上京作家
2012.04.25
ニコ生では、佐藤さんの話を皮切りに、上京についての話が主に語られた。
僕が上京した経緯についてや、北海道でいかにぬるま湯につかった生活をしていたなのか、などについても、だ。
当事者である僕にとっては耳の痛い話も多いが、僕のような立場の人から、年齢的に若いすべての人が見て聞くべき話が山盛りの放送だった。
誰にも分からない五年後の自分のため、小説を書いていく決意を新たにした。
放送が終盤を迎え、この日のカンパの総額の発表になった。
上ずった、ちょっと無理に声を張ろうとした感がよくわかる口調で、僕は金額を発表した。
21900円。
叫ぶような、怒鳴るような、声が響いていた。
拍手が鳴り響く。88888888で画面が埋まる。ニコ動にあがっている動画でも確認したけど、本当に強い音が鳴り響いていた。
この日、12月20日の時点では、僕は何も知らなかったし、何も持っていなかったし、何も決まっていなかった。
新聞配達の仕事に寮があるということも知らず、ネットカフェにも入ったことすらなく、このブログ企画についてだって何も決まっていなかった。
二ヵ月後には壊れかけてしまう使い古したパソコンと、数日分の着替えぐらいしか持っていなかった。
この21900円と、それを授けに中野まで来てくれた人達、ニコ生を観てくれていた視聴者、それがこのときの僕にあったすべてだ。
そして、渡辺さん太田さんを初めとする、作家と編集者の方々の厳しさと優しさだけが、支えだった。
上京して二日目。
東京で生きていくという意味では、何も決まっていないし、何も始まっていなかった。
十万ちょっとの貯金が尽きるまでに、仕事を探して寝床を見つけなければいけなかった。
本当の意味でどうにもならなくなったら、誰かに泣きついていたかもしれないけど、本当の意味でどうにかなるまでは、東京という世界で一人でどうにかやっていかないといけなかった。
一人でやっていく、ということの不安の重さに押し潰されしまいそうになっても、当然だったと思う。
足が浜松町へ向かったりしても当然だったかもしれない。
実際は、不安らしい不安はなにもなかった。羽田空港へ直行する浜松町にも全然足は向かなかった。
感覚が麻痺していたこともいなめない。
でもそれでいいのだ。
これから何も知らない世界へ、自分の足で一歩を踏み出すところなのだ。
二十四年生きてきて、ようやくまともに自らの意思で、前へ踏み出した瞬間だ。
上京したのだ。
なにかをするにつれて、いちいちびくびく怯えている時間なんてなかった。
感じてはいなかったけど、僕の内側にはきちんと、不安もあったと思う。
ただそれ以上の、期待があった。
東京という世界に対する大いなる期待が、あった。それが僕の中にあったはずの不安を少しだけ薄め、少しだけ見えなくしていたんだと思う。
ちょっとでも前へ進むために、少しでも余計なことを感じさせないように、僕の内側にある心と呼ばれる概念が、そう選択したんだ、
そんな気がする。
ブロードウェイのホテルに戻ると、ベッドに倒れこんでいた。
まだ眠るわけにはいかなかった。今日のことをツイッターで報告して、メールもしないといけない。
倒れこんだ姿勢のまま、報告とお礼を済ませると、そっと目を閉じていた。
明日は求人誌を探して、時間があったら部屋を見にいって、寝床も探さないといけない。
分かってはいた。それは分かっていたけど、僕はベッドから起き上がろうとはしなかった。瞼もひらきそうになかった。
電気は点けっぱなしにした。仰向けではなく、枕に左頬を押し付けるようにして、うつ伏せになっていた。
熟睡したかったわけではない。ただちょっと瞳を閉じて、体から余分な力を抜きたかった。
そんなふうに、眠ってしまうことの言い訳を考えながら、明日の朝までの短い眠りについた。
小柳粒男の作品
(このリンクよりご購入頂いたアフィリエイト収入は作家活動への応援として、小柳粒男へお送り致します)
本文はここまでです。