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カテゴリ: 編集部より

記事カテゴリ:作品

「角川歴彦とメディアミックスの時代・序」

モニターとしてのブラウン管 大塚英志

  

 始まりは一冊の雑誌だった。まずそういう話からしよう。

 

 1970年の夏、角川歴彦(かどかわ つぐひこ)はアメリカにいた。父の会社である角川書店に入社して4年が過ぎていた。

 若者たちの政治の季節が終わろうとしていた。その頃の時代は、多分、今よりもずっと若者たちと政治が近かった。

 歴彦は1943年生まれだから、その時は二十代の後半になっていた。もう幾年か生まれるのが遅ければ、団塊世代とか全共闘世代と呼ばれていたはずだ。戦争が終わり、ようやくやってきた平穏な時代となった1940年代後半、いわゆるベビーブームがやってきた。1947年から'49年までの3年間に生まれた子供は毎年年間260万人を超え、3年間で延べ806万人である。2000年代に入ってからは年間の出生数は110万人を割っているから、今と比べれば2.5倍多い。数としては圧倒的多数の世代より、歴彦は少し早く生まれた。とはいえ彼の自意識は「戦争を知らない子供たち」だった。

 団塊世代の若者たちが大学生に差しかかった時代、彼らの間を政治の嵐が吹き荒れた。ベトナム戦争や核戦争の危機や、世界は若者たちが異議を唱えなくてはいけない出来事に溢れているように見えた。世界はまだアメリカとソビエトの二つの大国の拮抗状態にあり、自由主義と社会主義の二つの価値観のどちらかが世界の将来を決定づけるかの結論は出ていなかったにせよ、世界のあり方はそんなふうに二つの陣営、二つの思想で説明ができた幸福な時代だった。

 前の年、アポロ11号が人類で初めて月に下り立ち、この年には、大阪の万国博で展示された「月の石」を一目見ようと、人々が長蛇の列を作った。今よりずっと、未来、というものを人が素直に信じられる時代だった。声高にナショナリズムや絆などを叫ばずとも、人々が素直に同じ夢を見ることができた。

 それを可能にしたのがテレビだった。 

 「3C」、つまり、カー、クーラー、カラーテレビという三つのアイテムが幸福の象徴のように言われた。「豊かさ」や「幸福」のあり方も今よりはもっと単純だった。

 それは幸福の証でもあったが今思えば、実にささやかな豊かさの象徴でもあった。1958年に1000万台を突破したテレビ受信契約は、70年には2281万8567台に達していた。大学の講堂に立て籠もった大学生と機動隊との攻防も、ベトナム戦争の終結も、万国博も、そして政治の季節の終わりの始まりを告げるように、学生運動の活動家がハイジャック事件を起こした時も、人々はテレビというメディアを介してそれを共通体験した。

  大衆と呼んでいい、ひとのあり方がそこにはあった。

 歴彦は政治の季節の主役となった戦後生まれの若者より少し早く生まれたから、そのぶん、少し早く大人にならなければならなかった。父の起こした出版社である角川書店に入社したが、当時の角川書店といえば文学全集や教科書・辞書が最初に頭に浮かぶ出版社だった。角川文庫は岩波文庫のライバルのような古典や文学専門のレーベルだった。学問や文芸が古い形をとどめることの許された、例えば「教養」や「知識人」が、まだ、かろうじてその姿をとどめていた、恐らく最後の時代だった。団塊世代はそれをこの先、とりかえしのつかないほどに破壊していく。ぼくにいわせればこの時から現在のクールジャパンに至るまでのこの国の「見えない文化大革命」がずっと進行していくことになるのだが、それはこの連載の中で改めて論じるかもしれない。

  父の出版社に入社したものの、歴彦は自分のすべきことを未だ見出しかねていた。

 改めて話すが、中学のとき父に一方的に自分の夢を断たれ、そのことに未だ拗ねていた。仲の良かった友人の一人は恋人と、飛行機でなく船でアメリカに渡ってニューオリンズで皿洗いをしていた。ジャズの本場でゼロからジャズを修業するのだという。もう一人、父親が労働組合の幹部だった友人は歴彦と同様、父に反発もしたが、政治運動に結局、身を投じていた。自分の人生を自分で決めていた。 

 文芸が嫌いなわけではなかった。批評や詩を書いたこともあった。しかしそれで身を立てようとは思わなかった。ほかの同級生のように将来を夢見ることが、自分は禁じられているような気がどこかでしていた。兄が会社を継ぎ自分がそれを支える。嫌ではなかったが、しかし、自分の仕事にどういう夢を抱いていいのか分からなかった。

 夢の抱き方が分からなかったのだ。

 そして出版関係者に誘われるまま、創業者の二代目の弟である微妙な立ち位置の歴彦は北米の出版の世界を見て回る40日の見学ツアーに参加することになった。

 最初に、アメリカの街角に立った時、歴彦の目に飛び込んできたのは色とりどりの雑多な雑誌だった。街中のスタンドやドラッグストアでさまざまな雑誌が売られていた。まだ父はその頃は生きていたが、自分の目の黒いうちは週刊雑誌の創刊は許さない、が口癖だった。文芸や和歌・短歌についての雑誌はあったが、大衆を相手にした雑誌はその頃の角川書店では考えようもなかった。

 だから、なのかもしれない。

 父が禁じた雑誌に歴彦は魅せられた。

 日本にいては表に出さなかった好奇心を隠す必要はなかった。 

 そして、どのスタンドにもある『TV GUIDE』というA5判より一回り小さな雑誌が歴彦には気にかかって仕方がなかった。中身はテレビの番組表である。今はデジタル放送でリモコンのボタンを一つ押せば番組表は手に入る。しかし少し前までは、番組表を家庭に提供することは新聞のテレビ欄の役目だった。人々が新聞を取る目的は、もちろん世の中の出来事や政治の行く末についての正しいニュースを手に入れるためであるべきだったとしても、実際の大きな目的の一つはテレビの番組表にあった。

 無論、日本で同じような雑誌がないわけではなかった。似たような名前の雑誌は既にあった。アメリカの青年誌『PLAYBOY』の誌名を片仮名で表記した『プレイボーイ』と同様、戦後からしばらくの間はアメリカの雑誌名や商品名を勝手に借用することは珍しくなかった。少しまえの中国と変わらない。例えば、アメリカの大手ホテルとは無関係の、ワシントンホテルが普通に存在していた。

 日本版『テレビガイド』もその一つで、'62年に創刊していた。

 当時のアメリカでは『TV GUIDE』は毎週2000万部発行されていたという。 

 雑誌の発行部数としては、第一次世界大戦後に創刊した『リーダーズダイジェスト』という、さまざまな有名雑誌の記事を要約して一冊にまとめた雑誌が'62年に2300万部を記録している。アメリカの大衆の「教養」を象徴するような雑誌であった。しかし、それはアメリカだけでなく、カナダ、メキシコ、スペイン、スウェーデン、ペルーなどの各国語版を合わせたものだった。アメリカ国内で2000万部というのは『リーダーズダイジェスト』の国内版を超えていた。アメリカの人口は2億5000万人。日本は1億。もしアメリカで2000万部の部数のテレビ雑誌が可能なら、日本では単純に考えれば800万部の部数の雑誌ができる計算ではないか。

 頭の中で計算してみたのは、雑誌に対して否定的な父への口にさえ出せない反論のつもりであったが、歴彦がテレビ雑誌に魅せられたのは部数ばかりではなかった。

『TV GUIDE』は当時、タイム・インク社が発行していた。この会社は'23年に創刊されたニュース雑誌『TIME』の発行元であり、'89年に映画会社を傘下にもつワーナー・コミュニケーションズと合併し、さらにネットの会社とも合併して、現在のタイム・ワーナーとなる。出版社であると同時に、映画会社ワーナー・ブラザースやニュース専門チャンネルCNNを傘下に置く。歴彦の今の会社もこの形に近い。DWANGOとKADOKAWAの合併に驚く必要もないのは北米におけるこのような変容が20年遅れてこの国で始まったにすぎないからだ。

 当時はワーナーとの合併前ではあったが、HBOというケーブルテレビの会社の事業に進出する直前だった。当時、日本ではケーブルテレビというとアンテナの電波が届きにくい視聴者対策が中心であり、有線放送のテレビのあり方、そのものになじみがなかった。国土の広いアメリカでは、地上波だけでテレビ放送の電波を全米に届けるのは難しいという事情からケーブルテレビという有線放送のテレビが発達した。 

 恐らくケーブルテレビと『TV GUIDE』、そのどちらか一つだけを見たのなら、歴彦は何も感じなかっただろう。日米では、人口もテレビをとりまく環境も、ひとつひとつ言い出せばたくさんの違いがあった。実際、歴彦が日本に戻ってテレビ雑誌の話をすると、歴彦が日本にその雑誌のアイデアを輸入しようとしているのだと勘違いして、日本では新聞のテレビ欄があるからわざわざ雑誌を買う愚か者はいないと、すぐに諫めにかかってきた。世間知らずの二代目の思いつき、と受けとめられたのだろう。

 だが、そうではなかった。

 そんな単純に右から左にアメリカの雑誌を日本にもってくる積りはなかった。

 重要なのはテレビだ。

 テレビの持つ意味だ。

 アメリカのホテルには、当たり前だがテレビがある。アメリカの家庭でも同じだ。日本のお茶の間にもテレビがある。このテレビのある茶の間が戦後の日本では家族の団欒(だんらん)の象徴のようなものだ。

 家族の団欒、と考えて歴彦の胸がちくりと痛んだはずだ。

 歴彦には家族の団欒の経験がないわけではない。だが、普通の人々がありふれて手に入れることのできるテレビの前の幸福な家族を、歴彦の一家はうまく築けなかった。父が出版社の社長である以前に国文学者でもあり、家にいればずっと書斎に籠もりっきりであったから、というだけでなく、父は「家庭」というものをうまく作る術を持たない人だった。家族一人一人を愛しはしたが、それを「家族」として一まとめに愛することが苦手な人であった。

 だから、なのかもしれない。

 それだけではないのだろうが、テレビのブラウン管は歴彦にとって特別なものであった。

 戦後の日本人がテレビのブラウン管に見いだした夢を歴彦は普通の人々以上に求めていたのかもしれない。

 しかしそれは彼が得られなかったもの、失ったものへのノスタルジーではない。

 歴彦はアメリカでテレビの未来を見た気がした。

 アポロの月着陸や万国博を大衆たちはテレビで見た。テレビは未来を夢見る機械だったが、しかし、歴彦は「テレビの未来の夢」をアメリカで見たのだ。 

 アメリカのテレビのブラウン管はただ地上波のテレビ画像を映し出すだけではなかった。ケーブルテレビの受像器がそこにつながれていた。そしてその隣りには、必ず、『TV GUIDE』がある。テレビモニターにはインターネットどころかビデオデッキもコンピュータゲームも繋がれていない時代だ。繋がれていないのは、まだこの世に存在していなかったからだ。ここがもう今の若い人々には全く理解できないことだ。今はテレビの画面はただの「モニター」にすぎず、地上波やBSやCS、ケーブルテレビ、オンデマンド配信、web、様々な形で人々は「番組」を手に入れる。目の前にあるテレビは「モニター」にしかすぎない。しかし、'70年の時点でテレビを「モニター」という端末として受けとめ、番組とわけて考える、つまり、コンテンツと別のものとして理解する考え方は未成立だったのだ。VHSのビデオデッキやファミコンの出現でテレビのブラウン管は「モニター」という大衆の一人一人が自分で選んだコンテンツを表示する機械に変わったのだ。この変化を歴彦は北米で感じとった。そのことはやはり先見の目があったというべきか。

 「モニター」としてのテレビがある。その隣にテレビの情報を伝える巨大な雑誌が成立する。このテレビのための雑誌というものも雑誌のあり方からすれば特異だった。

 父は雑誌の全てを禁じたわけではない。父の作った雑誌は文学や思想や詩についての雑誌だった。父はまんがの雑誌も作るなとよく言ったが、まんがも新しい文芸の一つの形なら、そういう、新旧の「文芸」を掲載する雑誌が一つの雑誌のあり方だった。

 もう一つはニュースを伝える雑誌だ。その当時、新聞社とそれから大手の出版社は必ずと言っていいほど、週刊のニュースを扱う雑誌を持っていた。ニュースといっても、しかし政治や国際社会のことを扱うことはあっても、不幸な事件や有名人のスキャンダルに対する好奇心に応える記事が中心だった。

 どちらにせよ、雑誌とは文芸や思想、あるいはニュースのいずれかを伝えるメディアだった。だがテレビ雑誌は違った。テレビ雑誌が伝えるのはテレビの番組表だ。つまり「情報」である。中央大学の学生、矢内廣(やない ひろし)が映画館の上映情報を中心とする『ぴあ』の創刊をし、「情報誌」という概念が成立するのは'72年のことだ。だから、「情報誌」、つまり情報を伝える雑誌という概念はまだ世の中に成立していなかった。

 無論、メディア、という言葉はあった。しかし、「マスコミ」の方が一般的だった。

 雑誌は、文芸や思想やニュースを伝える「メディア」だ。

 テレビも、テレビドラマという「文芸」の進化形のようなものや、ニュースを伝える「メディア」だ。

 ということは『TV GUIDE』は「メディアについてのメディア」ということになる。

 それが歴彦には不思議な感じがした。

 ブラウン管に繋がれたケーブルテレビのケーブルは、テレビのブラウン管にテレビ以外のものが映し出される可能性をしめしているように歴彦には思えた。アメリカのケーブルテレビは電波の届きにくい地域に地上波の番組を流すだけでなく、有料で独自の番組を制作・放送していたのだ。

 つまり、このブラウン管は、地上波以外のさまざまな「何か」を映し出すことができる。

 そして、まさに歴彦が北米にいた時、タイム社はケーブルテレビ事業に接近することで、その「何か」を出版社でありながら作ろうとしていた。その理由に興味があってタイム社の副社長に歴彦は素直に質問をぶつけてみた。

 すると「出版業はインテリジェンス産業である。書物と同様、映画も音楽も美術も全てインテリジェンスである」という答えが返ってきた、という。インテリジェンスという英語にはうまく日本語が当てはまりにくい。知性や知識、情報のことを言うが、近頃では国家の諜報活動のことをそう呼ぶ時もある。「知」と一文字で書いてみても、「教養」とは別の言葉で言ってもしっくりこないが、しかし父が生涯を捧げた国文学や詩も、テレビのブラウン管が映し出すものも、多分、同じ「インテリジェンス」なのだと歴彦は思った。恐らく、歴彦の中でこの「インテリジェンス」と、今日、ありふれて使われる「コンテンツ」は同義だ。無論、現在の歴彦的KADOKAWAの「コンテンツ」の中にどの程度「インテリジェンス」が見出せるのか、という厳しい批判があっていい。「コンテンツ」が「インテリジェンス」になりうるのか、「インテリジェンス」がただの「コンテンツ」になっていってしまうのか、KADOKAWAとDWANGOがこの先、海外で問われるのは実はこの点である。そこは本当に覚悟しておくべきだろう。

 話を戻そう。歴彦は出版社をこの時、コンテンツ産業だということを発見したのである。そう考えた時、テレビもまた「コンテンツ」の容れものという点で本と同じになる。するとテレビというメディアに全く違う可能性がある気がしてきた。

 だからこそ「メディアについてのメディア」という雑誌のあり方も面白いと思ったのだ。

 雑誌というメディアももっと別の何かの入れ物であってもいい、と感じていた。

 ここでもう一点、確認しておく。まだこの時はインターネットは存在していない。その始まりの形として'69年にUCLAとスタンフォード研究所、そして少し遅れて二つの大学が加わり、四つのノードで、コンピュータのネットワークが作られたばかりだった。

 無論、歴彦はそのことをまだ、知らない。

 だが、かつて「テレビのブラウン管」であったものは、それから40年かけてまったく違うものに進化しようとしていたのである。そのことに気付いていた人はそうたくさんはいなかった。ブラウン管はモニターに代わり、いまやタブレットやスマートフォンの画面に替わっている。それは'70年代から始まった「変化」だったのである。

 今、ぼくたちの手にあるスマホやタブレットやノートパソコンはテレビを映し出すことも出来るがそうでないものをいくらでも映し出すことが出来る。テレビとパソコンの境界はもうなくなりつつある。

 '70年の夏に歴彦がその未来をどこまで見通せていたかは分からない。あったのは本人にいわせれば「テレビのまわりに色々なものがつながっている」イメージだけだ。

 だがそれから6年後、1976年、歴彦の兄・春樹(はるき)は映画事業に進出する。

 前年、父は逝っていた。

 兄は本と彼の映画を宣伝するためにテレビという大衆メディアの力を全面的に使おうとした。

 最初、映画に進出した兄を見て、歴彦は、兄は自分と同じ夢を見ていたのだ、と思った。出版社が映画を作り、そして本を売り、テレビで宣伝する。コンテンツ企業としての出版社という未来像である。

 しかし、その夢のあり方は兄弟で決定的に異なっていた。

 多分、兄はテレビについての古い夢を見ていたのだ。しかし、弟はテレビについての新しい夢を見た。

 そして皮肉なことに、古いテレビの象徴する時代の、最後の輝きの中で兄は寵児(ちょうじ)となる。 〈つづく〉


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(written by 大塚英志



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