編集部ブログ作品

2016年5月30日 15:12

【第6回】角川歴彦とメディアミックスの時代

「二次創作」は「表現の自由」の問題なのか 大塚英志

 

 殆ど何のための連載かわからなくなっているが、二つのことを2回にわたって備忘録代わりに書いておくことにする。


 一つは「二次創作」を「表現の自由」問題として考える議論は妥当なのか、ということ。


 もう一つは、この連載の最初に序章的に書いた「角川とドワンゴの合併は間違っているか」、その延長上で書き飛ばした新書『メディアミックス化する日本』、そして前回、言及した「黒子のバスケ」論で提起してきたつもりの問題だが、プラットフォームに於ける疎外の問題についてである。具体的にはこの問題を包摂する枠組としてのweb倫理学についてメモをしておく。


 一つ目の問題だが、webの読者の流儀に合わせて最初に短く結果をまとめておくなら、「二次創作の自由」は「表現の自由」ではなく、「経済活動の自由」「二次創作の規制緩和」についての問題で、そこをすり替え、ないし、錯誤すると「表現の自由」として論じるべき問題が見えにくくなる、論点がずらされる、という事態が生じるので両者は峻別しておいた方がいい、ということに尽きる。


 近頃、星海社から『「表現の自由」の守り方』なる勇ましい本が出た。昔から政治的な書物を作ることにはいささか及び腰である太田くんの出版社にしては意外だと思ったのは、ぼくのような旧世代からすれば、その書名から当然連想するのは今の政権による、メディアへの圧力に異議を唱える内容だからだ。しかし、どうやらそれは同人誌に於ける「二次創作の自由」が中心的な議論らしい。ぼくはそこに違和をもつ。

 何故なら「二次創作」問題は「表現の自由」問題ではないからだ。

 そもそも「表現の自由」とは、ウィキペディアに書いてあるレベルのことでまとめれば、人が自身の表現を検閲されたり、規制されたりすることなくそれを公にできる権利である。これは一般には民主主義の根幹を成すと考えられてきた。だから「表現の自由」は個人が表現を通じ、人格形成していく自己実現を万人に保障するというもう一つの側面を持つ。そういう個人が政治的見解の表明を含む表現を通じて政治的な合意の決定、つまり公共性の構築に関わることを担保するのが「表現の自由」の意味である。

 では、誰がこれを保障するのか。日本国憲法21条には「一切の表現の自由は、これを保障する」とあるが、「保障」するのは「国家」である。正確にいえば、主権者としてのわれわれが、「権力」を「国家」に依託して、運用する際に、「国家」にになわせる責任の一つである。すると政権批判を「表現の自由」にすり替えるな、という声が直ちに聞こえてきそうだが、政権批判の自由が表現の自由の根幹を成すことを忘れてはいけない。何でもかんでも「左派」の匂いのするものをパブロフの犬のように反射して叩くのはそろそろ止めた方がいい。そして、この「自由」を含む、どんなにくだらない「表現」であっても、人間の自己実現を可能にし、民主主義システムを構築する礎として、その「自由」を国家は担保しなくてはいけない。ただし、誰かの「表現の自由」がそれ以外の誰かの表現の自由や基本的人権に抵触することがある。この時の調整ルールが「公共の福祉」である。

 またか、と思うが、柳田國男の「公民の民俗学」はこのような「表現の自由」と「公共の福祉」形成のツールとして設計されているわけだ。ぼくの全ての議論は永久にここに行きつく。


 話を戻すと、「表現の自由」と直接、対立するのは一つは「国家」であり、もう一つは「第三者の基本的人権」とその総体としての「公共の福祉」である。ただし「国家」は本来「公共の福祉」を実践するシステムであり両者は実体として重なりあう。従って「表現の自由」についての裁判が個人と国や行政との間で争われるのは当然なのである。そしてこの点を確認しておきたいのだが、「表現の自由」を担保するのは「国」であり、例えば出版社やwebサイトではないということだ。仮に「星海社がこのエッセイを自社の本の宣伝のさまたげになるから載せないこと」が星海社という私企業の意思であれば、それは「表現の自由」の問題ではない。太田くんの思想の問題として掲載拒否することもできる。そういう自由は出版社にある。ただし、政治的圧力が見える形であれ、見えない形であれ、存在した結果であれば(このエッセイの場合はないだろうが)、それは「表現の自由」をめぐる問題となる。


 一方「同人誌」に於ける「表現の自由」はいかなる「問題」としてあるか。

 主として二つのことが問題となってきた。


 一つは、いわゆる「準児童ポルノ」問題。

 つまり未成年者と見えなくもないキャラクターの性的表現に対しての規制の問題である。チャイルドポルノは子供の基本的人権の事例であるから規制されうるとして、それを架空の表現としてのキャラクターに拡大しようとすることの是非が問われている。

 ここで生じているのは「キャラクターの性的表現」の「自由」と「子供の人権一般」という「公共の福祉」の対立である(ただし裁判ではモデルのいる写真をもとにした絵のみを処罰の対象とすることで、写真のモデルの子供個人の人権の擁護に厳密化している。「未成年キャラクターの性的表現」を「子供の人権一般」に拡大して対立させているのかが現状の議論の問題点だ)。その規制が「公共の福祉」に鑑みて妥当か否かが問題とされ、法規制という国家による「表現の自由」の例外的な制限が検討される事案だ。しかし、ポルノグラフィー一般を描くのが「表現の自由」であるのは自己実現の問題であるという言い方は理屈では可能だ。だからかつて頻繁になされた、「芸術」か刑法上の「猥褻」かという議論もこの文脈の上にこそ成り立ちうる。

 つまり、この限りでキャラクターの性的表現の是非は、そのキャラクターの作中の年齢や外見にかかわらず「表現の自由」の問題である。


 対して二次創作はどうか。


 なるほど、二次創作も自己実現の手段としてあり得る。そして二次創作は著作権という第三者の権利と軋轢が生じる。TPPで合意された「著作権侵害の非親告罪化」が適応された場合、二次創作ができなくなる、という危惧に対して、二次創作を例外化する方向でどうやら議論は方向付けられた印象がある。

 これを「表現の自由が守られた」といっていいのか、この点がぼくの疑問である。

 著作者の権利には著作者人格権と財産的著作権としての著作権がある。両者は明確に区分できないという考えもあるが、少なくとも二つの側面を広義の著作権は持つ。創作物は自己実現の発露であるから、それは作者の人格と一体である。従ってそれを元に二次創作されることで、作者が「ムカついたなら」それは人格権が侵害されたことになる。

 他方、財産権としての著作権は「著作者の知的所有権」と「同人誌作者の経済活動」の対立であり、いわば「知財事件」である。TPPに対し、一連の議論の中でニコなどIT業界に早くからあったのは、「同人誌という創作活動やクリエーター活動の機会の喪失への危惧であった。これは財界寄りの「TPP交渉への早期参加を求める国民会議」に於いても「二次創作」という「アキバ文化」を守るべきと主張されていることでもわかる。重要なのは「表現の自由」を守るのではなく「経済活動の自由」を守る議論として、いわばクールジャパンの一環として政財界には早い時点からコンセンサスが作られる流れはあったということである。彼らが「表現の自由を守れ」というロジックを決して使っていないことに注意しておこう。彼らの立場は要するに「日本のコンテンツ産業」という経済的利益の保護が目的であり、ニコにしても「二次創作」というコンテンツを失えば、「ニコ動」自体の経済基盤に影響を及ぼしかねない事案だからである。

 TPPはその圏内での徹底した経済活動の自由と、それと矛盾する形での地域ごとの既得権益の保護をめぐる交渉である。著作権侵害を非親告罪にした方が、例えばディズニーのようなグローバル企業の経済活動は保護される。しかし、それは同時に日本国内の「二次創作」という「経済活動」を脅かすことになりかねない。つまり、TPPという文脈に回収された時点で、「二次創作」は「表現の自由」ではなく「経済活動の自由」とその「規制の是非」をめぐる問題に変化したのである。まあ、単純にいえば「オタクの政治利用」なのだが、その本質が「表現の自由」問題でなく国内産業保護という経済問題だから、与党や財界も異論はない。


 しかし、ここで注意すべきは、「二次創作の非親告罪例外化」で守られたのは、実は同人誌活動の自由ではなく「二次創作」をエコシステムに組み込んだ知財の所有者、特にそれを管理する企業の「経済活動の自由」であるということだ。二次創作が非親告罪化する、ということは、二次創作によって成立っている「ニコ動」をはじめとするプラットフォームの経営を脅かす。また「二次創作」がその著作者の市場の拡大にとって有効なツールであり、同時に二次商品やそれを可能にするインフラが「ニコ・カド」(この連載コラムの新しい回を書くごとに社名が変わるのでこれで統一する)的ビジネスモデルである、ということはここでは繰り返さない。権利管理をする企業、プラットフォーム企業にとって「二次創作」はとうにエコシステムの中に組み込まれているのであり、守られたのは「コミケ」でなく彼らの経済的利益である。

 しかも、二次創作が改めて「親告罪」に留まったことで、知財を管理する企業や著者の側が「告発」できるのだと周知徹底できた効果は実は大きい。同人誌作者の一定層はとにかく作者なり、管理企業なりのガイドラインを作って欲しい、と願っているはずである。ニコ・カドの「カクヨム」が「二次創作自由」を打ち出したのは以前から予告していた企業による「二次創作の管理」の本格化のわかり易い例だ。もう一度繰り返すが、そこで守られたのは同人誌作者の「二次創作の自由」ではない。「ニコ・カド」型の二次創作ビジネスを規制する法制化の阻止がここではなされたのである。

 だから、極論を言ってしまえば「二次創作の表現の自由」問題は、新自由主義経済的な規制緩和の問題により近い。経済活動の自由を担保するには規制はことごとく少ない方がいい、という考え方である。だから「ニコ・カド」やTPP推進派のような新自由主義経済の支援者の考えと「二次創作の自由」は整合性がある。先の新書の山田議員のキャリアを見ても、「みんなの党」から「おおさか維新」に至るまで、新自由主義経済を基本とする政党を転々としていて、安倍政権も新自由主義的である。だから安倍政権が「二次創作の例外化」を打ち出したのはこの点でも矛盾がない。

 従って、「二次創作の自由」の是非とは別に、それを「表現の自由」と今、言うことは、やはりレッテルの貼り替えである。「二次創作の自由」はドローンや民泊といった新しい経済活動を可能にするために法の規制をいかに緩和していくべきか、という「経済活動の自由」の議論に近い問題なのである。

 例外的に言えば、「二次創作」が非親告罪化すると、ある人間の二次創作を摘発することで、その政治活動に基づく表現を規制することは可能だ。これは「児童ポルノ」の単純所持と同じ理屈だ。江戸時代、政治的事件を「太平記」や「小栗判官」の「世界観」と「キャラクター」を使って二次創作したことが「世界─趣向」型、つまりは今の同人誌モデルの原型であったように、「二次創作」はかつては「パロディ」と呼ばれ、政治批判の重要なツールだったことは一つ、歴史的事実としてはあった。この限りでは「二次創作」は「表現の自由」と関わっては来るが、そういう作品は現在のこの国では殆どないだろう。


 ちなみに、賭けてもいいが、東京オリンピックまでのどこかで「オタク特区」「二次創作の規制緩和特区」みたいなことを言い出すバカな議員が絶対にいるはずだ(山田某かもしれない)。一つはアキバで、もう一つはどこかの地方都市(「ニコ・カド」が巨大倉庫を作る所沢市とか、この種のイベントが好きな高知だとか)が特区に認定され、親告罪、非親告罪以前に著作権法的にグレーゾーンの「二次創作」を法制化した上で「合法化」(つまり、この時点で実は「規制」される)し、そこに本社を置く企業のwebでのプラットフォーム運営や、そこで開催されるイベントが大小問わず改めて「合法化」されれば、ドローン特区よりは経済的効果は上がるはずである。わかり易くいっちゃえば年中二次創作しほうだいの町があればそこに企業も人も集まるでしょ、ということだ。ばかげているが。その結果、特区で「緩和」する代わりに全体の規制は強化された、などというオチにならないことを祈る。


 それにしても、二次創作が「表現の自由」だろうが「規制緩和(経済活動の自由)」だろうがどちらでもいい、と大抵の人は思うだろう。「二次創作」が守られたからいいではないか、という人が大半であろう。

 しかし、「表現の自由」を二次創作の「規制緩和」にすり替え、「表現の自由」を「守った」と叫ぶことで、本来の「表現の自由」を守り損なうことに加担することだけは勘弁してほしい。それがぼくのこのエッセイでのシンプルな主張だ。だから山田なんとか議員も星海社も「コミケをTPPから守った」「今や既得権益のニコ・カドなどのビジネスモデルを守った」と言えばいいのに、つまり、経済の問題を経済の問題として堂々と語ればいいだけのことなのに、そう言えない。これは経済問題を語るのはどこか引け目を感じるからではないのか。それで「表現の自由」という「左派」のことばを使うのであればみっともなくないか、とぼくなどのサヨクは思う。


 なるほど「表現の自由」という若い世代が脊髄反射的に警戒しがちな左派の言葉も、こと「コミケ」周辺に規定されれば左派とは違う人々の政治的ツールとして機能することはこの事例に限らない。例えば、同じく「表現の自由」はヘイトスピーチの擁護のロジックとして今や使われる。「放送の公正中立」は政権批判を封じる用語と化している。安倍が好んで使う「レッテル貼り」も昔懐かしい「ラベリング理論」というやつで、本来は左翼用語で「国家による左派へのレッテル貼り」を批判する言説だった。あるいは「教科書批判」はそもそも家永三郎らが教科書検定に異議を唱えたことから始まっていて、「慰安婦」問題を書いてある教科書を「批判する」意味ではなかった。こうした「左派」のロジックや言説が「右派」に転用されることで、かつての左派が持っていた「改革」派的イメージは右派に転化されているように思う。件の星海社の新書がそうだとはいわないが、昔の左派の言葉を語るのは今の右派の一つの特徴的傾向であり、それは右派が多少なりとも論理的に現実の事象を語ろうとする時、未だ自前のことばを持たないことに一つは起因するのではないか。