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カテゴリ: 編集部より

記事カテゴリ:太田克史のセカイ雑話

大塚英志緊急寄稿「企業に管理される快適なポストモダンのためのエッセイ」

星海社ウェブサイト『最前線』において6月中旬の開始を予定している大塚英志氏の新連載『角川歴彦とメディアミックスの時代』の公開に先駆けまして、大塚氏から緊急寄稿がありましたので急ぎ僕のブログを通じて公開いたします。タイトルは企業に管理される快適なポストモダンのためのエッセイ」

先日発表されたKADOKAWA・DWANGOの誕生が放つ巨大な重力から逃れて生きることは、ライトノベル、漫画、アニメ、ゲーム、ネットなどのただ中で生きている僕たちにとってはほぼ不可能な状況になることでしょう。だからこそ、僕たちはたった今、個人個人が真剣にこのKADOKAWA・DWANGOの合併劇について考えるべきなのではないでしょうか。そういった意味で、この緊急寄稿は必読のテキストであると考えます。

また、新連載『角川歴彦とメディアミックスの時代』では、「メディアミックス」の誕生の原点とされる80年代史と角川源義、春樹、歴彦の角川家三代の対比列伝を通じて、これからのメディアの未来を大塚英志氏があぶりだします。連載の開始を楽しみにお待ちくださいませ。



星海社 太田克史

 

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企業に管理される快適なポストモダンのためのエッセイ

 

 KADOKAWAとドワンゴの合併のニュースを聞いて軽い吐き気がした。

 だから、以下のエッセイを書いておく。

 

 この合併のわかり易い解説としては、ニコ動的なweb上のコンテンツ配信のインフラと、KADOKAWAの保有するコンテンツが一体となることで補完関係になり相乗効果が期待できる、というもので、記者会見のリリースや経済新聞の記事はこのような合併の効果を説明する。

 しかし、KADOKAWAがそもそもコンテンツを生産する従来型の企業であるという理解は全く正しくない。なるほど、この会社には『エヴァンゲリオン』『機動戦士ガンダム THE ORIGINE』をはじめとした大量のコミックスやラノベのライブラリーが存在する。『時をかける少女』のようなアニメーション映画もある。

 だが、角川のコンテンツの多くは外部に著作権がある作品の「版権」作品(『ガンダム』『エヴァ』だけでなく、東京都の条例に引っかかった例の作品も、外部の版権の「コミカライズ」である)であり、コンテンツの総数に対して、一次的な権利のハンドリングができる作品は必ずしも多くない。KADOKAWAの今や一レーベルに過ぎない「角川書店」(KADOKAWAという巨大出版社の一セクションとして、旧角川書店、アスキー・メディアワークス、メディアファクトリーなどが存在する)の5月のコミックスのリリースのタイトルの内、自社版権でないものは、©表記などから考えると十七作中十四本前後(権利関係は正確には契約書を見ないとわからない)である。そういう自社作品制作能力の弱さをメディアファクトリーなどの企業の吸収合併で購ってきており、今やあの(ヽヽ)『はだしのゲン』もまた出版社ごとKADOKAWAのコンテンツとなっているがライブラリーとしては他の出版社と比して脆弱である。

 冷静に考えると、KADOKAWAのオリジナルのコンテンツは、電撃文庫、スニーカー文庫にメディアファクトリーやエンターブレインを加え、出版に独占禁止法が適応されたら明らかにアウトの、寡占状態のラノベの分野に於いてのみ突出している。無論、『ケロロ軍曹』のようなオリジナルタイトルもあるが、例えば集英社であれば、『ドラゴンボール』から『ONE PIECE』まで、自社版権のキラーコンテンツを膨大に有している。秋田書店でさえ、『ブラックジャック』などの過去の遺産がある。また、映像に於いてもジブリであれば数百万人を国内で動員できる宮崎作品を多数、有している。吸収した大映のライブラリーは『大魔神』などのタイトルがないわけではないが、東宝や東映に比した時に弱い。また、角川のコンテンツは他社版権の比重が高いだけでなく、自社版権であっても局地的な市場を持つものであるケースが極めて多い。これはKADOKAWAにとってコンテンツはメディアミックス展開の中に常に置かれるからであり(つまり他社版権の出版物が多い)、言い方を変えると角川のコンテンツはメディアミックスという多メディア間の相互作用の中で初めて成立するものである。しかもこのメディアミックスはオタク的、限定的なマーケットを囲い込むことに最適化している(つまり、オタク向けにカスタマイズされている)。

 例えば『ONE PIECE』のタイトルはまんがや、アニメに関心のない人でも知っているが、『艦これ』を知る人は限定的である。しかしこの「限定的」な市場が、コミックマーケットの来場者数の何倍か、あるいはニコ動の有料会員の何倍か程度にこの国に存在している。その点でKADOKAWAとドワンゴはユーザーのあり方と求められるコンテンツが重なることは確かである。

 歴史的にいえば、現KADOKAWAの母体となった角川書店、更にその前史としてのアスキーメディアワークスは、この「巨大化した限定マーケット」(つまり「オタク」)を最初に市場として見出した企業である。無論、正確にいえば「見出した」のはもっとインディーズの会社や雑誌(例えば『アニメック』や『OUT』)だったし、徳間書店もそうである。しかしインディーズ出版社に資本力はなく、一定の資本力があった徳間書店は、劇場版『ガンダム』の二作めの、公開月だった'81年8月号の『アニメージュ』で敢えて、宮崎駿特集を組み、自ら部数を半減させる。つまり、「オタク」ではなく「ジブリ」を選ぶ。この時、徳間が捨てたものを吸収していったのが角川だ、というのはぼくではなく、当事者たちが言っていることだ(*1)。KADOKAWAはマス化したオタクに対応した企業であり、しかし今や集英社や講談社もこの市場は無視できなくなっている。

 しかしKADOKAWAは単にオタク市場を大手出版社の中で寡占しようとしただけではない。重要なのは、KADOKAWAの本質とは「限定的なオタク的市場に最適化するためのメディアミックスシステム」という「インフラ」である、ということだ。ここで、KADOKAWAのコンテンツなんて俺らにとって「最適化」とは言い難いという突っ込みもあろうが、「巨大な企業体として最適化しようとしている」というニュアンスでとっていただきたい。ゆるく、且つ、マスなオタク市場に、最適化しようとしていることは確かだ。ちなみに「メディアミックス」という言い方を実はKADOKAWAの経営陣はあまり使わず、別のこじゃれた(?)言い方をするのだが、それにつき合う気はないので、「メディアミックス」の語を使う。

 つまり、KADOKAWAとドワンゴの合併はコンテンツとインフラの合併ではなく、インフラとインフラの合併である。ニコ動とジブリとか、角川と講談社の「合併」(もう何があっても驚いてはいけない)ならインフラとコンテンツの合併になるが、そうではない。

 さて、ニコ動もコンテンツ制作機能がないわけではないが、それ自体は脆弱である。KADOKAWAも集英社や講談社と比した時、コンテンツ制作機能は相対的に劣っている。それは兄・角川春樹から弟・歴彦にトップが交代して以降、角川書店はコンテンツを創る会社ではなくインフラであることを目指していたためだ。そもそもKADOKAWAがニコ動と合併してもぼくが全く驚かないのは、角川歴彦が黎明期のYouTubeを買収しようとして、目の前でグーグルに攫われた「前科」があるのを知っているからだ。「インフラ」とは、一方では本の流通システム、一方ではメディアミックスのシステムの構築を意味したが、webの出現で両者は角川歴彦の中では一体化する(見てきたように言うな、と言われるが、見てきたのだから仕方ない)。

 問題なのはこの「メディアミックスというインフラ」である。

 角川歴彦の「メディアミックス」が兄・春樹と違ったのは二点である。

①春樹は大衆あるいは日本社会全員を対象とした大量宣伝で小説と映画のタイトルを日本人全員に知らしめようとした。歴彦は最初から限定されたオタク市場の中で商品を売る経済効率の高い方法を選択した。図式的過ぎるが、「大衆からオタクへという転換」は見ておくポイントである。

②春樹はメディアミックスといっても、例えば小説を映画化しただけで、そこには小説という一次商品が歴然と存在した。難しくいえば「固有の作者」が当たり前のようにいる。だからだから春樹自身が最後は「固有の作者」、つまり映画監督や俳人にならなければいけなかった。歴彦のメディアミックスでは「固有の作者」は消える運命にある。一本のまんがのクレジットに、原案や原作やキャラクターデザインや©が大量に表記されるいまのKADOKAWAのコンテンツにそれは一面的に現われている。

 さて、①に於ける「大衆」から「オタク」へという変化そのものも掘り下げていくべき問題だが、このエッセイでは②に焦点を絞ることにする。それがドワンゴとの一体化とより本質的に関わるからである。

 80年代における角川歴彦のメディアミックスの基本モデルが、TRPGにあることは以前から指摘してきた。ここでは、TRPGとは「物語を生産するシステム」と理解しなくてはいけない。マップやキャラクターの属性など情報として冊子や地図として可視化された「世界観」の中で、サイコロによる偶発性を含みつつ、即興で「物語を創っていく」というのがTRPGである。この「ゲームで物語をつくるシステム」は、今までブラックボックスの中にあった「物語を創る」という行為そのものを一つのシステムとして可視化したといえる。言い換えれば「工学」化したのである。何を大袈裟なと思うかもしれないが、そう捉えることで、初めてこの時起きていたことの意味が明瞭になる。

 つまり、八〇年前後、TRPGの北米に於ける成立と日本での受容の過程において注意すべきは、この時期に、物語という行為の工学化が同時代的になされたのである。キャンベルの単一神話論による「スターウォーズ」シナリオの制作という逸話や、それに先行する構造主義的記号論的な物語論の復興はこの「工学」化の一例なのである。TRPGはプレイの度に物語を創出しているのだから、この物語を創るシステムをそっくりコンピュータゲームに移動した時点で、それが「神話製作機械」(安田均)に見えたのは当然である。

 そもそもTRPGは物語生成装置としての世界観そのものを商品化した点で画期的だった。商品としての根幹をなすのは「世界観」と「ルール」である。売られるのはルールブックの冊子やゲームシナリオであり、「物語」そのものではない(大仰な箱にペラペラの冊子とダイスとちゃちなフィギュアが入っていればマシな方であった)。「物語」はその都度、そのキットの購入者のプレイによって生成する。つまりTRPGの出版社は、繰り返すが「物語」ではなく、「物語生成システム」を「売る」のだ。

 これは「本」という「物語ソフト」を販売する出版社にしてみれば驚くべきことであり、角川歴彦は不正確にだが(ヽヽヽヽヽヽ)そこに驚いた。歴彦が驚いたのは、一つは「ゲーム的に書き換えられた物語」としてのゲームブックやゲームキットである。ゲームであり同時に物語であることが、彼の琴線に触れたのは、彼が将棋差しをかつて本気で目指していたからでもある。そしてRPGのキットやシナリオ、ゲームブックなどが複合して一つの商品群を成しているという構図にも驚愕した(見てきたように書いているのは、繰り返し言うが「見てきた」からだ)。少なくともTRPGにおいて、「物語が工学化されているということ」と、それが大量の関連商品を生成する何ものかであることには確実に気づいたはずである。

 角川歴彦は渡米し、TRPGのゲームシステムD&Dの版元TSR社と交渉し、その権利を角川が獲得することが困難と知るが、代わりにTRPGからの派生物としての小説「ドラゴンランス戦記」の版権を得る。つまりこの「物語生成システム」が創り出した「物語」を「本」にしたものだ。「ドラゴンランス」とは単にファンタジー小説やゲームとのメディアミックスの派生物ではなく、「物語生成システム」によって生成した、歴史上、最初の本の一つなのだ。ちなみにこの小説はキャンベルの単一神話論の援用で書かれている。その点でも工学化されている。そして同書の翻訳者として歴彦が直接交渉したのが日本に於けるTRPGの開拓者、安田均である。安田は興味深い武勇伝を経て、角川に「合流」する。

 KADOKAWAの前身の一つ、アスキー・メディアワークスは、更に遡ると角川書店の子会社角川メディアオフィスになる。ここではコンピュータゲーム誌『コンプティーク』の編集を行っていたが、この雑誌で重要なのは歴彦の思いつきと安田の合流で、ゲームブックやTRPG関連の出版物が集中的に翻訳・出版されたということだ。その翻訳・出版の中で「ゲームのような小説やまんが」を編集者や作家は(ぼくもその一人だが)試行錯誤し経験則を得ることになる。「物語の工学化」の現場がそこに出現したわけである。無論、それは安田のみによってもたらされたものではなく、例えば、麻宮騎亜になる前の彼が「自分は世界観のあるまんがを書きたい」と語っていたのをぼくははっきりと覚えている。ぼくが関わった人間の中で「世界観」という言葉を使ったのは彼が最初である。あるいは、ぼくは物語論というある種の工学的方法でゲームに対応する程度の物語は創れるだろうと考えていた。

 そういう思想が具体的な現場で実践の中で一つの枠組となっていったのが角川歴彦のメディアミックスである。

 ここで少し歴彦型のメディアミックスについて説明する。

 一次商品として商品群の上位に「原作」がある従来モデル(A)が、春樹のメディアミックスである。

 


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 これに対して歴彦モデル(B)は「原作」の替わりに「世界観」を上位に配置する。「世界観」は、東浩紀的にいえばデータベースであり、物語消費論的にいえば歌舞伎の「世界」である。その中には生成システムそのものも含まれると仮説的に考えておく。「世界観」の内部がTRPGのキットのように整理され順序立てられるか、あるいはレヴィー=ストロースがいう神話素のようなものがランダムにあるのかという、下位モデルは設定可能だが、どちらかどちらに変化したという歴史的変遷としては位置づけられない。

 


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 重要なのは一つの「世界」からその都度、「物語」が立ち上がるというシステムそのものが歴彦型メディアミックスの本質だということだ。そうやって「世界観」の下位に成立した物語群の並列がメディアミックスの商品群を構成する。

 このシステムはそのそもが、口承文芸の生成システムである。角川歴彦の父・源義が国文学者として拘泥した「太平記」に於いて、その「世界」の中で、その都度「語り部」によって物語が生成する中世的なあり方から、江戸期の都市空間で辻立ちという形で「太平記」を即興で物語る芸人たちが出現する。彼らが寄世に移動し、それが講談となり、あるいは、同じシステムで、歌舞伎や浄瑠璃において「太平記」を「世界」として多様な戯曲が「趣向」として生成する。そして、このような、「世界」-「趣向」モデルは近代以前の社会では日本以外でも、どの地域にも存在する。むしろ近代以前の物語の主要な形式なのである。

 また、近代以降の大衆文芸も「世界」を前提として「趣向」として書かれたケースが少なくない。寄席の講談は、明治期に、速記者によって講談速記本という一種の海賊出版がなされ、その版元として講談社が誕生する。そして講談が内在していた「世界」を用いて小説を書いたのが「固有の作家」としての吉川英治という無名の新人である(C)。シャーロック・ホームズやラヴクラフトの小説でも、「世界」化と作者以外による「異本」の生成はなされている。

 


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 言うまでもなく、物語が「固有の作家」によって固定化され、権利として占有されるという状態は極めて特殊な現象で、「近代」の中で成立した思考である。「世界」はコモンズであり、パブリックドメインであり、その都度、そこで物語られ、演じられたものが、やがて近代のある時期から「固有の作者」=「著者」に囲い込まれていき、著作権概念と結びつく。出版社とはこの「著者」による固定化されたテキストを複製・販売する制度である。

 そして恐らくは、角川春樹は、「固有の作者」の擁護者であり、歴彦はそれを当人の自覚はさておき解体していった。逆に見えるが、正しくはこうなのだ。

 例えば、歴彦型メディアミックスの出発点としての『ロードス島戦記』はD&Dのゲームシステムの中で実際に行われたTRPGのプレイを記録しリライトした「リプレイ」が読者の目に触れた最初の形である。リプレイそのものは安田のアイデアである。将棋の棋譜のTRPG版であったという。『ロードス島戦記』用にD&Dと切り離したシステムが最終的には作られるが、上位にあるのは「世界観/ゲームシステム」であり、そこから「リプレイ」「小説」「カセットブック」「OVA」「コミック」が派生していったの。春樹のメディアミックスは、原作小説『犬神家の一族』の二次商品としての「映画化」でありそれとは全く異なる。このように、一次商品としての「原作」が存在しないまま「世界観/システム」に基づき、『ロードス島』のリプレイやノベルスが生成されていったのである。(D)

 


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 このモデルの援用が、ぼくが関わった『MADARA』である。この作品は最初から「コンピュータゲームにすることが前提のまんが」として設計された。その際、ぼくが想定したモデルは(E)であり、一つの「世界観」の許に、まんがやノベルスを位置づける点で『ロードス』と同じだが、「二次創作」(この言葉はなかった)もこのシステムからの生成物として位置づけた。そして同人誌作品や同人作家をスピンオフとその作者として位置づけ吸収していく形をとった。コミケで買い集めた『MADARA』の二次創作のセレクション集が角川から刊行されたり、二次創作作家にスピンオフを多数、書かせてもいる。このように八〇年代後半〜九〇年代前半、角川や関連会社で作られたメディアミックスは、見せかけ上、そして、著作権管理上は一次商品=原作者は存在するが実際には、「世界─趣向モデル」で無秩序に作品を生成していくことが前提となっている(それがただのルーティンワークとなっただけだが)。そこで一人一人の「作者」は、その中で創作させられる(ヽヽヽヽヽ)存在となってしまう。涼宮ハルヒシリーズのように「原作」が作者の「オリジナル」として存在しながら、「原作」がメディアミックス生成システムの中に放り込まれ、「原作」としての位置を喪失してしまうケースさえ出てくる。『ハルヒ』までくると「世界観」の一部に過ぎなかった「キャラクター」を軸とする生成システムに変化するが、これも「世界観」から「キャラクター」へという歴史的変化ではない。  ここで敢えてこの「物語生成システム」を類型化すれば、①世界観をデータベースとして捉え、生成される(世界─趣向型)、②世界観を一つの規範として生成物の相互の整合性を求めるもの(サーガ型)、③キャラクターをテキストを移動させることで生成する(キャラクター型)、④①や③で生じる矛盾を「ループ」と言い繕う(ループ型)、などが仮定できるが、これらの類型は短期間のトレンドによる推移以上の意味はないだろう。

 


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 つまりもう一度、再確認しておくと「歴彦型メディアミックス」とはこのような世界観/システムから、プラットフォームに応じて最適化したヴァリアントを生成していく、インフラそのものをいう。少なくともそれを理念型とする。だから作り手はその中でのみ物語ることを許される。こういうインフラに翻弄されていくことに例外的に批評的であったのは『ハルヒ』の谷川流で、そういう文脈で彼の小説は読み解かれていいし、そういうシステムと同一の思考が、ミステリー小説にも及ぶことを予見したのが清涼院流水のJDCである。名探偵と密室が殆ど自動生成されるこの小説の批評性は、この文脈の中で初めて説明できる。だからぼくがまんが化にコミットした『探偵儀式』では、ぼくの代弁者として常に作中にある笹山徹が「JDCの版権管理でフィギュアの監修をする」という諧謔から始まる。しかしそんな諧謔は誰もわかっていないだろうし、その時点でもうわかってもらうつもりもなかった。

 しかし角川に於ける物語の工学化とパラレルに起きていたのが新本格の復興から流水に至る水脈であり、ミステリーのあの時点でのゲーム/パズルへの帰還もまた小説の工学化という変容の一部である。その後で流水を経て西尾維新以降のミステリーのラノベ化が起きるのは当然なのである。ラノベ発売の前に必ずその現場では小説の工学化が起きている。

 とはいえ、そもそも物語の工学化あるいは芸術の工学化は1920年代の世界規模のモダニズム、アヴァンギャルドの中で発生した思想で、それは映画という機械化された芸術に呼応し、他方、芸術工学などという概念を生みつつも、しかし具体的な達成は理論の水準に留まり(だからロシアフォルマリズムから物語論が生じる)、その実践には結局、webというインフラの出現が必要だったのである。そして八〇年代から九〇年代は、webへの適応の準備のように広範な小説の工学化がおき、中上健次などはその中に身投げさえする。そのあたりは『物語消費論・改』を参照されたい。

 再び角川歴彦に戻ると、八〇年代後半、彼が反応したのはTRPGとともにコミケであった。例えば、角川春樹から追放され、ワイドショーで大騒ぎとなっている最中、歴彦は『MADARA』同人誌のオンリーイベントをうろうろしていたが、それもぼくが見ていたのだから仕方がない。

 角川兄弟の対立で春樹が不幸だったのは、弟には見えていて弟の許で出来上がりつつあったインフラがそれまで自分の「角川商法」を支えていたものと全く異質であったことだ。恐らく彼はそれを理解できなかった。作者という神の死んだ小説など、彼には信じられなかったはずだ。だから春樹は時代を拒み、弟を追放したが、それはメディアワークスという、次の局面により最適化した組織を生んでしまったことは皮肉である。その歴彦が執着したものはwebではYouTubeでありセカンドライフであり、モジラ財団である。そこにドワンゴも含まれる。それらは全て参加型のインフラ、あるいは参加をより容易にするインフラだと思えばいい。TRPG、コミケも含め、参加型のインフラを自社のインフラに導入していくという彼の思想からいえば、「ニコ動」との一体化は当然なのである。

 この「ニコ動」への評価は様々に可能だが、歴彦にとっては「web上のコミケ」である。

 さて、八〇年代以降、オタク領域が発展させてきたのは「二次創作」という制度であるのは言うまでもない。既存の作品を「データベース」化してしまい、受け手が作品を立ち上げる。その時、複雑な世界観に基づく形からキャラクターを中心とする生成システムへの「単純化」が起きるが、ニコ動の映像が数十秒から数分のように、あるいはツイッターやラインを見てもわかるように、コンテンツのリミテッド化が参加者の拡大と比例して進行する。「参加し易さのための最適化」がシステムの側に起きるのである。

「二次創作」はコミケ=同人誌だけでなく、webに移動しpixivやニコ動へと拡大し、そこでユーザーは「二次創作」を行い「投稿」を続ける。投稿サイトの特徴は当たり前だが、それ自体はインフラでしかなく、それがメディアに見えるのはそこにコンテンツがあるからだが、そのコンテンツはプラットフォームが制作したものではない。TV局は番組を放送するが、それはTV局が主導して制作しそのコストを持つのに対して、投稿サイトは有料あるいは広告を第三者から徴収するか集客するのは無償で投稿されたコンテンツである。それについては一定の対応策が講じられているようだが、重要なのは、ニコ動的なシステムは投稿のインフラとして最適化されたものであり、コンテンツはユーザー側が制作していく、ということである。確かにニコ動はコンテンツを創っているフリをしているが、フリである。しかもユーザーによる投稿の中心は、その多くが「二次創作」であり、このインフラの中で与えられた「世界」なり「キャラクター」を用いて創作する、という行為の中に「創作する」という行為そのものが適応している。「インフラの中で創作する」ということは、その中で創作行為そのものもまたインフラに対し最適化する。そして、「創作し易いシステム」として、二次創作型の創造性を誘発するサービスの提供(例えば初音ミク)に「一次商品」は変化していくだろうし、それによって、二次創作されたコンテンツを、受け手はコンテンツとして接していく、という関係が成立する。

 これを、ユーザーの側が能動的に文化を生産していく下から文化を成立させるシステムであり、日本のポップカルチャーの創造性だと賛美する議論が、北米のカルチャーズ・スタディの一部にある。しかし、これは「下からの変容」を体制へのカウンターとして擁護しがちなカル・スタの中途半端な左翼性の産物である。だからこういう主張に惑わされず、「KADOKAWA・DWANGO」は決してコンテンツの配信システムでもコンテンツ制作会社でもなく、「ユーザーのコンテンツ制作を誘発し回収するシステム」なのだということを冷静に見るべきだ。

 つまり、ニコ動とKADOKAWAの合併で成立したのは、「ユーザーの創造性を限定的な条件の中で発露させ、コンテンツを提供させるインフラである」、ということだ。コンテンツ企業とweb配信のインフラ企業の合併などでは決してない。

 角川歴彦は、合併後の会見で、この後はKADOKAWAの編集者の隣りにドワンゴのエンジニアが座る時代がやってくる、と予言する。つまり、「出版社がコンテンツを作るという行為そのものの工学化」が始まるという。このこちで、生成されるコンテンツへのwebないしはKADOKAWA・DWANGOへの最適化はより制度化され、インフラ化するはずだ。例えばユーザーが、編集者がいなくても自分の作品のプロットの修正ができるインフラなど、『ストーリーメーカー』のQ&Aをちょっといじってwebに置けばいいだけの話である。「物語」だけでなく他の表現でも同様のインフラ(まんがのネームを、コマ割りの水準で修正してくれるアプリは、なるほど優秀なプログラマーを一人、ぼくに紹介してくれれば作れるだろう)はできるだろう。作者が消滅すれば編集者も消滅するのである。要するに、まんがも、小説もアニメもニコ動用にカスタマイズがなされることになるだろう。

 さて、KADOKAWAでは、「著者」と編集者が、KADOKAWAが内在したある種の物語消費論的なシステムの中で「メディアミックス」の名の元にコンテンツをこれまで制作してきたが、そこに「ユーザー」のコンテンツを吸い上げる「ニコ動」が一体化した時、そこに成立するのは、より大きなプロもアマも包摂する巨大なコンテンツの生成システムである。なるほど、これまでも創作は見えない制度によって呪縛されてきた。そしてその呪縛の所在を示すのが批評であり、格闘するのが文学でもあった。しかしこの不可視の制度が外部化し、ユーザーサービスとしての装いを施すことで、ユーザーの些細な水準での徹底した快適さが提供され、その環境の中で人は消費行為として創造性を「快適に」発露することになる。

 恐らくそう記した時、誰でも快適に、しかも最終的に合理的に二次創作ができ、それに対する相応の対価も得られるシステムのどこが悪いのか、と思うだろう。KADOKAWA・DWANGOがもたらしてくれるかもしれない、すぐそこの未来は、そういう「快適」に想像力が管理された未来である。

 この、「システムに創作させられていながら、しかしそれが少しも不快でない環境」は、きっと誰もが望んだ世界ではあるのだろう。その制度に順応している限り、そこでは作者という特権的な存在は死に、誰もが「自由」に「平等」に創作ができる。この、KADOKAWA・DWANGOがもたらしてくれるかもしれないユートピアは「企業によって管理されたポストモダン」の誕生だと言える。吐き気もするはずだ。

 しかし「世界」というコモンズから、その都度、「物語」を立ち上げるという、これまで、誰のものでもなく、誰かに管理されたわけでもないシステムが、誰かのものになり、その誰かに管理される、というのは正しいことなのか。ぼくは正しくないと思うが、そう思う人は多くないだろう。

 それにしても、KADOKAWA・DWANGOがもたらそうとするものが、物語を作者が寡占し得た近代の本当の終わりを意味するのだとしたら、ぼくはポストモダンをよりによって角川に見せられるということになる。

 

 

※1 井上伸一郎、高橋豊対談「角川書店の肌感覚、アニメイトの哲学」(『熱風』2011年12月号)における、井上、及びオブザーバー参加の鈴木敏夫の発言。

◆NEXT

『角川歴彦とメディアミックスの時代・序』2014.06.04

(written by 太田克史



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