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カテゴリ: 編集部より

編集部ブログ 角川歴彦とメディアミックスの時代

メディアミックスの時代・番外編

 いろいろあって、とあるサイトで掲載を止めた原稿をしかし、せっかく書いたし、面倒な原稿は全部、星海社行きといういつものパターンです。

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『感情化する社会』書き下ろしインタビュー

1 なぜ「ユーザー」は「わかりやすいこと」をもとめるのか? 
 

 最初のあなたの質問は『感情化する社会』という本の中身を「まだ読んでいない記者にわかり易く説明してくれ」ということでした。けれどもそもそもそうやって書物を含むあらゆることばに「わかりやすさ」を当然のように要求するという態度そのものをぼくがこの本で問題にしてはいませんでしたか? ゲラの時点でインタビュアーである君のセリフが妙に「キャラ」になっていたのも含め「ユーザー」に対しての「わかりやすさ」の工夫だと思うけど、だったらいっそLINEでインタビューして欲しかった。ぼくはうちの猫のアイコンとか付けますから。

 でも、なんで「ユーザー」は「わかりやすさ」をしばしば当然の権利として求めてくることがあるのか、あるいは、何故「わかりやすく」と君は脊椎反射的に思ってしまうのか。そこでいう「わかりやすさ」とは何なのか? その背後にあるものを考えて下さいというのがぼくが「わかりやすく」いえることのひとつ(あくまでひとつ)です。

 ぼくはそれを随分前に「書物のサプリメント化」という言い方で比喩していた記憶があります。今、書物に限らず、webも含めあらゆることばに求められるのは「わかり易い効能」です。「泣ける」「感動する」「鳥肌が立つ」「癒される」、まるで「ダイエット」「パソコンで疲れた目がすっきりする」「抗酸化作用」と「効能」を唱った、サプリメントや機能性食品のような「効能」が書物に求められる気がしませんか。そしてサプリメントとしての書物は何より「わかりやすく」なくてはいけない。Web上のヘイトや左翼批判も「サプリメント化」したことばだよ。韓国、中国にからんだり、「ミンス」「プサヨ」とか、言ってて気持ちいいんだよ。もちろん、日本はこんなに凄いっていう自画自賛も。愛国ももはやサプリメントと化している。オールドスクールの右翼にひとは生きにくいと思うよ。

 「わかりやすさ」にもどればね、webの記事でも、ひどくどうでもいい芸能記事について箇条書きで3点ぐらいに要点をしぼった「まとめ」が文章の初めに付くというパターンをよく見かけますが、まず、口当りがよい、そして何かにすぐに「効いた」気がする、それが「本」や「ニュース」や「ことば」に求められているものです。

 だからそれを問題提起した本のインタビューで「わかり易く説明してくれ」と言われてもそれではまずインタビュアーである君との対話が成立しない。何かを説明するのに一冊の書物がいるから一冊の分量を書くわけです。

 さて、ここで注意して欲しいのは「わかりやすく」「すぐ効く」ことばはキモチが良く、わかりにくいことばはそれだけで不快なわけです。なぜ、わかりにくいかといえば、それは、ことばは「他者」が発するものだからでしょう。

 いま、web上ではみんな他人とぶつからないようにしているでしょ。炎上とかwebのイジメも、「みんな」とぶつからないように一つの方向を向き、しかも同じ方向をむいていても微妙に距離をとっている。

 じゃあ何との衝突、出会いを避けているのかと言えば、他人の自我や現実、それらからなる世界そのものでしょう。

 そして例えば不愉快な自我をもって、「エヴァンゲリオン」で使徒がATフィールド破って侵入するみたいにあなたの自我を食い破って入ってくるのが「文学」です。だから、そもそも「文学」なんてわかりにくくて不快なものでしょう。イミわかんないし、何とも鬱陶しい澱みのようなものが読後、心に残ってしまう。 すっきりしないし、泣けないし癒されない。漱石の「こころ」よんで「スッキリ」しないでしょ?

 他者の自我なり思考なりが侵入してきて軋轢が起きる。その不快さや他者との軋轢こそが文学を読む経験だったはずで、元少年Aの『絶歌』が不快だったのは彼の未熟な自我があの本を数頁読むと読者の中に侵入しようとしてくるからです。その拒絶反応があの本を生理的に拒否させた理由で、それを「被害者の人権」や彼が受けとる印税を持ち出して批判したひとがいましたが、要は彼の未熟な自我、未熟な文学もどきの文体が「不快」なんです。みんな彼に「反省」がないとか言うけれど、読者が期待したのは、犯行シーンがどう描写されるかというグロテスクで悪趣味な期待、犯罪ポルノグラフィティとしての期待(ポルノも「機能」です)がなかったとはいわせません。それに裏切られて「つまらない」(当然「文学」としては出来が悪い以前です)元少年Aの私小説もどきを読まされてしまったことに憤っている。

 別に元少年Aを持ち上げる気はさらさらないけれど、読んで人の心を掻き乱し、不快にする文章が彼のような犯罪を起こした連中がたまに書く未熟な手記の中にしかかろうじて残っていない。今ほど文学者が健全化した時代はないですよ。無頼派気取ってもデリヘル呼ぶくらいでしょ。コンプライアンス化した文学っていうか。つまりは「文学」はもうないんだよね、ということです。

 いや、別になくていいんだよ。

 だいたい「文学」を書く奴なんて本当は社会的不適合者がかろうじて社会や他者と関わるツールみたいなものだから、そこに留まる限り文壇的文学は必要とも思わないけれど、その一方でコンプライアンス化された文学とかことばがwebにもメディアにも溢れている。

 でもね、別に書く方も読む方もそれでいいんだから別に知ったことではない。

 結局、「わかりやすいことば」「良く効くことば」、つまりことばの「コスパ」が求められる。それはプラットフォームが受け手を「ユーザー」として持ち上げたことが原因でしょう。ユーザーはだから、いわば権利としてプラットフォームに「使い勝手」や「サービスの向上」を求める。それがwebのことばにも同じように求められる。ヤフーニュースなんか見ていれば見出しに並んだ段階で、「泣ける」とか「神対応」みたいな反応がくるか、民主党か中韓に絡むコメントが並ぶか、わかるじゃないですか。Webでプラットフォームが提供される「ことば」って、反応まで折り込み済みっていうか。するとユーザーは受けとることばだけでなく、自ら発することばも「わかりやすく」なる。コメントの「いいね!」上位にくるのって、シンプルでわかりやすいものでしょう。サプリメントの広告の効能体験記みたい。

 つまり、こうやってプラットフォームとユーザー、あるいはユーザー化した人たちが「サプリメント化されたことば」を互いに交換する関係(例えば「泣けることば」を提供し、「泣ける」とコメントする)、そういうコミュニケーションをしていく。  それがこの本の議論の出発点にあります。
 

2 感情労働としての天皇と「シン・ゴジラ」の天皇なき世界
 

 「感情化」をぼくはあらゆる自己表出が「感情」としてのみ互いに外化することを欲求しあう事態と定義しました。「泣けることば」というサプリメントを提供し、「泣ける」と返すような関係、つまり「キモチ」のみのコミュニケーションです。今を生きる人々が感情的になっている、つまりすぐカッとなるという意味では必ずしもないですが、今の首相である安倍はすぐにカッとくるし、トランプもそうだけど、「感情」を外化するってことは理性的な判断や合理性やデータを踏まえることの正反対になる。

 トランプの演説みたいにウソばっかりでもキモチ良ければいいので、とうとう大統領になっちゃったでしょう。キモチ良いことばを求めるひとには合理性もへったくれもありませんから、まさに「感情化されたことば」のみが有効です。それを語る人たちが安倍やフィリピンの大統領やトランプを選択し、あるいは英国をEUから離脱させたといえるでしょう。不都合なことは他人のせいにしてしまって、キモチ良いことばを発すれば聞いた方がその時はスッキリする。

 まあ、サプリメントというよりドリンク剤。

 それで一票、有権者は入れる。

 しかし、そういう「バカげた選択」は民主主義システムにとっては折り込み済みであって、アメリカの民主主義が凄いのは二流俳優のレーガンでも、バカ息子の方のブッシュでもトランプでも大統領が務まるってことだし、日本だって安倍でいい程度に統治機能はしっかりしている。イギリスだってEU離脱って騒いでた奴はばっくれて、頭のいい実務のできそうな人たちが後始末をしている。

 でもそこで置き去りにされるのはキモチの良くない現実で、沖縄がそうでしょう。沖縄のメディアが自分たちの地域の現実について語ることが不快であり、「不快な現実」がそこにあるわけです。原発にしたってね。

 世の中には物事を考えたくない人は半数ぐらいはいて、そういう人は理性や合理的判断でなく、「感情」のコミュニケーションをしたがる。楽だから。考えなくていいでしょ? 地球温暖化は陰謀、失業は移民のせい、進化論はウソ、原発はアンダーコントロール、と「考えなくていいよ」っていうメッセージを発して、「考えるのイヤだ」という感情を隠蔽してくれる指導者たちが、地域地域の半分を少し超える人々によって支持されるようになった。民主主義っていうのはヒトラーの時も戦前もね、普通選挙で国民自ら独裁者やファシズムを選べるシステムです。だから柳田國男は日本が近代化するためには「普通選挙の育成」、主権者教育をしなきゃいけないって言い続けたけれど、そんな面倒な話し、聞きたくないっていうのがこの国の近代であり戦後であって、しかし民主主義は有権者に自分で自分のやったツケを払わせ、しかも次の世代にも払わせるシステムだから、選択したことは自己責任なんだよ。

 自己責任ってことばは生活保護を貰う人たちじゃなくて有権者の投票に対して使われるべきことばです。

 それで、結局、記事にしたいのは、『感情化する社会』じゃなく、『シン・ゴジラ』についてなのかな。インタビュー後の雑談で話した『シン・ゴジラ』で一回分になっていたから、そう思うんだけれど。

 『シン・ゴジラ』と『君の名は』については『シン・ゴジラ』しか観ていないから対比してどうとかは何ともいえない。何かよく知らない雑誌に新海について書いたけれど、あれは映画公開前で、見せてもらってないから、観て書くなんてできなかったもの。ゲラだって送られてこなくて、新海の会社から依頼が来て、新海の会社に原稿渡したら、ゲラも出ないで本になっていた。

 多分、出版社の問題だと思うけど。

 『シン・ゴジラ』はね、ああ庵野はちゃんと皮肉とかでなくきちんと年をとったよね、ってこと。そういう感慨。

 宮崎駿が『風立ちぬ』つくって、その時、庵野が「ポニョのリバウンド」って言ったじゃない。ずっと少女の成長しか書いてこなかった宮崎駿が、挙げ句、いい年して、胎内回帰したのが『ポニョ』。その「リバウンド」で、初めて男性の成長を描こうとした意味なんだけど、正確に言ったら、宮崎は「リバウンド」できてない。ラストで菜保子が両手を広げて幻想の世界から「来て」っていうセリフが宮崎さんの元の脚本。でも、それじゃ「母性への回帰」になって同じでしょ、『ポニョ』と。それを庵野が収録スタジオで「生きて」、つまり現実に留まって生きてね、って意味に変えた。

 まあ、庵野に助けられて宮崎駿があの歳でかろうじて成熟するっていうのがジブリのオチかって。

 でも、そういう庵野見てたらやっぱり、そっちの方が感慨深かった。

 だから『シン・ゴジラ』って「胎内回帰」をゴジラに断念させる映画にも思えた。あれは、ヒルコ、つまり父母に捨てられた子がその元に帰還するって構造でしょ。帰る先が皇居だってのは、ヒルコを産んだのが天皇の先祖だからです。手足が生えてくるのだってヒルコだもの、どう考えても。

 だからゴジラは東京駅から皇居の方向いて固まるわけじゃない。最後まで皇居に行こうとして。じゃあ何のために皇居に帰るのか? 父殺して母胎回帰? 加藤典洋なんか自分だったら米軍基地を襲わせるって言ってたけど、そうじゃなくて皇居に戻ること、つまり「父」とか「母」とかの表象としての天皇に回帰することを日本人がゴジラに力づくで断念させたっていうのか。つまり、あれは天皇制を断念する映画になってしまっている。

 この国の近代は天皇がいたから国民は成熟できなかったんだから。

 天皇の待避についての議論を官僚がしてないっていう批判もあったけど、そうじゃなくて、あれは天皇がいない世界、天皇制が断念された世界なんだよ。

 ぼくは国民が原発や地震の度に「おことば」や訪問によって感情を畏怖され、そして国民感情を畏怖することに象徴天皇制の「機能」を見出した今の天皇のふるまいを感情労働だって『感情化する社会』で言っているわけです。この部分はhttp://www.ohtabooks.com/press/2016/09/16155200.htmlで読めます。

 相手の感情や心を気持ちよくすることが、実務的労働と別にCAとか介護士とかに暗黙の内に求められるでしょ。それが感情労働です。あっちこっち天皇は回って、「国民」の感情を慰撫する。それが象徴天皇制の機能だって彼は「お気持ち」発言で言っている。

 実務がなくただ感情労働だけからなる。これって、正直キツいよ。

 でも「国民」は、そうやって天皇に癒されるけど、現実の生活の方は問題を何も解決されていないでしょ? 福島も熊本も。天皇は感情労働しかさせて貰えないし、それは天皇が必死で感情労働することで、逆に現実の問題が曖昧になる。そういうふうに使われてしまっている。

 震災も原発も解決するのは天皇の感情労働でなく、政治であり、行政です。だから、『シン・ゴジラ』では政治家も官僚も、これぞ憲法に定めた「全体の奉仕者」、パブリックサーバントのお手本といわんばかりによく働く。だらだら会議ばかりやっているって言っていう声があるけれど、本当の公務員の会議はあんなサクサク進まない。パブリックサーバントたちが、ゴジラっていう問題を全力で解決する。

 つまりあれば感情天皇制が断念された天皇なき世界なんだよ。

 だからゴジラは戻ってきたところで、あの森はそれこそバルトの言う空虚な中心なんだよ、天皇さえいない。

 『君の名は』についてはずっと海外だから見れてないです。昨日まで北京で明日からソウル、リヨンと続くから映画館に行けない。

 でもね、昔、彼が『星を追う子供』をつくった後でぼくの当時教えていた大学に来た時、あれは言っちゃえば失敗作だけど、でも重要な彼の曲がり角なんだよね、みたいなことを話した記憶があるんだけど、多分、そういう意味で庵野と同じくキチンと年をとったんじゃないの? 

 『ほしのこえ』のあの二人は世界の果てじゃなくて大人になって現実の中で出会ったみたいなことを北京で会った学生は日本まで行って見たらしいけど、そんなこと言ってた。

 何かね、最後まで大人になり損ねたジブリがある一方、結局大人になったのはおたく第一世代っていうか、そんな感じなのかな。まあ、戻ったら見るけれどこのゲラの戻しには間に合わないな。
 

3 何故、柳田國男をまんがで描くのか
 

 天皇の生前退位の意向が報じられて以降、ぼくが不思議なのは、天皇が代替わりするってことは元号が変わる、つまり歴史の一区分が終わるってことでしょう。でも、そういう感覚が意外とみんな希薄ってことだよ。天皇の気持ちをわかってやれ、というばかりで、明治天皇が死んだ時だって夏目漱石の「こころ」にあるでしょ、「その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました」とか。あるいは昭和天皇が死んだ時はちょうどベルリンの壁の崩壊と重なって、それこそポストモダン到来というか大きな物語の終わりっていう気がしたよ。

 あなたはインタビューでSMAPの解散と生前退位という「終わり」を重ねて質問したけれど、ぼくはそれに戸惑いました。平成の終わりはSMAPの終わりくらいの重さなんだって。そういう何がない時間感覚のなかにそれこそぼくはああこれがポストモダンなのか、って思います。

 天皇は宮田登的にいえばヒヨリミやヒジリ、つまり、時間を統治する職能でしょう。天皇が代替わりしたり元号が変わることで時間=歴史を更新するっていうのが天皇制っていうシステムだったはずでしょ? 

 でも代替わりしてもSMAPも解散したしね、くらいの喪失感なら、その時点で天皇制、否定されるじゃん。でも君、インタビュー中、ずっと「天皇陛下」って言ってたよね。インタビューがそのまま流れるわけじゃないのに「陛下」って言ってるってことは多分彼を敬愛しているからだと思うけど、大きな物語が終ったはずなのに、なぜ、天皇性は必要とされるのか。  

 このインタビューでぼくが興味深かったのは、「物語労働論」について殆ど訊かれなかったことだよね。 web上のあらゆる「書く」「表現する」という行為はローコスト、フリーレイバー、無償労働であって、プラットフォームは搾取するシステムだっていう、まさに「労働問題」だってことを書いたけれど、これは「労働問題」として考えようということです。ヤフーやアマゾンのコメントだってみんな「無償」でせっせと書き込み、しかしプラットフォームはコメントの中身は私たちプラットフォームの責任じゃないです、とか言いつつ、実体としてはあれらのコメントはプラットフォームのコンテンツになっている。

 このインタビューだって『感情化する社会』のプロモだから謝礼は出ない(別に出さなくていいけれど、でも出来上がったゲラは、1/3が『シン・ゴジラ』、1/3は『サイコ』最終巻についてでしょう。しかも、この2つはインタビュー後の雑談でしょ? あのさ、予算ないから、無報酬で話してくれって言えばいくらでも話すよ。ぼくは世界中、たいていどこに行ってもお金をとらないでまんがの書き方を教えたり話したりしているわけで)。

 でも、払わないのを「プロモ」って理由付けするのはみっともないっていうか、欺瞞なんだよ。

 ぼくのインタビューはともかく、フリーレイバーを言い換えているだけでしょ? 「みんなの意見」「ユーザー様の声」とかいってフリーレイバーで「コンテンツ」をつくらせるのと同じです。

 そうやって搾取が見えないことが労働問題なのかと言うかもしれない。例えば、マルクス主義が出てくる前は労働者は「自分は搾取されている」って言語化できなかったわけでしょ? 

 だから、今回の本はね、読んでほしいところを敢えて2点、webの流儀に合せてざっくり言えば、一つは天皇を感情労働から解放しろ、しかしそれは生前退位じゃなくて天皇に感情を畏怖されることをもう国民は望むな、つまり天皇制はもうやめましょうとぼくが幾度か言ってきたこと。

 もう一つは「物語労働論」に於ける収奪のシステムとしてプラットフォームを批判し、web上の労働問題を立論しないといけない、という、以上の2点。

 今、北京にいて、この後、釜山に行くんだけれど、そこで話す予定の韓国人の研究者はまさにこの問題を中核に扱って、日本のブラックアルバイト、そして韓国にも中国にも要は全く同じ「ブラック」な労働を強いられる若い子たちがいて、それについて彼の考えを聞いて少し話してくる。でもね、それは本来、ぼくみたいな年寄りじゃなくてあなたたちの問題でしょう? ぼくが『黒子のバスケ』のチープなテロリズムに幾許かの興味があるのは、自分が搾取され阻害されるそのシステムに対して仕掛けていったからで、誰かが用意した仮想敵を叩くみたいなことはやってない点だよね。まあ、出発点は彼の単なるやっかみだから、その点は問題外だけれど。

 それで、本の「プロモ」だけど、この2つの点に興味があれば手に取ってくれればいいし、天皇の部分はwebで読めるようにしてあるから。

 ぼくのまんがについては、なんで「近代」を書くのかという質問にだけ答えておくね。それは柳田國男を何故書くのかって問題です。柳田國男の学問は「ロマン主義」と「公民の民俗学」の二重構造です。ロマン主義って言うのは古代と現代、そして「私」を「大きな物語」でつなげてしまう思考方法。日本人はどこから来たのかという起源論や、異世界を夢想する思考方法のことです。古代に向けられたセカイ系っていうのかな。異世界への憧れもロマン主義。ここでないどこかに「私」を回帰させようとする。

 対して、「公民の民俗学」はこの国に近代的な社会を形成していこうとする思考です。ぼくの柳田國男論はその相克と「公民の民俗学」の可能性について語るものです。まんがや小説の題材になりやすいのは山人論や異界、妖怪などロマン主義的な題材。

 松岡國男と名乗っていた頃の柳田國男の明治20年代から30年代にかけての詩はロマン主義的な内容です。向こう側の世界を甘美に歌ったものです。「歌のわかれ」といって、このようなロマン主義的なものが柳田の中で断念され、社会を作る思想家に彼は変わっていきます。『恋する民俗学者』http://comic-walker.com/contents/detail/KDCW_KS00000011010000_68/は、島崎藤村・田山花袋など柳田周辺の若い文学者たちの、ロマン主義をきて彼らがそれぞれの文学を立ち上げていく様を描いたものです。明治の文学者のロマン主義からの「わかれ」がテーマです。

 『八雲百怪』は同じ時代をあつかいますが、ロマン主義がナショナリズムにからめ問われていく様を描いたものです。

 その点で『クウデタア』http://comic-walker.com/contents/detail/KDCW_OE00000001010000_68/も、ロマン主義とナショナリズムの問題、社会と文学の問題を1960年前後の少年たちの犯罪やテロリズム、同時代を生きた三島由紀夫や大江健三郎、石原慎太郎、江藤淳ら文学者たちの姿を描いたものです。「アンラッキーヤングメン」もこの系譜ですね。いわゆる「文豪もの」的な面白さとは無縁ですが、まあ、何かのおりに読んでみて下さい。

 「歴史」をまんが表現が書くとロマン主義になるんですよ。だからそうでない描き方というか、「ロマン主義」そのものをまんがで、文学史的に描いたっていえば「わかりやす」いかな。『恋する民俗学者』なんか、大学の近代文学ゼミに出席したぐらいの情報量ですよ。『クウデタア2』も読み通せば三島の小説が最低限この先自力で理解出来るようになる。本当にゼミやってるようなものですよ。それこそ「効能」を敢えて掲げれば。

 それにしても同じ日にインタビューを受けて「紙」の『週刊金曜日』は10日ぐらいで雑誌が出て、webは一ヶ月経ってこうやってインタビューの校正がとどく。月刊誌よりも遅い。

 いつも思うのだけれど、webの企画サイトって「企画」としては実はすごく意志決定や物事の進め方が他メディアより遅いってところがとっても不思議でね。これは「遅い」っていう嫌味じゃなく、web企業の内部における「遅さ」はなぜ生じるのかっていう、そこにちょっとおもしろい問題があるけれど、これはこのプラットフォームの批判になるから、別にKADOKAWAや星海社のプラットフォームに行って話しても同じことだから、そっちで話すよ。

 さて、このインタビュー読んで「不快さ」が少しでも残ればつまりそれは一番大事なところです。あなたも不快でしょ? インタビューのゲラ100%書き直されて。しかもマズい議論のないインタビューだったのにマズいことが加筆されて。

【第7回】角川歴彦とメディアミックスの時代

web倫理学についての大雑把なデッサン 大塚英志


 webに於ける「倫理」を扱う領域を何らかの形で構築するべきだ、という点については、このコラムやそれ以外のエッセイで短くだがこのところ述べてきた。そこで「web倫理学」という暫定的な呼称を思いつきで示したが、しかし、それ以上の具体的な構想があったわけではない。web倫理学といった瞬間、そもそも哲学や倫理学的に全く素養のないぼくには手に余るが、しかしなるべく早く、アバウトな枠組としてこれを提示しておくことだけは必要だと考えるのでやっておきたい。あとは誰かがどうにかしてくれ。


 ぼくの中でのweb倫理学の議論の出発点は、プラットフォームに於いて顕在化している「フリーレーバー」の問題であった。

 ぼくが「フリーレーバー」、無償労働という北米でしばしば用いられる語を表に出る形で使うのは初めてだが(なるべくなら今も使いたくないが)、例えば「ニコ動」なり「YouTube」なり、あるいは「ニコ・カド」が始めた「なろう」の模倣ビジネスも含めた「UGC」(User Generated Content)、日本では「CGM」(Consumer Generated Media)と呼ばれるインディープロレス団体の略称みたいな名前のこれらの仕組みの中に潜む問題を説明するために今回は使う。


 プラットフォームに於ける「フリーレーバー」問題とは、「投稿」が、投稿者によって無償で投稿され、それが実質的なコンテンツとしてプラットフォームに収益をもたらす仕組みがはらむ問題である。


 例えばあなたがある日までせっせと「ニコ動」に投稿し、あるいは「二次創作」を続け精神的に充足していながら、ふと、あれ、自分ってメディアミックスの中で「ただ働き」しているんじゃない、これっておかしくねえ、と気づいたとする。「黒子のバスケ」脅迫犯はその点で惜しいところまできている。かつて、こういう「フリーレーバー」は、マルクス主義が活きていたなら「疎外」と呼ぶことができた。一つのシステムの中で自分が搾取されていると気がつくと、マルクス主義的には「疎外」ということになる。実際、北米で「フリーレーバー」を問題化しているのはマルクス主義系の研究者(いますよ、アメリカに、普通に)である。

 確かに「ニコ動」から俺、搾取されてます、と言ってもバカみたいであるが、しかし、そういった「オタク」周りを含めたweb全体が「フリーレーバー」やそれに近い労働で成立っていることは問題化されない。

 とにかく見えない「労働問題」がweb上にはあるというところから始めなくてはいけない。

【第6回】角川歴彦とメディアミックスの時代

「二次創作」は「表現の自由」の問題なのか 大塚英志

 

 殆ど何のための連載かわからなくなっているが、二つのことを2回にわたって備忘録代わりに書いておくことにする。


 一つは「二次創作」を「表現の自由」問題として考える議論は妥当なのか、ということ。


 もう一つは、この連載の最初に序章的に書いた「角川とドワンゴの合併は間違っているか」、その延長上で書き飛ばした新書『メディアミックス化する日本』、そして前回、言及した「黒子のバスケ」論で提起してきたつもりの問題だが、プラットフォームに於ける疎外の問題についてである。具体的にはこの問題を包摂する枠組としてのweb倫理学についてメモをしておく。


 一つ目の問題だが、webの読者の流儀に合わせて最初に短く結果をまとめておくなら、「二次創作の自由」は「表現の自由」ではなく、「経済活動の自由」「二次創作の規制緩和」についての問題で、そこをすり替え、ないし、錯誤すると「表現の自由」として論じるべき問題が見えにくくなる、論点がずらされる、という事態が生じるので両者は峻別しておいた方がいい、ということに尽きる。


 近頃、星海社から『「表現の自由」の守り方』なる勇ましい本が出た。昔から政治的な書物を作ることにはいささか及び腰である太田くんの出版社にしては意外だと思ったのは、ぼくのような旧世代からすれば、その書名から当然連想するのは今の政権による、メディアへの圧力に異議を唱える内容だからだ。しかし、どうやらそれは同人誌に於ける「二次創作の自由」が中心的な議論らしい。ぼくはそこに違和をもつ。

 何故なら「二次創作」問題は「表現の自由」問題ではないからだ。

【第5回】角川歴彦とメディアミックスの時代

教育のこと、「黒子のバスケ」脅迫事件のこと。 大塚英志 

〈1〉

角川ドワンゴの持ち株会社の社名がカドカワに変更となり、その一方で川上量生が通信制の高校の構想を明らかにしたことで、コンテンツとプラットフォームの融合という株主向け説明にさえならなかった統合後のビジョンが初めて明確になった。

 出版社としての角川はもはや消滅し、プラットフォーム企業としてのドワンゴも大きく変わるだろう。

 旧社名「カドカワ」が「カドカワ」の「カ」「カ」、「ドワンゴ」の「ド」「ワ」の組み合わせだという説明がもはや方便でしかないのは、角川書店は「カドカワ」の「名」のみ残し、「ドワンゴ」というWEB企業に吸収されたという事実しかそこにはないからだ。経営統合がなければ、出版社としての旧KADOKAWAは経営破綻していたはずだ。類似出版社のM&Aという「同業他社潰し」が目的としか思えない無策の合併の繰り返しによって肥大したKADOKAWAが、この先、単独で存続していけるほどに、この国の出版をめぐる状況は良くないことは誰の目にも明らかだった。ニコ動の会員収入という安定した収益モデルを持つプラットフォーム企業との経営統合と、それを社内的方便とするリストラで旧KADOKAWAは存続が可能になったという事実は誰も公言しないが、指摘しておくべきだろう。旧KADOKAWA内では吸収合併した各出版社の類似部分のレーベルの統合がこの先進むが、それが「効率化」なのかといえばそうではない。KADOKAWA傘下にラノベの多ブランドが存在することで「書店の棚」をグループで寡占できた状況に自ら終止符を打つことになる。吸収合併による寡占化のメリットより短期的収益の改善を目標としているので、合併企業の資産としての編集ノウハウを社員のリストラ、ブランドをレーベル統合という形でそれぞれ捨ててしまっている。ふり返ってみた時、この無策の同業他社の吸収は、M&Aに用いた資金の使い方として適切だったのか、といえば疑問である。統合した出版社の出版コンテンツのアーカイブが資産となる、という「方便」については、大映のアーカイブさえ活かせていない現状を見た時、説得力はない。講談社なら戦前から、秋田書店でも戦後以降の作品で現在も「再使用」に耐え得る古典的作品がライブラリーとしてあるが、KADOKAWAが吸収した出版社のラノベのアーカイブや経済系出版社のビジネスハウツー本に長期的価値があるのかは判断に苦しむところである。

 

 




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