サエズリ図書館のワルツさん
第一話 カミオさん(後編)
紅玉いづき Illustration/sime
「最前線」のフィクションズ。紅玉いづきが詠う、すべての書物への未来譚——。それは本の“未来”が収められた、美しく、不思議な図書館。あなたにとっての大切な一冊は、きっとここでみつかる。
新しい靴を履いた月曜日。おうし座のA型は、朝の運勢占いでも抜群にラッキーな一日を運命づけられた。そのはずだった。
ご機嫌に家を出た上緒さんは、仕事で大きなミスをした。ひどく初歩的な、データ保存のミスだった。上司とすれ違いがあり、連絡が遅れたのがあだになった。お昼休みいっぱいかかって復旧した時には、トラブル処理として手をつける順番を間違えているのだということに気づいた。
「一体なにしにきてるの?」
お局さまはいつもみたいな金切り声を出さなかった。呆れかえった低い声で、立ちつくす上緒さんに苛立ちをぶつけた。
「いつまでも、おうちのお嬢さんじゃあ駄目なのよ」
やる気がないの? それとも向いてないだけかしら。そう言われて、上緒さんの視界が揺れた。午後いっぱい、少しでも頭を揺らせば涙がこぼれそうだった。その姿を、お局さまはうんざりした様子で見て。
「帰っていいわよ」
終業近く、ひどく冷たい声で言った。
「今日はもういいわ。いてもらっても、空気が悪くなるだけだから」
その言葉に、上緒さんはなんと答えればよかったのだろう。大丈夫です。すみません。がんばります。でも、どの言葉も言えなかった。
頭を下げて、「お先に失礼します」タイムカードを握って、会社を出た。必死になって走って、ぴかぴかの、青い車に飛び込んだ。
「痛い」
思わず口をついて出た。足元を確認した。新しいパンプスが、上緒さんのかかとをえぐっていた。皮がむけて、赤い肌が見えた。
合わなかったんだ、と思った。
なにかが、全部、合わなかったんだ。
「痛いよう」
それから上緒さんは駐車場で突っぷして、車のドアを閉め切ってわんわんと泣いた。
酸素の少なさを感じて、顔をあげた時には、陽はずいぶんかげっていた。占いなんてもう信じないと思いながら、泣きはらした目で図書館の方にハンドルを切った。
サエズリ図書館はいつもよりずっと暗かった。
もう、そんな遅い時間だったっけ。ぼんやりとそう思って気づいた。
月曜日だ。休館日、じゃないか。
ついてない日は、どこまでいったってついてない。上緒さんは路上に車をとめて、足を引きずりながらひたひたと、暗いサエズリ図書館に近づいていった。
加工ガラスの壁に手をあてると、奥の方で、少しの光が見えた。事務室は休館日も、やっているのかもしれない。ワルツさんは今日も、いるのかもしれない。
遠いところにある蛍光灯の明かりは、ひどく郷愁を刺激した。
上緒さんが家を出て働くと言った時、父も母も反対をした。
抜けたところのある、少々頼りないひとり娘だったからかもしれない。反対を押し切って家を出たけれど、ことあるごとに、帰ってこいと父も母も言う。
帰ってこい。おまえひとりを養うくらいの稼ぎはある。たった三人の家族じゃないか。その通りだと思った。大切にしたいし、嫌いなわけじゃない。でも、そればっかりを守ってどうするんだろう。まるで未来がないような言い方だと上緒さんは思っていた。
ひとりで生きていきたいわけじゃない。
でも、ひとりだって、生きていけるようになりたい。そういう未来だって、あるんだと思いたい。
私達は悲しい時代に、寄り添いあって生まれたのかもしれないけれど。それを忘れて、誤魔化しながら生きているのかもしれないけれど。
なんにも出来なくても。どんなに鈍くさくても。
未来に夢だって、見たいじゃないか。
ガラスにうつる、上緒さんの充血した目から、涙がひとつぶ、こぼれて落ちた。
「上緒さん」
その時だった。突然名前を呼ばれて、上緒さんは慌てて首を回した。
裏の方から顔を出して、立っていたのはワルツさんだった。
休みの日なのにきっちりといつものベストをきて、髪もまとめていた。なにも変わらない顔で微笑んで。
「どうしましたか」
やわらかな声で、上緒さんに聞いた。上緒さんは慌てて闇に隠れるように目元をぬぐって。
「な、なんでもないです」
ひょこひょこと、無様な様子で逃げようとした。
ワルツさんは泣きはらした上緒さんの顔ではなく、その、中途半端に脱いだパンプスに目をとめて。
「どうぞ」
なんでもないことのように招き入れながら、上緒さんに言った。
「サンダル、また、お貸ししますよ」
その声がやっぱり、あんまり優しかったから。
ぐすん、と上緒さんは鼻を鳴らして、頷いた。
サンダルに履き替えて、サエズリ図書館の裏口から通されたのは、地下の一室だった。利用者カードを必要としない、事務室の階段から下りると、関係者以外立ち入り禁止と書かれた重い扉。その奥に、小さな部屋があった。
ワルツさんが自分のカードを読み込ませて扉を開くと、本のそれにまじって、不思議なにおいが鼻先をかすめた。薬草のような、苦く甘いにおいだ。
部屋は小さかった。上緒さんの住む部屋ほどもないだろう。壁はすべて木製の本棚で、書庫に近く、それよりももっと雑多に本が並べられていた。ラベルのついた、一目で古いとわかる本ばかりだった。本と本の間にはところどころ隙間もあるし、かと思えば奥が見えないほど積み上がっているものもある。数段の梯子になった台も備え付けられている。
本棚以外には、ランプを模した灯りの載った机があるだけだった。
全自動のエスプレッソマシーンのスイッチをいれながら、ワルツさんが言う。
「ごめんなさいね。ちらかっていて」
「ここは……?」
それは整然とした図書室の様子とは違う、不思議なぬくもりだった。ワルツさんが振り返って笑う。
「作業室、というふうに、わたしやサトミさんは呼んでいますけど」
ペンや定規をはじめとした文具に囲まれて、置いてあった本に見覚えがあった。土曜日に上緒さんが書庫で壊した本だった。
外れてしまった表紙は、ぴったりとくっついている。
「これ、直ったんですか?」
「ええ、どうぞ、ご覧になって下さい。まだ糊がかわききっていないかもしれませんから、気をつけて」
おそるおそるその本をのぞいて、外れないことを確かめると、上緒さんは、隣にあった一風変わった古道具に目を留めた。
「煙管」
思わず口に出していた。置かれていたのは、年代を感じさせる煙管の一式だった。持ち運びが出来る取っ手がついた煙草盆には、灰皿と刻み煙草が詰められている。上に載るのは細い煙管だった。木で出来た持ち手と、真鍮で出来た、火皿と吸い口。すぐそばに古ぼけたマッチもあった。
「これ、吸えるんですか?」
時代劇のような道具に、思わず聞くと、「はい、吸えますよ」と軽い答え。驚いて、振り返る。
「ワルツさんが?」
こんな時代遅れなものを、と心の中だけで上緒さんは思った。長年続いた嫌煙の風潮は、ほとんどの愛煙家を駆逐してしまった。上緒さんの職場でも、男性であっても喫煙者はいない。それをこんな骨董品みたいな煙管でなんて。
ワルツさんは少し困り顔で笑うと、「少しだけ」と小さな声で言った。
「本来であれば、図書館に火気は厳禁なのですけれどね」
部屋に入る時にかすかにかおったのはこの葉が燃えるにおいだったのだろうか。想像がつかない、と上緒さんは思う。けれどこの部屋は書庫とは別に空調が入っているようだった。そういう人がいることを、見越してつくられた部屋なのかも知れないと思った。
今はそのにおいよりも強く、疑似カフェインのやわらかなにおいがしていた。
ポポポポ、と愉快な音がして、エスプレッソマシーンが泡立ったカプチーノを吐き出したようだ。
机の上にマグカップを置きながら、ぽつりとワルツさんが呟く。
「アレクサンドリアを忘れるな」
「え?」
上緒さんが聞き返す。ワルツさんは眉を上げ、自分の言葉を誤魔化すように笑みを浮かべると、椅子に座るように促した。
「いいえ。なんでもありません。よければ、どうぞ」
「ありがとうございます」と礼を言って、上緒さんは小さめのマグカップに口をつける。すでに砂糖とミルクはまぜあわせてあった。控えめな甘さが、喉の奥からしみこんで、ずいぶん喉が渇いていたのだということに、今更気づく。
「すみません、休館日なのに」
「いいえ。ちょっと外の空気を吸いたくて、外に出たところでしたから」
ワルツさんも椅子に腰をかけ、マグカップを傾けながらそう答えた。
「お仕事ですか?」
休館日なのに。そう尋ねると、ワルツさんは笑う。
「はい。のんびりと」
それから、小さく首を傾げて上緒さんに尋ねた。
「上緒さんも、お仕事ですか?」
問われて上緒さんは「はい」と頷き、そのまま俯いてしまった。波の震えるマグカップの表面を見ながら、ぽつぽつと、自分はなんだか駄目なんだ、という話をした。
なにをやっても、一事が万事。全部駄目に思えてしまう。
一度そう思い始めたら、世の中のことも、他人のことも、みんな嫌になってしまう。
ひどく詮のないことだった。ましてや会ったばかりの図書館の司書さんに、迷惑なことこの上ないだろう。
けれどワルツさんは嫌な顔ひとつせず聞いてくれた。すっかり上緒さんの弱音を聞き終えてから、慰めることもなく否定することもなく、
「読書がいいですよ」
と静かに言った。マグカップから顔を上げる、上緒さんに。
「そんな日は、読書がいいです」
勇気づけるように、笑って。
「嬉しい日の読書は楽しいし、悲しい日の読書も、格別だから、大丈夫」
大丈夫ですよ。それだけを言ってくれた。
その日上緒さんは家に帰って、夕食をつまむのも早々に、ソファで本を開いた。数ページ読んで眠ってしまってから、すっかり放置していたサエズリ図書館の本だ。
綺麗に手を洗って、ちゃんと座って。先にトイレも行っておいて。
もう一度最初から読み直したら、不思議なほどに、身体に染みた。眼球を通って、頭の裏側をなぞって、喉の奥、それから指先に活字が染みていく。少し厚みのある紙をめくる、その時に鼻から息を吸う。
肺まで届く。これは、物語の中の空気だと思った。
理解出来ないものは、無理にそうする必要はないのだ。言葉と言葉を追いかけて、不意に現れる光景と感情を、こくこくと吞み込んでいけば、それでいい。
主人公は小さな女の子。その子がゆっくりとひとりぼっちになっていく描写が、自分に重なった。
可哀想。可哀想なのは誰?
この子かな。つくりものの、誰かなのかな。それとも、私かな。
赤く腫れた目の涙腺はどこまでもゆるんでいて、ぽろぽろと無様な涙が落ちた。けれどそれはいやな涙ではなかった。少女が大切なものを失うたび、そして失ったものを、少女が取り戻すたび、あたたかさに胸がつまった。
遠くまで飛べる、とワルツさんが言った。その言葉を、嚙みしめる。
厚さが増す右手の中と、どんどん失われていく左手の重量。
そして物語には終わりがやってくる。「オワリ」をかたどる小さなイラストのあとには、作者の短いあとがきがついていた。最後の句点まできちんと読んで、分厚い裏表紙を、仕上げのようにぱたんと置いた。
「ぷあー……」
ソファに背中を預ける。ずっと前のめりになって読んでいたのだということに、そこでようやく気づいた。軽い頭痛がする。一日中数字の打ち込みをした疲労に似ていたけれど、同じものではないと思った。
時計は深夜の十二時をまわっていた。
「ドラマ、見逃しちゃった、な……」
こんなことより、やることがあったはずなんだけど。ぱらぱらと読み終わった本をめくったら、冒頭の方に開き癖がついていた。
なにげなくそのページを見ていて、もしかしたら自分のせいかも、と思うに至る。
このページは最初、開いたまま眠ってしまった時のもの。あの時開き癖がついたのだろうと思って、「ごめんね」と小さく声をかけた。
読むことで、摩耗する。それが不思議だった。電子の形をした雑誌には、決してないこと。
そのまま顔を洗って歯を磨いて。泥のように上緒さんは眠った。
自分はひとりきりだ。ひとりきりだけど、本の中、もじゃもじゃ頭の小さな女の子も、ひとりきりで自分の暮らす町を救ったじゃないか。自分はあんな、神様みたいにいい子じゃないけれど。ドジだけど。なんにも、出来ないけど。あの子だって頑張ったんだから。明日から、また頑張ろう。そう思った。
「ワルツさん」
週末の金曜日。今度はちゃんと慎重に車を停めて、上緒さんはサエズリ図書館の中、ワルツさんを訪ねて声をかけた。
「上緒さん」
「先日も、ありがとうございました」
深々と頭を下げて、最初に差し出したのは二回借りたサンダルと、野菜の袋だった。
「これは?」
「両親が突然持ってきたんです。実家の庭で菜園をやっていて……。でも、ひとりじゃこんなに食べられないから。おすそわけです」
火曜日の朝、両親に電話をかけたらその日のうちに靴と野菜を持ってきた。宅配便でもなんでもなく、自分で車を走らせて。心配性で過保護なお節介、と早々に追い返したけれど、追い出してからなんだか笑ってしまった。
「迷惑かもしれませんが、よければもらってください」
母親のベージュの靴はお古でくたびれていやだなと思ったけれど、少し古い素材がうまく足になじんだ。子供みたいにかかとに絆創膏を貼って職場に行く必要もなくなった。
「そんな、迷惑だなんて」
ワルツさんはまつげをおろして軽く頭を下げた。
「ありがたく、いただきます」
「いえいえ、本当に、うちの親が限度を知らなくて」
「心配なんですよ」
間髪をいれず、ワルツさんが言った。上緒さんの返事を待たずに。
「上緒さんが心配なんです。娘を心配しない親なんて、いませんから」
そう言うから、上緒さんは自然と、首を落とすように頷いた。
ワルツさんは安心したように笑って、それから上緒さんをのぞきこむように見た。少しだけ不安そうな、心配そうな顔で。
「……本、読まれましたか?」
上緒さんは顔をあげ、今度こそ、しっかりと頷いた。
「今、カウンターに返却して来ました。とっても面白かったです」
ぱっとワルツさんの顔に花が咲く。
「嬉しい」
借りた本が面白かった、ただそれだけなのに。上緒さんの手柄でもワルツさんの手柄でもないのに、こんなに喜ばれるなんて、気恥ずかしい気持ちになった。けれど噓でもお世辞でもなかったから、上緒さんは重ねて言う。
「また、おすすめの本を教えてもらっても、いいですか?」
「もちろん! 同じ作者の、よい短編集があるんです。今度は少し、大人向けの。書庫の本で少々古いんですが、文庫本で持ち運びも出来るし、是非読んで欲しいんです」
今、書誌データを出しますね、と張り切るワルツさんに、上緒さんが尋ねる。
「あ、ワルツさん、岩波さんって今日も来てらっしゃいますか?」
「いつも通りでしたら、いらっしゃってますよ。お探ししますか?」
「いいえ、大丈夫です」
自分で探してみますから! と元気よく答え、ワルツさんから書誌のデータを受け取ると、書庫に降りて、渡されたラベル番号と、本を何度も見合わせ探し当てた。時間は、少々かかった。薄い文庫本だと聞いていなかったら、見逃していたかもしれない。けれど、見つけた時に、この本は自分を待っていた本だと思った。
この森の中で眠り姫みたいに、自分を待っていてくれた本だ、と。
ハードカバーではない、薄く軽いそれを丁寧に取り上げて、軽快に階段を上る。
一階の書棚を通って、二階のソファへ。そこに、相変わらず、ツナギを着た岩波さんが座っていた。
「こんばんは」
「はい、こんばんは」
岩波さんは本から少し顔をあげ、軽く会釈する。上緒さんは野菜の入ったナイロン袋を差し出しながら、長い話になって読書の邪魔をしないように、早口で言った。
「あの、これ、ありがとうございました」
「ん?」
中身をのぞいて、岩波さんは少し困ったような顔をする。
「礼なんざいらんのに。退屈しのぎの素人仕事だよ」
「いいえ。でも、お詫びと、お礼です」
まだ貸し出しをしていない、小さな文庫本を胸に抱いて、上緒さんは言う。
「岩波さんがああして、私の車を直すと言ってくれなかったら、多分私、このまま一生、本を読まないで生きていったと思うから」
岩波さんは上緒さんの言葉に即座に答えず、胸元の文庫本をさして、「……それは?」と尋ねた。
上緒さんは笑う。表紙を見せながら。
「今日借りる、本です」
前に借りた本は、読み終わったから。そう言ったら岩波さんは、その皺の浮かぶ目元を細めた。
「……面白かったかい?」
「はい!」
自信を持って、上緒さんは頷いた。
「…………」
その言葉に、岩波さんはゆっくりと息を吐いて、膝にのせた本を閉じた。
「あんたみたいな若い娘さんも、本が好きだというとはね」
しみじみと、味わうような呟きだった。
「……うちの、娘は、一冊も本を読まずに、死んでいったというのにな」
それは、突然の告白だった。上緒さんは心臓をわしづかみにされたような痛みに見舞われた。あまりのことに、息が詰まるかと思った。
娘を亡くした、と岩波さんは言った。この、浅黒く陽に焼けた、矍鑠として思慮深い、それでいて手先の器用なおじいさんから、そんな悲しい言葉を聞くとは思わなかった。なぜ、とは、上緒さんは聞けなかった。聞いた方がいいのかもしれないと思ったけれど、詳細を聞いた、その後に、かける言葉が自分の中にあると思えなかったのだ。
行き過ぎた執心は病だ、という岩波さんの言葉を上緒さんは思いだす。
この世に病はたくさんある。病に至る悲しみも、この世界には、本当にたくさんある。
慎重に、何度か深呼吸をして、上緒さんはつとめてやわらかく明るい声で言った。
「私、おじいちゃん、ずっと、ずっと前に亡くしました」
私が生まれてくる前に。そう呟くと、「そうか」と岩波さんは、細めた目元をいっそう細くした。そして、誰に言うでもなく、呟くのだ。
「生きてるもんは、せめて、立派に、生きていかなきゃならんなぁ」
そうですね。そう、上緒さんが言って、優しく笑った。その時だった。
「どういうことだ!!」
図書館に似つかわしくない怒号が階下から響いてきて、慌てて上緒さんは、吹き抜けの手すりに摑まり、一階のホールを見下ろした。中央の貸し出しカウンターの前で、白衣のような服を着て杖をついた老人が、サトミさんに向けて怒鳴りちらしているのがわかった。上緒さんは岩波さんと目を合わせ、ぱたぱたと階段をおりていく。野次馬は決していい趣味ではないと思ったけれど。
会話が聞こえる距離まで近づき、足を止めた。
「図書館では、お静かに願います」
「責任者を出せ、と言ってるんだ、地下の書庫のリストもな!」
「利用者登録をお済ませ下さい。利用者カードを差し込めば、書庫に入室していただけます。端末での検索は自由です。貸し出し冊数は五冊まで。貸し出し期間は二週間です」
完全に事務仕事に徹する口調でサトミさんが淡々と告げる。
「それが前時代的だというのがわからんのか!!」
老人が怒鳴る調子を強める。その目元には、特殊な補助スコープがはめこまれていた。先進時代のものらしきそれは、すっぽりと双眼を覆う埋め込み式であったため、彼の視線がどこを向いているのかはわからないが、顔に刻まれた皺や歯の色が、老いの深さを物語っていた。
どんな場所でもわけのわからないクレーマーがいるということを、社会に出て二年目の上緒さんはよく知っている。そしてその中でも、この客は冷静に相手をするのが辛いタイプだということが容易に想像出来た。
サトミさんは眉ひとつ動かさないというプロフェッショナルぶりを見せて。
「責任者は只今参ります。お待ちのお客様、こちらへ」
老人の斜め後ろにいた自分が呼ばれたのだと、気づいて上緒さんはハッとした。慌てて前に出る。それが、少しでもサトミさんの助け船になればいい。そう思ったのだ。
「あの、これ、貸し出し……」
手に持った古い文庫本をカウンターに置こうとして、顔を真っ赤にした老人に本をひったくられた。
「あ、ちょっと!!」
なにするの、と声を荒らげようとした時だった。それより大きな声に、かき消された。
「お前、これがなにかわかっているのか!!」
老人は穴があきそうなほど文庫本に目を近づけ、その文字をスキャニングする動作をした。身分証を読み取ったものと、同じシステム。そして、嚙みつくように上緒さんへ言う。
「この本の価値をどれだけ知っている。戦前の廉価大衆本、しかも初版だぞ、原版はすでにこの国から消えた、実物でも完本はほぼ見つかっていない! それを、お前みたいな子供が軽々しく扱ってもいいと思っているのか!!」
今にも血管を切りそうな剣幕に上緒さんはたじろぎながらも、同じように頭に血をのぼらせそうになった。もう少し上緒さんが俊敏だったら、なにか反論を口にしていたかもしれない。けれどその時、外から慌てて入って来たのは、普段図書館の駐車場に立っている警備員だった。
「お客さん、落ち着いて。向こうで……」
とにかく向こうで話しましょう。そう促す警備員を、老人は杖を振り上げて振り切る。
「私に触るな!!」
高齢の警備員はバランスを崩して尻をつく。顔を歪めたので、上緒さんはひやりとした。先に立ち上がっていたのはサトミさんの方だった。座り込んで警備員をいたわりながら、ひどく冷たい口調で、
「警察を呼びます」
そう呟く。返ったのは嘲るような笑いだった。
「かまわんぞ、あんな奴らになにが出来る! 私の顔と名を見て、手などだせるわけがない! こんな狂った施設、今すぐ閉鎖させる必要がある!!」
狂っているのはどちらの方だと、上緒さんが頭に血をのぼらせたまま口を開きかけた、その時だった。
「図書館では、お静かに願います」
パンプスのかかとを軽く鳴らして、地下から現れたのはワルツさんだった。サトミさんよりももっとずっと、落ち着いた声だった。館内に張り詰めていた緊張が少しだけゆるみ、その分老人のささくれた苛立ちだけが募ったのが、そばにいた上緒さんにはわかった。
真っ直ぐに歩いて来たワルツさんは、老人に手をさしのべて。
「失礼ですが、お客さま。その本はわたしがそちらのお客さまに資料案内したものです。貸し出しを希望される場合、予約の申し込みをしていただくことになります。身分証をご呈示いただけますか?」
淡々とそう告げた。
「なんだ、こいつは」
老人は、カウンターのサトミさんよりもずっと若いワルツさんのことを、不可解なものを見るように睨んだ。
「責任者を出せ、とおっしゃったでしょう?」
わたしがサエズリ図書館の代表です。
淡々と起伏のない声で、それだけをワルツさんは告げた。
「代表、だ? お前のような……」
続いたであろう罵倒の言葉を遮るように、ワルツさんが言葉をすべりこませる。
「身分証をご呈示下さい。聴覚補助のためのデータ通信機が必要ですか?」
老人の灰味がかった肌が色を深くした。お前の耳は聞こえないのか。そう尋ねているも同じだった。実際、視覚には補助のスコープを当てているのだから、強烈な嫌味になったようだった。骨の浮いた手が、カウンターを叩く。
「貴様のような、ものの価値のわからん人間が責任者だから、このような文化の冒瀆と虐殺がまかり通るのだ……! なにが代表だ、責任者だと!? 貴様のような小娘が、戦前の、純然たる『紙の本』の価値を、どれほど知っている!」
つばを飛ばさんばかりの老人の言葉にくらべて、ワルツさんは静かに言う。
「リストの閲覧を、ご希望でしたね」
サトミさん、書庫のデータを。その言葉を予測していたように、サトミさんがすみやかに手元の端末画面を、机と平行にした。
立体ディスプレイにうつしだされるのは膨大な量の書誌リストだった。老人がスコープのつまみに触り、ディスプレイと同期させれば、息をのんだのが気配だけで上緒さんにはわかった。
ワルツさんはかつて利用者案内を行った時のようになめらかな口調で、老人に告げる。
「書庫に配架された戦前の書籍はおよそ十二万五千冊。その中でも廉価大衆本は半数以上に及び、完本の電子データが共有ネットワークに存在せず当館のみのものだけでも四万冊。また、状態の悪さなどから閲覧のみとなっているものに関しては一万二千冊。その中には、ヨーロッパで一五〇一年以前に活版印刷された初期印刷本も数冊有しています。これらはすべて、すでに値段のつけられるものではありません」
ですから、わたしにはこの図書の価値を、測ることは出来ない。淡々と述べた後、ワルツさんは真っ直ぐに老人を見た。
「それが、この図書館です」
ワルツさんが言い終えても、背後の立体ディスプレイにはまだ、データが流れ続けていた。高速で浮かんでは消える、泡のようなそれらの文字が、ものの価値もわからないとされる上緒さんをも圧倒した。
老人の、歯ぎしりをする音が聞こえるようだ。
「―ふざけるな!! たとえ電子データを保存していたとしても、やすやすと人の手に貸せるものではない、すでに大部分が失われた、貴重な文化財だぞ!! それを知っていながら、なにを思ってこんなもの……!」
老人は怒るよりも嘆くように、ワルツさんに詰め寄った。
「この百年、たった百年だ! どれだけの本が焼かれ、どれだけの本が消えた!? そしてどれほどの人間が、こうした本を求め、手に入れられぬまま―……」
まくしたてられる言葉にも、ワルツさんはひるまなかった。
「借りたい人がいるからです」
真っ直ぐにその、黒い補助スコープのついた目を見て、言った。
「読みたい人が、いるからです」
「……貴様のような小娘に、なにが―!!」
また、その震える拳を振り上げようとする。ひやりと嫌な予感がして、上緒さんは声を上げた。
「ワルツさん!!」
サトミさんはすでに、警備員さんを連れてその場からいなくなっていた。ワルツさんを守る人は、誰もいない。
しかしその声に、先に反応したのは老人の方だ。
「……ワルツ?」
低く、絞り出すような声で、信じられないとでも言うように、静かに言った。
「ワルツ、だと」
補助スコープのついた目は動かすことがかなわず、壊れた人形のように首を振りながら、老人は言う。
「ワルツが、どこに」
その声は震えていた。杖を握る手もまた。おびえるように、惑うように。
なにかを悟り、「やっぱり」と囁くような声で、ワルツさんは言う。
「父を、ご存じなのですね」
そこでようやく、老人はワルツさんの胸元、そのネームプレートに、顔を近づける。ゆっくりと、スコープの焦点を合わせる、沈黙の時間が流れ。
「馬鹿な」
かすれた呟き。それから。
「ギショウに娘などいなかった!!」
突然、激高したように叫んだ。その激情のまま、嚙みつくように言う。
「貴様どこの馬の骨だ! ギショウの財を、あいつのコレクションを、かすめとって食いつぶす気か!」
「ワルツさん」
その時低く、大きな声が響いた。上緒さんが振り返れば、立っていたのは、岩波さんだった。
「そいつを叩き出さないか。わしはもう、我慢がならんぞ」
岩波さんは、肩をいからせ何度も自分をなだめるように深呼吸をしながら、恨みのにじむような深い声で言った。
「ここは、あんたの図書館だ。それくらい、しても構わんのではないかね」
「岩波さん……」
ワルツさんが、そこでほんのわずかに戸惑う表情を見せた。
「ふざけるな」
老人はわなわなと身体を震わせながら吐き捨てた。
「全力で潰してやる。どんな手を使ってでも、私の残った、すべての財で、この図書館を買い取るぞ!! いいか、こんな冒瀆は許さない。ギショウの形見は、詩の一篇たりとて誰にも渡さぬ! ここにある図書はすべて、しかるべき場所で、施設で、厳格な管理をされなければならないものだ!!」
狂気じみたその言い方にも、ワルツさんは動じることがなかった。
「いくら積まれたとしても、図書館はお譲り出来ません」
それだけの、返答。会話をするつもりもないようだった。
ワルツさんは優雅ささえ感じさせる仕草で腕を伸ばす。
「お帰りはそちらから」
扉を手の平で示しながら、薄くまぶたを下ろして。
「その前に、お持ちの本を、お置き下さい」
老人はまだ、上緒さんから奪った文庫本を手に持ったままだった。せせら笑うように、肩を震わせ、言う。
「いやだと、言ったら?」
「許しません」
ワルツさんの返答ははやく、どこまでも迷いがなかった。
静まりかえった図書館の中で、かすかなクラシックの音だけが彼女を包む。
歴然とした事実だけを白いあかりに晒すように、怒りも憤りも慢心もなく、ただ真っ直ぐに老人を見て。
ワルツさんは、静かに告げた。
「わたしはこの図書館の特別探索司書。あなたがサエズリ図書館の本を持つ限り、地の果てであっても追い続けます」
その気迫と、迷いのない言葉に、老人はたじろいだようだった。けれど、強がるように頰をひくつかせて、「特別探索司書、だ?」とワルツさんをあざわらう。
「そんなもの、前時代の崩れかけた遺物だろう。こんな小さな図書館の脆弱なネットワーク、ウィルスで潰すまでもなく、ケーブルの一本切ってやれば作動はせんわ。もう、ネットワークが万能であった時代は終わったのだ」
それは確かだった。マザーサーバーはいつまでも復旧されず、地方サーバーの不調やアクティブウィルス、システムのバグ、もっと原始的な、電力の供給不足で、ネットワークは度々に落ちる。極端に技術者も減った今では、メンテナンスもままならない。一部が落ちれば、全体への影響も出る。
けれど次に笑うのは、ワルツさんの方だった。
「その程度で、割津義昭の記憶回路と、通信ネットワークを停止できるとお思いですか?」
彼女は再び宣言をする。誇りをもって。己の存在と役割を。
「わたしは割津唯。この図書館の、特別探索司書です」
それが一体、どのように老人に響いたのか。ワルツの名前を最初に聞いた時と同じように、どこか途方に暮れたように立ち尽くして。
「……まさか」
かすかな声で、老人は囁いた。
「お前が、ギショウの」
それ以上は言葉にならなかった。ワルツさんはゆっくりと、老人に歩み寄り、静かな動作で、手をさしのべる。
「本を、返して頂けますか?」
ワルツさんの発した、どの言葉が、果たしてどんな作用をもたらしたのか。上緒さんにはわからなかった。けれども、老人からは、それまでの激情の火がおさまっているように見えた。ゆっくりと震える動作で、本をワルツさんの手の中に返して。
「本当に、ギショウの、娘なのか」
老人の言葉は、糾弾でもなく、疑惑でもなく、まるで懇願のように図書館に響いた。そんなはずがない、という意味でさえないと上緒さんは思った。
「本当にあいつは、生きている間に、家族を、手に入れられたというのか」
そうであったら、どんなにいいかと、すがるようだった。
対するワルツさんは、そっと綺麗なまつげを伏せて。
「アレクサンドリアを忘れるな」
いつか、上緒さんが聞いた言葉を、もう一度、告げた。
老人が息を吞むのが、上緒さんにもわかった。ほんのわずかに泣きそうな顔で、ワルツさんは淡く、笑う。
「パパの、口癖でした」
なくしたものを惜しむように、ずっと大切にしていたものを明かすように、ワルツさんがそう言えば、老人は、不自由な動作で、自分の目元に指を押し当てた。そうしてこぼす、言葉は。
「……薄情者が」
その場にいた、誰に対するものでもないように、上緒さんには思えたのだ。そこにいた誰でもない相手をなじる言葉は、空中に溶けて、消える。
なだめるように、いたわるように、ワルツさんが覗き込んだ。
「お客さまが、父と、父のコレクションを、大切に思って下さっていることは、よくわかります。……でも」
でも、ごめんなさい。
ワルツさんは小さな子供に言ってきかせるように、静かな声で言った。
「パパの本は、全部、わたしがもらいました」
顔をあげる、老人は。打って変わって弱々しく、ワルツさんに、両手を伸ばし、すがるように、言う。
「わかっているのか。……このままでは、この世界は」
震えている。その震えが、なんなのか。上緒さんにはわからない。けれど確かな恐怖を、皺としみの浮かぶ表情にうつして、絞り出すように言った。
「本は、死ぬのだぞ」
それはまるで、助けを求めるような声だった。
ワルツさんは胸に本を抱いて、安心させるように、迷いなく告げた。
「本は死にません」
美しく、微笑んで。当然のことのように言うのだ。
「だって、みんな、本を愛していらっしゃるでしょう?」
人類の歴史上に書物が登場して数千年の時が過ぎた。紙という伴侶に行き着くまでに紆余曲折を経たが、長きに亘り、本はそれ自体ひとつの完成形として人間の傍らにあった。それから、電子元年と呼ばれる区切りを何度も迎え、けれど本が消えることはなかった。
ひとつの極限である、本が消えることは決してなかったのだ。変わったのは、価値と意味。それだけのこと。
上緒さんは、借りる文庫本を岩波さんに預けると、サエズリ図書館を飛び出す。ふらつく足取りで、濡れた猫のようにうなだれながら肩を落とし、サエズリ図書館を出て行く背中を追った。
図書館は閉館時間が迫っていた。本当はワルツさんが追いかけたかったに違いない。けれど、ワルツさんは他の客の応対をしなければならなかったから。
上緒さんは声を上げた。
「おじいさん!」
駐車場に置いてあった車には運転手がいるようだった。その扉が、触れるだけで開く。上緒さんの乗っているような自動車ではない。自家用車という言葉を使用しなかった先進時代の個人車だった。それ一台でも、家が十軒買えるほどの値段だ。
乗り込む前に、ゆっくりと上緒さんを振り返った。
「あの、あの……っ」
自分の言おうとしていることが余計なことなのだろうという自覚は、上緒さんに十分にあった。だから、躊躇った。
けれど老人は、吐息のように小さな声で言うのだ。
「すまなかったね」
思わず上緒さんは目を見開いた。
「……失礼を、した」
頭を下げる。紳士的な仕草だった。本当に心の底から、詫びているようだった。その背がなんだか一回り以上、小さくなってしまったようだった。
上緒さんは唐突に胸が詰まって、早口で告げた。
「あの、おじいさん、サエズリ図書館は、カードさえあれば、誰だって借りられるんです。だから、いつでも来て下さい!」
ワルツさんならきっと、こう言ったであろうと思って。
けれど、老人は笑うだけだった。唇の端をほんの少しだけ吊り上げて、自嘲するように言葉をこぼす。
「ありがたい申し出だがね、お嬢さん。……私の目では、本は、もう、読めんのだ」
上緒さんは驚いて、顔を上げた老人の、黒いスコープを見た。それから、先ほどの、文字を読み取るような仕草を思い出した。
彼のスコープは最新式のようだった。単純な視力矯正ではなく、映像をデータとしてスキャニングする。それは個人車と同じように、確かな富裕の証でもある。けれど、「悔しいもんだよ」と老人は泣き笑いの表情でこぼすのだ。
宙を見る、老人の横顔に、浮かぶのは遠い憧れだった。かつて多くの人が、今でもきっと、一握りの人が、憧れを抱いて、本を求めたに違いない。
「若い時に、あれほど夢見た読書だよ。十二分に金を稼いで、本を集めて、耽溺するつもりだった。いつか互いの蔵書を自慢し合おうと、約束をした、友もいた」
上緒さんにとって、サエズリ図書館が、生まれてはじめて入る図書館だった。
しかし、図書館に入ったことがある同級生が、果たして何人いるだろう? そこで本を借りたことがある人間が、上緒さんの友人の中にいるだろうか。
学校には図書室があった。
けれど、そこにおさめられた図書は、まるで標本のようにケースの中にいれられ、手袋をした教師が、うやうやしく扱うものだった。
本が安価で、万人のものであった時代は終わったのだ。
「データならばある」と老人は言った。
かつて、石板は本へと形を変えた。同じように本もまた、変化の道をたどっただけだと言う人がいる。
「自宅のネットワークならば、どんな電子書籍でもリーディングは出来る」
彼のスコープはやはり、読み込みの機能も有しているのだろう。脳に直接データをたたき込むことさえ可能であるはずだった。
車に乗り込みながら空に嘆くように深い深い息をついて、老人は言う。
「けれど……私は、本が好きだったんだよ」
上緒さんには、かける言葉がなかった。
はじめて本を読んだ上緒さんだ。最初は印字された文字が味気なく感じられて、退屈で眠ってしまったほどだ。本を好む人なんて、それこそ先生か、研究者か、よっぽどのお金持ち。好事家だと。
けれどそれを好きな人がいる。今でも、どれほどそれが手軽さを失っても、本を、読みたい人がいる。
行き過ぎた執着は、病だ。
彼はそうなのだと思う。よっぽどの、と言われるほど、病と言われるほど。本を、愛していたのだ。
「お嬢さん、本は好きかい?」
ぽつりと、助手席に座って、うなだれたままで老人は、上緒さんに聞いた。
上緒さんは迷う。ワルツさんのように、岩波さんのようにはいかなかった。自分の気持ちが、どこまで老人の言葉に釣り合うのかは、わからない。
それでも、上緒さんは言った。
「わかりません。でも……面白かった、です」
「そうか」と老人の声が、ため息とともに吐き出される。そして、小さな頷きとともに。
「……そうだな。そういう人に読まれた方が、本も、幸せなのかもしれん」
個人車のドアが閉められ、シートベルトが全自動でかけられる。窓だけが開いて、老人はここまでついてきた上緒さんに、一言告げた。
「よい読書を。さすればギショウも……私の友も、喜ぶだろうよ」
最後の言葉を、もっと深く尋ねてみたかったけれど。
そのまま老人は、車を進めて、夕焼けの中へと消えていく。紅色に染まる緑樹の合間を縫って。もう、彼を追うすべはないのだと、佇みながら、上緒さんは見送った。
「アレクサンドリア、ってなんでしょう」
それからしばらく後、サエズリ図書館で岩波さんと再会した上緒さんは、館内のソファに座って、隣にいる岩波さんに尋ねた。
ワルツさんとはあれから図書館に来るたび会っていたが、先日の騒ぎの話題は出ることはなかった。なんと尋ねていいのかも、上緒さんにはわからない。
ひとりごとのような問いかけだったから、答えは返らないかと思っていたが、岩波さんは開いた本から顔をあげず、ぼそぼそと答えた。
「アレクサンドリア図書館のことじゃないかね」
首を傾げる上緒さんに、岩波さんは重ねるように説明をしてくれた。
「古い図書館だよ。紀元前の昔に、貴重な文書とともに焼け落ちたとされている」
無知である上緒さんはぴんとこなかったけれど、アレクサンドリアという名前の図書館があるのならば、それは間違いがないのではないかと思った。
その言葉に込められた意味までは、わからないけれど。
ここは図書館なのだ、と並ぶ本棚を眺めながら、嚙みしめるように上緒さんは思う。
前時代の遺物だといった、老人の言葉はとても正しい。本来であれば、一介の個人が所有できる財ではなく、管理出来るような代物でもない。たとえば上緒さんには、岩波さんの持つ全集の一冊が、どれほどの価値をもつのかさえ、わからない。
それでも、この建物は図書館として建てられ、図書館として、息を、している。
「……あの、岩波さん。ギショウ、って」
次の問いに対する答えは、もっと明確なものだった。
「この図書館の創設者のことだろう。割津義昭。地下の書庫にある蔵書は、彼が個人的に集めたものとして、義昭文庫と名前がついている」
そこではじめて、上緒さんは心の中でギショウ、という文字に漢字を当てることが出来た。あの、地下の書棚。そこに彫られた、名前。ぬくもりを感じる、眠るように配架された、古書達。
「ワルツさんの……お父さんだったんですか」
「確かなことはわからんよ」
岩波さんはもう一度、そう前置きして。「高名な科学者であり脳外科医だったという記録はあるが」とぽつぽつと言った。
その記録には、生涯妻をもたなかったと記されていたとも。
「脳外科医……」
思うところがあって、上緒さんは呟く。その、義昭という人と、ワルツさんの本当の関係については、わからない。わからないけれど、これほどの本を、ワルツさんは与えられて。ワルツさんは、これらの本のすべてを、自分の宝物だと言う。
「ワルツさんがいなければ、わしらはこんなにも本は読めなかった」
愛おしそうに広げた本をなぞりながら、岩波さんは言う。
「感謝せねばな」
そうですね。心の底から、上緒さんは同意する。それから、「今日借りる本を探してきます」そう言って、立ち上がる。
別れざま、「上緒さん」と岩波さんが呼び止めた。
振り返ると、岩波さんは顔を上げて。
「よい読書を」
そう言うから。
「はい」
上緒さんも笑って、同じように、言葉を返した。
「それでは、よい読書を」
さえずり町と呼ばれる街がある。
緑に溢れたのどかな街には、そこに似合いの美しい図書館があって。
美しい図書館には、そこに似合いのとびきり素敵な司書さんがいる。
そうしてその、図書館には、今日も誰かが。
本を愛する、誰かがいるのだ。
第一話 サエズリ図書館のカミオさん
終
第一話以降につきましては、書籍にてお楽しみください。
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