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【第1回】角川歴彦とメディアミックスの時代

教養の運命 大塚英志

 

 教養、ということばがかつてあった。歴彦(つぐひこ)は「インテリジェンス」ということばとしてタイム社の副社長からこれを聞いた。

 面倒だが、まず、「教養」から始めたい。

 そして、ここで、教養ということばを試みでウィキペディアでの記述のされ方を確かめてみる、と記した時点で、ぼくは既に「教養」とかつて呼ばれたものの変質を実は端的に物語ってしまっている。つまり、一つのことばから何かしらの議論を組み立てようとした時、かつては「辞書」からそのことばの定義なり語源を拾い出して議論を組み立てていく、というのが一つの作法としてあったからだ。だが恐らくある年代にとってはもはや「辞書を引く」という行為そのものが消滅しているにちがいない。例えば「辞書」の代名詞であった岩波書店の『広辞苑』もまた、「辞書」という書物の形以外にCD─ROM、電子ブック、電子辞書、携帯電話端末のサービスという形で書物としての辞書の形を離れている。

 その『広辞苑』は、昭和の初め、民俗学や言語学などの出版社として知られた岡書院・岡茂雄(おか しげお)の発案と関わりがあったことは知られている。『広辞苑』は紆余曲折の末、戦後、岩波書店から刊行される。ここで、岡茂雄の名を出すのは、その弟が柳田國男(やなぎた くにお)の高弟である岡正雄(おか まさお)であり、この物語の主人公である、角川春樹(かどかわ はるき)・歴彦兄弟の父親である角川源義(げんよし)が折口信夫(おりくち しのぶ)門下であるからだ。源義は柳田の薫陶も受けている。

 しかし、ここまで記し、さて、それでは柳田國男と折口信夫の関係についてここでどこまで説明すべきか否か、ぼくは戸惑う。ある時までの「教養」の枠のなかではそれは自明のことであり、そして今は恐らくはそうではないからだ。ゼロ年代以降あたりからの時代にあってはwebやアプリに関わることばや概念が「教養」といえば「教養」で、それはぼくにはさっぱりわからない。ぼくは今の赴任先のある教員(情報論の専門家であるらしい)が「情弱」という語を「無教養」と同じニュアンスで使うことにただ困惑しかしない。しかし、今、現在、この国、あるいはこの国以外も含めて、「教養」の断層のようなものが存在し、それはいつの時代もあった世代間ギャップとはやや異なるようにもおもえる。

 「教養」の定義の話から既に大きく脱線してしまっているが、もう少し『広辞苑』の話を続ける。『広辞苑』は中高生から家庭向きの国語辞典として発案されたと岡茂雄の回想録『本屋風情』にはある。同じことがウィキペディアの「広辞苑」の項目にも書いてある。実際にこの辞書が戦火を潜り抜け一冊の辞書として刊行されるには20年の月日を要するのだが、この、当初想定された読者層にひとまず注意を払っておきたい。つまりいわゆるそれは必ずしも「知識人」や「エリート」ではない、ということだ。むしろ「教養」の担い手としての「大衆」というものが、そこにある。

 さて、ここでウィキペディアの「教養」の項目をたしかめてみよう、という冒頭の書き出しにもどる。

 そこには、まず、こうある。

──教養(きょうよう)とは個人の人格に結びついた知識や行いのこと。これに関連した学問や芸術、および精神修養などの教育、文化的諸活動を含める場合もある。

(ウィキペディア「教養」より)

 

 つまり、人間の「人格形成」に必要な知識や学問、芸術のみならず、修得していく行為そのものや、何よりそれによってもたらされる人間のあり方を「教養」という、ということは、うっすらとだが伝わってくる。

「教養がある」と「勉強ができる」がニュアンスとしてちょっと違うのはそういうわけだ。

 さて、ウィキペディアの記述でむしろ注意すべきは以下の点にあるとぼくは感じる。

 

──教養の内容は、時代・社会とともに変化する。また、教養が成立するには社会の一定の範囲に共通の価値観が存在していることが必要である。

(同)

 

 そもそも①「教養」とは特定の時代・社会の中に共通の価値観があることが前提であり②しかし、それは時代によって動く、ということである。「共通の価値観」とは、具体的には「この範囲についての知識があれば、他の人たちと一緒にそれなりにうまくやっていけるよね、というコンセンサス」のようなものだ、と思えばいい。そして、ウィキペディアには明治以前の「教養」の具体例としての和歌や漢籍に通じていることが教養の範囲だったと書かれている。実際に「教養」として、和歌や漢詩が作れることがけっこうきちんと求められていたことは、明治8年生まれで没落した医師の家に生まれ決して豊かでなかった柳田國男が小学校時代に書いた長文の漢詩が残っていることでも窺い知れる。柳田は10代の半ばになると、松浦辰雄(まつうら たつお)という短歌の先生につく。それも彼の人生の修養の過程であった。こういった、明治青年のそれこそ「教養」をめぐる物語は、ぼくのまんが作品『恋する民俗学者』(中島千晴作画)で描かれているのでそちらを参照していただくとして、話をすすめる。

 そういう、いわゆる「古典」からなる「教養」は明治以前に既に成立していた。無論、庶民とは無縁の形で、武家や文人たちのような、特別な階級のための教養である。それが近代に入ると西欧から入ってきた哲学や文芸書を中心とする「教養」が旧制高校の学生たちを中心に成立する。旧制高校から大学に進むのはそれでもエリートが中心だったけれど、それでも、「階級」がはっきりして固定されていた近世と違って、近代という時代は試験に合格すれば学校に入ることが出来た時代である。つまり、学校制度と「教養」が結びつく。大学の1—2年で専攻と関係のない「一般教養」や「教養課程」が存在するのは(そういう言い方をもうあまりしなくなったが)その名残だ。

 その一方で「教養」は出版というメディアと結びつく。「現代人の現代的教養」をスローガンに1938年に刊行する岩波書店の岩波新書がその「教養」の具体的な姿、つまり「本」という形をとった「教養」ということになる。

 とはいっても、何だかよくわからない、という人は、宮崎駿(みやざき はやお)『風立ちぬ』を思い出してみるといい。あの映画の中にヴァレリーやらトマス・マンやら(別にしらなくてもいい)、何だか聞いたことのない昔の作家の名前がちらついて意味がわからない、と感じたかもしれないが、理科系の主人公の青年が車中で西欧の詩集を読んでいる、あの感じが「教養」である。そして、若者や大学生ではない主婦がそういう「教養」についての本を手にした時、その手懸かりとなる「辞書」として用意されたのが、中高生や家庭向けの『広辞苑』(正確にはその前身の「辞苑」)であった、ということになる。そのことをウィキペディアは以下のように記述する。

 

──古典に通じ、ハイカルチャーを身につけることが伝統的な教養の重要な要素であったといえる。これらは、主に社会の指導的階級、知識人あるいはエリートによって人格向上の一助とされてきた。

近代以降は、出版技術の発達に始まり、大衆の地位・経済力向上などによる普通教育制度の確立、マスメディアなどの普及により大衆が教養を身につける機会は増加していった。

(同)

 

 つまり「教養」というのは社会の上層部を形成する「エリート」たちの文化として、その時代や地域ごとの見えない約束事として存在していた。けれど近代という時代に入り、社会の担い手が「大衆」という新しい存在に移り、彼らの間に出版に始まり、現在のwebに至るまで、広い意味でのマスメディアが発達していく中で「教養」の範囲も、そしてその担い手たちも変化していくことになる。そしてある時まで「教養」の具体的範囲を『広辞苑』のような辞書や、ぼくが子どもの頃にはどの家庭にも大抵どれか一組ぐらいはあった文学全集や百科事典、図鑑の類いが具体的に、大体この辺りだよ、と示していた。今はそれがウィキペディアの役割である。だから、ここまでぼくが「教養」についていろいろ書き記してきた時、実はぼくのあらかじめしっていた事以外は、資料としては、ウィキペディアの記述しかわざと使っていない。

少し前までぼくは大学の先生をやっていたが、その時は、ウィキペディアをコピペしてレポートを書くな、と怒っていたものだが、実際にはウィキペディアの記述だけを組み合わせてある程度のレベルの本を書くことは、本当はもはや不可能ではない。恐らく現在の水準の新書ならウィキペディアの記述のみを資料に書き上げることは可能だろう。

 つまり、あの『広辞苑』の「厚さ」(と記して、しかし、現物を思い浮かべられない人ももはや少数派ではない)の中にかつての「教養」の具体的な範囲が一つのイメージとしてあったとすれば、今はウィキペディアの項目数の中に同じものをイメージしなくてはいけない。そして、それはプロバイダーへの接続料その他のコストは必要とはいえ、誰にでも無償で手に入れることができる。そうやって「教養」は近代という時代のなかで一方では学校、一方ではメディアと結びつきながら、段々と一部のエリートのものから、より広い範囲の人々にアクセス可能なものへと変わっていった。

 

 さて、ぼくがこれから語るのは、一つの側面からみた時、この国の「戦後」に於ける「教養」の交代劇である。「書物」(そこには辞書も雑誌も文庫も、文学もラノベも、紙の本も電子書籍も含まれる)と「教養」と呼ばれるものの関わりかたや、質や、担い手がいかに変わっていったのかについて具体的な事実や出来事をもとに考えていきたい。特に、1980年代から'90年代に起きた「教養」の劇的な変化について、それを一つの出版社を舞台に描いていくことになるのかもしれない。

 具体的には、連載の中で改めて、「ウィキペディア以外」の文献や肉声による証言から議論を組み立てていくつもりだが、その交代劇はひとまず、以下のようなイメージとして正すことが可能だ。

 まず、旧「教養」の時代。

 つまり近代以前の国文学的教養に、西欧文学や哲学を接合した明治期から昭和初頭に於いての「教養」の時代。それは当然、出版文化と結びついていたが、ハイカルチャーを大衆に「啓蒙」していくという構図が前提であった。そういう時代は、少なくとも1960年代頃までは継続する。

 大衆の時代。

 大衆の時代の始まりは大正末から昭和の初頭まで遡れる。その最後のピークが'80年代初頭にやってくる。'60年代末から'70年代初頭、「教養」の担い手としての大学生の文化にポップカルチャーが侵入する。それを端的に象徴するのが「劇画」であり、ファッションブランドである。大学生という教養層の「大衆化」が始まり、「教養」と「大衆文化」が接合していく。それが'80年代にあからさまになって行く。これについては批評家の吉本隆明(よしもと  たかあき)が'80年代の半ば「重層的な非決定」というやや面倒な言い方で表現している。つまり自分がファッション誌に書くDCブランド論も柳田國男について論じたものも、あるいは「本」としてはマルクスの『資本論」も黒柳徹子(くろやなぎ てつこ)『窓ぎわのトットちゃん』も価値としては等しい。そういう風に、かつてのハイカルチャーと大衆文化が混然とし始めた時代のあり方を言う。芥川賞という文壇の内輪のイベントが、ニュースとして注目され、即、ベストセラーになるような、そういう時代の始まりである。

 「教養」と「大衆文化」があまりにあっけらかんと混交して行く事に当時はみんな驚いたものだ。今ではぼくのような、元々は「萌」雑誌の編集者だった人間が大学教授になるのは珍しくもなんともないが、当時は、ありえなかった。しかし、あの時はみんな、吉本の発言に驚いた。同じく批評家の江藤淳(えとう じゅん)は、'76年の村上龍(むらかみ りゅう)の出現を文学のサブカルチャー化として批判しながら、'86年には「文学を教養としない文学」、つまり、まんがとかアニメの受け手が「文学」など読まないで「文学」を書く、というあり方に対し、仕方がないとばかりに態度を改めてしまう。文芸批評家が何かを言って、それらはが、大学生や若者にとって一つの事件だった時代の最後の出来事である。

 そんなふうに、「教養」は「大衆」に呑み込まれていく。この大衆文化に呑み込まれていく教養に名付けられた名が「サブカルチャー」であった。

 だから、最後にくるのは「サブカルチャーの時代」である。それは'90年代の前半に一挙に実現する。それまでは、「教養」ということばを使った瞬間、それまではピラミッドの頂点に「ハイカルチャー」としての「教養」があり、その広がっていく裾野に大衆や大衆文化がある、という図式が念頭にあった。無論、ある年齢から上の人々や一部のアカデミズムの人たちには時代錯誤的にそういう感覚は今も残っているだろうが、今や、文化の優劣(と言うものがあるとは思わないが)はブログのアクセス数やツイッターのフォロワーの数に象徴される。東浩紀(あずま ひろき)と初めて出会った時、彼がグーグルの検索のヒット数で宮台真司(みやだい しんじ)や福田和也(ふくだ かずや)やぼくと自分の数の差について語り、すぐにそれを上回る、といったことの意味が実のところ、その時も、今もぼくにはピンとこない。

 とにかくあらゆる領域も作り手もフラットに横一列に並んで棲み分けている。吉本隆明の「重層的な非決定」とは、本当は、ハイカルチャーと大衆文化の混交ではなく、その先で、文学もマルクスもまんがも『アンアン』も、どれが上とか下とかという価値なんかこれからなくなってしまうよ、という予言だった。その予言が本当になってしまった時代である。その予言が実現した結果、大衆は領域ごとの「オタク」に分断される。おおきなひとまとまりの「大衆」から、ジャンルごとの小規模のグループに分断される「オタク」となる。「江藤淳は「全体性」から切断された部分化された「文化」をサブカルチャーだと定義したが、その意味に於いてサブカルチャーの時代なのである。つまり、「世界」(具体的な意味でも象徴的な意味でも)全体を見透せる、ひとまとまりの共通の枠組としての「教養」は、ジャンルごとの「知識」に分断されたのである。

 このようにして'80年代において教養の時代、大衆の時代、サブカルチャーの時代の三つが劇的に交代して行ったのである。

この連載では、この「教養」をめぐる三つの時代の交代劇を'80年代に於ける一つの出版社とその経営者の一族、即ち、角川書店と角川源義、角川春樹、角川歴彦の3人の父子の出版人としての姿と、その相克を追うことで描き出す。

 何故、角川書店なのか、といえば、この時代の変遷に、この出版社が良くも悪くも最も忠実であったからだ。

 実際、「角川書店」ほど、そのイメージが変化した出版社は珍しいのではないか。

 角川源義の時代、つまり1958年生まれのぼくが中学生であった1970年代の時点では、角川書店は国文学などの全集や教科書が中心の岩波書店と並び称される出版社だった。実際、少女まんがのキャラクターに、勉強はできるけれど女の子に興味のない男の子の名として「岩波くん」と「角川くん」が登場したことさえあった。民俗学者・折口信夫の教え子としての角川源義の出版社は、国文学と近代小説という「教養」を大衆に届けようとする出版社だった。辞書や文学全集や教科書の出版社であり、角川文庫も古典や近代文学を中心としていた。岩波文庫のライバルとして角川文庫はあった。

 その源義は'75年に亡くなり、'70年代半ば、長男・角川春樹の時代になると「角川映画」の出版社に急変する。その劇的な変化は角川文庫に端的に現れる。確かに岩波文庫に比せばやや大衆小説よりの本も収録されていたとはいえ、角川文庫はやはり古典・国文学のレーベルであった。しかし、源義の死の年、角川文庫は「横溝正史(よこみぞ せいし)フェアー」を組む。そして'76年、角川映画『犬神家の一族』が公開され、角川のイメージは一転する。大衆宣伝で本と映画をブロックバスター的に売り尽くすメディアミックスである。「大衆」という巨大なマスにテレビメディアの力で本と映画のタイトルを宣伝し、そして書店と劇場に動員していく。この「大衆」というマスに正面から挑み、その存在を確信できた点で角川春樹は幸福だった。角川春樹は古今の名篇の詩集に写真をふんだんに使う本作りをし、編集者として頭角を現すが、彼は「大衆」に「教養」も「大衆文化」も同時に届けようとした。その意味では文藝春秋や講談社に近い出版社に角川は変化したといえる。

 これは改めて触れるが、歴史的に見れば「大衆」は1920年頃、歴史の主役として登場し、ハリウッドやフォード車が象徴するアメリカの資本主義的消費文化、他方ではロシア革命やファシズムといったポピュリズムと政治の結びつきをもたらす。角川春樹の時代とは、日本社会で「大衆」が「大衆」であり得た最後の時代でもあった。

 この頃の角川書店において大衆文化と教養の混交を象徴するのが、吉本隆明の主要な著作が「わかり易くなって」、つまり平易に書き換えられ、角川文庫に収録された出来事だろう。

 そういう角川書店が次にあったわけだ。

 「大衆」ではなく「分衆の時代」だと広告代理店が言い出したのは'85年のことだ。これも、ウィキペディアの定義に従えば「ある製品が普及し1世帯あたりの平均保有数が1以上になること」をいう。

 つまり、テレビがお茶の間にあって、一家みんなでそれをみた最後の時代が角川春樹の時代だ。

 しかし、テレビが子どもの個室にもおかれ、あるいは、「マイコン」と最初は言われたパソコンが家庭に入り込む。ゲームというメディアはそうやって台頭する。それは、スマホという形で個人個人が情報端末をもつ時代の始まりである。つまり歴彦の時代である。「大衆」という老若男女(ろうにゃくなんにょ)からなるマスから、個室のテレビでアニメをみたり、パソコンで黎明期(れいめいき)のコンピュータゲームに触れた若者たちが最初の「オタク」として、「分衆の時代」を象徴した。

 '83年、角川は、角川歴彦のもとで、『コンプティーク』というコンピュータ雑誌、'85年にアニメ誌『ニュータイプ』を創刊する。コンピュータゲームとアニメーションという「オタク」文化の専門誌を創刊し、そして、さらに、コンピュータゲーム誌からファミコン誌、コミック誌、テーブルトークRPG誌、ノベルズ誌といったコンピュータゲームファンを更に細分化した形で対象とする雑誌が分岐し、創刊していく。「大衆」や、「子ども」や「若者」といったマスではない、領域ごとに趣味や嗜好が特化したファンが、アニメやゲームといった、サブカルチャーの周辺に現れた。この新しい「オタク」層が「大衆」と決定的に違うのは、一つ一つの市場そのものは従来の「マス」と比すると「小集団」であることだ。しかし「小集団」といってもそれは数万から数十万の市場である。つまり「マニア」はどの時代も少数ずつどの分野にも存在したが、「オタク」は、「市場」としての一定の規模と特性を持っていた。角川春樹が大量宣伝で日本人の大半、1億人近くに横溝正史の名を知らしめ、そして横溝の文庫40点を1800万部販売した。'76年の出来事である。単純計算で1点あたり、45万部である。すると、作品タイトルを知る者に比して、購入者は実は少ないことに気がつく。つまり、経済効率は必ずしもよくない。

 それに対して、この「オタク」市場は全く異質だった。作品タイトルを知っている人は角川映画原作小説の10分の一どころか百分の一ほどである。しかし、知っている者の大半は同時に、その作品の購買層である。特化した雑誌メディアが囲い込んだ特定のファンにのみ情報発信するので、巨額の宣伝費は要らない。同時にそうやって囲い込まれたファンは一つの商品に極端な購入の仕方をする。つまり1人の消費者が集中的かつ高価格の商品を購入する。わかり易くいえば、AKB商法の原型のようなものだ。

 単純計算だが、45万人しか知らない作品を文庫の倍の値段で45万人に売れば、売り上げは横溝正史と同じである。しかも、映画『犬神家の一族』のファン当時、1万円前後した映画のビデオ版までは購入しないが、「オタク」たちはビデオを購入する。オリジナルアニメビデオ、と呼ばれたテレビや映画館という、従来の「大衆」に対しての映像の売り方と異なる「分衆の時代」に適応したかのような映像のあり方は、角川春樹と角川歴彦の違いを象徴的に物語っている。「オタク」たちは、ビデオ、ゲームソフト、高価格の書籍と関連するアイテムに囲い込まれ集中的な消費をする、経営する側から見れば、今のことばでいえば、「コスパのいい」(この言い方をぼくは嫌いだが)お客ということになる。

 その象徴が水野良(みずの りょう)の小説『ロードス島戦記』であった。'80年代後半、新聞社が毎年行う高校生対象の読書調査で、この小説は、その年、彼らが読んだ小説として(そもそもテーブルトークRPGという、知らない人には説明しようのないゲームのスピンオフのような形で登場したこの小説は、ライトノベルズの起源の一つなのだが)、毎年、夏目漱石の小説と1位、2位を分けあった。漱石は読んだことのない人でも知っている「古典」である。しかし『ロードス島戦記』は読んだことのある高校生しか知らない。

 角川春樹はメディアによって大衆を動員し、横溝作品をいわば「教養」と同じ位置に持っていった。そこには大衆文化によるハイカルチャーへの挑戦という野心があった。

 しかし、『ロードス島戦記』と漱石の間には、ただ同じアンケート内で名が挙がった以上の関係はない。吉本が予見した「重層的な非決定」が、批評家の議論ではなく、実現してしまったのである。そして、それは'80年代初頭に出来上がった、いわゆる「オタク文化」が出版メディアを介して「教養」化していくという現象の始まりでもある。現在の日本にとって「日本文化」が第一にサブカルチャーでしかあり得なくなった事態の秘かな幕開けでもある。

 今、この三つの時代をその担い手と、彼らが関わった雑誌メディアと代表的な角川文庫作品を並列してみる。

 

 角川源義と『短歌』『俳句』、堀辰雄『風立ちぬ』。

 角川春樹と『野性時代』、横溝正史『犬神家の一族』。

 角川歴彦と 『コンプティーク』、水野良『ロードス島戦記』。

 

 角川源義を象徴する文庫は他にもあるが、かつて「教養」が「教養」であった時代の青年たち、つまり源義自身の愛読書としてこの書を上げた。彼がもっとも自分の手で出版したかった作家の一人が堀辰雄である。

 こうして見た時、あらためて、三つの角川書店の変遷が手にとるようにわかる。

 例えば他の出版社、岩波書店でも新潮社、文藝春秋、講談社でも何でもいいが、これほどまでにパブリックイメージが変化した出版社はないのではないか。

 文藝春秋なら若い人が見向きもしなくても『文藝春秋』がこの出版社の看板であることは一貫している。

 講談社もそうだ。明治時代、講談の寄席(よせ)の客席で、国会の速記者たちがアルバイトで講談の速記をとり、それを活字にした講談速記本を売った出版社だから、この会社は「講談社」というのである。講談師と著作権の問題で揉めて、それではと、若い無名の作家に講談と同じ内容、つまり、今でいう時代小説を書かせ、その一人が例えば吉川英治(よしかわ えいじ)となる。そして現在は、その吉川の『宮本武蔵』が井上雄彦(いのうえ たけひこ)の『バガボンド』の下敷きとなっている。無論、変わっていった部分に目を向ければ何とでも言えるが、しかし「講談」から始まった出版社という幹の部分だけはやはり、一貫している。

 ぼくはここで変わらなかったことと変わっていったことのいずれかに対してどちらが正しかったかと価値判断するつもりはない。個人的に言えば、学生の頃、古本屋で買ったエイゼンシュテインの『映画の弁証法』や、フレイザーの『火の起原の神話』といったかつての「角川文庫」は今もぼくの本棚にあるが、'80年代以降の角川文庫は自分のものも含めてぼくの本棚にはない。ぼくはぼくの書くものに昔も今もこれからも何の価値も見出さない。だからずっと角川から本を出しているようなものだ。だがそれは全くぼくの個人的な選択であり、その価値を誰かにここで押しつけようとも思わない。

 重要なのは、一つの出版社の変遷の中に、この国の教養と大衆の関わり、そしてそれを否応なく結びつけるメディアのあり方をめぐる歴史が極めてわかり易い形で、角川源義・春樹・歴彦という3人の父子の交代劇の中に読みとることができる、ということだ。だから、この連載が想定する若い読者、具体的には2000年代以降に「青年」となった世代にとってはラノベやオタクや萌が日本文化と化し、あるいはAKBのようなアイドルのあり方や、目の前にあるwebやメディアのあり方の根幹が立ち上がっていく、いわば「現在」の始まりをそこに感じとることができるだろう。そしてぼくと同年代、そして上の年代は、「教養」が「大衆」に呑み込まれ、一つの時代が終わっていった、そのことの意味を思い出すことになるかもしれない。何より旧世代は、恐らくそこで旧世代は'90年代初頭の「角川騒動」と呼ばれた角川兄弟のいささかスキャンダラスな確執をただちに思い浮かべるはずだ。

 なるほど、角川春樹プロデュース作品の『犬神家の一族』のテーマはそもそも家督の相続をめぐるものであった、とここで書き出せば、兄弟の確執を伝奇小説ばりに書けないわけではない。

 だが、それを書いてみたところでありふれた兄弟の確執にしかならない。むしろ、重要なのは、彼らの確執を彼らに求めたものは「教養」や「大衆」をめぐる時代の劇的な変化である、ここまでひどくざっくりと概観してきた、戦後の日本社会に於ける教養や大衆やメディアの劇的な変容が彼らの確執の本質である。そういう社会の変容が一組の兄弟の確執の背後にある、と考えるべきだ

 正直にいえば、角川源義の国文学者的素養や、文学青年としての繊細さを、ぼくは最も愛する。柳田門下生を直接の師に持つぼくにとってはその意味で源義が最も理解しやすいからだ。だからこそ民俗学が見出した「日本人」や「大衆」の手触りが確実に源義の中にあったことは想像がつくし、「教養」が本当は書物の中だけでなく口承の民俗文化の中にあったことも彼は実感していたはずだ。だからそれがいかに変容していく運命にあったのかも理解できていたのだと感じる。だからこそ、その延長の中で「教養」の枠を大きく組み換え、「大衆文化」と巨大なメディアの力で統合しようとした角川春樹の成功とその後の敗北の意味も、オタクとサブカルチャーの時代に敏感に反応した角川歴彦の成功と、この先に待ちかまえるであろう隘路(あいろ)も、幾ばくかは理解できるというものだ。

 重要なのは、この父子あるいは兄弟もまた時代の変容の中で翻弄された人々であり、その表層だけを記述すれば、家族の愛憎劇となる。だが、どのような個人的な物語も、否応なく歴史の大きなうねりとは無縁ではない。

 書くべきなのは、そのうねりそのものだ。

 

 この連載では'80年代から'90年代前半に掛けての時代の変容、特に「教養の時代」の終わりの後で起きた、「大衆文化」から「サブカルチャー」への変容というより本質的な変化のあり方を、その近くでそれを目撃した人間の一人として──例えば、ぼくは、「角川騒動」の渦中、角川メディアオフィス全社員が退社し、その後、メディアワークスが設立される際にその事実を事前に知っていた例外的な部外者であり、その資本金調達に協力したことさえある──記述していこうと思う。ぼくもまた、そのうねりに巻き込まれた一枚の木の葉ではあるのだ。

 無論、あの時は誰一人として、あれらの出来事が時代のうねりのその真上で起きた出来事だと考える冷静さなど持ち合わせてはいなかったが。 〈つづく〉

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(written by 大塚英志



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