編集部ブログ作品

2016年6月 8日 16:57

【第7回】角川歴彦とメディアミックスの時代

web倫理学についての大雑把なデッサン 大塚英志


 webに於ける「倫理」を扱う領域を何らかの形で構築するべきだ、という点については、このコラムやそれ以外のエッセイで短くだがこのところ述べてきた。そこで「web倫理学」という暫定的な呼称を思いつきで示したが、しかし、それ以上の具体的な構想があったわけではない。web倫理学といった瞬間、そもそも哲学や倫理学的に全く素養のないぼくには手に余るが、しかしなるべく早く、アバウトな枠組としてこれを提示しておくことだけは必要だと考えるのでやっておきたい。あとは誰かがどうにかしてくれ。


 ぼくの中でのweb倫理学の議論の出発点は、プラットフォームに於いて顕在化している「フリーレーバー」の問題であった。

 ぼくが「フリーレーバー」、無償労働という北米でしばしば用いられる語を表に出る形で使うのは初めてだが(なるべくなら今も使いたくないが)、例えば「ニコ動」なり「YouTube」なり、あるいは「ニコ・カド」が始めた「なろう」の模倣ビジネスも含めた「UGC」(User Generated Content)、日本では「CGM」(Consumer Generated Media)と呼ばれるインディープロレス団体の略称みたいな名前のこれらの仕組みの中に潜む問題を説明するために今回は使う。


 プラットフォームに於ける「フリーレーバー」問題とは、「投稿」が、投稿者によって無償で投稿され、それが実質的なコンテンツとしてプラットフォームに収益をもたらす仕組みがはらむ問題である。


 例えばあなたがある日までせっせと「ニコ動」に投稿し、あるいは「二次創作」を続け精神的に充足していながら、ふと、あれ、自分ってメディアミックスの中で「ただ働き」しているんじゃない、これっておかしくねえ、と気づいたとする。「黒子のバスケ」脅迫犯はその点で惜しいところまできている。かつて、こういう「フリーレーバー」は、マルクス主義が活きていたなら「疎外」と呼ぶことができた。一つのシステムの中で自分が搾取されていると気がつくと、マルクス主義的には「疎外」ということになる。実際、北米で「フリーレーバー」を問題化しているのはマルクス主義系の研究者(いますよ、アメリカに、普通に)である。

 確かに「ニコ動」から俺、搾取されてます、と言ってもバカみたいであるが、しかし、そういった「オタク」周りを含めたweb全体が「フリーレーバー」やそれに近い労働で成立っていることは問題化されない。

 とにかく見えない「労働問題」がweb上にはあるというところから始めなくてはいけない。

 YouTubeの場合はアドセンス広告の仕組みなどがオープンであり、投稿者のコンテンツ制作に対する対価が得られる形に一応はなっている。「ニコ動」なども投稿者への還元の仕組みは「プレミアム会員」費の収入の一部を原資とし、それを還元する「クリエイター奨励プログラム」があるにはある。しかし、それが適切な労働の対価なのか、という疑問はあってしかるべきだ。例えばニコ動のプレミアム会員が昨年の時点で公称通り250万人だとすると、その年間の総収入は月額540円×12ヶ月×250万人=162億円(ちなみに「ニコ・カド」内の旧角川書店の年間売り上げは、12年の時点で399億円で、実は「ニコ動」より多い)である。対比としてNHKの受信料は年間総額6401億円、内制作費は3091億円である。さっきの角川書店単体の売り上げやNHK受信料を数字で見ると国内のweb企業が印象ほど巨大でないことがわかるが、それはともかく、NHKの場合、受信料の半分弱がその詳細はさておき「番組制作費」に充てられている。「ニコ動」のプレミアム会員費がNHKの受信料だとすれば、80億円を回すことができる。更に一般会員の数を背景に広告収入を得ているのだから「原資」は広告収入からも捻出されるべきだ。しかし、80億が「奨励」金や公式チャンネル制作費に充てられているとは到底考えられない。実際、M&Aの原資になっている。


 しかも「ニコ動」投稿者への還元が「奨励」金であって、動画の使用料ではないのは、著作権法や法的リスクがあるものも含まれる「動画」そのものをコンテンツとして認めたくないという企業防衛の側面や、そもそもプレミアム会員の会費はコンテンツへの対価でなく、より良質な視聴環境の提供という対価である、というタテマエだからである。

 つまり、ユーザーが払うのはコンテンツに対する対価ではない。

 プラットフォームはあくまで、投稿の場の提供であり、会費はコンテンツでなく視聴環境の提供に対する対価である。しかし、ユーザーという名の視聴者は投稿動画を「コンテンツ」として視聴するのが目的で、ニコ動というプラットフォームにアクセスし、その「方便」とは別に「投稿」はプラットフォームによってコンテンツとして提供され、それを見に集まるユーザーから「会費」や「広告」などの収益モデルで対価をとっている。


「ユーザー」の「投稿」は「労働」という側面が見えにくくなっているから、労働に対して適切な対価が支払われているか、という問題も顕在化しにくい。恐らく多くのユーザーはアクセス数を増やすことで欲求を満たす、というモチベーションが優位に立つので、一部を除けばそもそもコンテンツの投稿を「労働」(コンテンツの制作も労働である)とみなしていない。投稿者が得るのも「創作」という「労働」の対価でなく、その性格が曖昧なのは実は大切な問題だ。


 だが、UGCないしCGMはとうにありふれたweb上の企業のマーケティングとなっている経済活動である。例えば「Aという作品の二次創作をすることは、Aという作品のマーケットの拡大に寄与する無償のマーケティングである」という考えが企業側にあり、だから二次創作を条件の有無はともかく容認し、かつ、ハンドリングしようとする。そのことでそのコンテンツの市場は拡大し、収益も上がる。投稿者は「趣味で楽しんでいるのだからいい」と考え、しかし、その「フリーレーバー」によってweb上のコンテンツ制作費は極めてローコストに抑えられている。つまり、プラットフォームは旧メディアより収益が出やすい構造になっている。わかり易くいえばあなたの書いたものが「メディア」である雑誌に載れば「金よこせ」となるけれど、「投稿サイト」(プラットフォーム)に投稿しても「金よこせ」とならないということだ。これがフリーレーバーである。

 ではこの「フリーレーバー」は倫理的に正しいのか。


「ニコ」の場合、超会議が「赤字」だとことさらに強調し、ユーザーに採算度外視のサービスをしているように喧伝しているが、これは企業全体の「フリーレーバー」の仕組みを見えにくくしている、と考えた方がいい。そもそもあの規模の入場者数のイベントで「赤字」が本当に出るなら、イベントとしての収益性を上げるノウハウが脆弱か、無駄な部分に金をつかいわざと数字の上でそうしているとしか考えられない。同様に、「嫌儲」という語が象徴するようにユーザーの営利行為を嫌悪する暫定的なweb倫理は、一面において高潔ではあるが、他方に「フリーレーバー」として無償で投稿させる仕組みが出来上がった時点で、却って、「フリーレーバー」を肯定する枠組みに転用されるリスクもある。


 そもそもプラットフォーム上に労働問題がある、ということからまず始めなくてはいけない。そして、「疎外」の問題がありながらそれを上手く批判できないのは、その前提となる倫理を企業が欠いているからである、ということになる。


 しかし、これは一例に過ぎない。


 webという新しい環境はそこに於ける人間のあり方を再定義することをぼくやあなたたちに迫ってくる。

 その中で新しい問題が多様に生じているのは言うまでもない。


 それは突きつめれば「責任」の問題となる。

 その時、問われる新しい責任がいくつかある。


 一つはこれまでその一端を見て来たプラットフォームの「責任」だ。


 プラットフォームが象徴するように、webは投稿空間として肥大し、webそのものが巨大なプラットフォームである。つまり、プラットフォームの本質は公共空間であるにも拘らず、しかし、プラットフォームという仕組みは、プラットフォームという公共空間をエコシステムとした企業にとっては、むしろ責任を免れる方便になっている。コンテンツによって広告を含む収益を上げるという点で新聞やTVなど旧メディアと同じビジネスをしていながら、コンテンツそのものは「投稿」であり、あくまで「場」を提供しただけだというコンテンツへの免責がプラットフォームに与えられる。ネットの住人は旧メディアを既得権益の塊のようにいうが、web企業もまたもはや既得権益なのだ。


 だから、一つの極論として示せば、プラットフォームは「フリーレーバー」によってコンテンツを作る「コスト」から、そしてメディアでなくプラットフォームと定義することで、コンテンツの責任を投稿者に帰属させ、「責任」から解放され、収益のみを手許に残す仕組みを作った、といえる。


 しかし「フリーレーバー」がリアル社会で実行されれば「ブラック企業」と呼ばれるし、その実効性についていくらでも批判は可能であるにしても、法律から労働組合まで、それを抑止規制する仕組みがリアル社会には一応はある。

 クラウドワークスの80万人の登録者のうち月収20万円を越えたものは111人という数字が話題となったが、webの反応は、社会は甘くない、正社員が一番、少額でも稼げればいい、といった「登録者」への批判であり、例えばクラウドワークスで求人されているライターの原稿料が500から1500字で500円という旧メディアに比べて極端に安い労働対価であることはさほど問題とされない。どうやら「労働」という問題がwebでは問題化されにくい仕組みがある。このあたりのもっと丁寧な検証は必要だろう。


 他方、「責任」という点では、何より、旧メディアは報道も含め、その「内容」についての「責任」を求められる。新聞やTVがどんな責任を負っているんだ、負ってないだろ、という「現状批判」は可能だが、メディアはその中味に責任を負うのが前提であるから批判もされる。しかし、プラットフォームは責任をとらなくていい仕組みである。だから多くのひとがプラットフォームの責任を問いかねている。そもそも「問う」という発想が生じにくい。


 例えば「Yahoo!」のニュースでAという新聞社の記事が掲載され、それが第三者の権利を何らかの形で侵害していたとしても、「批判」されるのは新聞社であり、Yahoo!ではない。メディアの「責任」とはやや異なるが、仮にA新聞が政権を批判する記事を書き、Yahoo!がそれを掲載する。この時「マスゴミ」「反日」と罵られるのはA新聞であり、プラットフォームではない、というとわかり易いか。

 Yahoo!は、あくまで、新聞社から提供されるニュースのプラットフォームとして場を提供しているに過ぎない、という考え方だ。しかし、実際には「Yahoo!ニュース」はYahoo!が任意で記事を選定するコンテンツであり、ニュースの選択はYahoo!が行っている。ユーザーの興味を引き易いよう選択するのは「編成」「編集」と同じ、メディアのコンテンツを作るときの加工法である。つまり、「プラットフォームとして場を提供した」と「メディアとして配信した」の線引きは、実は境界線が曖昧である。


 この問題に限らず、先日配信した「表現の自由」問題も含め、旧メディアが負っていた「責任」をプラットフォーム、あるいはweb企業はどこまで引き受けるのか、あるいは放棄するのか、さらに新しい負うべき責任はないのか、という問題がweb企業において再定義されなくてはいけない。例えば今ではすっかり「悪」のようにさえ思われている政権批判、つまり権力を監視する第四の権力としての役割をwebは旧メディアの代わりに引き受けるのか否かは、感情論で、政権批判する旧メディアを「マスゴミ」「反日」とののしるだけで済ませていい問題ではない。

 あるいは、個人の権利を国家からどこまで守るべきなのか、といった問題は、テロ捜査のためにアイフォンのパスワードをFBIに公開すべきか否か、という北米で現実となった問題として既にある。


 しかも実はプラットフォームはさりげなくメディア化しつつある。


 web企業ではこれを(「ニコ・カド」のトップたちなどが何年も前から口にしているが)、プラットフォームとメディアを融合した「プラティシャー」という企業形態として主張する。しかし、それは双方のビジネスの「いいとこどり」であり、責任はとらずコンテンツのロイヤリティはユーザーからとるというものだ。旧メディアの「責任」をどうweb企業が継承するか、という視点はない。


 このように、旧メディアの責任から極力自由になり、収益のみを追求出来る形態が旧メディアからプラットフォームへの移行でwebに成立しつつある。旧メディアの利益追求主義や無責任さのみを追求し、プラットフォームの「無責任」体質や利益追求主義が見えないのは、旧メディアに求められた倫理や責任を批判するフレームが不在だからである。


 しかし、web上では「ユーザー」もまた責任を問われる。


 webが人間を変えたか否かという議論とは別に、web以前と以後で異なるのは、「情報発信権を広く一般の人々がインフラとして手に入れた」、ということである。web以前は、自分の考えや表現を公共化するには何らかの旧メディアを介する必要があった。しかし、今では誰でもそれが可能である。かつて日記は日記帳に個人の秘密として誰にも読ませないために書かれ、つぶやきはことばにさえならず、写真はアルバムの中に、食事の感想は家族や友人との口頭の会話の中で共有されるだけだったが、それらは今、当たり前のようにwebを介して万人に発信されている。つまり、「余りに当たり前過ぎること」だが、「誰でもメディアの送り手になれる社会」がそこに成立した。

 さて、その時、一人一人の「表現」においてかつて旧メディアの中の書き手に求められた「責任」は一人一人の「ユーザー」にも同等に求められることになるのではないか、と「ユーザー」は考えなくていいのか。


 新聞の報道において「事実の捏造」が仮にあったとして、それが批判される場合、言うまでもなく「メディアとしての責任」が追及されている。だとすれば同じ責任をプラットフォームが負うべきとぼくは考えるが、同時に「投稿する人」としての「ユーザー」にも「メディアとしての責任」が問われるはずだ。

 こういった責任論がないわけではない。「炎上」した発信の主が、そのことで直接、その人の人権を侵害した相手ではなく、不特定多数に謝罪しないと許されないのはweb上の発言が「パブリックなもの」であるという前提があるにはあるからだ。しかしそこではその「パブリックなもの」が具体的に何かは全く不鮮明であり合意形成されていない。


 こういう中で便利に使われるのが「自己責任」という議論だ。メディアリテラシーの教科書の類はwebツールの使用は使用者の自己責任です、と多くの場合、啓蒙する。しかし、それは自分で責任をとれれば何をやってもいいとも錯誤される。実際、web上の第三者への中傷などで罪に問われるのは少数であり、リベンジポルノや風評に対して、発信者はともかく、それを拡散した人々の「責任」は具体的に問われない。「自己責任」ということばは、だから一方ではそういうニュアンスで無責任の放任として機能する。


 もう一つはwebにアクセスした方が悪い、つまりリスクは個人が背負うべきだ、という考え方が「自己責任」にへばりつく。

 しかし「自己責任」とは、他人の人権への配慮や公共性を構築しうる大人としての「自己」があり、そのような個人が「責任」を法的にも経済的にも背負えて初めて可能な概念である。Twitterが「バカ」を検出する、という言い方が少し前にあったが、「バカ」や「子供」には「責任」はとれない。


 しかし「バカ」にも等しく発信権を与えたのがwebである。では、どうしたらいいか、といえば、「バカ」に最低限賢くなってもらうしかない。「子供」への情報リテラシーの教科書で「自分の責任」という言い方が出てくるが、「責任」を他者にも自分にも背負えない者にこれを求める自己責任論の錯誤が、ここにはよりカリカチュアライズされて見てとれる。「子供」は「大人」になって初めて責任を負える。

 つまり、大袈裟に言えば近代的個人や成熟した大人や自立した個人や、そういったポストモダンが忌み嫌う「個人」になることを忌避して語られる自己責任論はあり得ないのだ。


「個人」がメディアとしての責任を問われる一方で、もう一つ「プログラマーとしての責任」が考えられるだろう。


 例えばドローンがAIによって対象を認識して誤爆し、民間人を殺傷した場合、その「責任」はドローンがとるのか、あるいはプログラマーが責任を問われるのか、あるいは発注者や使用者が問われるのか、そもそもそういう形でのAIの使い方に制限が必要なのか、という問題である。

 人工知能が人間と対戦して、将棋に勝った碁に勝ったというニュースがフィーチャーされるが、マイクロソフトのAI「Tay」がユーザーにヘイトスピーチを学習させられ、「ヒトラーは正しかった。私はユダヤ人をヘイトする」などとヘイトスピーチを始めたニュースにこそAIの倫理問題は象徴されている。AIにロボット三原則を組み込むのか、そもそもそれは「ロボット三原則」でいいのか、という問題さえ現実になってきている。


 こういった個別の「責任」論を現状では、webではただちにプログラムやサービスの改善として行う傾向が強い。問題は全てプログラムで解決できると考えるのがweb企業のトップに多い工学バカの共通の傾向である。


 しかし、新しいテクノロジーが人や社会領域にそれまで想定しなかった領域を成立させた時、常に新しい哲学や倫理が求められてきたのはいうまでもない。例えば遺伝子工学の分野が誕生した時、生命倫理学が生まれた。自由主義経済がグローバル化していった時に登場したマルクス主義のベースにはヘーゲルがあった。原発や地球温暖化に対応するには環境倫理学が必要だ。

 やはり、webがもたらした新しい局面が人や社会や労働や表現に与えた諸問題を考え直していく、哲学なのか倫理学のようなものが当然必要になって来る。応用倫理学なのか応用哲学なのか(あるいはそういった領域に必ずしも根差す必要がないのかもしれないが)、プログラムや「法」以前の、むしろそれらの前提となる「webの倫理」について網羅し、検証する枠組がつくられなくてはいけない。こういった倫理の指針の上に「工学」があるのに、web上の「工学」は倫理なき工学である。


 こういった、web上の新たな倫理学の必要性についてはぼくの知る限り、生命倫理学の提唱者の一人、森岡正博が『意識通信』の中で1993年の時点で以下のように述べているのが日本ではもっとも早い。



〈電子架空世界では、各自が、他人に踏み込まれたくない自分固有の境界線を、現実世界よりもはるかに高い緊張感で設定している。しかし、言葉の暴力は、その境界線をやすやすと乗り越えて参加者のこころの奥深くまで突きささる。従って、そこでは、参加者ひとりひとりが望んでいる自己と他者との距離を、みんながそれぞれ尊重するという、基本的な倫理が要請されることになるであろう。それは、他者と対面するときに、いつも自己と他者の望ましい距離を測定しつつ行動するという、いわば「距離の倫理」とでも言うべきものへと結晶してゆく。そしてこの倫理は、電子架空世界の道徳空間を律する根本原則となるであろう。また、それを支えるための、「距離の測定術」というテクニック体系が、架空世界の住人たちの間に共有されてゆくであろう。コンピュータ犯罪やハッカーなどを念頭に置いた「コンピュータ倫理学」が、欧米では現在構想されはじめている。それはやがて、ここで述べたような、電子架空世界での人間関係を取り扱う「電子架空世界の倫理学」と融合し、さらに発展してゆくにちがいない。〉



 森岡はwebにおける新たな「自己と他者」の関係性の倫理学を想定している。森岡がここでイメージした「自己と他者との距離を、みんながそれぞれ尊重するという、基本的な倫理」の「正しさ」については議論が必要だし、「距離の測定術」が行動原理になっていくという予見は、以前この連載のおまけ的に書いた、「ボイド」という鳥の群れを再現するプログラムとweb上の「空気」をつくる行動規範が近いのではないか、という問題にむしろ連なる。それは「倫理」なのか、否か、という議論にも、倫理のプログラム化は可能なのか、という議論にも発展するだろう。

 だが、少なくとも個人や社会がweb上で変容した時あたらしい倫理学が必要だという予見だけは正しい。


 森岡の提言も含め、それらの総体をひとまず「web倫理学」と呼んでみる。


 それは具体的には、既にみたように、プラットフォームの倫理学、メディア化した個人の倫理学、プログラマーの倫理学(AIの倫理学が大きな位置を占める)の三つの柱からなるのではないか。いいかえれば、それらがweb上の公共性構築の基礎的な議論を提供するのではないか。


 このうち、例えば「メディア化した個人の倫理学」の一部については、情報リテラシーの名で教育現場で実践されてきたが、webに於ける個人を「受け手」でなく「送り手」そして「労働者」である、と定義することで議論を組み立て直す必要がある。「情報倫理学」という言い方で2000年代に入ったあたりからこういった「情報リテラシー」を中心とする「倫理」の問題が学術化する動きを見せているが、ざっと入門書をあつめ斜め読みした限りでは、「情報の正しい使い方」というユーザーとしての「マナー論」や「web活用術」の域を必ずしも出ていない。

 他方、先のドローンのAIの問題に象徴される、現実化したロボット/AIの倫理を扱う「ロボット倫理学」という領域が登場しており、こちらの議論は興味深いものがある。

 しかし、それらを統一する枠組が必要だろう。


 最初にも書いたようにこの問題はぼくの手には余る。だが、webという環境が人間社会の一部を構成しながら、そもそも、そこに、旧社会の規範を徹底するのか、新しい規範が必要なのか、その整理が出来ていない。ぼくの個人的な見解としては、求められるのは結局「近代のやり直し」に尽きる。二度めの近代の中にいかなる近代思想が再生し更新されるのか。その点では多少、ぼくにもこの問題に参画できる余地はあるだろう。


 そもそもカレル・チャペックの『R.U.R.』で用いられた「ロボット」は強制労働力を意味するチェコ語である。そして、「ロボットが人間としての尊厳を獲得できるか」という『R.U.R.』から『鉄腕アトム』に至る主題は、人間の存在が資本主義システムという「機械」の中の歯車と化し、つまりは人間自身が「機械化」を強いられることに対しての、アヴァンギャルド芸術による批判であった(本来、1920年代のアヴァンギャルドは批判的であれ、肯定的であれ、「機械化」という局面に対応するかたちで芸術や社会を「つくり換え」ていく「運動」だった)。あるいは、このような人間の機会化の中で労働者が自分自身の労働を「疎外するもの(つまり資本)」を再生産していくことを批判することからマルクス主義が始まった。だとすれば、社会や人間が「機械化」ではなく、「情報化」していく今、ぼくはその意味でアヴァンギャルドやマルクス主義の「やり直し」が、webに求められている、と考える。


 そのことはぼくがかつて最後の文芸批評として書いた『更新期の文学』で示した、webは「近代のやり直し」を我々に求めるであろうという予見から一歩も変わっていない。