない。マーク・スタインバーグの中にもそのような視点は内在する。2次創作は自由な創造的行為に見えるが、それ自体が原作にたいする「受け手」の自主マーケティングであり、それ故、「搾取」の構図は見えにくくなっている。しかし、TPPで著作権法違反が非親告罪になれば、企業側のガイドラインや同人誌へのロイヤリティ徴収システムが違法をおそれる同人誌の側からの要望で成立するだろう。二次創作者が望むのはより快適で合法的な2次創作環境であり、イベントの参加費などからの包括的徴収と企業への配分など、ロイヤリティの企業への支払いが負荷として感じにくい仕組みが作られるだろう。薄く搾取される仕組みが可視化するのはそう遠くない。そもそも2次創作に限らずメディアのプラットフォーム化は「消費者という創作者」を大量に生む。ユーチューバーに対する利益の還元のような仕組みがつくられるにしても、大多数の無償の「投稿」が実質的コンテンツになりプラットフォームはそれで集客し広告収入を得る仕組みに変わりはない。AKB以降のアイドルのようにあからさまな有償参加モデルも含め、「2次創作」「投稿」「参加」といった、「受け手」の擬似的な「送り手」化がメディアミックス的な搾取の前提としてある。そして、確かに「ある」のだが、当人達が「心地よい」のだからいいではないか、と「問題化」しにくいところにこの新しい、メディア参加に見せかけた隷属的労働の仕組みの厄介さがある。

 こういう問題をクールジャパン系研究者は問題とせず、オーディエンスの参加をポストモダン的文脈や表現の民主化といった善意の文脈でとらえるのが一般的だ。そのなかで、例外的にこの「メディアミックス問題」に正確な指摘を結果としてしているのが『黒子のバスケ』事件の当事者・渡邊博史であるのはどうにも複雑である。

 

 渡邊の自己像を確認しておく。

〈住まいは東京都新宿区でしたから計画停電もなく、震災直後も2ちゃんねる三昧の日々を送っていました。反米主義者の自分は「トモダチ作戦」というネーミングのあさとさと「ギブ ミー チョコレート!」の頃から変わらぬアメリカ人を前にした時の日本人の立ち居振る舞いにうんざりしていました。

 端的に申し上げて、自分は何の役にも立っていませんでした。自分にできることなど何もありませんでした。セシウム混じりの薫風が吹き始めた初夏の頃に、被災地の書店で多くの被災者たちに回し読みをされた一冊の『少年ジャンプ』があったとのニュースを見かけました。自分は、

「やっぱりジャンプ様にはかなわないな」

 と思いました。〉

〈風呂なしエアコンなしトイレ共同のアパートの家賃は3万7000円でした。光熱費は多い月で合計1万5000円くらいでした。この頃の月の生活費は6万円から多くても8万円でした。お金を使わないことに慣れれば、これで特に不自由なく暮らすことができました。

 コンビニの夜勤アルバイトは、一回の勤務で8500円くらいになりました。月に10日くらい働けば生活は可能でした。ただ人手不足や病気がちの同僚の代理を引き受けたりで月に15日から20日くらいは働いてました。〉

〈自分の高校卒業後の正確な経歴は「浪人→専門学校に通って卒業→引きこもり→再び専門学校に通ったが中退」です。〉

(「事件前夜」渡邊博史『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』2014年、創出版)

 

 リアルの世界に於いて人間関係に乏しく「2ちゃんねる」三昧、専門学校(創作系のようだ)中退のフリーター。十代後半が今や中心の現在の「ニコ」ユーザーからすればもはや旧世代の自画像ではある。同人誌イベントのスタッフであったともいう。それでも、一定の年齢から上で、李珍于や永山則夫や宮崎勤やオウムの信徒らにそれぞれの時代にあった当時の人々の中に自己像のカリカチュアを見いだした人がいたように、渡邊の来歴の中に「自分」と重なりあうものを見いだす者は少なくないだろう。

 その渡邊は『黒子のバスケ』の作者に、そこそこの進学校出身、バスケ趣味、まんが創作といった自分との共通項を見出す。それ自体、オタク周りにある、ありふれた属性である。そして、『黒子』の作者も成功しなければ渡邊と同じであったはずなのに、作者の存在を知ってしまい、「勝者」である作者と自身の差に耐え難く、「自殺」する替わりに犯行に及んだというのが彼の自己弁護だ。

 

〈です〈ですから、黙って自分一人で勝手に自殺しておくべきだったのです。その決行を考えている時期に供述調書にある自分が「手に入れたくて手に入れられなかったもの」を全て持っている『黒子のバスケ』の作者の藤巻忠俊氏のことを知り、人生があまりに違い過ぎると愕然とし、この巨大な相手にせめてもの一太刀を浴びせてやりたいと思ってしまったのです。自分はこの事件の犯罪類型を「人生格差犯罪」と命名していました。〉

(「冒頭意見陳述【2014年3月13日初公判】」渡邊博史『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』2014年、創出版)

 

 ここで渡邊が言う「巨大な相手」とは渡邊の中では作者個人のように思える。しかし、彼が「脅迫」したのは作者個人ではない。

 

< ・2012年10月の上智事件

・2012年10月にスタジオYOUに脅迫状を送付し、同社が同年12月に東京流通センターで開催予定だったSTを中止させるなどした事件

・2012年10月に赤ブーブー通信社に脅迫状を送付し、同社が2013年2月に開催予定だったダブルクラッチを中止させるなどした事件

・2012年10月にコミケ準備会に脅迫状を送付し、同会が同年12月に開催予定だったコミケのサークル参加規模を縮小させるなどした事件

・2012年11月に幕張メッセに脅迫状を送付し、集英社が同年12月に開催予定だったジャンプフェスタの出店規模を縮小させるなどした事件

・2013年10月のセブンイレブンとバンダイに対するウエハス事件

・2013年10月にセブンイレブンにウエハス事件に関連して再び脅迫状を送付し、商品の点検をさせどした事件

 罪名は全て威力業務妨害>

(「投了」渡邊博史『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』2014年、創出版)

 

 脅迫は当初は「上智大」に向けられたが、同人誌や集英社のイベント、キャラクター商品にすぐに対象が変わっている。物を書いていれば政治的な発言と関係なく書き手個人への「脅迫」は珍しくない。しかし、渡邊の標的は作者個人ではなく、作者もその一部に過ぎない『黒子のバスケ』のメディアミックスシステムそのものに向かっている印象がある。『黒子』を支える『ジャンプ』やアニメ企業を軸とするメディアミックスシステムとその下部構造としての同人誌や2次創作システムと、そこに集まる人々の総体、言ってしまえば「メディアミックスシステム」という総体が彼の「標的」であった印象を受ける。作者への嫉妬に学歴やまんが家としての成功だけでなく、以下のように「2次創作系の人気」が挙げられていることなどはその証左ではないか。

 

〈自分が「手に入れたくて手に入れられなかったもの」について列挙しておきますと、上智大学の学歴、バスケマンガでの成功、ボーイズラブ系2次創作での人気の3つになります。〉

(「冒頭意見陳述【2014年3月13日初公判】」渡邊博史『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』2014年、創出版)

 

「作者」という「巨大な相手」の「巨大」さとは、実は2次創作システムを含むメディアミックスの総体である。「作者」は企業とともにそのヒエラルキーの上位に君臨する。他方、渡邊は「まんが家になり損ねたありふれたフリーターで同人誌のイベントスタッフ」に過ぎない。こういう言い方は差別的だが、渡邊は「ありがちな存在」と自己規定し、その諧謔をやや自虐的に生きることが彼なりのバランスの取り方であり「処世」であった。だから、わざわざ、誰かと比べなければこのメディアミックスシステムの「最下層」(と、敢えて記した方が渡邊の主張がわかり易いだろう)でこのような「存在を維持するための設定」を自分に与えることができたわけだ。しかし、『黒子』作者という近似した属性でありながら、「自分が『手に入れたくて手に入れられなかったもの』を全て持っている」存在に出会った時、メディアミックスシステムの階級差を直視せずにはいられなかった。『黒子のバスケ』

は、彼を搾取する「システム」なり「社会」なり「体制」なりの象徴に見えたはずだ。それはかつての企業連続爆破事件において、旧財閥系企業が資本主義の搾取のシステムの「象徴」として攻撃対象となったことと似ている。だから両者は搾取のシステムそのものの破壊に走った、という点で共通だということになる。

 当然だが、その主張は「正しく」ない。しかしメディアミックスシステムが階級システムだという本質を渡邊は渡邊なりにその本質だけは感じとっている。メディアには「送り手」と「受け手」がいる。そして「投稿」「2次創作」といった参加型システムは一見、「受け手」が「送り手」の場を侵犯するというヒエラルキーの「揺らぎ」として楽天的に論じられもするが(いや、ぼくもかつてした)、それはあくまで「2次創作」「投稿」を含め「メディアミックスシステム」「プラットフォーム」のコンテンツを自発的に作る/作らされるものである。能動的に見えながら、使役的なのである。既に記したように、イアン・コンドリーらの「ファン参加が日本のソフトパワーの源」的な言い方に信用がおけないのは、参加型メディアミックスは収奪と隷属のシステムだからだ。それは何度もいうが、角川でかつてその一部をつくった一人として言っているのだ。

 現在の日本では、この「収奪」のシステムが企業内の雇用者(資本家)と労働者ではなく、コンテンツを介して「メディア企業」と「ファン」の間に新たに生じている。「階級」問題はメディアミックスやプラットフォームに組み込まれている、といっていい。2次創作やコスプレは「自由な表現」であると当事者は思っているが、それは隷属的な労働ではないか、という指摘も既にふれたように一部の北米のちょっとは頭の切れる研究者の間ではあるにはある。2次創作やコスプレは、結局はイベントへの参加コスト、同人誌印刷、原作関連グッズの購入、TVやネットの視聴という総体の中での「消費的労働」であり、それはシステム全体の延命に奉仕する見えない搾取だ、という考え方である。

 とはいえ、そんなことを言われても自分はそう思わない、と考える人が少なからずいるはずだ。それはかつて、マルクス主義者が労働者にあなたは搾取されていると語っても理解されにくかったことと同じである。搾取されてもシステムの中にしがみつきたい、だから搾取者でなくシステムの懐疑者(左翼)を憎悪するというのが最末端の「保守層」であり、「オタク」の右傾化はこのことからも説明できる。

 こういった一連の事態を困ったことに(いや、困る必要はないが)渡邊はこう正確に分析している。

 

〈現在の日本が採用するネオリベ的な経済・社会政策は即ち強者への富の傾斜配分システムです。この政策は同時に希望や意欲や知識や人間関係も強者に傾斜配分します。こうして物心両面における格差が拡大し、客観的には搾取されている状態の人間が急増します。搾取されている人間は主観的に不幸になり、不満を持つ可能性があります。>

(「最終意見陳述【2014年7月18日公判】」渡邊博史『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』2014年、創出版)

 

 やや唐突にネオリベラリズムなる語が登場する。しかし、それはプラットフォーム系企業の体質を直感的に言い当てている。プラットフォームはユーザーのコンテンツをマネタリングする一方、生じる責任はユーザーに帰結する自己責任論が基本だ。WEB系企業がここ数年「ニコ」を含め「安倍応援部隊」に見えていたのは、そのネオリベラリズム性にこそある。「パソナ」とカドカワの接近などはカドカワのネオリベラル化を象徴するだろう。

 だが、こういった企業のネオリベラル性に対し、そこで「搾取」される側が「ネトウヨ」という形で「ネオリベ」政権を支持する構図が存在する。それ以上に多くの「ユーザー」が、進んでシステムに隷属する従順さを示す。渡邊はそれらをシステムによる「搾取されている人間の無害化」として分析する。

 

〈そしてその不満をシステムにぶつけて来る可能性があります。そうなるとシステムの維持に支障を招く恐れがあります。そこでシステムは搾取されている人間の無害化を図ります。無害化には以下の3種類の方法があります。

・客観的には搾取されているが、主観的には幸福な人間=オタク

・客観的に搾取されていて不満も持っているが、その不満をシステム以外の場所にぶつける人間=ネトウヨ

・客観的に搾取されていて不満も持っているが、ただひたすら自分を責める人間=「努力教信者」、即ち潜在的な自殺志願者

 これらはつまり孤立気味の人間の「浮遊霊」化回避のための2種類の薬と「浮遊霊」化してしまった人間の社会からの退場方法です。これらはシステムにより供給されたものだったのです。これらは同時に負け組に許された身の処し方の全てです。人生ゲームで負け組ルートに入ってしまうとゴールはこの3カ所しかないという意味なのです。〉

(「最終意見陳述【2014年7月18日公判】」渡邊博史『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』2014年、創出版)

 

 正直、よくできた分析である。

 客観的に搾取されているが主観的にはそう感じないのが「無害なオタク」で、角川や『ジャンプ』周り、「ニコ動」のユーザーの大半がそうだろう。(①)

 そして、「何かオレ、搾取されているかも」と思った時、不満をシステムにぶつけ損ない、代替の敵にぶつけるのがネトウヨという分析もよくできている。(②)

「ニコ」はそういう層も回収してきたし、ヤフーニュースの書き込みを見ればヤフーも同様だとわかる。当然だが、人が「搾取されるオタク」に甘んじていることは「戦後憲法」や「日教組」「日本共産党」「戦後レジーム」、あるいは「中国」のせいではない。一方、社会システムを正面から批判するスキームは「サヨク」として冷笑・攻撃の対象になる。そこにも「ニコ動」が加担したことは否定できない。

 3つめは「自殺志願者」で、しかし「誰かを殺して死刑になりたい」型犯罪にしばしば転化することは事例に事欠かない。(③)

 渡邊は①に充足できず、②になるほど愚かでもなく、③として自死することもできなかった。そして「システム」の破壊を目論んだ。つまり渡邊が実感をもって受け止めることのできた、自分が帰属し、自分を搾取する「社会」が『黒子』メディアミックスシステムだった、ということなのだ。

 渡邊は逮捕直前、あるアイドルグループにはまり、これで①のような無害なオタクとして隷属して生きることが自分にも可能になったという。しかし、既に遅く、渡邊はメディアミックスに対してテロリズムとまでいかなくても破壊活動を仕掛けていた。それは、ある意味で「新左翼」的である。香山リカあたりを「極左」と安易に呼ぶから渡邊の「新左翼」性が見えないのだろう。そのメンタリティは企業連続爆破犯などの本当の「極左」に近いことは既に述べた通りだ。

 だからといってぼくはことさら彼を評価するつもりは全くない。ただ、「学術研究化」してしまった「おたく」研究や「メディアミックス」研究、「アイドル」研究に日々、接していると、渡邊の分析の方がそれらより優れていると認めざるを得ない。この原稿を書いている今も東大大学院サマープログラムで、海外の若手研究者向けの「アイドル研究」講座(バカである)が開かれているはずだ。そこでは、アイドル産業の肥大がいかにして若者の政治的不満を無害化したかという議論はないだろう。

 だが、渡邊は犯罪の当事者になる形でしかこのような分析を公にできなかった。あるいは犯罪者となることでその特権を手に入れた、とも言える。そこに一つのパラドックスがある。渡邊の事件は「メディアミックスへの反乱」を目論みながら、結局、彼の犯罪もメディアミックスとして目論まれていた側面がある。

 渡邊は犯行の時点で雑誌『創』に「声明文」や手記を掲載することを想定していた節がある。『創』は宮崎勤の手記をはじめ、犯罪の当事者の手記や著書を公にしてきた。犯罪の被疑者の発言権は公判を維持していく上で担保されてしかるべきだ。だが、『創』は、犯罪を起こす側に、あらかじめ、自らの犯罪の情報発信の場として暗黙のうちに位置付けられている印象がある。渡邊の場合、明らかにそうだ。

 

〈ここから先は『創』あての犯行声明にしか書いとらん おそらく大手メディアは犯行声明文などは公表しないと思うんや せやからお前のところだけに今回の脅迫で送ったやつは全種類コピーを同封したった もし他のメディアが公表しないようならお前らで公表してもらえんか(略)和歌山カレー事件の冤罪支援とか田代まさし擁護に比べたら風当たりも大したことないやろ 『噂の真相』がなくなった今はもうおまえらしかおらへんのや 頼んだで〉

(「'13年10月15日、脅迫文と、新聞・テレビ向けの犯行声明文、その中の『創』篠田編集長へ」、篠田博之「『黒子のバスケ』脅迫犯との約1年間のつきあい」『創』11月号2014年、創出版)

 

 かつて「犯行声明」を新聞社、テレビ局に送った犯罪の当事者は幾人もいた。だが『創』の指名のされ方はニュアンスが違う。例として必ずしも適切と思えないが、渡邊のケースも含め、三鷹の女子高生殺害で犯人によってリベンジポルノがFC2に流されたり、幾つかの事件で殺人犯がLINEで犯行をほのめかしたり、「犯罪」がどこか犯罪の当事者にとって「コンテンツ」化していないか。確かに犯罪の当事者が「手記」を書き、最後は作家として成熟した永山則夫のような例はある。しかし、現在の『創』においては、犯罪の当事者が手記を公にするというプロセスをルーティンとしてしまっている。少なくともそう渡邊に錯誤させた。太田出版と違いそれでベストセラーを出すわけでもなく、編集者なりの社会的使命でやっていることはわかるが、「犯罪の当事者が犯罪者であることを根拠に作者になること」は「本を書くこと」が今も多くの人々が切望する自己実現の手段であるこの社会で、「犯罪という自己実現」を可能にしている危うさは指摘しておきたい。渡邊は事件の当事者となることで容易に「著者」となった。進学校の出身なら相応の大学に行き、院に残り社会学の論文として、ここに引用した分析を公にすることも可能であったはずだ。その手間ひまを回避したことで彼の分析はネット住民以外に説得力を持たない。

 『絶歌』の印税の額ばかりに皆いきどおっているが、「自己実現としての犯罪」やその劣化版の「投稿コンテンツとしての犯罪」(アルバイトが店の冷蔵庫に入った写真を投稿するというレベルもふくめ)といった、犯罪の広義のメディアミックス化という、渡邊が体現した問題はまだ立論できていない。これはプラットフォーム企業の「責任」問題と一体であることは言うまでもない。

 

 犯罪者の「書く」権利は否定すべきでない。最低の人間にも「表現する権利」を与えることで民主主義はなりたつ。だからこそ、飛躍に聞こえるかもしれないが、「教育」という処方箋に結局は行き着く。

「書く」リテラシーが必要だということは、繰り返し言ってきた通りだ。

 

 

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大塚英志緊急寄稿「企業に管理される快適なポストモダンのためのエッセイ」2014.05.17

「角川歴彦とメディアミックスの時代・序」2014.06.04

【第1回】角川歴彦とメディアミックスの時代 2014.06.25

【第2回】角川歴彦とメディアミックスの時代 2014.09.30

【第3回】角川歴彦とメディアミックスの時代 2014.12.01

【第4回】角川歴彦とメディアミックスの時代 2015.01.30