ここから本文です。

テーマ

2011年10月

僕は電車で小学生とか中学生同士が楽しそうに笑い話をしている場面に出くわすと、決まって暴れ出したくなります。かつての自分の笑いのセンスをまざまざと見せ付けられているようで、極度に恥ずかしくなってしまうのです。そんな僕にとって「笑ってしまった作品」を語るなんて、自分の弱点を晒すに等しい行為です。どんな作品で泣こうが「心の優しい人だ」で済むだけですけど、笑いに関しては「は? あんなので笑えるの?」と、バカにされる危険性がある訳で…それでもあえて語る理由は、服従する犬のようにまず弱点を晒す事で、仲良くなりたいからなのです。初めまして、小高和剛です。

曜日

やっぱり人間、笑って生きるにこしたことはないので、たまには徹底的に笑いましょう。笑いまくれば、ストレスもちょっと解消できると思います。

曜日

笑う。という人間特有の行為には、多くの意味が含まれています。楽しいときにも、憂うときにも、怒るときにも、嘆くときにも、畏れるときにも、人は笑うことによって感情を表出するのです。次に挙げる3作を味わった佐藤は、まず笑いました。笑って、笑って、笑い終えてから、はてどうして笑ったのだろうと考えました。3作とも基本的に、笑うところはありません。それなのに笑った。笑って受け流さねば、脳髄に重度の損傷を受ける可能性があったから。

曜日

笑える作品と、笑ってしまう作品はまさに似て非なるもので、後者の出現のためには、作品の作り手自身すら意図せざる、「神」の見えざる手が必要とされる。だからこそ、意図せぬ「笑い」はいつも凄絶きわまるのだ。

曜日

笑いの沸点が低いんです。わたしは。だから、こんなもので笑う。いいのいいの。けっこうしあわせだから。

曜日

「人は、完全のたのもしさに接すると、まず、だらしなくげらげら笑うものらしい。全身のネジが、他愛なくゆるんで、之はおかしな言いかたであるが、帯紐といて笑うといったような感じである。諸君が、もし恋人と逢って、逢ったとたんに、恋人がげらげら笑い出したら、慶祝である。必ず、恋人の非礼をとがめてはならぬ。恋人は、君に逢って、君の完全のたのもしさを、全身に浴びているのだ。」(『富嶽百景』 太宰治)


本文はここまでです。