編集部ブログ作品

2015年1月30日 22:30

【第4回】角川歴彦とメディアミックスの時代

セヴンティーン  大塚英志

〈1〉

 角川歴彦(かどかわつぐひこ)は昭和18年生まれである。兄の春樹(はるき)は昭和17年生まれである。この生年を一つの問題としてみたい。兄の方はいうなれば破滅型、弟の方はひどく堅実なイメージがあるが、しかし、ぼくには弟の方に破滅型の素養があると感じる時がある。例によって瑣末な事柄を行ったり来たりする文章だが、物好きな方はお付き合い願いたい。

「世代」について歴彦が自分のことを語る時、しばしば戦後世代として語るのが常だ。「民主主義の子ども」と自らを形容したことがある。それどころか「戦争を知らない子どもたち」と一度、自らを形容したことさえあるのだ。

 そこにぼくはいつも微妙な違和を感じた。

「戦争を知らない子供たち」の作詞者の北山修(きたやまおさむ)は昭和21年生まれ。団塊世代よりは少し早いが、ぎりぎり戦後生まれである。この歌で自己規定するのは団塊世代だとぼくなどはずっと思ってきた。だから「戦後世代」と角川歴彦が言うと、釈然としない。

 そもそもが、戦後世代というと、すぐに思いつくのがもう一つ、アプレゲール、つまり戦争が終わった直後に「若者」であった世代である。三島由紀夫(みしまゆきお)が小説『青の時代』のモデルとした光クラブ事件(昭和24年)の山崎晃嗣(やまざきあきつぐ)は大正12年生まれ。当然ながら歴彦と春樹と世代が全く合わない。角川兄弟は、戦後最初のベビーブームで生まれたいわゆる団塊世代と、戦後の最初の若者であったアプレゲール世代との間に挟まれた、無名の世代であるといえる。

 

ちなみにアプレゲールというのは、アプレゲール叢書という文学レーベルが徳間康快(とくまやすよし)が実質的なオーナーだった真善美社から刊行されたことに由来する。このレーベルからは安部公房(あべこうぼう)(大正13年生まれ)がデビューしたが、野間宏(のまひろし)(大正4年)、中村真一郎(なかむらしんいちろう)(大正7年)、島尾敏雄(しまおとしお)(大正6年)ら、むしろ角川源義(げんよし)(大正6年)と同世代の作家も含まれる。アプレゲール叢書の呼び名は中村が名付けたといわれる。源義はだからアプレゲールに世代的には属することになる。角川兄弟はアプレゲール世代の父を持った、といえる。父・源義は角川書店を破滅させなかったが、一つの家庭を破滅させた。源義はアプレゲールなのだ、と言った瞬間、無責任だが納得するものはある。部外者の物言いだが、そう形容せざるを得ないものが源義の周囲にはある。

 そしてこのアプレゲールと団塊世代の二つの、いわば名付けられた「戦後世代の若者」に挟まれる形で、春樹・歴彦のような十五年戦争末期、昭和15〜20年あたりの「戦中生まれ」の世代がある。

 この世代の人間をサブカルチャーの分野で探し出すと極めて象徴的だ。

 宮崎駿(みやざきはやお)が昭和16年、富野由悠季(とみのよしゆき)も同じく昭和16年生まれなのである。ここからこの世代こそが角川兄弟を含めて日本のサブカルチャーを牽引した世代、というと話はわかり易いが、それではおもしろくない。いや、おもしろくなくて一向に構わないのだが、実はこの世代が一度だけ名付けられかけたことがある。その話をしておきたい。昭和35年頃、と年号で書くより、こちらは1960年前後と西暦で記した方が感覚的にわかり易いが、その頃の話である。

 '60年頃、昭和15〜20年の「戦中生まれ」の子どもはちょうど「若者」の世代としてあったのだ。その彼らがほんの一瞬、「恐るべき17歳」と呼ばれたことはあまり思い起こされない。

 しかし、その名残が大江健三郎(おおえけんざぶろう)の小説「セヴンティーン」(1961年)に見てとれる。言うまでもなくこの小説は1960年に、当時の社会党委員長を刺殺した山口二矢(やまぐちおとや)がモデルで、その続篇「政治少年死す」は右翼の抗議で今も公式には刊行されていないが、WEBで簡単に今や海賊版が手に入る。事件の当時、山口二矢は17歳であった。それが大江の小説の題名の由来である。

 山口は昭和18年生まれである。

 しかし山口はたった一人の行動で世代を代表したのではない。この60年安保前後の時代は、10代後半の少年による「テロの時代」だった。そのことは特筆していい。

 1961年、いわゆる「風流夢譚」事件で中央公論社社長宅に侵入、社長・嶋中鵬二の夫人に重傷を負わせ、家政婦を刺殺した少年はやはり17歳であった。昭和18年生まれ。直接には、この二人の「17歳」から「恐るべき17歳」なる「世代の名」はうまれた。

 歴彦は「恐るべき17歳」とぴったり重なる生年である。

 しかし同世代のテロリストはこの二人にとどまらない。'60年6月、山口二矢より少し早く、同じく社会党の委員長を刺傷させた青年は20歳であり、昭和15年生まれ。'63年には共産党の野坂参三(のさかさんぞう)が襲われるが、犯人の一人は19歳、昭和19年生まれということになる。「右翼」の事件のみが目立つが、「左翼」としても、'59年の皇太子成婚パレードに投石した少年(三島由紀夫がこの少年を昂揚した文章で日記に記し、石原慎太郎(いしはらしんたろう)は少年に奇妙な理解を示す文章を残している)はこの時、19歳だから、恐らく昭和15年生まれ、少し遅れて、'64年にライシャワー米大使を刺した犯人の青年は昭和19年生まれである。このように60年安保前後、戦争後期生まれ(太平洋戦争は昭和6年に始まる十五年戦争の「後期」にあたる)の少年たちによる、右左のテロが頻発していた、ということだけはわかるだろう。

 この世代が「恐るべき17歳」という一つのアイコンに収斂する「匿名」(実際には山口二矢も含め、多くが実名報道されたが)でなく、一人一人の固有の名をもって時代の表層に浮上するのは、'70年前後である。つまり、全共闘運動の渦中に於いてである。団塊世代を全共闘世代と呼ぶように、全共闘運動の担い手は戦後のベビーブーム世代の印象があるが、そこで、忌まわしい記憶とともに、名前を残しているのは、実は「恐るべき17歳」世代なのである。

 連合赤軍の事件の森恒夫(もりつねお)は昭和19年、永田洋子(ながたひろこ)は昭和20年2月に生まれている。

 つまり戦争が終わっていないうちに生まれた。テルアビブ空港乱射事件の奥平剛士(おくだいらつよし)は昭和20年7月、つまり終戦直前。重信房子(しげのぶひさこ)だけは昭和20年9月で、わずかに「戦後」生まれである。これに三島由紀夫の「楯の会」事件で三島を介錯し、自らも割腹した森田必勝(もちたまさかつ)(昭和20年7月生まれ)を「右」の側から加えてもいい。それぞれの事件はテロリズムというより、ある種の自己解明とでもいうべき印象の事件である。

 更にもう一人、小松川事件(1958年)の元死刑囚の在日朝鮮人の少年(昭和15年生まれ)を「セヴンティーン」に加えるべきだ、とぼくなどは思う。これは高校生の少女を殺害した事件で、公判の過程の中で彼の犯行が「在日」という民族差別の問題として政治事案化した。しかし「在日差別」の文脈でこの事件を語ると、その「同時代」が抜け落ちる。やはり彼も「恐るべき17歳」世代なのだ。図書館から文学書を盗み出し、警察やメディアに犯行声明を送りつけ、私小説めいた短編を新聞社に投稿していたこの少年の犯行は、どちらかといえば「動機なき殺人」に近い印象だ。大江の「叫び声」のモデルにもなっている。当時、秋山駿などは精神の内部に於ける一種の「クウデタア」だと記した。しかし、彼の事件に「在日」という「政治的」な説明付けをしないと世の中の方が居心地が悪かったのは何となくわかる、この事件はわかり易い「動機」を欠いていたからだ。だから「政治的なわかり易さ」が付与された。

 しかし、そもそも'60年前後の17歳らによるテロリズム全体が、ぼくには左右の思想は関係なく,秋山の言う通り内的な「クウデタア」が眼前の政治思想に結びつき暴発したように見える。17歳の事件は彼らの語る政治思想も行為もあまりにわかり易すぎる。これを「純粋」と形容した時、抜け落ちるものが、ある。彼らもまた「動機」は本当は不在で、だからこそシンプルな「思想」で彼らのふるまいを語ることができたのではないか。だとすれば17歳から10年かけて不在の意味に空虚な理論武装をしたのが、森なり永田なりということになる。空虚な分だけ論理が過剰に緻密なのである。

 無論、彼らの如き同年代の突出した存在から何かを一般化はできないだろう。しかし、春樹や歴彦の世代がテロルの世代であったことはやはり記しておきたい。

 実は彼らの総体を「世代論」として論じていた批評家がある。田中清松『戦中生まれの叛乱譜』(1985年)である。先に列挙した「17歳」らの生年はここから多くを借用した。田中は昭和19年生まれの「無名の存在」(とあとがきにある)の作家である。

「17歳」世代の一人である。

 その分析は同年代の「実感」が出発点となっているのでわかりづらいところがある。しかし田中がこの世代を「根なし草」と呼ぶ。レトリックとしては陳腐だが、いわんとすることはよくわかる。彼らがもう5年早く生まれれば、終戦時には「皇国少年」としてあり、その価値を放棄することを求められた。つまり、思想的な転換を余儀なくされ、旧価値が崩壊していく様を経験し、目撃できた。あと5年後に生まれれば「戦後民主主義」という新しい価値の中に良くも悪くも根は下ろせた。

 しかし、物心ついた時にそこに「価値」の空白が一つの世界としてあったのがこの世代で、価値の崩壊と価値の誕生の狭間のエアポケットの中で「17歳」たちは物心ついた。つまり歴史に根の下ろしようがない。

 歴史意識に彼らが欠けるのではなく、根を下ろす歴史を欠いている。

 だから田中がこの世代を以下のように記すことは興味深い。

 

〈根なし草世代が、ひとたびある思想に共鳴した時、彼らはそこに絶対的価値を置く。彼らはその価値観を唯一絶対のものと信じ、その価値観だけをたよりに行動するのである。それは、大人にはない「純粋」と「無謀」の同居したものであり、その多くは迷走といえるものでしかないのである。〉

(田中清松『戦中生まれの叛乱譜──山口二矢から森恒夫──』1985年、彩流社)

 

 田中は、山口二矢や「風流夢譚」事件の犯人が「絶対的価値観」に憑かれていた、という。「歴史」の代償に「絶対的価値」に取り込まれやすい、ということか。これは「原理主義」と形容すると、今は理解し易いかもしれない。これは森たち「左翼」にも共通であると思う。連合赤軍事件など、「思想」が「原理」として至上のものになり、それのみに突き動かされている印象がある。価値が不在だからこそ絶対的な価値に脆い。そう理解するのが一番、釈然とする。

 小松川事件の少年もやはりおなじ印象だ。当初はドストエフスキーの『罪と罰』的な形而上学をきどっていた。次が絶対者としてのキリストを語る。そして「在日」差別という言説は最後に出てくる。それもまた「根」が不在であるが故に、絶対的な価値で理論武装せずにはおれないからだ。そう考えると、これは全く不穏当に聞こえるだろうが、この世代のテロリストたちがぼくにはイスラム国に向かう移民たちの子弟の世代とさえ重なり合う。親たちは移民によって二つの文化間のパラダイム転換を個人として生きたが、その世代は自分たちのエスニシティに根拠を見出せず、しかし西欧に根を下ろし損ねてもいる。いわば疎外されている。そういう世代のメンタリティーがイスラム原理主義という絶対的価値に彼らを向かわせるのだとすれば、それは田中の「17歳」への理解と重なり合うところがある。

 これは全くの脱線である。

 話をふり出しに戻す。

 角川歴彦が自らを「戦後世代」と語ることへの違和を枕にするつもりが、妙な方向に行ってしまった。角川歴彦と話している時、いつもぼくが興味深いと思うのは、自分の来歴を時間軸の上に落とし込む時に見せる小さなためらいや語り直しだ。インタビューの類で企業人としての来歴を語ることにそれなりに慣れているからか、歴彦は例えば、TVモニターにビデオデッキやゲーム機といった端末が繋がれている樣子に「プラットフォーム」の原型を見た、というストーリーを上手く語れる。これは、いわば定番の「語り」だからだ。この挿話はそもそも現在の角川の公式の社史、「正史」ともいえる佐藤吉之輔(さとうきちのすけ)『全てがここから始まる 角川グループは何をめざすか』の中で語られているものだ。ここから、穏当なメディア論を書くことは可能だが、ぼくにその義務はない。

 この挿話は、インタビューなどで繰り返されながら一つのストーリーとしてブラッシュアップされている。ぼくは何度もこの話を聞かされ、その度に洗練されていくのを目の当たりにした。それが悪い、とか、まして、捏造だというのでは当然、ない。人はそうやって物事を整合性のあるストーリーとして整理するものだからで、それはぼくの語るぼく自身のことについても当然、いえる。ごく普通のことだ。

 だが、その一方で、言い淀み、あるいはうまく整合性がつかないところにぼくのような作家は関心を抱く。歴彦が自分は「民主主義の子どもだった」と語った時のことは、取材の折り、同席した編集者にとってもらったメモが手許に残っている。

 

〈民主主義の子どもだった。暴力をふるわない父親。小学校5年のとき教師による勤務評定反対闘争、高校2年の時60年安保、大学では授業料値上げ反対闘争(学園紛争の先駈け)がおきる。〉

 

 インタビューの最初に語った自己規定だ。なるほど、そういう時代の中で育ったことはわかる。だが「民主主義の子ども」という言い方から、やはりぼくはある種のリベラリズムや左翼性を連想する。歴彦はリベラルなのか。なるほど高校の同期に高野孟がいて、恐らく高野は歴彦の数少ない私的な友人だと思うが、歴彦の角川書店にそもそも「思想」を感じとることは難しいだろう。ぼくはここで歴彦に「思想がない」と言いたいのではない。事実として「民主主義の子ども」というストーリーを歴彦は語りたがった。だからぼくが幼年期から中学時代までに関心を持ったのに対し、歴彦は高校時代、大学時代を語りたがった。返還前の沖縄を旅したこともあったようだ。高校時代、無名の詩人の私塾に通い、筆名で批評めいた物を書いた、とも聞いた。だが、「民主主義」という戦後史の「子ども」として自分を位置付けようとすることに、ぼくは違和を感じた。これはデリケートな言い方だが、なにか自分の来歴をわずかに書き換えようとしている様に思えた。

 歴彦はプラットフォームの挿話のように自分のビジネスをひとつの筋道として話すのは得意だ。だが、財界人が日経新聞の文化欄で振り返るような、私的なストーリーは上手く語れない。自分を時代の中に置き損ねるのだ。

 同じことは幼児期の最も古い記憶にも見てとれる。

 歴彦が幼児期を過ごした杉並区の家の前には日大二高があり、軍事教練場となっていた。父母とその馬場を見ていた記憶がある、と語った後で、誰かから聞いた記憶をそう思い込んでいるだけかもしれない、と歴彦は自信なげにすぐにつけ加えた。

 自分の記憶を疑うのだ。「正確さ」に拘泥したのとは違う。その記憶が本物なのか不安なのである。

 幼い頃父母に抱かれ馬場の馬を見ていた、という幼児の記憶の甘美さに浸ることに躊躇うのだ。

 もう一つ、ある。

 これは両親が離婚した直後の挿話である。歴彦は実母の許で育てられるという合意が富美子と源義の間にあったようである。しかし春樹、歴彦、真弓の三人は結局、源義に引きとられる。

 そのいきさつを母・富美子はかつてこう語った。

 

〈9月の残暑の頃のことで、私は白いブラウスに当時流行っていた細かいプリーツの入ったスカートを着ていました。上野駅まで見送りに来た角川は紺と白の模様のかすりの和服姿でした。あの頃の文士の人がよくそうしていたように、少し無頼な感じに前をはだけ、下駄を履いていました。

 

 出発のベルが鳴り、ドアが閉まりかけようとした頃、ホームに立っていた角川が「最後にもう一度だけ歴彦を抱かせてくれ」と頼んだのです。半ズボンを履いていた小さな歴彦を私は窓越しに、角川に渡しました。歴彦は6歳になっていたとはいえ、他の子と比べても小柄だったのです。歴彦を抱き抱えたとたん、角川は一目散にホームを駆け出して行きました。下駄の高くなる音が走り去り、私は声にならない悲鳴を上げたことを覚えています。ドアは丁度閉まったところでした。角川はすべてのタイミングを見計らっていたのです。周囲のことなどもはやそのときは眼中にありませんでしたから、動き出した汽車の窓から顔を出して「歴彦!歴彦!」と私は泣きながら叫び続けました。

 

 次の停車駅の赤羽で下車した私と母は、電車を乗り継いで天沼(杉並区)の家まで戻りました。家には鍵がかかっておらず、子ども達もねえやも含め、人の姿は全く見当たりませんでした。半狂乱で私は家の中を探し回りましたが、誰もいない。どこへ行ったのか見当もつきませんでした。疲れはて、途方に暮れた私を母は「親子だもの、いつかはきっと会えるから、今はだまっていったん田舎に帰ろう」と慰めました。〉

(鈴木富美子「我が息子、春樹への「遺言」」『宝島30』1994年3月号、宝島社)

 

 殆どドラマのような光景である。

 実は同じ話を、この資料に当たる以前にぼくは歴彦から聞いていた。前回、引用した「小説」の中でもこのくだりをぼくは描いた。絵になる、というか、小説になる部分だ。

 だが後になって、自分を車窓から奪いとったのは源義ではなく、親族の別の誰かかもしれない、と話すようになった。

 幼児期の記憶など曖昧だし、もう一度書くが、人は自分の来歴など都合よくストーリー化する。まして企業人として、ビジネスのストーリーは辻褄を巧みに合わせる。それなのに、歴彦は子ども時代を語ろうとし、綻びが生じる。ぼくが不思議に思うのは、そのことをわざわざ口にするからだ。馬場の記憶や東京駅の記憶は美しいストーリーに仕立てあげられるのに、本人が躊躇する。記憶違いかもしれない、という。「綻び」の所在を口にしてしまうのだ。その躊躇の仕方は、先の田中の用語を借用すれば、「根」を張ることへの躊躇、あるいは「恐れ」のようなものが歴彦にはあることと関わってくると思う時がぼくにはある。

 田中の批評は「恐るべき17歳」世代が、「戦争」への回帰願望のような感情を持っている、と言いかけている。好戦的だとか言う意味ではない。その原風景が、価値が喪失した場所だから、そういう何もない場所に回帰したいという願望が、彼らのテロリズムの根底にあると田中は言いた気なのだ。しかしこの議論をうまく言葉が見つからないのか、言い切れていない。それを廃墟へのノスタルジーなり、回帰願望とまでいってしまえば、宮崎や富野の作品さえもある程度、説明できてしまう。言い過ぎかもしれない。しかし歴彦にもその感情がある。

 歴彦の幼児期の甘美な思い出は、むしろ実母によって彼の世界が壊されたその一瞬にある。歴彦にもそういう全てが壊れた場所への回帰願望があるのではないか。

 母胎回帰願望を持ちながら、帰るべき母胎が、あらかじめ失われている。

 

〈2〉

 少し話題を変えよう。

 

 角川歴彦にインタビューする中で、来歴をめぐる齟齬(そご)というか違和というか、言い淀みや記憶の修正というそれ自体は誰にでもある小さな瑕疵に引っかかったのは、角川の出版物の巻末にある発刊の辞へのある印象に由来する。その些細な違和についても、ここでメモしておく。

 何故、歴彦は「発刊の辞」に拘泥するのか、という問題である。

「発刊の辞」というのは文庫などのレーベルのスタートに当たって、その「理念」を述べるものだ。今ではそんなものは誰も気にしないし、読みもしないだろう。角川文庫の巻末には源義の一文が載っている。

この「発刊の辞」は、しかし、昭和2年の岩波文庫創刊にあたっての岩波文庫の発刊の辞が一つの雛形となっている。岩波文庫には、「読書子に寄す─岩波文庫発刊に際して─ 岩波茂雄(いわなみしげお)昭和二年七月」と題された発刊の辞が掲げられている。

 岩波文庫の発刊の辞は、四つのパラグラフによって構成された要素からなる。その論理構成を確認しよう。〈 〉内は発刊の辞からの引用だ。

 

1、「知」の普遍的な定義

〈真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。(中略)それは生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。〉

 人は普遍的心理を欲するから知も「民衆」に普遍的に解放されるべきだ、という「知」の民主化を一つの権利として、まず、定義する。

 

2、創刊時の時代状況、歴史の中に位置付ける。

〈近時大量生産予約出版の流行を見る。その広告宣伝の狂態はしばらくおくも、後代にのこすと誇称する全集がその編集に万全の用意をなしたるか。(中略)はたしてその揚言する学芸解放のゆえんなりや。吾人は天下の名士の声に和してこれを推挙するに躊躇するものである。〉

 いわゆる「円本」の出現によって書物の、それこそフォード主義的大量生産が始まったことへの批判が語られる。1と2に共通なのは1920年代に歴史の「主役」として台頭した「大衆」という不特定多数、つまり「群れ」の出現に対して「知」を啓蒙しようという立場が語られることだ。「大衆」の登場は実は大きな歴史的転換であり、そういう歴史のうねりのようなものが背景にあることが感じられるだろう。

 

3、出版文化史の中への位置付け

〈吾人は範をかのレクラム文庫にとり、古今東西にわたって文芸・哲学・社会科学・自然科学等種類のいかんを問わず、いやしくも万人の必読すべき真に古典的価値ある書をきわめて簡易なる形式において逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供せんと欲する。〉

 2で「現代史」の中に「発刊」を位置付けた上で、改めてここでは、出版文化史の中に位置付ける。レクラム文庫は1867年に創刊され、ドイツにおける「教養」の枠組を示すことになるレーベルで、第一回目の配本がゲーテの『ファウスト』である。レクラム文庫が岩波文庫のモデルだといわれる。

 

4、出版人としての公共性の主張、つまり、理念

〈この計画たるや世間の一時の投機的なるものと異なり、永遠の事業として吾人は微力を傾倒し、あらゆる犠牲を忍んで今後永久に継続発展せしめ、もって文庫の使命を遺憾なく果たさしめることを期する。〉

 つまり商売としてだけでなく、社会的使命なんだという気負いである。ここでは穿った見方をせず、素直に受け止めていいだろう。出版人にもかつては、「志」は確実にあったのである。

 

 角川源義がこの岩波茂雄に出版人としてのロールモデルを見出していたことは「かつての角川」の「正史」(この場合、鎗田清太郎『角川源義の時代』に示された角川史をいう)の中では一つの定説だ。1945年11月に創業したものの、経営に先が見えず、岩波書店の布川角左衛門(ぬのかわかくざえもん)を訪れ、創業者岩波茂雄の名を出し、そこに重ねるかの如く、角川の創業の理念を語った、とされる。角川文庫は源義の「岩波信仰」(この語も「正史」にある)発露という位置づけだ。その岩波文庫的なものへの憧憬や拘泥が、岩波茂雄の発刊の辞に匹敵するものを掲げようとする源義の気負いに繋がったといえる。発刊の辞は、一度は批評家の山本健吉に草稿を依頼したものの、源義の筆が大幅に入ったものだとされる。

 その発刊の辞は、以下のようなものである。全文を引用する。

 

 

〈角川文庫発刊に際して 角川源義

 

 第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以て体験し痛感した。西洋近代文化の摂取にとって、明治以後八十年の歳月は決して短かすぎたとは言えない。にもかかわらず、近代文化の伝統を確立し、自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗して来た。そしてこれは、各層への文化の普及滲透を任務とする出版人の責任でもあった。

 一九四五年以来、私たちは再び振出しに戻り、第一歩から踏み出すことを余儀なくされた。これは大きな不幸ではあるが、反面、これまでの混沌・未熟・歪曲の中にあった我が国の文化に秩序と確たる基礎を齎らすためには絶好の機会でもある。角川書店は、このような祖国の文化的危機にあたり、微力をも顧みず再建の礎石たるべき抱負と決意とをもって出発したが、ここに創立以来の念願を果すべく角川文庫を発刊する。これまで刊行されたあらゆる全集叢書文庫類の長所と短所とを検討し、古今東西の不朽の典籍を、良心的編集のもとに、廉価に、そして書架にふさわしい美本として、多くのひとびとに提供しようとする。しかし私たちは徒らに百科全書的な知識のジレッタントを作ることを目的とせず、あくまで祖国の文化に秩序と再建への道を示し、この文庫を角川書店の栄ある事業として、今後永久に継続発展せしめ、学芸と教養との殿堂として大成せんことを期したい。多くの読書子の愛情ある忠言と支持とによって、この希望と抱負とを完遂せしめられんことを願う。

 

一九四九年五月三日〉

 

 岩波文庫のように明確にパラグラフ化されていないが、四つの要素は全て入っている。

 まず、「知」を「文化」として語り、「敗戦」を「若い文化力の敗退」とする。「文化力」が戦争に無力であったというのは、戦争に役立つ「知」が不十分だった、ということではなく、戦争を回避する英知を育めなかったという意味である。

 歴史的位置付けは「祖国の文化的危機」であり、その理念は「文化」による「祖国」の「再建」である。それが角川文庫の公共性でもある。そう源義は考える。「あらゆる全集叢書文庫類の長所と短所とを検討し」というくだりは出版文化史への言及だが、ここがシンプルなのは「敗戦」という歴史にこそ徹底して源義の意識があるからだ。

 発刊の辞として一貫している。

 ちなみに角川文庫の第1号は『罪と罰』である。

「大衆の時代」の到来、「敗戦」と、岩波文庫も角川文庫も、歴史の必然として、文庫の創刊を位置付けることに成功している。岩波の「大衆に知を」という左翼性も「文化による祖国復興」という角川の健全なナショナリズムも斜に構えなければ、今も伝わってくる真摯さがある。

 しかし角川の出版物には他にも発刊の辞が掲げられたものがある。それが角川歴彦の手によるもので、一つは'92年10月、角川メディアオフィスが独立したメディアワークスが創刊した「電撃文庫」のものである。その執筆に際してのいきさつは「現在の角川」の「正史」に、こうある。

 

〈新しい時代を生きる若者たちに斬新な作品を新たな文庫本として提供したい。これは、歴彦の悲願でもあった。その巻末に、歴彦が書いた〈電撃文庫創刊に際して〉という発刊の言葉が載せられている。この執筆に当たり、父源義によって書かれた角川文庫創刊の辞と岩波文庫のそれが、幾度となく読み返されたという。〉

(佐藤吉之輔・編『全てがここから始まる 角川グループは何をめざすか』2007年、角川グループホールディングス)

 

 当時、歴彦が角川文庫と同じような発刊の辞を巻末に掲げることに、拘泥したのはぼくも覚えている。佐藤辰男が書くべきだと言い、そういわれたことを嬉しそうに話したのを聞いた記憶がある。

 その発刊の辞を引用する。

 

〈電撃文庫創刊に際して

 

 文庫は、我が国にとどまらず、世界の書籍の流れのなかで〝小さな巨人”としての地位を築いてきた。古今東西の名著を、廉価で手に入りやすい形で提供してきたからこそ、人は文庫を自分の師として、また青春の想い出として、語りついできたのである。

 その源を、文化的にはドイツのレクラム文庫に求めるにせよ、規模の上でイギリスのペンギンブックスに求めるにせよ、いま文庫は知識人の層の多様化に従って、ますますその意義を大きくしていると言ってよい。

 文庫出版の意味するものは、激動の現代のみならず将来にわたって、大きくなることはあっても、小さくなることはないだろう。

「電撃文庫」は、そのように多様化した対象に応え、歴史に耐えうる作品を収録するのはもちろん、新しい世紀を迎えるにあたって、既成の枠をこえる新鮮で強烈なアイ・オープナーたりたい。

 その特異さ故に、この存在は、かつて文庫がはじめて出版世界に登場したときと、同じ戸惑いを読書人に与えるかもしれない。

 しかし、〈Changing Time,Changing Publishing〉時代は変わって、出版も変わる。時を重ねるなかで、精神の糧として、心の一隅を占めるものとして、次なる文化の担い手の若者たちに確かな評価を得られると信じて、ここに「電撃文庫」を出版する。

 

1993年6月10日

角川歴彦〉

 

 この発刊の辞には創刊に際しての歴史的位置付けは、当然だがない。「電撃文庫」の創刊はあくまでも角川兄弟の内紛に端を発した「私事」だからだ。そもそも「電撃文庫」は歴彦の角川副社長解任を受けて佐藤辰男ら角川メディアオフィス全社員(実際は一人だけ残ったはずだ)が退社、メディアワークスが手がけていた雑誌、レーベル全てのいわば「クローン」を退社と同時にタイムラグなく行なうという計画だった。つまり、「電撃文庫」はスニーカー文庫の「クローン」として創刊したものだ。だから「歴史の必然」は、無論ない。角川家の内紛という私事が発端だ。その分、岩波の発刊の辞にあったレクラム文庫やペンギンブックにまで言及し、「出版史」の中に強引に「電撃文庫」を位置付けようとしている。古い教養の歴史に接ぎ木しようとしているように思える。

 成る程、最後の二つのパラグラフの中で「電撃文庫」の「特異さ」への言及と「次の担い手」たることを信じるというくだりは「ラノベの時代」の到来を予見していたように今はとれる。しかし、それは後付けである。そこまでの自信も確信もこの時はない。それは、その前のパラグラフ「歴史に耐えうる作品を収録」というくだりに明らかだ。これは「歴史に耐えうるラノベ」をリリースするという意味ではない。

 角川歴彦がよく語る、角川文庫と岩波文庫の違いとして源義が述べていた例えがある。それは岩波文庫には「源氏物語」しか入らないが、角川文庫には源氏鶏太(げんじけいた)も入っている、と述べたという挿話だ。恐らくその名をWEBの読者は知らないだろうが、源氏鶏太は'50〜'60年代にかけてサラリーマンを主人公とするユーモア小説で知られた人気作家だ。森繁久彌(もりしげひさや)が演じる主人公の「社長シリーズ」の原作『三等重役』が有名だ。『島耕作』でなく『釣りバカ日誌』的なサラリーマンものと思えばいい。実際、源氏の作品の多くがかつて角川文庫には収められていたが、これは源義と同郷の富山出身ということも関係している。源氏の作品の多くは映画化され、プログラムピクチャとはいえ、映画の黄金期のことである。メディアミックス的な効果は当然あったはずで「角川メディアミックス史」はここまでは少なくとも遡れるはずだ(これは余談だが)。

 しかし源氏の名をよほど酔狂な人間でなければこのサイトの読者は知らないように、彼は「読み継がれなかった」作家である。だから「電撃文庫」発刊の辞の「歴史に耐えうる作品」は「源氏物語」とまではいかなくとも「古典」を暗に示しているととるべきだ。角川文庫には、岩波的「古典」に源氏鶏太的な流行小説をプラスし、その更に亜種として「スニーカー文庫」という「ラノベ」という名付けが未だない「ラノベ」があった。そういうレーベルだ。だから実際に古典や文学を入れることは可能か否かは別として、歴彦は電撃文庫をスニーカー文庫のクローンでなく、角川文庫のクローンにしたかった。そこは曖昧にしておかない方がいい。

「電撃文庫」発刊の辞に見てとれるのは、岩波文庫から角川文庫という系譜に電撃文庫を位置付けようとしながら、しかしそこにあるのはまだ名付けられていない「ラノベ」だという矛盾だ。結果として「電撃文庫」は「若者文化」から「レクラム文庫的教養」を一掃する役割を果たした。

「電撃文庫」は父・源義の子であろうとした。しかし、父と似ても似つかぬ「ラノベ」のレーベルが生まれる。そういう歴史がここには刻まれている。

 もう一つの発刊の辞「角川EPUB選書発刊に際して」は、「電撃文庫」における「歴史的必然」の不在を購うものだ。これは一番新しい「発刊の辞」だ。DWANGOとの統合にやがて至る文脈の中で読み取るべきものだ。歴彦自らが再び発刊の辞を書き下ろしながら、社内的には「トップダウンでちょっと迷惑」が本音のこのレーベルは、しかし以下のように発刊の意図を高らかに記す。

 

〈角川EPUB選書発刊に際して

角川歴彦

 

 時代には変り目というものがある。

 知識人がヒエラルキーのトップにおかれるこれまでの社会は「知識社会」と呼ばれている。知識人がよき指導者として社会をよりよく導くことは、それはそれでよい。しかし昨今ツイッターなどの新しいメディアで知見を発信する人びとが大衆の支持を背景に台頭して、社会に大きな影響を与える「ソーシャル社会」が到来した。

 平成生まれが社会の働き手として活躍するようになったいま、私は新しい時代に新しい出版の器を用意しなければならないと感じるようになった。デジタルネイティブといわれる新世代に、私たちが旧来の権威をおしつけ、伝統的な出版スタイルにこだわっていても、いずれそれは廃れる運命をたどるであろう。そこで、新しい時代の新しい読者にふさわしい智の出会いの場としてここに角川EPUB選書を発刊したい。

 新技術とは往々にして不便なものだ。日本語は世界でもまれな感性豊かな言語であるため、電子ディスプレイ上に正しく表現することが困難であった。しかし、世界標準であるepub3.0というフォーマットの登場以降、日本の電子書籍はグローバルなレベルで紙の書籍と融合することが可能になった。こうした時代に、この新たな選書が新旧両世代の智のかけ橋になることを期待している。

 インターネットは大衆のコミュニケーションの中心となり、特に関心のない人をもまきこんで新たなメディアを創出した。携帯電話がスマートフォンに進化をとげて、インターネットは文字通り万人の手の中にある。

 文学も、音楽や映画も、すべてのコンテンツが小さな端末で享受でき、その芸術性に感動することが可能となった。

 一方で加速化する技術革新は、時代の変り目の根幹を見えにくくもしている。本シリーズが、混迷する現実を分析し、自らの行動の指針を照らし出す役割を果たすことを願っている。

 

2013年10月〉

 

 ここではっきりと示されているのは源義的なものからの離脱だ。

 WEBの出現に歴彦が過度に肩入れするのは経営者としてだけでなく、それが旧「教養」、つまり岩波文庫的、源義的なものの「否定」に繋がるからだ。歴彦の「教養」に対するアンヴィヴァレンツな感情は彼を理解する上で重要な視点だ。ここでは旧「教養」の否定者という視点から、示された枠組を岩波文庫発刊の辞と対比してみよう。

①「知」の定義

「知識人」のヒエラルキーは解体し、「Twitter」などソーシャルメディアで発信される言葉が新しい「知」である、とする

②歴史の必然性

「ソーシャル社会」の到来と「デジタルネイティブ」の出現が強調される。しかし、この二つのキーワードはいささか空疎である。社会のあり方、人のあり方がまるでSNSの出現で「戦後」のように変わる、と言いた気だ。

 確かにWEBの出現は歴史的な転換点であり、「新しい智」は出現するのかもしれない。しかし、①②を素直に読めば、その「知」はWEB上に出現したツイートやニコ動のコメントであるはずだ。それを「新しい智」とするのは父の「教養」の否定であり、父殺しである。しかしブロガーは固有名の名で発言する限り旧知識人と変わらない。「新しい智」はもはや固有名の名は持たない。コメントやツイートや「投稿」の総体が「新しい智」とされるべきではないのか。しかし、そういう「知」はいったい、紙だろうが電子だろうが「書籍」という形にパッケージできるのか。

 このレーベルで刊行される事実嫌がらせの持ち込み企画であるぼくの本(殆どこの「発刊の辞」への反論である)はともかく、川上量生や角川歴彦を含むインターネットビジネスの成功者による「ソーシャル社会論」である。他の執筆者もIT系の「知識人」である。百歩譲って、「ニコ動的智」を納める書物のレーベルが本の形で可能だとして、しかしそういう人選でない。

発刊の辞が、レーベルの中で形になっていない。

その点では「電撃文庫」に似ているが、旧「教養」を意識しながら「ラノベ」というフリークスを生んだのに対し、「新しい智」を宣言しながら旧「教養」に実態として回帰している。

③出版史的位置付け

 電子書籍時代への対応。これも時代認識としてはわかる。しかし、実態が伴わない。

 そもそもこのEPUB選書からして「電子書籍」に満足に対応できていない現状がある。内実を記せば、角川の出版物はこの選書を含め電子書籍として同時リリースするため、校了日が「紙」だけの時代より進行表上かなり(としておくが、本当は「ひどく」である)、早まっている。電子化によって実現する情報を届ける「速度」はむしろ後退している。電子だからただちに更新可能というが、誤植の修正に2ヶ月近くかかる。

 スマホのようなプラットフォームで全てのコンテンツが受容できる「変化」も「環境」としては成立している。しかし角川のブックウォーカーやコミックウォーカーは旧世代の作者が旧来のフォーマットで作品を作り、「本」で回収するモデルなので、汎用プラットフォームとしては「使えない」。今の角川の電子書籍ビジネスは自らのプラットフォームからあらゆる端末にあらゆる形式の作品を発信するのではなく、電子データ化したコンテンツを第三者のサイトに転売する「問屋」、つまり角川歴彦が敵対視してきた「取次」化さえしている。「電子化」することで情報発信の速度がむしろ1落ち、「問屋」という電子化で本来、作り手と受け手の中にあって排除される可能性の高かった旧体制にむしろ変化し、その点で企業として「退化」している。発刊の辞が語るインフラの変化に自らがついていけない。

 歴彦の主張にあきらかに企業としての角川がついていけなくなっているのである。だから、歴彦はドワンゴが「欲しかった」のだ、といえる。

④理念

「混迷する現実を分析」「行動の指針を照らし出す」というのは、つまり「受け手」の側に発生した「知」を「新しい」と持ち上げながら、指針は自分たちが示す、と言っているように聞こえる。おまけのエッセイで「群れ」の話をしたのは、ここにつながる。

 つまり、一方で源義的教養を否定しながら、旧「教養」や旧「制度」にむしろ、企業としての角川のベクトルは振れている。だとすれば「旧来の権威をおしつけ、伝統的な出版スタイルにこだわっていても、いずれそれは廃れる運命をたどる」しかない。

 この発刊の辞が、「ニコ動」の新たなステイトメントならわからなくもない。

 ユーザーの投稿やコメントが新しい知で、知識人のヒエラルキーは身も蓋もなく解体し、ユーザーがコンテンツを自作する。だから企業として目指すのはWEB環境の最適化である。そのためにユーザーをビッグデータとして分析し、サイトの運営ルールやプログラムで規範化する。

 そう「翻訳」するとひどく、納得がいく。

 つまり「EPUB選書」発刊の辞は「知」とそれを支えた「本」、そして「啓蒙」される「大衆」、更にこの「大衆」が創り出していく「社会」像といったものの終わりという「歴史」的転換点の上に立ちながら、企業としての角川は歴史を逆行する、という矛盾の上にある。だから、「EPUB選書」発刊の辞と角川の実態の乖離は、歴彦のビジネスモデルのなかで、角川や吸収した版元がむしろ重荷となっているという問題としてあり、これは、また別の問題だ。(KADOKAWAの大リストラが公になるのはこの原稿を星海社に渡したあとである)

「EPUB選書」発刊の辞が、歴史的転換を強調すればする程、それは、「敗戦」という歴史的転換、「大衆の時代」という歴史的転換に自らの出版を位置づけようとした、源義、そして源義がモデルとした岩波の

コピーになってしまう。源義的岩波的な旧「教養」を否定しうる歴史的転換を語りながら、父の物語を繰り返している。父を否定し、父をなぞる。しかし、岩波や源義との違いは決定的だ。岩波は「大衆の時代」にあって大衆に「知」をくまなく届けようとした。源義は「知」で敗戦からこの国を復興しようとした。「方便」だとしても、出版が歴史に果たす役割を語っている。だが、「EPUB選書」発刊の辞は、歴彦なり彼の企業なりが、自らが生み出す「新しい智」で、どう歴史を作って行くのかが語られない。「新しい」「新た」が幾度も繰り返されるが、「こういう社会を作って行きたい」というビジョンはなく、変って行く社会の追認しか語られない。

ならば、そういう知識人が社会の指針を示す時代が終った、といえばいい。しかし、「知識人がよき指導者として社会をよりよく導くことは、それはそれでよい」と否定しきれない。語られるのは「私は新しい時代に新しい出版の器を用意しなければならない」、つまり、インフラである。「時代は変わって、出版も変わる。時を重ねるなかで、精神の糧として、心の一隅を占めるものとして、次なる文化の担い手の若者たちに確かな評価を得られると信じて、ここに「電撃文庫」を出版する」とかつて語ったときは、旧「教養」にコンプレックスと憧憬をかくさない一方で「ラノベ」の「中身」が次の時代に必要とされると言う自負はやはりある。

「EPUB選書」発刊の辞は、だから「プラットフォーム」というインフラについて終始、語っているのである。しかし彼は自分がインフラしか語れないことに気がついていない。Googleやアップルがアングロサクソンの鼻持ちならなさはともかくWEB社会構築の「理念」を語ることとの違いは、やはり致命的だが、そういうものは恐らくドワンゴの側にはやがて「必然」として出てくるだろう。「理念」がなければ源義のように歴史との関係を結べない。だから、角川歴彦という人は「発刊の辞」に於いても常に歴史との関係を結べない。しかし、結べないから間違っているのではなく、結ぼうとするのが間違いなのだ、とぼくは思う

 歴彦は家族から疎外され、小さな宇宙を創り、そこに籠もる癖がある。これが前回、書いたことだ。しかし、その一方で、当然だが「現実」(個人史からメディア史、世界史まで)と自分を結びつけようという感情が実は強い。しかしそのとき、「家」を単純に継承できないことが、実は講談社も小学館も新潮社も「同族経営」という旧態にある日本の出版社の後継者と違うところである。個人史的にも世代論的にも彼は「現実」に根を下ろし損ねている。その欲求が強く、しかも根を下ろそうとしても恐らくそれがうまくできない。ためらいや屈託がどうしても出る。

 ぼくは彼と長くつきあう中で、彼の中にどこかテーブルを全てひっくり返してしまいたい、という衝動がある、とずっと感じてきた。「恐るべき17歳」世代の一人としての春樹はわかりやすい破滅型だ。だが歴彦も破滅型だ。先の戦中生まれのセヴンティーンに共通の感覚として、「廃墟」という何もない場所への回帰という衝動が根底にあると田中は遠回しに指摘したが、その「衝動」は表向き「革命」や「愛国」という「変革」への思考によってデコレートされるとも論じる。歴彦がWEBの「技術革新」という「革命」に常に飛びつき周囲が見えなくなるのは、それと似ている。

 春樹の狂信より冷静ではあるがやはり狂信である。

 だから再び記すが、ぼくには歴彦の行動が実母によって引き出しの彼の世界が崩壊した一瞬に常に立ち戻ろうとしているように思える時があるのだ。

 源義が廃墟から始めたのだとすれば、歴彦は全てが壊れてしまった場所への回帰衝動がある。小さな子どもが積み木を作っては壊すように、子会社や組織を幾度も作っては壊すさまにいつもそれを感じていた。そしてようやくたどりついた「廃墟」が、「ニコ動」である。そこでは、古い「知」や「教養」やジャーナリズムは、それは見事に死に絶え、文化大革命後の中国ってこんな感じなんだろうなと、いつも思う。

 

 ビジョンは、だから語る必要がないのかもしれない。

 

 

おまけのコラム① 

鳥の規則

 

 柳田國男が、昭和の初め、第一回の普通選挙に於いて鳥や魚の「群れ」の如く一つの方向に投票行動を起こした有権者の姿に愕然として、「選挙民」という個人をいかに作るか、ということに自らの学問的使命を見出した、という話は100回ぐらい書いた。「個」のビルドアップされたものが「社会」であるべきだ、という柳田の理念をぼくはこの先も捨てることはないけれど、なるほどこの国は「群れ」なのだな、と考えるとひどく納得もする。

 昨年末の総選挙で自民党が勝利し、「民意」が示されると、年明けには呆れる気にさえならないほど露骨に社会保障関連の予算が削減されることになった。「Yahoo!ニュース」のコメント欄では、批判が多数派の印象だが、しかし、それが内閣の支持率には必ずしも反映はしない。「Yahoo!ニュース」のコメント欄は、政権批判的な記事へは批判的なコメントが寄せられる傾向にあるが、だからといってコメント投稿者の顔ぶれが一斉にリベラルにとって替わった、ということはないだろう。

 何が言いたいのかというと、一つ一つのコメントの内容と内閣の支持のされ方の間に解離がある、ということだ。世論調査の類では、経済政策や社会保障に関心がある、が多数派で、しかし新自由主義の現政権が社会保障をカットするのは目に見えている。それなのに自民が勝つ。案の定、消費税は社会保障に使うはずがそうはならないことに憤り、しかし支持率はむしろ上がる。コメントをする人は世論調査という総体から見た時、少数派で、サンプルとしてはバイアスがかかっている、という見方はできる。安倍政権の個別の政策は支持できないが民主党よりまし、という言い方も可能だろう。しかし、そもそも個別の政策への意思表示の積み重ねが、選挙結果や政権の支持率へとは必ずしも連動しない。しかし、「連動しない」のではなく、連動の仕方が「言論」のレベルでは行なわれない仕組みなのだ、と考えるべきなのだとこのごろ思う。

 そう考えると、柳田の「群れ」の喩えは秀逸なのだ。WEBを少し検索すれば、「ボイド」という鳥の群れのシミュレーションのサイトに引っかかる。鳥の群れが一斉に一つの方向に飛ぶ行動はリーダーがいるわけではないし、一羽一羽の鳥がさして高度な判断をしているわけではない。「ボイド」はこれをシミュレーションする。

 プログラムはけっこう単純で、一羽の行動原理は、①分離②整列③結合の三つだけだという。

「分離」は他の鳥とぶつからないように飛ぶこと。「整列」は周囲の近い場所の鳥と同じ方向や速度を合わせること。「結合」はその結果、みんなが集まる方向が見えたらその中心に向かう、ということ、だったはずだ。その程度のことで、あたかも誰かが強いリーダーシップをもったり、秩序だった指揮系統がなければ不可能に見える群れの行動が再現できる、という。

 この「ボイド」の「群れ」の規則動作をWEB上、あるいは日常の「言論」に置き換えてみる。①身近な人間との「ぶつかり合い」は回避する。②何となく周囲の意見に合わせて意見を言う。③そうこうしているうちにブームや炎上が起きるのがどこかに見えたら、殺到する。

 日常の会話や言葉は記録できないが、WEB上のツイートやコメントを見て行くと、そこで語られる「中身」とは別にこの三つのいずれかの方向性というかベクトルを「情報」として内在して、発せられているのではないかと思えてくる。「空気を読む」というあのふるまいも、「ボイド」並、もしくは鳥並の行動原理が基本にある、とさえ思えてくる。

 あるいはもう一つ「規則」があるのかも知れない。捕食動物が獲物の群れを襲う時、子どもなどを襲う率が高いのは「大人の群れ」の中で異質だからで、群れの中の個体に一匹だけ目立つカラーリングをすると捕食され易い、みたいな研究があると聞いたことがある。この「捕食」の行動規則に似たものを、群れの内側、もしくはその外の「異質な個体」に向けられるという「規則」が、WEB上の「群れ」にある気がする。

 その結果、成立するのが「世論」や「空気」であり、議論がビルドアップされた民主主義でも独裁者に従うファシズムでもない。思想ではないのだ。

 そう考えると「村八分」とか「五人組」などという制度は、「群れ」の行動原理を社会に組み込むためによくできていた、ということになる。一つ一つの言説が「全体」として一まとまりになる合理性を欠いているのは、そもそも一つ一つの「言説」は行動規則に使った身体的なふるまい以上の意味はないからで、一羽一羽の鳥は、自分が飛ぶべきと思う方向を主張するため、ロジカルに根拠を挙げて議論しているわけではない。ただ、「空気」を読んでいるだけだ。柳田はそういう「鳥の群れ」をなんとか「個人」という「人間」にしようとしたのだけれど、やはり、「鳥だし無理」ということなのだろうか。

 なるほど、柳田が群れから離れた老猿について美しい一文を遺した気持ちもしみじみとわかってくるというものだ。

 だが、ビッグデータと呼ばれるものを見るにつけ、人を「個」でなく「群れ」と見なす人間観が否応なく説得力を持つ時代が来たのだな、と思う。1920年代の映画には、『戦艦ポチョムキン』でも『メトロポリス』でも「群衆」シーンが登場する。文化史の中では「大衆」や「群衆」が可視化された時代である。それは大衆の「個」としての覚醒が前提で、だからこそマルクス主義的な民衆の蜂起としての「群衆」がイメージされた。「ボイド」のシミュレーション上に表示されるビッグデータを見ると、なるほど個人がどんな思想を持とうとその総体はそれとは無関係なものだ、と説得されそうになる。旧メディアの発する言葉が失効した背景には多分、これと同じ事態があるし、ここ数年、ぼくは何かをこの国の中で言うことは殆ど無意味なのかもしれないと思えてならなかったのもそういうことだ。何を書いても「鳥の規則」の部分しか届かないのである。「ヘイトスピーチ」「嫌韓」「国益」「反日」なんて全部、「鳥の規則」じゃないか、と思う。何年か前、「本」は全部サプリ化している、読むと「泣ける」「コワイ」「もうかる」「元気がでる」という機能性食品みたいな価値が求められる、と書いたけれど、これも同じだ。「鳥の規則」しか届かない。

 以前、書いた「バカ化」を別の視点から見るとこういうことで、AKBなんてファンを「群れ」としてどうやって単純な規則でプログラミングするかってことだと考えるとよく理解できる。

 

 だとすると、この「群れ」を「社会」にするのも三つぐらいの規則の刷り込みでいいのか、ということにもなる。

 これが柳田の問いに対する正解だと、やだな。

 その前に、葛西の水族館のマグロの群れみたいに謎の大量死(何の比喩だ?)が先にくるか。

 

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大塚英志緊急寄稿「企業に管理される快適なポストモダンのためのエッセイ」2014.05.17

「角川歴彦とメディアミックスの時代・序」2014.06.04

【第1回】角川歴彦とメディアミックスの時代 2014.06.25

【第2回】角川歴彦とメディアミックスの時代 2014.09.30

【第3回】角川歴彦とメディアミックスの時代 2014.12.01