サエズリ図書館のワルツさん

第一話 カミオさん(前編)

紅玉いづき Illustration/sime

「最前線」のフィクションズ。紅玉いづきが詠う、すべての書物への未来譚——。それは本の“未来”が収められた、美しく、不思議な図書館。あなたにとっての大切な一冊は、きっとここでみつかる。

悪魔の笑い声のように、世にも不快な音を聞いた。

「あっ!」

あわててブレーキを踏み込み、ハンドルにす。肩で切りそろえた髪が揺れて、ハンドルにれた。振り返りたくなかった。

なんてついてない日、と、青い小型自家用車の運転席で硬直した上緒カミオさんは心の中で毒づいた。そう、今日は朝からついてなかった。朝のニュースの星占いは最下位だった。チャンネルを変えたら血液型占いも最下位だった。おうし座のA型は早朝から最悪を運命づけられた。ばっかじゃないの、と腹を立てながら化粧けしょうをして家を出たら、せっかくつくった弁当を玄関先に忘れてきた。せっかくの、上緒さんのアスパラベーコンがぱあだった。会社の食堂の自販機で買った乾いたパンを食べたらちょっと泣きたくなった。

上緒さんの課のおつぼねさまの機嫌きげんは最悪で、午後の業務開始十五分で盛大に八つ当たりをされた。上緒さんは悪くなかった、はずだ。女子トイレの個室でちょっと泣いた。

くたくたに疲れてやってられなくて、残業をなかばに放り出してどうしても、身体からだに悪いファストフードが食べたくなった。アスパラベーコンのことは、考えたくなかった。なのにフライドチキンの店は駐車場が満車だった。店内は空席だってあるっていうのに、なんてついてない!

そのまま帰るといろんなものに負けたことになるような気がして、上緒さんは隣の施設に無断駐車をすることにした。路駐の取り締まりなんてどうでもいいけれど、最近はガソリン泥棒だって横行しているのだと、カーラジオのFMは呼びかけてくる。

ガソリン泥棒だなんて。こんな田舎いなかに無縁の心配だと思いながらも、これ以上ついてないことが続いてはかなわないと、振り切るように選局のボタンを一押し。リチャード・クレイダーマンのピアノに合わせて、天気予報に電気予報、空もエネルギーもぼちぼちだと声の綺麗きれいなアナウンサーが伝えてくれる。そうだ、ぼちぼちだ。そのはずだと思いながら、ハンドルを切る。

停めようとしたのがなんの施設かすぐにはわからなかったけれど、公共施設なら駐車場は無料だろうし、帽子ぼうし目深まぶかにかぶった警備員もいる。ずいぶん高齢の警備員のようだけど、いないよりは、マシだろう。無断駐車が露見して怒られることもないだろうと思った。たかだかファストフードを食べる間だ。

おあつらえ向きにひとつ駐車スペースがあいていた。隣の車も自分の車も小型自家用車で全然余裕、だと思ったのに。

わずかにハンドルの切り方が悪かった。心臓に悪い音を立てて、上緒さんの車と、もとから停まっていた車が触れあった。そう言えば微笑ほほえましいけれど、至極しごく一方的で逃げようもない、接触事故、だった。

街灯はついていたけれど、辺りはもう薄暗かった。上緒さんは顔を上げて、半泣きになりながらぐっとハンドルを握り、心を決めてアクセルを踏み込もうと、した。

今度は不吉な音と、足下に不自然な衝撃がきた。噓だ、と思いながら頭を下げたら、無惨むざんにもパンプスのヒールが折れていた。ヒールのある靴での運転は決していいことだとは思っていないけれど、働き始めて二年間、こんなことは一度もなかった。

「うー

当て逃げをしようとしていたのを神様に見抜かれた気持ちになって、そのまま車の中でハンドルに突っ伏した。心の中で神様からいくつ恨みをかっているのか数えてみた。煩悩ぼんのうの数は確か、百八つ。そうではなくて。

(とりあえず、当て逃げは、だめだわ

力尽きたようにそう思って、他の車の邪魔にならないよう、かすかに車体をずらし、おぼつかない足取りで車を降りる。さっき目に留めた警備員を視線だけで探したが、もう仕事上がりの時間だったのだろうか、見つけられなかった。

夕焼けが照らす建物は大きく、丸いフォルムのガラス張り。中にはたくさんの棚が見える。二重扉になっている、不思議なほど新しそうなその施設の入り口に立ってはじめて、上緒さんはその名前を知った。

サエズリ図書館、という吞気のんきなプレートをしばらく見つめて、逃げるように中に入った。

はじめて足を踏み入れた図書館は、清潔で、かいだことのないにおいがした。それが紙とのりのにおいだということは、上緒さんにはわからなかった。どこか胸がつまるような、空腹を刺激するようななつかしさだった。けれど満足に吸い込むこともなく、上緒さんは早足でカウンターに向かい、「すみません」と呼びかけた。カウンターにいた女性は「はい」と低い声で答えた。受付カウンターに座ってはいたけれど、受付嬢、と呼べるほど若い職員ではなかった。真っ白の髪をおかっぱにして、銀のフレームの眼鏡めがねをかけた目元には、はっきりとしたしわが刻まれている。ハイネックのトップスと、制服なのだろう、かっちりとしたベストに身を包んでいた。

「すみません、あの」

緊張を振り切るように、みながら言う。

「今、駐車場で、停めてあった車に、ちょっと、ぶつかって

その言葉に、カウンターの図書館職員は控えめにまゆをあげて、驚きを示した。非難の言葉を受けるだろうかとおびえていたが、相手はそれ以上顔色を変えることはなかった。「それでは、そうですね、事務室の方に行きましょう」とやはり静かに低い声で言うと、立ち上がって上緒さんの前を歩き出す。タイトなスカートに、黒のタイツを穿いていた。上緒さんは片方の足をつま先立ちにして、周りを見ないようにその後ろについていく。平日の夕食時だというのに館内にはちらほらと気配があった。

人がいる、ということが意外に思えた。同時に上緒さんは、自分が生まれてはじめて図書館という施設の内部を歩いているのだという事実をかみしめた。

上緒さんは決して本が好きな人間ではなかった。親しむような生活も、生まれてこの方したことはなかった。図書館という施設について、概念としてはもちろん知っていたが、自分には死ぬまで無縁のものと思っていた。学生の頃に教師に連れられ、かび臭い図書室に何度か入ったぐらいで、本というものにろくにさわったこともなかった。古くさくて、敷居が高く、好事家こうずかが好むもの。それが本に対する、上緒さんの印象だった。自分の場違いさが嫌になって、上緒さんは背中を丸めて、ひたすらつま先を見て歩いた。

事務室、と女性が言った場所は、図書館の奥にある大きくも小さくもない部屋だった。十にも満たない、それぞれ端末の置かれた事務机と、応接用だろうかソファがある。そのソファに座るようにうながされて、上緒さんはまるで学生時代に戻って、職員室に怒られにきたようだ、と思った。

立ったままではなく、座って怒られるんだから、覚悟をきめなければならない。憂鬱ゆううつに胸が重くなった。

働きはじめてから車には乗っているけれど、相手がある事故を起こしたのはこれがはじめてだった。警察を呼ばなくちゃいけないんだろうか、実家に電話をした方がいいんだろうか。ああ、きっと実家の母親はまた自分の注意力のなさをののしるに違いない。あなたって子はどうしていつもそうなの。もう子っていう年でもないんだけどな。

もしも相手がやくざのような人だったらどうしよう。次から次に浮かぶ不吉な想像に頭の中がぐるぐるした。金曜日の夕方に、一体なにをしてるんだろうと、自分のみじめを呪う気持ちにもなった。

案内してくれた図書館員は事務室のまた奥の階段から下をのぞいて、

「ワールツさーん」

と呼ぶ。

(ワルツさん?)

不思議な響きの呼び名に、上緒さんの頭の中のぐるぐるが止まると、下から「はーあいー」という返事と階段を上る音がした。図書館員の女性はそれで自分の役目を終えたとばかりに、会釈えしゃくをしてホールへ戻っていく。すぐに階段から現れたのは、今し方の図書館員よりもずいぶん若い女性だった。自分よりも少し上か、下手へたをすれば同じくらいなのではないかと上緒さんはぼんやり思う。やはりかっちりとした制服を着て、長い髪を首の後ろでまとめている。眼鏡はしていない。やわらかで若々しい、けれど落ち着きのある笑顔で言った。

「こんにちは」

「あ、はい。こんにちは」

思わず上緒さんはそうこたえていた。立ちあがるべきだったのかもしれない。けれど、折れたヒールが気になって、タイミングをいっしてしまった。

女性は頭を下げて、ポケットから薄い名刺ケースを取り出すと、最近では滅多めったに見ないような、シンプルな紙名刺をテーブルの上に置いた。

割津唯ワルツユイ。他の肩書きより数ポイント大きな書体の名前が、まず目に入った。指で触ると、文字にはわずかな凹凸があった。

「わたしは、ワルツと言います。サエズリ図書館の代表で、特別探索司書です」

「はぁ

本という高尚な文化にはうとい上緒さんだったから、ワルツさんの肩書きがよくわからなかった。ただ、彼女の胸元にある名札を見て、美しい書体で『ワルツ』とだけ書かれているのを見るに、確かにワルツさんだ、と上緒さんは思った。

ワルツさんは向かいに座り、上緒さんに笑いかける。

「どうされましたか?」

優しい笑顔に、なんとなく責められるような気持ちになった。プレゼントでもあげたら、素敵すてきな笑顔をくれそうな人だった。でも、上緒さんはプレゼントなんて持っていない。

「あの、事故を」

いつまでも躊躇ためらっていても仕方がない。勇気を出して、上緒さんは言った。

「駐車場で、車を、ぶつけてしまって

「まぁ」

と、ワルツさんは形のよい眉を上げた。それから、「お怪我けがはありませんか?」と上緒さんにたずねてくれた。

優しい口調だったから、泣きそうになってしまった。

「怪我は大丈夫だったんですが。隣の車に、ちょっと、こすってしまって

「あら

それじゃあ、警察を呼びましょう、と言われるのを覚悟して上緒さんがうつむいていると、ワルツさんはうなずいたようだった。揺れる空気で、上緒さんにはそれがわかった。そして、言う。

「それじゃあ、見に行きましょうか。駐車場」

そうして彼女は立ちあがった。上緒さんも顔を上げる。ワルツさんは、上緒さんの見る限り、面倒なそぶりなんてかけらも見せなかった。

立ちあがるとすぐに、ワルツさんは上緒さんのヒールに気づいて、下駄箱げたばこからサンダルを持ってきてくれた。古びた健康サンダルだったけれど、上緒さんはありがたく借りた。

足元がしっかりすると、少しだけ気持ちが上向きになって、自然と目線も上がった。

外はもう日がかげっていたけれど、明るい館内だった。二階、いや三階まで吹き抜けの高い天井に、送風機が回っている。館内は目に優しい少しくすんだ白を基調として、壁面はほとんどが、ガラスか書棚だった。何カ所か、二階へ上がる階段があり、エレベーターは透明な油圧式。カウンターの向かいにひとつだけ、地下へと降りる階段も目に入った。

並んだ棚の天板は合成プラスチックで、汚れがつかないように塗装されている。並ぶ本はぴったりと整列していた。

当たり前のことなのだろうけれど、書棚インターフェイスで見るよりももっと膨大な量の書物が、棚にびっしりと鎮座していた。それぞれの本には下部に記号と番号が書かれたラベルが貼られて、タグだけでない分類が成されていることがわかる。その背表紙に手を伸ばしたら、一体どんな固さなのだろうかと上緒さんは想像する。ぴったりと整列した様子が、なんだかおそれおおくて、読みもしない本には、触ろうという気持ちにはなれなかったけれど。

外に出ると、辺りは一層明るさが落ちていた。夕焼けの中でワルツさんと上緒さんは、事故現場に立つ。

当たり前のことだけれど、上緒さんの車はいい子で持ち主を待っていたし、青い塗装が少し傷ついているのも、そのままだった。

ワルツさんが二つの車の間を覗き込む。

「ここですか? ああ、傷が」

「そうなんです」と上緒さんは身体を小さくした。

ワルツさんは頷く。

「見覚えのある車だから、きっとよくいらっしゃるお客さんのものだわ。もう少し時間がはやかったら、警備員さんの勤務時間内だったんだけれど今日は早上がりだから

「どなたのものか、わかりますか?」

上緒さんが尋ねると、ワルツさんは頷いた。

「わかりませんが、ちょっと探してみましょう」

「どうやって?」

ここで待っていればいつかは持ち主が帰ってくるだろうし、それまでこのまま? それとも、迷子放送よろしく、あの静かな図書館に呼び出しをかけたりするんだろうか。それはなんだかとても気が引けるなと思っていたら。

「あ、本」

助手席に目を止めて、ワルツさんの顔がほころんだ。上緒さんも覗き込めば、確かに助手席に、一冊の本が置かれていた。赤い色のハードカバー。こちらから見える背表紙には分類を書いたラベルが貼られていなかったから、個人所蔵のものだと上緒さんにもわかる。

助手席に本。なるほど、図書館によく通うような人は、自分などとは違う人種だと上緒さんは思った。けれどワルツさんは、もっと違うことを思ったようだった。

「歴史小説。だとしたら、多分

ぶつぶつとつぶやきながら、ワルツさんは歩き出す。その背中を、上緒さんが追う。ワルツさんはヒールのあるパンプスで、自動ドアをくぐりサエズリ図書館の中に戻ると、迷いなく貸し出しカウンターに近づき、身を乗り出した。

「ねぇサトミさん、岩波イワナミさんって来てました?」

座っていたのは、先に上緒さんを事務室に案内してくれた受付の職員だった。その胸元をちらりと見れば、ワルツさんと同じ書体で、『サトミ』の文字。サトミさんはワルツさんの唐突とうとつな質問にも淡々と答えた。

「ええ、来てました」

「ビンゴ」とワルツさんは嬉しそうに言って、重ねて聞いた。

「本って、借りました?」

「ええ、さきほど」

「よかった。最新の貸し出し状況を表示して下さい」

ワルツさんがほっとした顔をする。そして言い終わる前に、サトミさんの節くれが目立つ、爪の磨かれた指が動き、なにかの情報を画面に表示した。ワルツさんは乗り出した身体の角度をかえて、一瞬それを覗く。プライバシーの問題もあるのだろう。ディスプレイの正面からしか文字は判別出来ないようになっていたから、上緒さんには、どんな本のタイトルが表示されているのか見ることは出来なかった。

「問題ありません」

ワルツさんは頷くと、今度は静まりかえった館内へと歩き出す。上緒さんは慌ててそれを追った。一体なにをどうするつもりなのか。注意深く、その姿勢のよい背中を見つめていたが、ワルツさんはなにを、どうも、しなかった。

ガラスの壁に面した階段をのぼり、ソファのある明るい窓辺へ。そこに、ねずみ色のツナギを着たおじいさんが、かたわらに本を積んで座っていた。その膝には当然のように、分厚い書籍が開かれている。

「岩波さんー」

とワルツさんがおさえた声で呼びかけるので、上緒さんは少し驚いた。呼ばれた岩波さんの方はひょいっと本から顔をあげて。

「ほうい」

と一声答えてみせた。足早に近づいて、ワルツさんは言う。

「探しました」

「探されました、か」

「はい」

噓だ、と上緒さんは背後で思う。ワルツさんは、絶対、岩波さんを探してなんていなかった。常連さんだから、どこにいるかわかるのだろうか。どっちにしろ絶対、探してなんかない、と上緒さんは思うけれど、言わなかった。

「どうしたね」

と岩波さんがワルツさんに尋ねる。ワルツさんは横に一歩ずれると、綺麗な手首をひらりと上にして、上緒さんを示しながら岩波さんに言った。

「こちらのお客さまの車が、駐車場で岩波さんの車と接触してしまったそうで」

「ほ」

と岩波さんの口が丸く開いた。上緒さんは慌てて、勢いよく頭を下げる。

「すみません!!」

そのまま頭を上げられないでいると、上緒さんの頭のてっぺんに、岩波さんの声がかかる。

「怪我は?」

驚いて、上緒さんが顔をあげる。中途半端に腰を折ったまま、ぶんぶんと左右に首を振ると、

「怪我がないならよかった」

と岩波さんは笑った。

情けないことだと思うけれど。

ぶわっと上緒さんの目に涙が浮かんで、しばらく顔が、上げられなかった。

外はもうすでに薄暗くなっていた。冷たさを含む風と、虫の鳴く声が、そこかしこから聞こえてくる。

岩波さんは塗装の傷ついた自分の車をしげしげと見て、「自分でやってみようか」と呟いた。いくら弁償することになるのかと、恐々としていた上緒さんは面食らう。

「自分で、って」

「明日もいい天気だと言うからなぁ」

岩波さんはそんな理由を述べた。そしてワルツさんに向き直る。

「ワルツさん、車の補修の、本はあるかね」

「ありますとも」

自信に満ちた笑顔で、ワルツさんが頷く。

「どの辺りかな」

「一階右の庭側、F棚の右からこのくらいの、この辺り」

ワルツさんはよどみない口調で、左右に動かした手を、自分のあご辺りで止めた。

「『自家用車の補修整備』が一番新しい書籍です。戦後A・P発行ですから、わかりやすいかと思いますよ。製本もリングノートの形式で、ふんだんに写真がのった初心者向けです」

よどみないこたえに上緒さんが啞然あぜんとしていると、岩波さんは笑って、自分の手を、ワルツさんと同じ高さまで上げて言った。

「この辺り、だな。見てみよう」

「是非」

にっこりとワルツさんは笑った。啞然としている上緒さんを、岩波さんが振り返って言う。

「お嬢さん、よかったら、明日朝、また図書館にいらっしゃい」

「えっ」

「あんたの車の傷も、わしが直してみよう」

うまく出来るかはわからんがなぁ。呵々かかと笑いながら岩波さんが図書館に戻っていく。上緒さんのこたえも聞かずに。

確かに、そうしてもらえれば嬉しい、と上緒さんは思う。車の補修なんて、どこに行けばいいかわからない。DBデータベースを調べてやり方がわかったとしても、自分で出来る自信なんてない。だから、渡りに船の申し出、ではあるのだけれど。

想定外のことばかりで、上緒さんは呆然とするしかない。「明日来ていただけるのでしたら」と隣でワルツさんが微笑ほほえみながら言った。

「履き物も、どうぞそのままお帰り下さい。明日でよろしいですよ」

「あの」

先にお礼を言わなければならなかっただろうに、上緒さんの口をついて出たのは、不躾ぶしつけな問いかけだった。

「本全部、覚えてるんですか?」

荒唐無稽こうとうむけいなその言葉に、ワルツさんは笑う。

「まさか、全部は覚えていませんよ」

じゃあ、なにを。どこまでという上緒さんの問いは、ワルツさんの微笑みにかき消された。

「せっかくですから。本、借りていかれたらいかがですか?」

「え、でも」

そんな簡単に借りられるものだとは思わなかったし、お金をとられても困るし、そもそも、私、本を。

読んだことなんて、という言葉を告げることは出来なかった。だって、ここはどこだ? 図書館の、駐車場じゃないか。

はじめてなんです」

そんな間の抜けたことを言ったら、ワルツさんは笑った。

「ようこそ。サエズリ図書館へ」

駐車場の外灯に照らされた、どこまでも、どこまでも優しく美しい笑顔だった。

貸し出しカウンターの隣、白い椅子いすに座ると、デスクはそのままディスプレイになっていた。『新規登録者用』との画面が表示されている。

「まず、この図書館は公共施設ではありません」

デスクを挟んで向かい合った、ワルツさんのその言葉に、上緒さんは驚いた。

「サエズリ図書館の蔵書は過去の個人所有物の寄贈と、様々な協力会社の寄付からなりたっています。利用者の制限は特にありません。身分証をお持ちになって、利用者登録を済ませた方は、規約に同意したとみなし、どなたでもご利用いただけます」

私立だったのか。しかもすべて無料だなんて。お金の心配を少なからずしていた上緒さんはとても意外な思いで、促されるまま運転免許証を出してリーダーに通した。先進時代のリーダーだった。確かにこれは、公共施設では用意出来ないものなのかもしれない。技術自体は珍しいものではないが、どこも財政難にあえぐ今の自治体で、これだけの設備を軽々しく投入することは難しいだろう、と一応企業向けの電子機器の会社で事務をしている上緒さんは思う。その間にも、ストレスを感じさせないすみやかさで、住所や生年月日、個人端末情報プライバシーデータが転載される。

「ありがとうございます。こちら、通常業務の範囲でのみ使用させていただき、外部へもらすことはありません」

よく聞く定型文を述べたあと、「サエズリ図書館の利用規約を説明いたします」とワルツさんの流れるような説明が続いた。

「図書の貸し出し期間は二週間。ひとり五冊までとなります。延長はネットワーク上から行えますが、四週間以上の延長は、一度図書館に出向いていただいて借り直しという形をとらせていただきます。同一図書の貸し出し回数に制限はありませんが、予約者がある図書は、その限りではございません。予約者の有無はネットワーク上から確認していただけます。予約は一度に三冊まで。新刊のリクエストに関しましては、お断りすることもありますが、お気軽にどうぞ。カウンターまで申し出ていただくか、ネットワークでも受け付けております。また、休館日は毎週月曜日ですが、不測の停電等が長く続く場合、システム障害などがおこった場合は臨時休館をいただくこともあります。その場合は貸出期間が延長されます。カードに表示されますよ」

差しだされたカードは、薄い水色をしていた。名前と番号、それから液晶表示パネルが埋め込まれたシンプルなものだ。

「こちらが館内の地図となります。一階、二階は開架となっており、閲覧えつらんは自由です。比較的新しい図書があります。地下は書庫となっており、戦前B・Pの古いものが主です。書庫には利用者登録を済ませ、カードをお持ちでしたら入室が出来ます。地下の一部は閉架となっており、職員でないと入室出来ない場所がありますので、ご了承下さい。検索結果に閉架と書いてある場合は、一声おかけ下さいね。また、各棚に検索端末を備え付けてあります。使用は自由です。もちろん、わからない場合はいつでもお尋ね下さい」

地図を見るも、なかなか実感がわかなかった。一階、二階、地下もあるとすれば、上緒さんは間違いなく、これまで生きてきた中で一番本がある空間に立っていることになる。

「それでは最後に規約の中でも一番重要な部分にチェックをいれていただきます」

上緒さんの名前が入った利用者登録画面が切り替わり、ワルツさんはゆっくりと、いっそう丁寧な調子で口を開いた。

「当図書館には、特別探索司書が配備されています。当館の資料については、全て特別探索司書の管轄かんかつとなることをご了承下さい」

口調は丁寧だったが、上緒さんは首をかしげた。

「あのう、特別探索司書って?」

その問いを予想していたのだろう。ワルツさんがまつげをおろし、形のよいくちびるでなめらかに説明をした。

「現在ではあまり耳にしなくなりましたから、ごぞんじないかもしれませんね。かつて国会図書館をはじめ、資料の保存を目的とした、特別な図書館の蔵書にマイクロチップが埋め込まれました。その各図書情報の管理、特に位置情報へのアクセス権を認められた者を、特別探索司書と呼びます」

「ええと、つまり」

「つまり、当館で必要と判断した場合、貸し出しされたもの、されていないもの問わず、資料の位置情報を調べる場合がある、ということです。当図書館では紛失や破損による弁償を受け付けておりません。基本的に利用者の方に金銭を請求することはありませんが、その代わり、なにがあっても、貸した図書は返していただいています」

なにがあっても。その言葉が重く、強烈に思えて、上緒さんは小さく息をのんだ。確かに全図書のチップが位置情報把握のために動作するのであれば、どこに本があってもわかるだろう。同時に、先に感じた不可思議さにも説明がつく気がした。

本を借りた、岩波さんが、どこにいたのか。

貸し出し図書の位置情報を画面に表示すれば、岩波さんの居場所も、魔法のようにわかるということだ。

(つまり

目の前にたたずむワルツさんを見上げて、上緒さんは呟いた。

あなたが?」

「はい」

答えるワルツさんが、整った形の唇を持ち上げる。爪の美しい指先を、自分の胸元に。

「わたしがサエズリ図書館代表であり、特別探索司書です」

どこかほこらしげに、そう名乗った。

すべての登録が終わると、耳にやわらかなクラシック音楽が届いた。続くアナウンスは、閉館の三十分前を告げるもの。ワルツさんの声の録音だ、と上緒さんは思う。定時のアナウンスに、合成音ではなく録音を使うとは昨今珍しいと感心した。

「今日は、本、借りていかれますか?」

ワルツさんに尋ねられて、上緒さんは利用者カードを握りながらうろたえる。

「あの、なにか、オススメありますか?」

尋ねてから、自分はなにを言っているのだろう、と恥ずかしくなった。オススメの本は、なんて。小学生が国語の先生に聞くんじゃあるまいし。

けれどワルツさんはうろたえるような事はなかった。

「これまで、読書の習慣は?」

「ええっとあ、あんまり

恥ずかしそうに首を縮めながら呟く上緒さんに、ワルツさんは目を細める。

「そういう方、多いんですよ。今は活字といえばネットワークですものね」

非難でも落胆でもなく、自然なフォローのような、優しい口調だった。「わたしの好みでかまいませんか?」とワルツさんが尋ねる。

「は、はい! 出来ればあまり難しくないものを

「もちろんです」

言いながら、ワルツさんはすでに歩き出していた。その横顔がひどく楽しそうなので、上緒さんは不思議な気持ちになる。

なにがそんなに嬉しいのだろうか。利用者が増えれば、図書館の実績になるからだろうか。

「大人になってから触れる絵本も格別ですが」

人がめっきり少なくなったサエズリ図書館を歩きながら、ワルツさんが口を開く。

「あまり短い物語だと、本を読んだ、という気持ちにはなりません」

静かな図書館に、ワルツさんの声だけが響く。

「ノンフィクションやエッセイは相性や、普段の生活からの好みもありますし、普遍性ふへんせいには欠けますね」

お仕事の帰りでしょう? とワルツさんが上緒さんに尋ねる。いきなり問いかけられて、上緒さんは背筋を伸ばして「はい」と返事をする。

「お疲れ様です。それでは、図書らしく、読書らしく、重みがあり、厚みがあり、それでいて遠くまで飛べる」

ワルツさんは低めの棚から、ハードカバーの一冊を取り出して、言った。

「長く読みつがれた、海外児童文学の愛蔵版です。読みやすいですよ」

山吹やまぶきに近い色をした、カバーのない、固い表紙。指先に力をいれながら、その弾力を、上緒さんは不思議そうに確かめた。

生まれてはじめて手にする、図書館の本だった。

少々傷物になってしまった車を走らせ単身の集合住宅に帰り着くと、上緒さんはスーツをぬいで無造作にソファの上に投げた。シャワーを浴びに風呂場に向かいながら、玄関先に置いた、ナイロン袋入りの自分のパンプスを見て。

(仕事用の靴、買いにいかなきゃな)

忘れないように、ナイロン袋はそのままにしておくことにした。

靴箱の中、地味なパンプスはあれ一足だけだった。サンダルなんかで行ったら、お局さまになにを言われるかわからない。

シャワーを浴びて髪を乾かしながら、置いてきぼりの弁当箱をあけて、アスパラベーコンをつまんだ。秋口でまだ蒸し暑いが、いたんではいなかった。そこでようやく、上緒さんは今日一日が、それほど悪いものじゃなかったかもしれないなと思った。

うん。しんどいことが多い一日だったけれど、少なくとも、最悪なんかじゃなかった。

上緒さんは手を洗うと、仕事用のかばんを開いて、持ち帰った本を取り出した。

ソファに座って、固い表紙をめくると、あのサエズリ図書館のにおいがした。なめらかな紙をなでて、インクのみを確かめる。文字は焦げ茶だった。しおりの代わりになる、黄色いひもをなぞったり、総ページを確認したり。しばらくそんな風にして、ようやく上緒さんは文字を追い始めた。

読みながら、うつぶせになり、仰向あおむけになり。

指先で文字をたどり、行っては戻り、をかえし。物語の中、時代と世界の説明は、上緒さんの現実と乖離かいりしすぎていて、最初が肝心だと思うのに、どれも頭に入らず苦労した。食べ慣れていないものを無理矢理口に入れる感触で、咀嚼そしゃくの仕方が見つからない。本文をつまんで、残りのページの分厚さを確かめながら、片眼をつむって言った。

「ながい

昔はそりゃあ、読書感想文を書いたこともあるから、このくらいの文章は読んでいたのだろう。しかし、高校を出て働き始めてからは、物語を追うなんて機会はめっきりなくなってしまった。

事務職を始めてからは毎日文字に触れるも、せいぜいが一度に一画面程度。

終わるのだろうか、二週間で? そのためには毎日何ページ読まないといけないのだろう。ああ、頭が働かない

いつの間にか、ソファに横になったまま、上緒さんの意識はとろとろと溶けていった。

翌朝ソファの上で目を覚ました上緒さんは、掛布団かけぶとんといえば胸元に広がった本が一冊あるだけ。身体のきしみを感じながらも着替えをすませ、普段よりも二段階ほど簡単に化粧をして、チョコレートを数個食べると家を出た。休日の午前中から外に出るだなんて、滅多にないことだった。

サエズリ図書館に車を入れると、昨日も見かけた警備員さんが、肩を揺らしながらやってきた。

「ああ、あんた」

入れ歯だろうか。不明瞭ふめいりょうな発音で、窓を開けた上緒さんに言う。

「あんたはあっち。岩波さんが、来たら回してくれと、いうとった」

軽く礼を言って、指示された、車の少ない駐車場に停める。隣には岩波さんの車があり、すでに岩波さんは塗装に磨きをかけていた。昨日と同じ、ねずみ色のつなぎ。首に黒く汚れた手ぬぐいをかけて、いかつい顔をいている。

岩波さんの車のボンネットには、昨日借りたのだろう。車の整備の本が一冊、開いたまま置かれていた。

「おはよう」

「おはようございます」

挨拶あいさつを交わして、上緒さんは車をのぞきこむ。助手席にまた、本が積まれているのが見えた。今度は図書館のラベルがついている。昨日館内で読んでいたものと同じ本だ、と思って、上緒さんは思わず声をあげていた。

「もう読まれたんですか!?」

「ん?」

岩波さんが顔をあげる。日に焼けた浅黒い肌に、髪と眉だけが白かった。

「ああ、半分はな」

「半分って

一冊一冊は、上緒さんが借りた本よりも薄く感じられたが、それでも一日で読むなんて、しかも複数、昨日の夜に借りて! 上緒さんは、わけがわからない、と思った。

すごすぎて、よくわからない。

「本って」

不躾だとは思ったが、上緒さんは聞いていた。

「本ってどうやったら、こんなにたくさん読めるんですか?」

岩波さんは丁寧に作業をしながら、顔をあげずに答える。

「好きになれば、読めるだろう」

「どうやって好きになりますか?」

「そりゃあんた。面白ければ、好きになるだろう」

岩波さんは整備の本のページをめくろうとして、手を止め、首の手ぬぐいで指先を拭いた。その仕草に上緒さんが慌てて、一枚ページをめくってあげる。

実家の祖父母をはやくに亡くしている上緒さんは、老人に慣れていない。皺の浮いた手が珍しかった。老いたそれは細い指かと思ったのに、短くがっしりと太くて、爪はにごっていたけれど、震えもせずに器用きように動くようだった。

「本は読まないかい?」

上緒さんがページをめくる様子を見て、岩波さんが尋ねた。

「雑誌、とかならでも、それも携帯とか、ディスプレイが多くて

上緒さんにとっては、雑誌を読むことは買い物をするのに近い感覚だった。通販を多用しているからだろう。気に入ったものはすぐに注文してしまうことにしている。時々流通がとどこおって届かないこともあるけれど、上緒さんの住む町では買えないものも多いのだ。

「同じことだし、違うことだ」

しゃがみなおしながら、岩波さんは言う。

「本にしかないもんもある。それがいいと思えば、本がよかろう」

本を読む人間が立派なわけではない、と岩波さんは、ひとりごつように言った。作業の手を止めることなく。

「わしは毎日本を読むがね、娘はわしの本好きを、贅沢ぜいたく趣味だと渋い顔をしたし、端末映像やデータの方が万倍面白いと、何度も言ったよ。それは正しいんだろうと、わしも思う」

続いて落ちた呟きは、いのようであったし、あきらめのようでもあった。

「行き過ぎた執心はやまいだ」

上緒さんは答えることが出来なかった。確かにそうかもしれないと、思いもしたのだ。言葉を返せず佇む上緒さんに、もうしばらくかかるから図書館の中で待つがよいよ、と岩波さんは言ってくれた。

時間を潰すには、これ以上ない場所だから。

図書館のカウンターには、昨日と同じ白髪のサトミさんが座っていた。上緒さんがカウンターに近づくと「おはようございます」と事務的な挨拶で迎えてくれた。低い声はにこやかでもなんでもないので、威圧感を覚えてしまうのは仕方がないことだ。

「おはようございます。あの、ワルツさんは事務室ですか?」

借りた本は持ってこなかったけれど、昨日借りたサンダルを返さねばならない。カウンターに差しだすわけにもいかないから、事務室に向かおうと尋ねたら、サトミさんはちらりと自分の腕を見た。ベルトの細い、可愛かわいい腕時計だった。綺麗に磨かれた爪といい、そういうのが好きなんだな、と上緒さんは思った。そう思ったら、なんだか親近感がわいた。

腕時計を確認したのは一瞬。サトミさんは顔をあげる。

「この時間はまだ、配架と書棚整理にあたっているはずです。公開ホールのどこかにはいるはずですが、呼び出しをかけますか?」

「いえ!」

自分で探してみます、と言おうとして、ふと思いついて、上緒さんは聞いた。

「岩波さんを探した時のように、位置情報を見るんですか?」

その言葉に、サトミさんが視線をずらす。

「いえ。この図書館の特別探索司書はワルツさんだけですから、私に書誌座標のアクセス権はありませんし、閲覧も出来ません」

それは、つまり。上緒さんが続けようとしたが、背後で自動ドアが開く音がして、他の客が現れたのだとわかる。

「こちらの端末には呼び出し機能がありますから、見つからなかったら、またどうぞ」

「はい!」

上緒さんはそそくさと館内に足を踏み入れた。開館したばかりの図書館は人も少なく、すぐに会えるだろうと思っていたが、背の高い書棚が視界をふさいで、まるで迷路のようだった。探し人は、なかなか見つからない。

あ」

ようやく見つけた姿勢のいい後ろ姿にほっとする。声をかけるわけにもいかなくて、近づいていくけれど、ワルツさんは気づかない。どうやら立って、本を読んでいるようだった。背後に立っても振り返ってくれないので、上緒さんは躊躇いがちに、口を開く。

「あのーワルツ、さん?」

「はい!?」

肩を揺らして、パタン、と本を閉じる大きな音とともに、ワルツさんが勢いをつけて振り返った。胸には大事そうに、今読んでいた本を抱えている。

「ご、ごめんなさい」

あまりに驚いた様子に、逆に悪いことをした気持ちになって、上緒さんは思わずあやまっていた。

「あ、えっと」

硬直していたワルツさんが、謝罪をうけて戸惑とまどうように眼球をふるふると揺らし、それからぺこんと頭を下げる。

「こちらこそ、ごめんなさい

恥ずかしそうに、ワルツさんはほおを染めた。その愛らしい様子に、上緒さんは笑う。

「読書中でしたか?」

ワルツさんは、よけいに身体を小さくしながら、本を抱き直す。

「勤務中、なのですけど」

そこで、長い指を口元に。小さな声で、上緒さんに懇願こんがんした。

「サトミさんには、内緒にしておいて下さい」

小さな子供がしかられることに怯えるようで、上緒さんは笑ってしまった。

「わかりました」

任せて下さい、と自分の胸を叩きながら、上緒さんは言う。

「やっぱり、本、好きなんですね」

なにを今更、というようなことだった。けれど、仕事はいつも、好きと直結するものではない。好きで仕方がない仕事につければそれにまさるものはないけれど、世の中はいつだって、思う通りには運ばない。はじめた仕事を好きになるか、好きでもない仕事を続けていくか。どちらかといえば後者な上緒さんは、ワルツさんをうらやんだし、同時に素敵なことだと感激をした。

言われたワルツさんは、花がほころぶように笑って、言う。

「はい。この図書館の蔵書は、わたしの宝物です」

宝物とはまた、大仰な言葉だったけれど、上緒さんは否定することはせず、頷くだけでこたえた。

「これ」

ナイロン袋に入ったサンダルを差しだして、頭を下げる。

「ありがとうございます。助かりました」

どういたしまして、とワルツさんが受け取る。今日の上緒さんは学生時代によく履いたスニーカーを靴箱から引っ張り出してきていた。

「本は読まれましたか?」

次に問いかけられたのはそんなことだった。昨日の今日という性急さに上緒さんは驚くと同時に笑ってしまって、指で薄い隙間をつくりながら、

「まだ、ちょっとだけ」

と答えた。ワルツさんも自分の気の早さに気づいたのか、「そうですよね」と眉を下げて笑うと首を傾げた。その仕草も愛らしかった。

そんなワルツさんにも聞いてみよう、と上緒さんは思う。岩波さんに聞いたらよくわからなかったので、また少し違う聞き方で。

「本を読む時の、コツとかって、ありますか?」

「コツ、ですか?」

ワルツさんはぱちぱちとまばたきをした。天然物の色の薄いまつげが、ぱさぱさと揺れて、音がしたような気がした。

「んー

そのままワルツさんは天井を見上げて、それから、ぱっと気づいたように、視線を戻して言った。

「あ、トイレ」

「トイレ?」

上緒さんは面食らう。すると、ワルツさんは神妙しんみょうに頷いた。

「トイレには行っておくといいと思います。いいところで中断されると、悔しいですから」

そういうことを聞きたかったわけではない。けれど、上緒さんは思わず笑ってしまった。

全然参考にはならなかったけれど、その答えは素敵だなと、上緒さんは思ったのだ。端末は片手で使えるし防水加工もしてあるから場所を問わない。けれど本は、紙とインクだから不自由もあるし、場所も問うんだと思った。

わかりました、と上緒さんが答えると、ワルツさんがなにかに気づいたのか、軽く肩を揺らした。ポケットから取り出した端末に「あら。お客さんだわ」と呟くので、上緒さんはワルツさんの業務の邪魔をしていることに思い至る。

「すみません、お引き留めして」

いいえ、とワルツさんは綺麗に笑った。胸に抱いたままだった本を棚へ、丁寧に戻すと、

「それでは、よい読書を」

そう言い残し、去っていく。

よい読書。上緒さんがその言葉に驚いたのはきっと、読書に良し悪しがあるなんて思ったことがなかったからだ。同時にもっと、神妙に読書と向き合わなければならないのだなと背筋を伸ばした。そう、とりあえずトイレにでも行って。

まだここで時間を潰すのだろうから、とにかく本を読んでみよう、と上緒さんは思う。靴を買いに行くのは、明日でもいい。

でも、なにを読めばいい?

まったく思いつかなかったので、上緒さんは一歩前に出て、ワルツさんが抱いていた本をのぞいてみた。白い表紙に金の文字の、確か

これだ、と手にとって、引き出してみようと力をかけて、手を止めた。

「『脳外科の権威と肖像』?」

っていうと、なんだろう?

なんだかよくわからなかったけれど、とりあえず、引き出した図書は上緒さんの手に重く、その内容もきっととびきり重いに違いない、ということだけはよくわかった。わかったのはそれだけだったけれど。

よい読書への道は、上緒さんには厳しそうだった。

天気のいい休日でもあったから、徐々じょじょに図書館の中は人が増えていった。目にとまるほとんどが上緒さんよりずっと年配の利用客で、時折小さな子供が視界に現れると、思わず視線で追ってしまう。今駆けていった子供達は兄妹だろうか? 追いかけるのも不審なので、上緒さんの中で疑問は疑問のままだった。

利用客は図書館によく慣れているようで、めいめいに図書を借りたり探したり、読んだりしている。上緒さんはといえば、うろうろと書棚の隙間を歩きながら、本にも色々あるのだと、とても平凡なことを思った。古い学術書や歴史書、文豪の書いた物語ばかりが本ではないのだ。

それぞれのジャンルの本は、これまで知っている誰かを彷彿ほうふつとさせた。もっと正確に言うならば、本は多くありすぎて、誰かを彷彿とさせるような本しか目にとまらなかった。園芸の本を見て父を思って、料理の本を見て母を思って、歴史小説を見ては岩波さんを思い出した。図書館の歴史、という本が並ぶ棚で、上緒さんは足を止めた。

一冊取り出して、目次を見る。

『特別探索司書』という見出しを探して、ページをたぐった。該当の箇所には、司書の変遷とその種類、そして特別探索司書を定義する条文と、その権限について書かれていた。あとは、国立図書館を例にとり、データ運用の方法だ。

その内容は想像していたよりもずっと理系で、びっくりした。ワルツさんもこんなデータを取り扱っているのだろうなと、わからないなりに感心して、書棚に戻した。

すると前を行く女性が、カードを機械に差し込み、自動扉をあけて階段を降りていくのが見えた。分厚い眼鏡によれたジャージを着た、野暮やぼったい妙齢の女性だった。慌てて上緒さんが自分のカードを財布から取り出し、前を行く女性にならって同じように機械に差し込む。

ワルツさんから最初に説明を受けた。地下は書庫になっているという。入ってはみたいが、ひとりでは怖い。誰か知らない相手とでも、連れだっていけるのならばと思い切った。

地下は古い図書がある、というワルツさんの説明を上緒さんは覚えていた。地上にある以上の図書があるのかなと上緒さんは不思議な気持ちになった。

黒い滑り止めのついた急な階段を降りていくと、ふわっと上緒さんの身体を外とは違う湿度が包んだ。館内全体の空調は管理が行き届いていたが、それ以上にこの地下は最適な温度と湿度がたもたれているようだった。人間の、ではない。本の、最適な温度と湿度だ。

やわらかな湿度とともに、鼻の粘膜を刺激したのが、劣化をはじめた紙とインク、糊の匂いだった。

その段にいたって、これは本の匂いなのだ、ということに、上緒さんははじめて気づいたのだ。

(どうしよう、なんだか)

なつかしい、と思った。近しい場所には踏み込んだこともないのに、郷愁がこみあげる。そんな匂いだった。

階段を降りると、そこはひどく閉じた世界だった。地上を昼とするなら、地下は夜。自然光のない空間はより強い圧迫感があり、同時に静謐せいひつでもあった。

息をひそめているようだ、と上緒さんは思う。地上よりも低い天井、狭いスペースにしきつめられた本が音を吸収してしまうのだというからくりを、上緒さんは知らなかった。けれど、地上の本が生きているなら、ここの本はまるで、眠る本だと上緒さんは思った。

先を行った女性はすでに木々のように生えた本棚のかげへと消えて、反響する小さな足音だけが上緒さんが孤独ではないのだと教えている。

上緒さんは一番近い棚を見た。木だ、と思う。多分、本物の木だ。木目の浮かんだ硬い素材はよく磨かれ、なめらかであたたかかった。その側面をなぞりながら、彫り込まれて漆を塗られた文字をたどり、口に出していた。

義昭ギショウ文庫?」

読み方には自信がなかった。出版社の名前だろうか。聞いたことがないな、と上緒さんは思う。もちろん上緒さんが知ってる純粋な出版社なんて、そう数はなかったけれど。

不思議だったのは、上の本棚よりもずっと、地下の本は雑然と置かれていたことだった。本の背表紙はきちんとあわせてあったが、所々入りきらないのか、横に置かれて隙間にいれられたり、手前に積まれている本もある。乱雑ではなく、むしろ自由を感じさせる置き方だった。

「わぁ

試しに一冊、持ち上げてみて、そのカバーの色あせた様子や、焼けた紙色に驚いた。汚いとも思えたし、アンティークでいぶし銀、という印象も同時に持った。

おじいちゃんのような本だ、と上緒さんは思う。

父母しか家族のいなかった上緒さんには、馴染なじみの薄い、おじいちゃん。馴染みは薄いが、嫌いではない、そう思った。

博物館に収められて、ケース越しでしか見られないようなものが、手の届く範囲にあるということが不思議だった。上緒さんは口を開けて本棚をたどった。雑多に置かれた書籍達が、誰かを待っているような気がした。

その誰かは、もしかしたら自分かもしれない。そう思った時だった。

「ぎゃ、」

足元のなにかにつまずいた。棚の上部に手を伸ばすための、踏み台だった。そう気づいた時には遅く、上緒さんはバランスを崩して本棚に手をついた。そこには積み上げられた本があり、あっという間に大きな音を立てて数冊足元に落ちた。

「ぎゃー!」

思わず声をあげて、上緒さんはしゃがみこむ。落ちた本は四冊。

「あ、あ、あ」

慌てて拾い上げながら、上緒さんはさおになった。ひときわ古い一冊、そのハードカバーの表紙と中身が無惨にも離ればなれになっていた。

どうしようどうしようどうしよう!

頭の中は真っ白だった。

「おやおや」

悲鳴を聞きつけたのだろう。後ろから上緒さんをのぞいてそんなことを言ったのは、先に書庫へと降りていった、眼鏡の女性だった。長い黒髪をひとつにくくって、眠そうな細い目をよけいに細くして上緒さんを見た。

「あの、あの!!」

涙をためて言うと、女性は「ここにいなさい」と上緒さんに言った。そのはっきりとした言い方と、黒いふちの眼鏡とジャージもあいまって、学校の先生みたいだと上緒さんは思った。迷いなく書庫の奥へと歩いていったのだから、もしかしたら本当に先生だったのかもしれない。その婦人は「ワルツさんを呼んでくるから」そう言って歩き出す。一度数歩戻ると、本棚の間から顔を出して、言う。

「逃げちゃだめよ」

ぴんっと上緒さんの背筋が伸びる。

逃げない。逃げたり、しない。駐車場の事故の時だって、逃げなかったんだもの。

上緒さんは涙で揺れる視界の中で、脱皮するみたいに中身と表紙が外れてしまった本を見た。よくよく読んではいないけれど、宗教の本のようだった。ほつれた糸がわびしかった。壊れてしまった、と思った。壊してしまった。なんて取り返しのつかないことをしてしまったんだろう。ワルツさんはなんと言っていたっけ、弁償はないと言っていたんじゃなかったか。じゃあ、一体、どうするんだろう。

書庫に敷かれた赤い絨毯じゅうたんに座り込んで途方とほうに暮れていたら、ぱたぱたと軽快な足音。

ひょいっと現れる、ワルツさんの顔を見たら、来るとわかっていたのに上緒さんの肩が怯えて揺れた。

「あの、あの、つまずいて、お、落として、しまって」

壊れた本を持つ手がぶるぶると震える。ワルツさんが黙って手を差しだしたので、そこへ本と、それからはがれてしまった表紙を載せた。

「ごめんなさい!」

涙はこぼれんばかりだった。ワルツさんが黙って本を見て、それから軽く表情がかげるのがわかった。わかってしまったから、やっぱり胸がしめつけられた。

「上緒さんって」

急に名前を呼ばれてびっくりした。昨日会って、登録をしたばかりなのに覚えていてくれたのだと思った。自分には名札もないのに。昨日から迷惑をかけっぱなしだから、と思った。

ワルツさんは小首をかしげて、綺麗な形の眉を上げながら言った。

「もしかして、ちょっと、ドジですか?」

「ドジじゃないです!」

思わず叫んでいた。よく言われることだったから。けれどすぐにはっとして言う。

「でも、ごめんなさい!!」

ドジじゃなくても、これは罵られても仕方ない、と思った。怯えきった顔でそう言うと、ワルツさんはふっと笑った。

「はい」

頷いて、しゃがみこむと、ぽんぽんと上緒さんの肩を叩いて。

「大丈夫ですよ」

だからほら、立って。と促される。上緒さんは憔悴しょうすいしながらも、よろよろと立ちあがった。ワルツさんは怒ってはいないようだった。

「これくらいなら、わたしにも直せますし、もしも無理なら、お医者さんに来てもらうことにします」

「お医者さん?」

上緒さんが問い返すと、にこっとワルツさんは笑って、誇らしげに言った。

「本のお医者さんです」

修理の人のことだろうかと、おぼろげに上緒さんは思う。古文書にはその復元を専門にする人がいるそうだから、本にもまたそんな「お医者さん」がいてもおかしくない。車を直す人がいるように。また、やり方さえわかれば岩波さんのように素人しろうとでも出来るのかもしれない。

ワルツさんは、いつくしむようにまつげを伏せて、壊れた表紙をなでながら言う。

「ここにある本は古いものですから、こういうことも多いんです。もしも、壊れそうな本があったら、教えて下さいね。修繕に回しておきますから」

上緒さんは、頷くことが精一杯だった。どうしてもいたたまれなくて、もう一度「ごめんなさい」と言った。「はい」とワルツさんは笑った。上緒さんのことを責めはしなかったけれど、あなたのせいではないとかばうこともなかった。頷く、それが、許す行為のようだった。

「上の方で、岩波さんが戻っていらっしゃってましたよ。車の修復、終わったのかもしれません」

本が決まったら昨日と同じところで読んでいるとおっしゃっていました。どうぞ、そちらへ。そうワルツさんは上緒さんに告げて、落ちた本をきちんともとあった場所に戻し、壊れものの本を抱きしめて、奥の方に行ってしまった。

奥に、利用客の使うものとは違う、事務室の方に続く階段があるようだった。

背筋がまっすぐの、ワルツさんの背中を見ながら、上緒さんは途方に暮れたようにひとりぼっち、呼吸する古書の森の中で佇んでいた。

上緒さんのブルーの車は、綺麗に直った。

傷があったことなんて気づかないほどだった。それから、ぴかぴかの車体になった。お医者さんよりすごい、と上緒さんはとんちんかんなことを思った。

その段にいたって、上緒さんは岩波さんに、なんのお礼も用意していない、ということに気づいたのだ。お礼以前に、おびの品さえ用意していない。

「この! お礼は改めて!」

「いいよ。ついでだから」

そのついでだって、上緒さんが巻き込んだものだった。なんらかのお礼とお詫びはせねばならない、と上緒さんは思う。でも、たとえばお金は、絶対に受け取ってくれないだろうという予感があった。改めてだ、と思う。連絡先をきくのもはばかられたので。

「また、図書館にきますか?」

上緒さんが聞くと。岩波さんは頷いた。

「そりゃそうだろう。借りた本は、返さにゃならん」

まったくその通りだった。本当にそうだった。

「じゃあまたここで」

「はい、ここで」

そして上緒さんは再会を約束して、ぴかぴかのブルーの車に乗って帰った。どちらかといえばブルーな休日だったけれど、それでもぴかぴかのブルーだった。

第一話以降につきましては、書籍にてお楽しみください。

『最前線』では以下の内容をご覧いただけます。

「第一話 カミオさん(前編)」

「第一話 カミオさん(後編)」

「あとがき」